津田沼教会 牧師のメッセージ
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「み言葉に聞く時と仕える時と」(ルカ10:38-42)
ルカ福音書10:38-42、2013・07・28、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)、創世記18:1-14、コロサイの信徒への手紙1:21-29

ルカによる福音書10:38-42
 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


説教「み言葉に聞く時と、仕える時と」(ルカ10:38-42)

 先だって、ルカ9章の51節以下に入り、いよいよ、主イエスは、天に上げられるのが近づいたことを悟り、顔をエルサレムに向けて固めるという分岐点に入りました。今日の記事は、そのエルサレムに近いベタニアで起こった出来事でありましょうが、ルカは、主イエスの一行のエルサレムに向かう途上での出来事として、正確な日時や場所には関心を持っていません。
 主イエスに従い、しかもそのエルサレムでの十字架に向かっての旅立ちの頃に、この出来事を移しています。
恐らく、姉であったであろうマルタが、主イエスの一行を家に迎え入れ、食事のもてなし、給仕に忙しく振舞っていたのでありますが、妹のマリアは、主イエスの足もとに座って主イエスのみ言葉に耳を傾けていたのであります。さすがのマルタも耐えきれなくなって、主よ、私の姉妹にも、私を助けるように言ってやってください、と主イエスに要求するのであります。主イエスは、マルタよ、マルタよ、と優しく、しかし、叱責なさるのであります。あなたは、多くのディアコニア、奉仕、―ここでは、給仕という意味合いであったと思われますが、―に、心を乱し、思い煩っている。しかし、必要なことは一つである。マリアは、その良い部分を選んだ。それは、彼女から取り去られはしないであろうと、明言されたのであります。
 私は牧師になって、20年になりますが、マルタのように、日常の業務で思い煩い、自己を見失いそうになることがしばしばあります。けれども、マリアのように、主のみ言葉に耳を傾け、説教の準備をする時が毎週、訪れます。それは、慌ただしい中にあっても、祝福されたことだと思います。
 毎週の「聖書を学び祈る会」や「英語で聖書を読む会」も、み言葉に聞く時であります。
マルタと同じように、いろいろの雑事も、この世に生きている以上、こなさないわけには、いきません。
 しかし、この世に、イエスさまによって押し出され、ディアコニアをすることと共に、否、それ以上に、み言葉に聞く時が、主イエスは、優先されなければならないと言われます。私たちは、いつかは、地上の生涯を終えねばなりません。そういうときに、立たされたら、み言葉に聞くことが、必要な唯一のことになるのではないでしょうか。
 私の訪問を、事のほか、喜ばれ、老齢の中で介護されながら、87歳くらいで召された、目が見えなくなっていた先達、兄弟のことを思い出します。テレビの政治の動きや、世の中のことには、もうそんなに関心がないと言っておられました。そして、信仰を最後の最後まで拠り所として、遺言されていて、教会に、遺体で、お別れに寄り、私がお祈りをして、セレモニーホールで質素な葬儀を行いました。
 私たちも、最期は、み言葉を聞く時として、主のみ言葉を第1として、みもとに、召されていきたいものであります。そして、礼拝に集いながら、週日は、思い煩っても、また、日曜日に、あるいは、聖書の学びや祈り会に励まされて、信仰生活をまっとうしていきたい者であります。アーメン。












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2013/07/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
証言「日本人に対しては日本人のように」(Ⅰコリント9:16-23)上村敏文、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校准教授
コリントの信徒への手紙一9:16-23、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)、上村敏文先生特別礼拝

コリントの信徒への手紙一9:16-23
 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。


証言「日本人に対しては日本人のように」(Ⅰコリント9:16-23)上村敏文准教授
  (ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校 准教授)

 おはようございます。この礼拝堂はすごく響きがいいですね。津田沼には初めてまいりました。千葉の方にはよく行くんですけれど、津田沼に来たのは初めてです。津田沼ルーテル教会は存じておりましたけれど、どんな教会なのかなあと楽しみにやってまいりました。すばらしい十字架ですね。もう本当に入った瞬間にすばらしい十字架をこの教会員の方たちが拵えて下さったんだなあ。そして、皆さんの気持ちが結集したこの新しい、私には去年建ったようにみえますけれど、本当にすばらしい教会だと思います。
 さて、今、教会讃美歌184番を歌いました。私たちは、ここに一人一人集っている、こう見渡していますと、皆さまがここに座っていること自体、そしてここに私が立っていること、渡辺先生がそこに座っていること、家内がオルガンをひいていること、その一瞬が本当に奇跡だと思います。一人一人がイエスさまとどのように近づいたか、それは、本当に一人一人の大きな大きな、あるいは神さまのご計画ではないでしょうか。今日の教会讃美歌184番では「我らはいのり、願う。主の答えは常にあれば、み国のよろこび、こころ、みたされる」非常にすばらしい賛美歌だなあというふうに思います。イエスさまが、世の中で、きよき石として、用いて下さる。これにまさることはない、そして、私たちはここに宮を建てる、そして喜ぶ。そのような主題がこの中にありました。
 さて、私は、ルーテル学院大からまいりましたけど、いったい何者か、家内自身も私の中のアイデンティティが、いったい何なのだろうかなということはよく知らないと思います。
 私自身もどのように自分を語るか、ということですけれど、私は古い家に生まれました。山口の古い旧家に生まれて、大きな屋敷でした。その屋敷の中には、神棚がずら~っと並んで、そして、先祖代々の物が並んでいました。徳川吉宗の旗本の何とかとはちょっと違いましたけれど、私は次男坊でしたから、山口では長男、次男は天と地ほどの差なんですね。まあ、何をしても自由な訳ですね。じゃ何をしようかということでした。代々続く長男、父、祖父、この三人はいつも一緒に食事をしていました。私はというと、3歳のときに、どうして一緒に食事をさせてもらえないんだろう、おいしいごちそうが、食卓にたくさん並んでいる。
 覚えてないんですけれど、私は革命を起こしました。母が言うには3歳にもならない私が、縁側に大の字になって寝たそうです。そして、何と言ったかというと、「お母さん、一緒に死のう」と言ったんだそうです。よほど悔しかったんですね。ごちそうを目の前にして一緒に食べることが許されないという、その屈辱、なぜか「死のう」とまで言ったそうですね。で、その言葉を聞いて、母が、祖父に嘆願をして、一緒に食事をさせてほしいと。女性は別でした。しかし、私は一緒にまぜてもらうことが、それ以降はできたようです。そのことは、全く覚えていないのですが、いつも一緒に食べていた。そして、この納戸の中には、祖父が「何」というと、「あ、ここには桃の缶詰が入っているぞ」ということも分かっていました。そして、それを一緒に食べて、平等に扱っていたと思っていたんですが、後で分かるといろんなことがあったなあと思ってみることがわかりました。上村家の地所の中に地図にも載っていますけど、島があります。その島に私は小学校4年生の時1回だけ連れて行ってもらいました。そして、父と兄と私3人で自然豊かな良い所でした。そこで何を見たかというと、地元の方がその地所にあるたて岩稲荷神社、そこをお祭りしていたんですね。私の母は山口でも2つの文化があります。長州と周防という2つの文化があります。長州というのは高杉晋作や吉田松陰や幕末の志士を有する、革命の志士、この人たちが生まれた日本海側のところです。「萩」とか「せんたき」とか「金子みすず」もそこら辺で生まれた詩人でした。私の母はそちらの貧しい漁村の出身でした。しかし、感性は非常に豊かでした。山口に行かれたときは、「ようこそおいでませ」という宣伝がよくされておりますけれど、萩に行っても何もありません。
 私もびっくりしました。豊かなのは瀬戸内海側で、毛利様も瀬戸内海側にはいませんでした。ここには、サラリーマンの方もいらっしゃると思いますけど、どこに行きたいか、神学校で、もそうかもしれませんけど、神学校ではまずそういうことはないかもしれませんけど、大体行きたいと言った所へは行かせてもらえません。3個所、毛利様は徳川から示されました。温暖な父がいる、私がいる「ほうふ」がいいわけです。そしたら、1番貧しい萩にやられたわけです。こういうのは、人間の社会の常であると思います。
 ところが、毛利様は、そこ「萩」ではなくて「防府」に平屋造りの立派な毛利邸というものを現在でも残しています。殆どの方は、ご存じないのでこちらには行かないんですが、もし山口に行かれることがあれば、山口が「萩」ではなくて、「防府」市の毛利邸にぜひ行ってみて下さい。私の父の家がどういう家であったかということはよく分かりません。それは、昭和2年に津波が瀬戸内海であって、家が全部流されました。また、毛利の、私は菩提寺だと思ってたんですけど、菩提寺ではなくて、「じがんじ」、お祈りのお寺があります。万願寺、万の願のお寺と言いますが、天神様って、京都に地の天満、それから「大宰府」天満、そしてもう一つ、この「ほうふ」天満、これが3大天神と言われています。「ほうふ」というのは防ぐ府と書きます。
 地元では「ほうふ」ではなくて「ぼうふ」と読む。中学校1年の地理の時間で、私がこの地名を何と読むのかと言われたら、「ぼうふです」というふうに言ったら、ある地方の教科書では「ほうふ」になっている。違う「ほうふ」だと言われてショックを受けたことがあります。地元では「ぼうふ」ということになっていますが、防ぐ府は、聖徳太子の弟のその塚もあるというふうに聞いております。その防府天満宮の隣りに万願寺というのがありました。そこに唯一上村というお祈りのお寺があるにもかかわらず、お墓が一件だけありました。ですから、おそらく今は没落して何もありませんけれど、当時は、毛利の財政的な基盤を塩田を代々経営しておりましたので、支えていたのではないかなあと思います。
ところがご存じのように昭和になりまして塩田廃止法、塩田が日本では作ることができなくなった。塩を国の独占にしましたのですから、スーパーで塩という風になると、国の独占ということでタバコと塩は国の独占になりました。廃業しました。その廃業の結果良かった。父は会社員になりまして、日本全国、大阪、新潟、富山、東京、茨城、そして、アメリカ、東京、山口、いろんな所を転々としました。
 これは何が良かったかというと、日本の中でもいろんな風土というのがあるんだなあというのを知ることができたわけです。特に北陸の新潟と富山は、私の青春の原風景になっています。新潟では先ほどお話しを牧師先生にしていただいた訳ですけど、私はすごく日本海に佐渡島を見て育ちました。松尾芭蕉が「荒波や」と歌った、まさにそういう世界がある。私自身はいつもぼおっとして、海をながめて、夕日が沈むのを毎日ながめておりました。夕日が終わると今度は月が出てくる、星が出てくる、満天の夜空、天の川をみて、砂浜に寝転がっておりました。本人はなかなか帰らない、問題児でした。これは、後には良かったことですが、お医者さまの誤診で、私自身は小学校に上がる前に死んでしまうということだったので「心臓リューマチ」ということで、死ぬまで遊ばせてあげようということで、今日まで遊んでいる訳ですが、まだなかなかしぶとく生きております。小学校の時になってもなかなか死なないので、4年生の時、に調べてみたら、誤診だったことがわかったのですけれども、やはり勉強もしないで、ぼおっとながめて、幼稚園も最初は行かないでみんなは何かをしょってどこに行くんだろうと、私は砂浜で、ずっと山を作って延々と海から水を汲んで、水を流して、島を作ってとにかく遊んで、まっ黒になって遊んでいました。もしかしたら、それが良かったのかもしれません。たぶん、それが、後で聞いたら、お医者さまの最高の療法で、へたに治療を受けた人は皆死んでますと言っていました。
 ですから、私は何もしないで、死ぬまで遊ばせてあげようという母の思いやりによって、生かされたのかなあと思います。
 ですから、私自身は学問ということはやはり図書館で、やるということがなかなかできない。大学にいて、アメリカにも留学をさせていただいて、図書館の中に、入り浸ったこともあります。しかし、本当の学問というのは、何だろうかな、というふうに考えた時、そうではないだろいうというのが、私自身小さい頃、特に新潟で受けた影響があると思います。その後、小学5年生に富山に移りまして、富山は新潟と全く違う。そういう風土。この中で富山出身、あるいは富山に行かれた方、ああ、いらっしゃる。びっくりしました。じゃあ、この方言を言ってもわかると思います。私が新潟から富山に行って、最初に聞いた言葉が、「だらだあわじまやっとあけちょみやん」という言葉でした。お二人はすぐ笑っていらっしゃるけれども、通訳をすると、「だらだ」というのはまあ、何でしょうね、大阪弁で言うと「あほな」という感じでしょうかね。「あんま」っていうのは、お兄さん「何やっとあけ、何やってるんですか。」ちょみあんというのは、よく喧嘩で使うのですが、「おっちょこちょいね」何かそういふうな言葉ですね。もうちょっと速かった、最近使ってないので速く言えませんけれど、「だらだ、あんま、何やっとあけちょみやん」。いったいどこの国に来たんだろうかなというふうに思うくらい、カルチャーショックを受けました。
 立山連峰、親知らず、子知らずに囲まれた、そういう所ですから万葉集では、大伴家持がこの国の人たちは鳥がさえずるようだというふうに、記録をしています。今日までその鳥がさえずるのは、続いていると思います。
 私が、この富山では、新潟と全く違う、新潟ではぼおっとずうっと、空を見上げていたのですが、おかげでですね、やはり記憶力というのは非常に良かったんだと思います。ですから、授業でもノートは取らない、一切、試験勉強はしない、そういう中では中学校では剣道部に入っていますので、7時から7時というふうに、母が言っておりましたけれど、帰ったら食事をしながらずっと寝て、翌日の7時まで寝てしまうという、そういう生活でした。
 しかし、授業だけは、集中して聞いていたんでしょう。ですから、成績は悪くはなかったと思います。高校は富山県ではローカルなんですけど、東京大学に乗れる高校に行くことができたわけですけれども、しかし、その中で私は悩んだのは何かというと、勉強はどんどんやらされる感じなんですね。毎月毎月、標準テストと言いながら標準をかなり越えた試験が追加されていました。
 その試験というのは、毎回英語の本が試験範囲になります。1か月でこれを読んで下さいという感じ。私は一切読んでいきませんでした。本は読んでいかないで、いきなりぶっつけ本番でやっていたので、成績はそれほど、当時はその高校に入ると350人いる中、100番以内に入ったらまちがいなく、東京大学に入れる。多くの人はお医者さんになりました。私は、100番の中の入ったのは、2番で入りました。1番で入った人は東大の医学部に入りましたけど、私は漢字1個まちがえたようですけれど、それでずうっと、剣道部プラス、コーラス部に入りましたので、勉強しません。そんな感じで、当時は300番でも国立大学の一期校には入れるので、299番で出ました。ぎりぎり、300番の中に入りましたので、筑波大学のできたばかりの所に入ることはできたのだけれど、そういう中で私がずっと思っていたのは何をしようか、富山では男性は普通は何も考えなくても理科系に行く。ですから、何も考えなくても理科系に行って、数学や物理や化学をやって、将来は今でもその夢は捨てておりません。私の同級生だった田中耕作君もノーベル化学賞を取りましたので、彼がちょっとだけ先に取ったので、私はノーベル物理学賞を取ろうというふうにライバル心を燃やしております。
 アイデアはあります。物理は発想ですので、これからは又、ルターの時代やコペルニクスやその他、レオナルド・ダ・ビンチの時代に近づいてきているような気がいたします。どんどん、どんどん学問が細分化された1960年代と違って、また、統合が始まって、学問の根本が神学というふうに物理も数学も来つつあるというふうに思います。
 ですから、一つだけ例を話しますと、当時学長であった江崎れおな先生が、博士ではないんだけれども、ノーベル物理学賞を取られましたけれども、ちょっと実験をやってみますね。よく見てて下さい。(扇子を閉じたものを説教台に立てる)。皆さんが、ノーベル賞を取れるかどうかの実験をいたします。これは、マジックじゃあないんですよ。後ろの人、よく見えますか。これを私が聖卓を通過させてみせますから、よく見ててくださいね。だまされないようにね。じゃ、行きます。(トンと扇子の先で卓をたたく)通過しました。見えた人。いませんか。だめですか。じゃあ、もう1回だけ。聖書にもありますけど、心の耳、心の目で見て下さい。
 イエスさまが大衆に言うときには、譬え話を用いた。それは、聞くには聞くが聞いていないというふうにおっしゃっていますね。みなさん、大衆じゃありません。私たちは選ばれた人たちですから、もう1回行きますよ。いいですか。今日の1番大切なポイントです。ちょっとサービスしますね。ここにマイクを。(コツンという音)通過しました。分かった人、たぶんいると思いますけど、みなさん、おしとやかなので、言わないんだと思いますけど、これはですね、この物体の見えるものではなく、音が通過して行く、ということを江崎さんは気が付いた。それが、江崎ダイオード半導体を開発した。ですから、私たちは見えるものじゃなくて、いろんなものが、あるわけですね。この音という(コツ、コツ、コツ)この音が通過しているこの発想で、当時の真空管から、半導体という大きな転換が行われたわけです。ですから、ノーベル賞の種というのは、その辺に転がっている。田中君も、彼は貧しい家の人だったのでケチだったのですね。ケチというか、物を大切にすると言った方がいいですね。実験に失敗をする。それを捨てることができなかったんですね、捨てることができなくて、一晩おいていた。おいていたために、そのすぐに捨てていたら大発見はなかったんですが、一晩置いていたために、たんぱく質の精製が大きく変化して大発見につながった。彼は英語があんまりできなかったので、ただ良かったのはちょっとでも英語の論文を書いていた。それで、ノーベル賞というのは原点まで戻りますから、発表したのは一体だれかというとその田中という者が、30年前に発見したものだ、その論文がすぱっと残っていたということが発表されて、彼は校内のメールで廻ってきましたけど、田中耕作君が物理学賞を取りました、俺たちの同級生のあれがなあと言ったら、彼自身も知らなかったようで、電話が来て、英語でノーベル賞がもらえたことを彼は聞き取りができなかったですね。何か賞はもらったということがわかって、サンキューと言って報道人とかたくさんの人が集まって来て大変なことになったと。
 奥さんも同じ高校だった人ですが、たまたま、法事で富山に帰って、タクシーの運転手さんのラジオで今年のノーベル物理学賞は田中耕作さんですと聞いたとき、ああ、私の主人と同じ名前だわというふうに聞き流していたら、本当にそうだったとそのくらい彼も江崎レオナさんと同じように、博士を持たない、未だに学士のままですね。
 学士のまま、ノーベル賞を取った、そういう人物であるというふうに言われています。今日はたくさんのことをお話ししたかったんですが、冒頭でお話ししたのはここに集まっている一人一人の皆さんが、ここに居るということだけでも奇跡であるということを申し上げたいということです。
 で、私自身が、ここにこうやっている。ですから、物理を目指していた、本当は京都大学の物理学に行きたかったんです。小学校の時から、湯川英樹と中間子論ということを。
 彼もぼおっとしている人ですから、私も似ていますよね。ぼおっとして、親が心配して、この子は本当にできるんだろうか、まあ、大学に行かせんのがいいんじゃないかと言ったら、高校の先生が、ぼおっとしているけれど、見所はあるというふうにおっしゃった一言で、大学に行かしてもらった訳ですね。実験物理学は手があまり器用でなかったようで、むずかしかったので、基本物理に行く、その時に、小学校の時にぼおっとしていて、木の葉が輝く、そういうものがその原子と電子の間の中間子という考えに至るきっかけになったと述べていらっしゃいます。
 私自身も新潟の海をずうっと見ていましたので、きっとこの津田沼教会で上村敏文が話した、ああ、あの先生にサインもらっとけば良かったというふうに後悔なさらないようにお願いいたしますね。
 冗談ですけれど、私は悩みました。高校時代にかなりプレッシャーのある高校に入って、多くの人たちが、何か一流というものを目指していく。その中で何をやっていけばいいのかということでかなり迷った訳ですが、一つの選択としてテレビを見ていて1番美しい顔をしている人はだれかと思って見ると、政治家はだめだな、1番きれいな顔をしているのは、音楽家だなあと思いました。だから、音楽家になろう。それから、今一つの可能性としては宗教家、宗教家もきれいな顔の人があって、多いので、宗教家か音楽家かどっちかだなというふうに思った訳ですね。ポイントは何かっていうと、何か世界の未来のために、働くことができないかな、ということだったんです。世界の平和のためにというと、当時は、短絡的に国連ということが、頭に浮かびましたので、国連に行こうと思ってできたばかりの筑波大学に社会工学という理科系と文科系を合体させた、そこに世界中の国際連合や世界銀行やOECDや、いろんな世界の国際貢献を経験された先生方を教授に招いて作った大学であり、富山の高校の先生が東大は日本の灯台だと、筑波は世界の灯台と当時おっしゃったので、それを信じて行きました。
 残念ながら、バブルもありましたし、一説には大学ができたと同時にリニアモーター・カーができるというふうにも言われていたので、その計画は全く隣りの孤島になってしまったので「上野の夜行列車降りた時から」という学生エレジーが歌われるようになりました。非常に、女性もスラックスをはいてたら、モンペじゃないかとまちがわれるような感じの田舎の中で作られた大学でした。ただその中で、いろんな出会いがあった私自身の証言ということなので、少しお話をさせていただきますと、国連に行くわけです。
 世界公務員として働くためにやはり、英語が必要だ、それからしっかりと教養で、数学、微分、積分、せんけい代数、コンピュウーター、ありとあらゆる教養は身につけよう、図書館と教室と寮の3点しか移動しませんでした。そして、アフリカなんかは、英語とフランス語はほとんどで、国連でもフランス語と英語が中心となりますから、フランス語はいつもイヤホンで聴いていて、友達から耳が悪いのかと。そうではなく、語学の勉強をしているとみせていると、同時に、今は大学は、真面目です。よく勉強します。ただ、当時は、大学に入ると皆遊んでましたね。ですから、大学に入って遊ぶ奴とは、話がしたくないというふうに思って、拒否の反応スタイルではあったんですね。そういう形で、常に勉強を2年は、死に物狂いでいたしました。
 ところが、3年になった時、私の専門に入ったと同時に、アメリカ帰りの新進の若手の先生の一言によって道を大きく変更することになりました。それは、こういう一言でした。それは、経済政策の授業だったんですが、「浪費は美徳だ」と先生おっしゃったのですね。えっと、何ですか、とね。あの経済学では消費は美徳という風に言われます。これは、消費をすることによって、また、生産をするということですから、需要と供給の関係があって分かるんですが、その先生は「浪費は美徳」とおっしゃる。その瞬間に怒りがこみ上げて来ました。今だとある程度は理解できるんですけど、20前後の時には「浪費は美徳」だと。で、もうこういう学問はするに値しないということで、もう勉強をぱたっとやめました。
 そして、旅に出ました。その旅というのはお恥ずかしい話ですけれども、悟りの旅でした。先ほど、高校の時に音楽家になるか、宗教家になるかということで、お坊さんになろうと思いました。座禅を組んで、悟りを開こうというふうに思って、山にこもりに行きました。夏休みを利用して。まだ、髪の毛があるので、お坊さんにはなっていないのですが、じゃ、上村、どうしたのかっていうと、そこで一人の出会いがありました。
 私たちは、皆さんもここには多くの人生の先輩方がいらっしゃいますが、やっぱり変化をする時っていうのは何か出会い。これは、神さまがやはりもたらして下さったものだというふうに私は思います。で、その一人の方、これは商社マンでした。
 商社マンですが、心のきれいな方で、これは、戦前の大財閥の御曹司の一人だったんですが、やはり大学に行って、そして、宗教家に本人はなりたかったんですが、親がそれを許さないで、オレは、おまえを宗教家にさせるために大学に行かせたのではないということで、包丁を突き付けて、そして結局は、商社に勤めることになったそうです。
 10年間たって、やはり、どうやって競争社会を生き延びていこうかという激しい社会のようですから、私はそこら辺は経験してないのでわかりませんけれども、その方はうつ病になっていらっしゃいました。うつ病になって、100キロくらいになって、もう薬づけですから、ぼおっとされていたんです。
 その方が、その場所で、みんなが、避けてたんですけれど、私自身は、疲れますかと声をかけた。それが、私が、ここに立っている理由なんです。疲れますかと声をかけた。声をかけなかったら、ここにもう私はいません。そのまま、素通りをしてたならば、お坊さんになっていたかもしれません。まあ、わかりません。そしたら、その人がこういうふうに言いました。言葉もよく舌もまわらないんですね。「うううううえええええむむむらららくくくくん」。ふるえる感じで住所を書いてください、って言うんですね。もう絶対に書くものかと思って、うその住所を書こうというふうに思っていました。で、そしたら、本当の住所を書いちゃったんですね。大学の寮の住所を書いてしまったんですね。で、ああしまった、書いちゃったと思ったんですよ。まあ、それはしょうがない。ま、いいやというふうに思ったらすぐに手紙が来ました。
 手紙はこんなに失礼な手紙はないな、マジックで書いたような、そういうものでした。最初は、何だ、この手紙は、というふうに思ったんですが、最後まで読み終えてみると、涙がこみあげて来ました。それは、神道との出会いだったんですね。ひとりの人を紹介したいと。私達自身は山口で母は革命家の方ですから無宗教で、旧家に嫁いでいながら、一切宗教行為はしませんでした。神棚に手を合わせるだとか、仏壇に何をするだとか拒否をしましたので、私の身体の中には半分は革命家、半分はそういう伝統的な血が、2つ流れているので、表面はやさしそうに見えるようですけれど、内部は怒りとかいろんな怒りがグラグラグラグラにえたぎっていました。これもある人との出会いで怒りが解消した訳ですが、これはまた、午後の講演の時に機会があれば話たいと思いますが、その商社マンが連れてって下さったのが、宗教家。私はその母から、宗教と学生運動は、やっちゃだめよと言われていましたので、宗教かということでしたけど、一度だけでいいということでしたから、一度だけ行ってあげましょうという感じで行きました。
 で、その時、私自身無神論でしたから、見えるもの、形にあるもの、そういう実験を通してやる世界にいましたので、宗教?神さま?神さまを信じるということはどういうことだと、どういう人たちなんだろう、神さまを信じることをしている人たちは信じられないというふうに思っていた時代でしたから神さまを信じる神道というのはそのままですね、神の道です。これは最後に申し上げますけれども、私自身午後の結論でもあるのですけれど、神道とは一体何かということです。
 これは国学院大学のある教授がおっしゃったとおもいますけれど、10人の神道家がいれば、11の理論があるというふうにおっしゃっていました。経済学ではね、10の学者がいれば、10の理論があるというふうに聞いていましたけれど、神道では11の理論があるということは、神道の理論そのものが、非常に錯綜しているということを意味しています。いろんなことを言う人がいます。
 学者も含めて、民間も含めて、いろんな人がいる訳です。神道とは一体何か、ということを定義づけるということは、実は非常に難しいことです。神道といえば、キリスト教の立場から言えば、多くの人は、明治神宮だ、靖国神社だと批判する訳ですけれど、この体系というのは明治以降に始まった特殊な神道ということが言えます。ですから、本当の神道というのは一体何かというと、これは一言でいうならば、祭りということです。祭りという漢字を分析してみて下さい。3つの部分に分かれます。ちょっと頭の中に祭りという字を書いてみてくださいね。そうすると、左上に「夕」みたいな字がありますね。これは、肉をあらわします。そして、右側の「又」という字は手を表わします。そして示す辺ですが、これは、神さまに関係があることです。
 示す辺の中間部分は机です。神道では机がささげ物としてあります。おそらくこれは、中国、もしかしたらもっと西の方からかもしれませんけど、祭りというのは、お肉を祭壇にささげる、そして、示す辺の点というのは血を表わします。
 血がしたたっているのを2つの点であらわします。ですから、祭りというのは祭壇に肉をそなえるというのが祭りの意味です。これは結論に至っていたんですが、新しい文書が、実は今年出てきました。古事記や日本書紀より古い文書が出てきました。それから、昭和2年に書かれた本、これは、あるぐうじさんが書かれた本、ほんとに大学図書館にはない本です。なぜないかというと、マッカーサー元帥がこの本を徹底的に回収しました。私自身もこの本を初めて見ることができました。たまたま機転を働かせた方が、大学の図書館だと持って行かれてしまうので、小学校の図書館に入れておいたんです。小学校までは来ないだろうと。小学校においておいたその本が、私の知人が持っていましたので、それを拝見しましたら、大変びっくりすることが、昭和2年の段階で書かれていました。
 このことは、実は、来週京都で1つの大きな会があります。その場で学問的にどのように扱われるかということによって今後の歴史、神道の考えが大きく変化をしていきますからまだここで話すことは控えたいと思います。まさに、来週、そのシンポジュウムが行われます。
 私自身はほぼ一つの結論に至っていたんですが、その文献と、マッカーサーが徹底的に回収したのがこれも不思議です。マッカーサーが日本語を読める訳がありませんから、どうしてその本をターゲットにされたのか、これは、陸軍でも読まれていました。その最初のところだけ、みてみますと、四千年の歴史というふうに書いてありました。
 そこのポイントは何かというと、日本の起源というのがメソポタミアであるということが、昭和2年に書かれているんです。それも、神主さんが書いているんですね。で、私は本当に驚愕しました。民間ではいろいろいわれていますが、「証拠」がないのでわかりません。ただその証拠をさがしているのは、ルーテル神学校の隣りにある中近東文化センターというのがあります。これは、名誉総裁は三笠宮殿下、昭和天皇の弟で、彼は、オリエント学会あるいはヘブライ語もたんのうでいらっしゃる。
 その方がなぜ、中近東の発掘をする、これは、出光が出資をしていましたが、そういうところの総裁なのか、日本のルーツは、未だにわかりません。言語学的にも去年、今までは、大岡進先生のタミール説というのがかなり強力でしたけれど、これも今は覆されました。ですから、言語学的にもウラル、アルタイなのか、マライ、ポリエシアなのか、タミールなのか、全部覆されましたので、わからなくなりました。
 日本の言語学者、東大、京都大学のシンポジウムにも、京都であったので、激論にもふれてみましたけれど、結論はわからない。私は、最終的な結論というのは国立遺伝学研究所、そして、東京大学が1992年以降行っている遺伝学の研究で決着がつくんではないかなというふうに思っています。あと、数年で決着がつくのではないかと。データは膨大にあります。ですから、データの解析が進めば、結論に近いものが出るかもしれないというふうに思っています。
 結論は一体何かというと、日本最古の神社、いくつかありますけど、そのこの神社、天の橋立てにあります。その宮司さんに私自身が一番最初にはじめたのは、イギリス人や、オランダ人なんですけれども、日本人の顔を見てみると、津田沼教会に来てみてびっくりしました。いろんな顔の人がいる。単に古事記を見ると、出雲大社のルーツは、朝鮮半島から来ている。一般の人たちは、私たちは中近東の方から来ていますと。出雲の人たちは明らかに違う日本人とは思えない、もうひとつは、熊野です。何であんな僻地に天皇家があるいて行くのが大変なのに熊野もうでをしている。
 これを白河天皇とか何回もいらっしゃる。その理由はわかりませんが、あすこら辺の顔を見るとやはり日本人ではないです。これは、渡来人だなあと思います。京都海部宮司にうかがうと、明確に渡来の神道のルーツはメソポタミアです。びっくりしました。それならば、どういうふうなルートかは全く残っていません。
 これは学問的に証拠はありません。中国の敦煌で発掘されたようなものがない限り、明らかにすることができない。なぜ日本にそれがなかったかというt、大化の改新で文書が焼き払われた。ですから、その後に編纂された古事記だけしか残っていない。大化の改新で焼かれたものがもしかしたら、数年前から私が言っていたのですが、どこかの神社に残っているのではないかと。それが、今年出て来ました。
 一つは河口湖、せんげん神社、もう一つは日吉神社の祭り小屋から出て来ました。
 祭りというのは、これは、現代の日本人の多くが誤解しているのですが、あれは神さまに犠牲をささげる。これが祭りのエッセンスです。それ以外のものはありません。ですから神道の一番大切なものは、神さまにお肉をささげうということ。今どういうわけか、初穂がいなほにかわっている。しかし、伊勢神宮、11月23日、昔は新嘗祭。私たちは、新米はその日以降でないと食べられなかった。日本人はいろんな意味で宗教的なものが剥奪されていきます。これは、午後に話します。
 今日のまとめは、「日本人は日本人のように」ということです。パウロは、ユダヤ人に対してはユダヤ人のようにというふうに言っていますけれど、私自身がルーテル神大に招かれたのは数学を教えてほしい、物理学を教えてほしいということではなくて、私が悟りの旅で出会った65歳の無名の神道家の方に一言、「上村君、信じようと信じまいと神さまは
厳然としていらっしゃいます」というふうに静かにおっしゃられました。その瞬間にどうやたら神さまを信じることができるんだろうかと思っていた理科系のゴチゴチの頭の中にすうっと神さまが入って来て、その時から今日までそれは消えることはありません。神さまはいらっしゃいます。「宗教として、キリスト教が最高です。」びっくりしました。
 キリスト教というとネガティブにとらえがちですが、「神さまのひとり子であられる方の唯一の教えだからです。」
 その瞬間に嫌いだったキリスト教、イエスさまについていこう。十字架の下についていこうという決意をいたしました。ですから、クリスチャンになったのはいつか、洗礼を受けた時なのか、どうなのか、神学者におまかせですが、私は21歳の時に思った。神道の先生がおっしゃるには、3年目はめちゃくちゃ、5年になって自分が出てくる、10年しないと1人前にはならないということでしたから、10年やろうと、筑波から東京まで、6時間かけて通い続けました。大学にはいたくなかったので、卒業だけはしましたが。
 日本という国はすごい国だなとその神道の先生から学びました。実践を考える学問をと自己の勉強もしました。このようなプロセスの中で、10年神道を21歳から31歳まで勉強し、自分は卒業したなあと思いましたが、いろんなことが起こって、落っこちましたが、落っこちた時というには、人生の底、31歳から出会いがありました。元祖フリーターでしたから。筑波の助手のポストを断って先生を怒らせてしまいました。
 4日だと、神道の勉強ができなかったから。皆さまにもいろいろなキリスト教の出会いがあると思いますが、アメリカのルーテルの神学校でも勉強しましたが、牧師にはなりませんでした。
 日本の風土、パウロが仮に説教するとしたらどうだろうか。申命記30章14節、神さまはあなたのすぐ舌の先にありますよね。神さまは、ずっと遠くにいると思っていたのですが。私たちは、この聖書から生きるキリスト教、燃えてやる気があれば、義務ではなく、楽しく喜びにあふれている姿をみて、人々は教会に来る。お互いに祈り、祈られ、支えられていきましょう。アーメン。

2013/07/21(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の義と愛」(ルカ9:51-62)内海望牧師
ルカ福音書9:51-62、聖霊降臨後第8主日(典礼色―緑―)、ヨナ書4:1-11、ガラテヤの信徒への手紙5:2-26

ルカによる福音書6:51-62
 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分の死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。


説教「神の義と愛」(ルカ9:51-62)内海望牧師
 
 先週も説教で指摘されていたようにルカ9章51節は大きな分岐点になります。今朝は、56節までを中心にみ言葉を聞きたいと思います。
 「決意を固められた」という言葉には非常に強い意味がこめられています。口語文、文語文では「顔を向けて」と直訳されていました。そのうえで、その意味は「固い決意を秘めて」ということなのだと注解されているのが普通でした。そこにはキッと顔をエルサレムに向けて歩まれるイエスさまの姿があります。ですから、同じ箇所をマルコ福音書で読むと、「その時、エルサレムに向かって、先頭に立って歩かれるイエスさまの姿を見て、ただならぬ雰囲気を感じ取り、「弟子たちは驚き、恐れた」と描かれています。これほど強い決意とは何でしょうか。それは、一つには「すべての人々を救う愛の決意」であり、同時に、罪人の罪を贖うために御自分の命を捨て、十字架への道を歩むという苦難に向かう決意でもあったのです。「天に上げられる時期が近づく」という書き出しの言葉も、このイエスさまの決意の重さを示しています。
 さて、「すべての人々を救うため」という時、当然そこには異邦人と呼ばれ、偶像崇拝に走った背信の群れとして憎まれ、軽蔑されているサマリア人、また人々が罪人と呼んで忌み嫌う人々すべてが含められています。従って、イエスさまは、普通ユダヤ人がサマリア人を避けて取る道筋、すなわち、迂回して、ヨルダン川東を通ってエルサレムに向かうという行程でなく、まっすぐに異邦人であるサマリア人の村を通って行かれたのかも知れません。そこにも神さまの祝福、救いがあることを知らせるために。
 しかし、そこでイエスさまは早速試練にあうことになるのです。村人はイエスさまを歓迎しませんでした。村人がイエスさまを歓迎しなかった理由は、イエスさまがそこに滞在せず、エルサレムに行かれる途中であったからだと聖書は記しています。しかし、口実のような気がします。何故なら、イエスさまは、「準備のために使いの者を出された」とわざわざ改まった文章でイエスさまの行動が記録されていることから、イエスさまは単に一夜の憩いのためでなく、人々に祝福を伝える時を持ちたいという強い愛の意志を読み取ってもそう深読みではないでしょう。しかし、何れにせよ、イエスさまは拒まれたのです。十字架への道は既に始まったのです。
 しかし、このサマリア人の態度に対する弟子たちの反応はわたしたちの予想を越えるはげしいものでした。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを滅ぼしましょうか」。私たちは、この言葉に驚かされます。「焼き滅ぼしましょうか」とまで言うのです。どうしてそこまで言うのでしょうか。
 しかし、考えてみると、民族間の憎悪というものは根深く人々の心に浸み込んでいます。現在でも数多くの悲劇が起こっています。このユダヤ人とサマリア人の憎み合いは紀元前722年にサマリアがアッシリアに滅ぼされて以来、延々と700年以上も蓄積された憎しみの連鎖なのです。しかも、当時のユダヤ人からすれば、「彼らサマリア人は偶像礼拝をしているから滅びるべきだ」という信仰的な大義名分があったのです。ヤコブもヨハネも自分たちは正しいことを言っているのだという確信があったと思います。だからいっそう怖いのです。神さまになり代わって正義を実行する気構えなのです。私たちも弟子たちを笑うことは出来ません。私たちも大義名分をかざして容易に悪の民族を周囲に作ってしまうのです。人間の世界の「正義」の恐ろしさを感じさせます。まして、それが信仰的確信と結びついた場合、恐ろしさはいっそう深まります。
 今日の「第一の日課」に出てくる預言者ヨナも同じところに立っています。神さまは、異邦人の町ニネベの町に行って悔い改めるよう勧めなさい、という命令に背いて逃げて行ったヨナを赦し、もう一度預言者として用いて下さいました。しかし、ヨナは、その自分を赦して下さった神さまの愛をすっかり忘れ、悔い改めたニネベの人々を喜ぶのでなく、ニネベの人々を赦す神さまの愛を悪しざまにののしるのです。ここに弟子たちの姿が重なります。弟子たちは、ヨナと同じように不信仰な間違った生き方をしている人々が救われるのを見るのは我慢がならないのです。ガラテヤの教会にしても同じです。パウロが怒りをこめて語るように、人間の正しさが人々を裁く群れを作りだしてしまうのです。
 しかも、このような大義名分をかざして隣人を裁くということは、私たちの日常生活のまで侵入しているのです。私たちは、しばしば自分が絶対に正しいと思いこみます。そして、どうしても赦せない人を作ってしまうのです。ヨナにせよ、ヤコブ、ヨハネにしろ、割礼を強要するガラテヤの教会にしろ、そこには私たちの姿もあるのです。むしろ、罪人である人間の姿があると言ってよいでしょう。
 しかし、それにしても、私たちの心には素朴な疑問が残ります。「罪人が救われるなら、善人は意味がないではないか」という疑問です。罪人が赦されるなら、正義はどこに行ってしまうのかという疑問です。

 私たちは、聖書の神さまが「義なる方」であることを繰り返し知らされています。今、私たちが読んでいる聖書日課のエゼキエル書にしても、罪人、偶像礼拝者(神さまを裏切った人々)を容赦なく剣で滅ぼす峻厳な神さまの裁きについて繰り返し語られています。思わず襟を正す、というかある時は目をそむけたくなるような場面もあります。
 しかし、私たちは同じ神さまが、限りなく愛の神さまであることも聖書から知らされています。同じエゼキエル書の18章には、「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。」という忘恩のイスラエルの民に対する切々たる愛の思いを神さまが伝えている箇所もあるのです。
 神さまは決して罪を見過ごしにする方ではありません。神さまは律法の一点一角もゆるがせにしないとイエスさまも山上の説教でおっしゃっています。これは義に対して絶対にゆるがせに出来ない義なる神さまの態度です。
 しかし、その同じ神さまが愛の神さまでもあるのです。傷ついた葦の一本一本を立ち上がらせ、今にも消えそうな灯心を手で囲って消えさらないように守るという細やかな愛の方でもあるのです。当然滅ぼされるべき背信のイスラエルに対して、「どうして死んでよかろうか」と深くため息をつかれる方でもあるのです。異邦人のニネベの町の人々が身分の高い人も低い者も自分たちの罪に気付かされ悔い改めた時、それを心から喜んで下さる方なのです。絶対的義である神さまは、同時に、絶対愛の神さまでもあるのです。

 ここで、冒頭のイエスさまの姿に戻って考えてみましょう。そこで、少しくどいほどイエスさまの決意の強さについて述べました。
 絶対的な義と。絶対的な愛、この決して交わることのない深い溝に挟まれながらイエスさまは十字架への道を歩み通すことを決意されたのです。この決意は、まさに神の痛みの愛と言ってよいでしょう。イザヤ書53章には、このイエスさまの姿が預言されています。「その私たちの罪をすべて主は彼に負わされた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。・・・(わたしたちが救われたのは)彼が自らをなげうち、死んで罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた人のために執り成しをしたのはこの人であった。」と書かれています。まさに、パウロが「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と語る通りです。イエスさまの十字架の愛は、決して義をそこなうことのない、神さまの愛の勝利と言えます。既に考えて来たように、愛なき義は、冷たい剣であり、義なき愛はただの甘えに堕するのです。しかし、イエス・キリストの十字架において示された神さまの愛は人間の義と愛を越えるものなのです。
 神さまのひとり子であるイエスさまの十字架の死によって神さまの義と愛がひとつになったのです。神さまのひとり子イエス・キリストの十字架の死というたとえようもない大きな代価が支払われたのです。だからこそ、今や私たち罪人が神さまと和解し、平和を得ることが出来たのです。私たちは神さまとの出会いを恐れずに、喜ぶことが出来るのです。
 わたしたちは、聖書を読むたびに、神さまの愛の広さ深さについて改めて感嘆させられます。パウロは、このイエスさまの愛を見つめながら「どんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにおける神の愛からわたしたちを引き離すことは出来ないのです。」と勝利の宣言をたからかにうたっています。
 しかし、同時に今日の聖書日課を通して私たちの信仰心の内容が問われていることに気が付かされます。私たちにはまだ神さまの愛の御心について、その大きさについて気付いていないのではないだろうか、という思いです。私たちの信仰心の狭さ、身勝手さに気付かされます。わたしたちこそ狭い信仰心から不信仰な者を非難し、正義を振りかざす者なのです。先ず悔い改めるべきはわたしたちであることを知らされるのです。
 神さまの前に自分が罪人であることを告白したダビデ王は、「(神さまは)打ち砕かれた悔いる心を侮られない」という事実に目が開かれました。そして、その後、赦された感謝と喜びのうちに人生を新しく生きることが出来たのです。打ち砕かれた魂の奥底から、心から悔い改める時、私たちもまた必ずダビデ王と同じ経験をすることが出来ます。イエス・キリストにおける神さまの赦しの愛は、打ち砕かれた魂に贈り物として与えられるのです。今日は、私たちは心から悔い改め、このどんな被造物も決して奪い取ることが出来ないイエスさまの赦しの愛を喜びましょう。そして、この愛に生かされて与えられた1週間を喜びの時として歩んで行きたいと思います。








2013/07/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリスト告白と受難・復活予告」(ルカ9:18-26)
ルカ福音書9:18-26、2013・07・07、聖霊降臨後第7主日(典礼色―緑―聖餐式)、ゼカリヤ書、ガラテヤの信徒への手紙3:23-29

ルカによる福音書9:18-26
 
イエスはひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」


説教「キリスト告白と受難・復活予告」(ルカ9:18-26)

このところ、百人隊長の信仰の物語や、罪深い女が、食事の席に混じり込み、香油で主イエスの足を拭うといった記事が読まれて来ました。今朝、与えられている記事は、それから一気に飛躍して、「キリスト告白と受難・復活予告」の記事、ルカによる福音書9章の18節から26節が与えられています。そして、次週の主日の福音は、ルカ9章の51節から62節が日課として与えられています。
ルカ福音書の教会暦の山場へと急転回しており、今日のペトロによるキリスト告白、そして、主による受難・復活予告の記事が与えられており、いよいよ次週から、エルサレムへと主イエスが顔を向けて、十字架への旅が始まる分岐点に立つのであります。ある日本人の手によるルカ福音書の概説書は、ルカによる福音書の副題として、「旅空を歩むイエス」と付けていますが、まさに、次週から、エルサレムへ向かっての「旅空を歩むイエス」の出来事と、その旅の途中で、主イエスが語ったみ言葉や、なさったみ業が、読まれていくのであります。今朝の記事は、それに入る前段階としての重要な記事であります。
その記事について、辿りながら、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
今日の記事は、もとの文を見ますと、「そして、成ったことには、彼、イエスが祈るということにおいて、彼だけがいた、そして、その弟子たちも一緒だった」という一見矛盾した表現で始まっています。これは、どういうことでしょうか。これは、多分、弟子たちと一緒にいたのだが、主イエスの祈りとは、別次元の世界に弟子たちはいた、主イエスは、弟子たちとの思いを別にして、同じ所に居ながら、重大な祈りをただ一人、しかし、天の父なる神に向かって祈っておられたということでありましょう。
他の福音書では、今日の個所は、フィリポ・カイザリアの辺りで、起きた出来事とされているのでありますが、ルカ福音書では、5000人への給食の奇跡の後に、しかもそれとは無関係に、起こった出来事として、場所や日時の設定は記されていません。
自分が何者であるかを、示すべき時が来て、ルカ福音書でしばしば出てくるように、主イエスは、真剣に父なる神に祈りをささげていたのであります。
そして、「私のことを、群衆は何者だと語っているか」と突然弟子たちに、尋ねられたのであります。弟子たちは、主イエスの評判に基づいて、語ります。ある者は、洗礼者ヨハネだと、また、別の者はエリヤ、終末のときに来ると信じられていた、天に上げられていったエリヤだと、また、古い預言者たちのうちから生き返った者だと言っている者もいますと。自分の後から自分のような預言者が現れると宣言していたモーセのような預言者だと見た者もいたのでありましょう。当時は、新聞もなければテレビもない古代世界でありますが、主イエスの巻き起こした旋風は、当時のイスラエル、あるいはパレスチナ一帯に広がっていたのであります。
その時代から、2000年近く経った現代においても、主イエスが何者であるか、だれであるかとの認識は一致しているわけではありません。私たちの多くも、主イエスがだれであるかが分かるためには、多くの経験や人々との出会い、特に信徒との交わりの体験を通して、次第次第に、時間をかけて、やっと、今の自分に至っているのではないでしょうか。
主イエスは、今度は、それでは、あなた方は私を何と言うのかと弟子たちの思いを尋ねられたのであります。それに対して、ここでも、衝動的な、しかし、12弟子の代弁者であるペトロが答えるのであります。「あなたは、神のキリストです」と。原文では、神のキリストですが、これは、神によって油注がれた者、メシア、あるいは、神によって遣わされたメシアだと、ペトロは答えたのであります。主イエスの時代、旧約聖書で預言されていたメシア待望が、行き渡っていました。主イエスの祈りによって導かれたペトロは、あなたこそ、そのメシアですとはっきりと答えることが出来ましたが、そのメシアが、どのようなメシアなのかは、この時点ではまだ、定かではなかったのであります。
それで、群衆にどのようなメシアであるかを標榜することを、主イエスは厳しく戒め、だれにもそのことを言ってはならないと命じられ、しかし、弟子たちにはお教え始められたのであります。すなわち、「人の子」御自分は、多くのことを苦しみ、長老、祭司長、律法学者たちから、無価値と宣言され、殺され、そして三日目に起き上がらされることになっていると、思いもよらないキリスト像を弟子たちに予告なさったのであります。
そして、私の後について来たい者、すなわち、私の弟子になりたいと欲する者は、自己を放棄し、日ごとに自分の十字架を担い、従順に私に従って来なさいと招かれたのであります。その当時、ローマ帝国の圧政に反抗し、捕らえられ、極刑である十字架につけられた大勢の者がいたと記録されています。その十字架を日ごとに担って、私について来なさいと、主は弟子たちに初めて、自分がどのようなキリストであるか、メシアであるかを知らせたのであります。
これは、何も、主イエスが御自分で悟ったというようなことではなくて、旧約聖書の預言を通して、聖書の全体が約束しているメシア、キリストであることを、明らかになさったのであります。そして、自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のために、それを失う者は、かえって、その命を救うのであると言われます。そして、たとえ全世界を得ても、その富を手にしても、自分の命を失い、取り上げられては、何の利点があろうかと言われます。そして、なぜなら、私と私の言葉とを恥じる者は、人の子が、彼と父なる神と聖なる天使たちの栄光において来る時に、すなわち、主イエスの再臨のときに、人の子もその者を恥じるであろうからであると、弟子たちを戒めておられるのであります。
今日の、ペトロによってなされた「あなたこそ、神のメシア・キリストです」という告白と、それに続けてなされた主イエスの受難、初めての十字架につけられるという予告とその三日目の父なる神によるよみがえりという予告が、厳粛になされ、その後について来る弟子たちの心備えが、主イエスによって求められているのです。
そして、次週のルカ福音書9章の51節からいよいよ、エルサレムに向けての、天に上げられる時期が迫っての十字架への旅、また、復活と天への昇天の旅が始まります。
弟子たちは、今日の時点では、主イエスが御自分について語られたことの意味が分かりませんでした。そして、主イエスの受難と復活の出来事の後に、さらには、主の昇天と、聖霊降臨の出来事の後に初めて、主イエスがどなたであるかを理解し、主イエスによって、今日の記事で勧められている自己否定と各人の日ごとの十字架を担うことと、己に死んで、かえって、主イエスのために命を失うことによって、永遠の命を与えられることを、徐々に知ることとなったのであります。
主イエスの弟子たちが、世界中に散らされて行き、2000年近くになりますが、私たちの周囲には、依然として、主イエスが、洗礼者ヨハネや再来のエリヤ、あるいは、モーセのような偉大な預言者の一人だと考えている群衆が溢れています。
しかし、今日の主イエスがペトロのキリスト告白を認められたように、聖書は、新約聖書、旧約聖書を通して、この方こそ、私たちの罪の唯一の贖い主、私たちを罪への堕罪から救い出して下さるアダムの裔であることを証言しているのであります。来週の日曜日から、その主イエスのエルサレムに向けての旅を私たちも、主イエスの弟子として、ペトロたちと共に、御言葉やみ業を知らされながら、今年の残された教会暦の半年間をご一緒に旅してまいりましょう。アーメン。

2013/07/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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