津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪を赦された者として」(ルカ7:36-50)
ルカ福音書7:36-50、2013・06・30、聖霊降臨後第6主日(典礼色―緑―)、サムエル記下11:26-12:13、ガラテヤの信徒への手紙2:11-21

ルカによる福音書7:36-50
 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消死にしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者なのだろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。




説教「多くの罪を赦された者として」(ルカ7:36-50)
 
本日の特別の祈り、主日の祈りは、実は二つありまして、私は、週報に掲載されている方を選びました。「悪魔は、内外に猛り狂い、私たちを試みようとしています。私たちが、たとえ倒れ伏すことがありましても、再び、御言葉によって立ち上がらせて下さい」といった内容のものであります。本日のルカ福音書7:36-50は、罪深い女の物語でありますが、また、ファリサイ派のある人、イエスを食事に招いたシモンも、主イエスの罪の赦しへの招待から、除外視されている訳ではありません。主イエスは、ファリサイ派のこのシモンの食事への招きに、喜んで応じているのであります。
 本日の部分は7:36-50でありますから、9章の51節から始まるエルサレムに向けての十字架に付くための旅立ち、そして、そこから復活して天の父のもとへと旅立つ、ルカ福音書の本論ともいうべき記事の始まりに、だいぶ近づいている段階での出来事であります。 
それが、どこの町で、いつの出来事であったのかは、詳しくは記されていません。ガリラヤのある町での出来事であったとしか、知ることはできません。
 その町で、ファリサイ派のある人が、イエスを食事に強く招いたのであります。主イエスはそれに応じられました。主イエスは、ファリサイ派や律法学者と激しく対立する場面もしばしば、記されていますが、御自身は、この記事にあるように、請われれば、誰の所にも、応じていかれています。ルカの7章35節に、「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と主イエスの語った言葉が記されていますが、ファリサイ派の人によっても、罪深い女の人によっても主イエスの真理は、それに従う人々によって証明されるのであります。
 さて、本日の出来事は、その食事に主イエスが招かれて、その当時のパレスチナの風習に従って横になっているときに、起こったものであります。イエスが、そこに呼ばれたことを知ったある罪深い女が、香油の入ったフラスコ、石膏の瓶を持ってやって来ます。そして、主イエスの後ろから、主の足を、泣きながら涙でぬらし、その髪の毛でふき、主の足に接吻していたのであります。そして、香油を取り出して塗っていたのであります。
 この女性は、売春婦であったのでありましょうか。性的な過ちを犯した女性だったのでしょうか。あるいは、その主人が不信仰な人であったのでしょうか。ただ、はっきりしているのは、後で出てくるように、罪深い者であったということであります。その女性は、涙で、泣きながら、主イエスの足をぬらしていたのであります。悔いの涙であったでしょうか、それとも、感謝の涙であったのでしょうか。ひょっとしたら、この日の出来事の前に、主イエスとの出会いがあったのかもしれません。そして、再会にやって来たのかも知れません。
 振り返りますのに、私は、最近、殆ど、泣いたことがありません。少年時代の頃までは、涙もろく、学校の講堂で映画などを見てもすぐに感動して涙を流したものであります。最近は、苦しいことがあっても、涙となるといった体験が殆どないのであります。
 しかし、改めて、振り返ってみますと、主イエスに出会ったのは、この女性と同じように、涙の中で、後悔と共に、主イエスの罪の赦しを知って、泣いた体験をした時でありました。
 さて、罪深い女の一部始終を見ていたファリサイ派の人は、心の中で言いました。「もし、この人が預言者であるなら、この女が、どんな女かわかるはずだ」と。主イエスは、それを、すぐに察知して言われました。「シモン、あなたに質問したいことがある。」シモンは、すぐに、「どうぞ仰ってください」と言いました。主イエスは、ソクラテス的な問答法を用いられるのであります。「二人の借主が一人の貸主にいて、一人は500デナリオン借りていて、もう一人は50デナリオンだった。ところが、二人とも持ち合わせがなかったので貸主は両方とも免除してやった。どちらの方が、貸主をより愛するか。」シモンは答えます。「より多く免除してもらった方だと思います。」主は、「あなたは正しく判断した」と答えるのであります。そして、その女の人を振り返って、言うのであります。「この人を見ないか、あなたは、家に招いてくれた時、足を洗う水をくれなかったが、この女は、泣きながら、涙で私の両足をぬらし、その髪の毛でふいてくれた。あなたは、私に接吻をしてくれなかったが、この女の人は、入って来てから、私の足に接吻をすることをやめなかった。あなたは、私の頭にオリーブ油を注いでくれなかったが、この女は、私の足に香油を塗ってくれた。それゆえに、私はあなたに言う、この女の多くの罪は赦されている、それで、彼女は多く愛したのである」と。
 ここの部分が大事なのであります。と言いますのも、この部分は、「彼女の多くの罪は赦されている、なぜなら、彼女は多く愛したからである」とも訳せないわけではないからであります。しかし、文脈と、聖書的な理解からは、「彼女の多くの罪は赦されている、それで、彼女は多く愛した、愛するのである」となるのであります。
 私たちの多くの罪が赦されたので、私たちは、感謝してより多く愛する者とされたのであります。私たちが、教会につながるのは、この主イエス・キリストの罪の赦しによって教会へと、そして、礼拝へと招かれているからであります。そして、ファリサイ派のシモンも、この主イエスの罪の赦しから、除外されている訳ではありません。彼もまた、罪深い女のような過ちは犯していないとしても、教会に、主イエスのもとに、招かれているのであります。
 人間の目からみれば、順調な、非を犯していないこのファリサイ派のシモンのような方も、この世の中には少なくありますまい。しかし、それは、程度の問題に過ぎなく、人間は皆、神の目から見れば、罪深い者ではないでしょうか。私たちは皆、本日の罪深い女の涙を、想い起こし、主の御前に涙すべき者ではないでしょうか。あの出来事がなかったら、あの挫折がなかったなら、どんなに私の人生はよかったことだろうと、考えないこともありません。しかし、私は、多くの罪を赦されたので、より多く主を愛し、主に感謝する人生を与えられたことを、それ以上に幸いだと、自分の人生を振り返って、確信するのです。そして、私どもは、ファリサイ派のシモンをも、同じ主イエスの罪の赦しのもとへと招待する特権があるし、責任があるとも思うのです。
主イエスは、女に、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と最後に言われています。私たちの毎週の礼拝も、「行きましょう、主の平安の内に。」「神に感謝」と唱えながら、悩み多きこの世の信仰の旅路に派遣されていきます。主イエス・キリストが間もなく、向かわれるエルサレムでの十字架の死と復活によって、私たちの罪、神との関係が正常でない関係は、正常な関係へと既に回復されているのです。
 ルターが言ったように、私たちの生涯は一生悔い改めの生涯であります。主の日に、福音に耳を傾けながら、大胆に罪を犯し、しかし、それ以上に大胆に悔い改める信仰生活を送ってまいりましょう。
 
私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

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2013/06/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「もう泣かなくともよい」(ルカ7:11-17)
ルカ福音書7:11-17、2013・06・23、聖霊降臨後第5主日(典礼色―緑―)、列王記上17:17-24、ガラテヤの信徒への手紙1:11-24

ルカによる福音書7:11-17
 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。


「もう泣かなくともよい」(ルカ7:11-17)
先週の福音ルカ7:1-10には、「ただお言葉を言ってください」とありましたが、今日の出来事においても、主イエスの言葉が非常に大きい位置を占めているのであります。やもめの母親は泣いていましたが、それを見て、イエスは、腸がねじれるような感情を覚えたのであります。当時のやもめの地位はひどいものでありました。その上に頼るべきたった一人の息子を失ったのであります。
ところで、死は恐ろしいものであります。死んで、この世に再び帰ってきた人は一人もいないのであります。しかし、一人息子を失ったやもめに、主は「もう泣きなさんな」と、言葉をかけるのであります。そして、その一人子に若者よ、「私は言う、起きなさい」と主が言われると、死んでいた若者は担架から上半身を上げて生き返ったのであります。主は、神でもあります。主が、この若者と、また、やもめと共におられるのであります。私たちは、親や身内、あるいは、友人の死に接して、心に大きな傷を受けるのでありますが、主がどのようなときも、死すべき弱い私たちと共にいてくださることを、本日の出来事を通して信じることができるのであります。
私は、神学生のときに、教会実習で、ある葬儀に出席しましたが、火葬場まで来まして、故人が火葬に付される時、「私はいつも、この鉄の火葬場の壁のあちら側とこちら側には、通り越していくことのできない壁があると感じるのです」と死の悲しみを述べていた御婦人の言葉を、今でも思い出すのであります。
しかし、主がその十字架の死と復活を通して、私たちの避けられない死をも、克服して下さったと言えるのであります。この生き返った若者も、また、寿命が来たとき地上の生涯を終えて死んでいったことでありましょう。しかし、私たちの避けて通れないこの世の生の終わりをも、主が勝利して下さっているのであります。どんなに平均寿命が延びても、人は永遠には生きて行くことはできません。しかし、新しい生を、主イエスは本日の若者に生きることを可能ならしめ、やもめの涙を拭い去って下さったのであります。
これを見た群衆は、私たちの間に大預言者が現れた、神は、私たち民を訪れて下さったと、大反響を巻き起こし、このイエスに関する言葉は、ユダヤとその全近隣に出て行ったと、本日の記事は、終わりに記しています。エリヤやエリシャとは、違って、若者の棺に手を置いて、ただ言葉だけで、「若者よ、私は言う、起きなさい」と死者に命じるとそのとおりになる。そして、母親には「もう泣かなくともよい」と腸がねじれるように共感して主イエスは若者を再び生かしてその手にお返しになった。これは、信じられないことですが、聖書ははっきりとこの出来事を伝え、当時の中近東の一角に起こった凄まじい反響を記しているのであります。私たちは、地上の生活で、悩みながら、苦しみながら、時には、憎み合ったり、腹を立てたり、ちょっとしたことで、思い煩い、戸惑いながら生きています。しかし、主が、新しい生を死の床から若者にお与えになられた。私たちは、主イエスによって、その十字架の死と復活によって新たな生涯を約束されているのであります。その生を新しく生きることが可能にされていること、そして、どんな悲嘆にも、主の言葉「もうは泣かなくともよい」という腸のねじれるような思いで私たちと共にいて下さる方を与えられているのであります。
一回限りの人生を、本日のいつも共にいて下さる主にお任せして、明るい生涯を終えたいものであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平和が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2013/06/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ひと言おっしゃってください」(ルカ7:1-10)
ルカ福音書7:1-10、2013・06・16、聖霊降臨後第4主日(典礼色―緑―)、列王記上8:41-43、ガラテヤの信徒への手紙1:1-10

ルカによる福音書7:1-10
 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。





説教「ひと言おっしゃってください」(ルカ7:1-10)
 
聖霊降臨後の教会暦の季節を迎えて、緑の色が典礼色として、今から一年の教会暦の後半を歩んでいきます。今日は、ルカによる福音書7章の1節から10節が与えられています。
 いわゆる平地の説教が終わったところから、本日の出来事は始まります。主イエスは、彼ら、民衆の耳にその言葉を満たし終えて後、カファルナウムにお入りになります。ところが、百人隊長のしもべが重篤な病気で死にそうでありました。百人隊長は、主イエスのことを耳にし、ユダヤの長老たちを派遣して、何とか、彼にとって貴重な存在であるしもべを、助けてもらおうと、第一弾を送るのであります。そして、彼らは、主イエスのもとに行って、告げるのであります。あの百人隊長は、私たちユダヤ国民を愛し、自ら、会堂を私たちに建ててくれました。彼は、そのしもべを助けられるのに、ふさわしい人物ですと告げるのであります。カファルナウムには、会堂、シナゴーグが建っていました。
 それは、この百人隊長によるものであったかもしれません。自らが異邦人の百人隊長でありましたが、ユダヤ人の神を畏れ、改宗までには、至っていなかったでしょうが、イスラエルの神と民とに、深い畏敬の念をもっていたのでありましょう。主イエスは、イスラエルの民を、父なる神のもとに、取り戻そうと、当時、カファルナウムを拠点として、神の国の到来を宣べ伝えていたのであります。そして、異邦人をも、イスラエルの神、そして、御自分の父なる神は、救いに入れようとしていたことを、ツロ・フェニキアの女性に示したように、主イエスは、可能な限り眼中に置いていたのであります。
 主イエスは、派遣されてきたイスラエルの指導者でもある長老たちに伴なわれて、百人隊長の家を目指したのであります。ところが、主イエスが向かって来ているという情報が、先に届いたのか、百人隊長は、今度は友達たち、これも、ユダヤ人の友であったでしょうか、第二弾の者たちを派遣して、伝えさせるのであります。すなわち、「主よ、御足労には及びません。ただ言葉でもって言って下さい。そして、私のしもべを救って下さい。私は、あなたを、自分の家の屋根の下にお入れするのには、ふさわしくない者です」と伝えさせたのであります。
 私たちだって、同じように、考えるべきではないでしょうか。当時、異邦人と触れれば、汚れるというユダヤ人たちの考え方が広がっていました。百人隊長は、それらのことも弁えたうえで、「先生、ただお言葉をおっしゃってください。私も権威ある者の下に置かれていますが、兵士や部下がおり、あちらに行けと言えば、彼らは行き、こちらに来いと言えば、こちらに来ます。また、部下に、これこれをしなさいと言えば、彼らはその通りに従うのです。ましてや、あなた様が、お言葉を言ってくだされば、そのとおりにならないことがありましょうか」と伝えさせたのであります。
 百人隊長の家まで、そう遠くない所まで来ていた主イエスは、驚いて言われます。「こんなに大きな、強い信仰を、私はイスラエルの中でさえ、見たことがない」と。そして、百人隊長のもとに、送られた人々が戻って見ると、そのしもべは、元気になっていたと言うのであります。主イエスは、離れた場所からも、死に瀕していた病人を癒すことができるのであります。
 主イエスは、多くの人々を癒し、体から力が出て行っていたことを、知っておられました。そして、不運の中にあった百人隊長の有用なしもべを癒されるのであります。
 そして、イスラエルの民ばかりでなく、異邦人をも、分け隔てなさらず、御自分の十字架の死、受難とよみがえりを通して、契約の民、イスラエルだけでなく、世界中の人々を、正常な神関係の中に戻されるのであります。
 この百人隊長は、異邦人が救われる例を示しており、その慎ましやかな信仰が、主イエスを驚かせるのであります。いわば、日本人である私たちのモデル的な信仰を、彼は、期せずして、示しているのであります。
 主イエスも、本物の信仰を見分ける繊細な神経の持ち主でありました。私たちが、謙虚な、謙った、しかし全幅の信頼を主イエスに寄せる時、ここで起こったような出来事が生まれるのではないでしょうか。
 私たちも、自分の家の屋根の下に、主イエスをお迎えするのには、ふさわしくないと思われます。百人隊長と同じように、ただ、お言葉を言って下さい。そうすれば、私たちの病も、多くの試練も乗り切れますからと主イエスに伝えさせたい者であります。
 今では、主イエスと直接にお会いできることはできません。しかし、聖書を通して、主イエスの間違うことのない生涯の道を歩んで行くことができます。
 旧約聖書も、新約聖書も、主イエスの預言とその成就を記して余りありません。日ごとに、主イエスのみ言葉と、なさったみ業に従って行くことができます。
 世界は、主イエスの時代に比べて、大きく変わり、物質文明が私たちを取り巻き、何を信じて行けばいいのか、戸惑いを覚える時代へと変容しています。
 しかし、主イエスは、御言葉に従い、従順に主イエスに付き従う者たちを、2000年前同様に、光と命の道へと導いてくれます。
 そして、今日の百人隊長のふるまいは、主イエスを驚かせ、イスラエルの中においても、このような信仰を見たことがないとおっしゃられました。
 今は、天の父の右に座して、そこから、聖霊を送って下さっている主イエスに、どこまでも、付き従って行きたいものであります。
 そして、これほどの信仰を、イスラエルの中でも見たためしがないと言われる主イエスは、私たちを、今も、御言葉を通して導いておられるのであります。
 主イエスが来られ、十字架につけられ、死からよみがえりなさって、私たちは、神との間の破れを繕っていただいているのであります。
 今から、しばらく、主イエスのなさったみ業と、教えられた御言葉を、私たちは、主日の礼拝の中で確認して行くことができるのであります。
聖書は、旧約聖書も、主イエスへとつながっているのであります。聖書日課等を通して、旧約聖書と新約聖書を、ことあるごとに、読み進めていきたいものであります。
 主イエスは、百人隊長の大きな信仰を、百人隊長の言葉を通して、見抜かれたのであります。私たちも、日常茶飯事の生活の中で、主イエスによって、あなたの信仰は大きいなあと、驚いていただけるような、ひたむきな信仰生活を守っていきたい者であります。
 世にあるさまざまな宗教、仏教や神道とも、胸襟を開いて、学び合い、尊敬を持って、しかもなお、主イエス・キリストへの全面信頼の生活を全うしていきたいものであります。

祈りましょう。
 主イエスの父なる全能の神さま。
 私たちの生活を、主イエスによって、祝福されるような毎日にして下さい。私たちは弱く、絶えず罪を犯さずにはおれない信仰ですが、主イエスによって、本日の百人隊長のように見守られている生活を送らせてください。生命が本当に生きているに値する生命となりますように。キリストのみ名によって。アーメン。
2013/06/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「幸いな人」(マタイ5:3-10)
マタイ5:3-10、2013・06・09、召天者記念礼拝

マタイによる福音書5:3-10
 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。」




説教「幸いな人」(マタイ5:3-10)

 今日は、津田沼教会では、特別に召天者記念礼拝を守っております。11月1日が全聖徒の日であります。そして、あの有名な宗教改革記念日は、その前日10月31日であります。マルチン・ルターは、全聖徒の日の礼拝に向けて、95カ条の提題を、ヴィッテンベルクの城教会の門扉にはりつけたとされているのであります。
 ところで、津田沼教会は、長年11月3日をバザーの日として守って来ました。それで、どうしても、全聖徒の日に近い日曜日、それは今年は11月3日(日)ですけれども、その日の礼拝後は、ただちに、バザーの準備に取り掛かるものですから、遺族の方々をもてなすことができなくなる。それで、本日、聖霊降臨後第3主日を、特別に、召天者を記念する礼拝とさせていただいているのであります。
 今日、与えられました福音は、いわゆる山上の説教のはじまりに出てくる主イエスの言葉、八福、八つの至福と呼ばれている記事であります。主は、弟子たちに、八つの幸いについて、ここで、述べておられます。原文を見ますと、詩歌のように、厳粛な文章となっています。祝福されているのは、その霊でもって、物乞いする者たちだよ、なぜなら、天どもの王国は、彼らのものだからであると、主は切り出しています。
 昔、京都教会で青年時代を過ごしておりました頃、関西で子供たちのための教会学校のキャンプが、野瀬という当時ルーテル教会が運営していたキャンプ場で開かれました。
 夏休みのことだったと記憶していますが、四つの場所に落ちた種という主イエスがなさった譬え話が主題テーマでありました。そして、最後の日に、主イエスの言葉を、木の断片に彫刻で掘って、記念に持ち帰るというプログラムがありました。そして、私たちのグループでは、本日の「心の貧しい人々は幸いである、天の国は彼らのものである」にするのか、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」にするのか、提案しましたところ、子供たちは一致して、マタイの方でなければならないと主張したのであります。その意味する所はほぼ同じなのですが、「心の貧しい人々」とは、自分たちのことであると、子供たちは本能的に察知したのでありましょう。
 その霊でもって、物乞いする者たちは祝福されているよ、なぜなら、天の国は彼らのものだからという第一の幸いは、八つの幸いの要約とも言えましょう。神さまにした頼れない、哀れな、弱い存在であることを痛感している人々こそ、天の国、神の支配に与る人々であると主は、弟子たちを慰め励まされるのであります。マルチン・ルターも、亡くなる前、自分は、神のみ言葉を物乞いする哀れな存在にすぎないと告白したのでありました。
 その霊において物乞いせざるを得ない存在、それが、キリスト者の実像であります。
私たちは、人間の語った言葉や、聖書の説き明かし、講義のようなものでも、必ずしも安全で、誘惑や試練から守られるといったものではありません。私はできるかぎり、毎日、30分間でもルターの著書を、英訳で読もうと思っていますが、それによって、必ずしも安全なわけではありません。悪魔の誘惑は、一生涯続くのであります。ルターも、死によって初めて、悪魔との戦いも終わり、聖化されると言っています。
 今日、先に召された方々の写真を飾っていますが、私たちの教会では、信仰告白や洗礼に与らなかった親や、伴侶、などの写真もご希望の方には持ってきていただいて、あるいは、教会で保管していて、召天者記念礼拝には、共におぼえるということをしております。
 私たちは、生きている間には、洗礼に与るように親であれ伴侶であれ、子供たちであれ、導く務めを与えられていますが、必ずしも洗礼に、あるいは、堅信礼に至るわけではありません。しかし、主イエスは、すべての人のために十字架にかかって罪を贖って下さったことを信じるのであります。「人は生きてきたように、死ぬものである」とある著名なアメリカの死生学者が語っています。思い通りには信仰生活が送れなかった故人もおられることでしょう。しかし、今は天に召されて、先達として、生きている私たちを、故人たちは励ましてくれているのではないでしょうか。
 嘆いている者、柔和な者たち、義に対して飢え渇いている者たち、憐れみ深い者たち、心の清い者たち、平和を作り出す者たち、義のために迫害されている者たちと、次第に受け身から、能動的な生き方をする者たちは祝福されているよと主イエスは励まされます。
 私たちのこされた者たちは、主イエスの言葉に従って歩んで行くように今日のみ言葉を 
励まされます。先に召された方々は、天の国から、私たちを応援してくれているのではないでしょうか。私たちの信仰を堅くし、残された人生を、み心に適ったものとしていけるように、主イエスの八福の言葉を想い起こしながら、励んでいきましょう。アーメン。

2013/06/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「愛敵の器に」(ルカ6:27-36)
ルカ福音書6:27-36、2013・06・02、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―聖餐式)、創世記45:3-15、コリントの信徒への手紙14:12-20

ルカによる福音書6:27-36
 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも、同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」



説教「愛敵の器に」(ルカ6:27-36)
 
 作家であり、評論家であった亀井勝一郎さんは、もし、主イエスが、片方の頬を打たれたとき、あなた方は、他の頬をも向けなさいというような衝撃的な言葉を語らなかったならば、彼が十字架刑にかけられることはなかったであろうと、書いています。
 今日の福音書の記事は、そのような「平地でなされた説教」のあるまとまり、ペリコペーであります。説教題に揚げましたように、一言で言えば、あなた方は「愛敵の器」となれと言うのであります。
 これは、私たちの通常の本能や、感情からは、困難なことであります。いや、それどころか、私たちには不可能なことであります。
 しかし、父なる神がみ子を送り、本日の言葉を語っておられる主ご自身が、この「愛敵の器」となってくださった、そのことを想起することを通して、初めて可能になる在り方であります。
 私たちは、自分を憎む者、迫害する者、危害を加える者を愛することなど、本能的に言えば不可能なのであります。しかし、その不可能を可能にしなければならない、自分を十字架につける者を赦して下さいと天の父に十字架上で祈られた主イエスに従わなければならないのだと、神学者のバルトも言っております。
 これは、単なるヒュウマニズムや博愛主義からは、どうしても、乗り越えられない生き方であります。しかし、歴史上の数知れない弟子たちが、主イエスのこの言葉に生き、あるいは、殉教していったのであります。
 本日のみ言葉は、いと高き方の息子に私たちが成るための十字架におつきになる方のみ言葉であります。私たちは、うまの合う人もいれば、なかなか理解できない人もいる。
 憎しみが、なくそうとしても、自然とわき上がるのであります。
 けれども、主イエスは、どんな人に対しても、自分がしてもらいたいと思うところをしてあげなさいと、語られておられるのであります。これは、教会の中でも容易に起こることであります。むしろ、教会の中での方が、かえって、主イエスの教えを守ることが困難であることを、私たちは経験するのではないでしょうか。
 しかし、私たちは、十字架の主イエスによって、罪赦され、互いに愛し合う存在として交わるように、召されたのであります。無償の愛と言いましょうか、無償の赦しと言いましょうか、私たちは、何の見返りも期待せずに、相手に対して、よくしてあげ、赦し合わなければならないことを主は、弟子とされた私たちに今も求めておられるのであります。
 我が家に、昨年の正月に、私と息子が帰省している間に、15年間、家族の一員であった雑種の柴犬が死にました。この犬は、水俣教会の戸口にどなたかが、捨ておいて、私たちによって拾われた生後間もない犬でありましたが、まことに忠実な犬でありました。
 よく、散歩に、一家で連れ出したものですが、どんな犬にあっても吠えたりしない。むしろ、友達になろうとして、近寄り、しかし、どんな小さな犬にも、喧嘩では負けたのであります。いや、喧嘩をしようともしなかったのであります。ただ、賢い犬で、水俣教会で、クリスマスツリイを飾っていたライトが盗まれた晩には、まだ小犬であったのに一晩中吠えておりました。また、水俣から、焼津に転勤の折には、フェリー等を使って車に乗せて引っ越してきたのですが、駐車場などでは、自分が置き去りにされるのではないかと、危惧して、高速道路の駐車場では、必死についてこようとしておりました。
 そんな賢い犬でしたが、そのことを、叔父の牧師に話しますと、感心して、それこそ、教会の犬だねと、叔父の牧師は納得しておられました。
 私たちは、本日、本日主イエスが語っておられるような生き方をなかなかできないのですが、主イエスは、いと高き方の息子となるためには、行わなければならないと、今日も私たちに迫って来られるお方であります。
 亀井勝一郎氏は、主イエスについて、どうしてこんなに繊細な魂が生まれたのだろうかと、評論の中で書かれています。私たちにはできないが、その不可能事を可能に変えなければ、私たちは、主イエスの弟子であるとは言えないと、主は語っておられる。それで、不利益を被っても、「愛敵の器」として、歩むように、促し、私たち一人一人に、今も求めておられる。そのことを、銘記して、1週間の生活へと、ここから、送り出されていきましょう。アーメン。

2013/06/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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