津田沼教会 牧師のメッセージ
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説教「あなたのまことに私を導いて下さい」(ヨハネ16:12-15)
ヨハネ福音書16:12-15、2013・05・26、三位一体主日(典礼色―白―)、イザヤ書6:1-8、ローマの信徒への手紙8:1-13

ヨハネによる福音書16:12-15
 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたは理解できない。しかし、その方、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

説教「あなたのまことに私を導いて下さい」(ヨハネ16:12-15)

 今日は「三位一体主日」です。「三位一体」とは、父なる神、そして、子なる神としてキリスト、そして、先週19日の「聖霊降臨祭」でお祝いしたわけですが、聖霊なる神、これら三つの神が、三つでありながら、なお一つの神であるということです。キリスト教の神はそういう神であるという教え、教理です。
 「三位一体主日」は、教会暦の中の一つの祝日ですが、イエスさまにまつわる出来事ではなく、キリスト教の教え、教理に基づく祝日である点で、特徴的です。
 この「三位一体の神」について、古代の神学者は、このように説明しました。「父なる神は我々の上にいます神、子なる神、キリストはわれわれと共にいます神、聖霊なる神は、われわれの内にいます神である」と。つまり、聖書の証しする神さまは、私たちを上から、横から、そして、内から、それこそ、あの手この手で、全面的に、力強く支えていてくださる、そういう神さまであるということです。これが「三位一体の神」です。
 この三位一体の神を信じるということは、この神に支配されることを喜んで受け入れているということです。そして、そうであればこそ、私たちは、本当に主体的人間として生きることができます。主体的な人間とは、しっかりした人間と言ってもよいでしょうか。あるいは、わが道を行く人です。
 わが道を行くとは、独善的に生きるということでは、もちろんありません。自分の思いつきで何でも実現しようとしたり、自分のわがままを押し通したりすることではありません。「腹の座った人」と言ったらいかがでしょうか。腹の底から落ち着いている人間として、自らの人生を歩いていく、そういう人です。
 そういう人は、たとえ誰が賛成しなくても、また多くの人が反対しても、「わたしはこのように生きる」と言って、本当に「個人的な人間」となるのです。「個人」、それは孤立した人間、孤独な人間ではありません。なぜなら、真に主体的な人間としての個人は、他人のため、他人と共に生きる、つまり、本当に社会的な人間でもあるのです。誰に反対されても、私はこのように生きるのだと言う人だけが、ほんとうに他人と共に生きることを真剣に考える人ではないでしょうか。
 私たちは、父なる神さまに感謝し、子なるキリストを信頼し、そして、聖霊なる神に導かれて生きる時、本当にしっかりした人間、腹の底から落ち着いている人間、主体的な個人になれるのです。
 今日の使徒書は、「ローマの信徒への手紙」の8章以下でした。そこは、パウロのペンテコステと言っても良い個所ですが、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と語り出しています。
 聖霊は結びつけるのです。父なる神と子なるキリストを結び付け、そして、神さまと私たちを、さらに私たち同士を結び付ける神なのです。つまり、聖霊とは愛なのです。聖霊を受ける時、聖霊に導かれる時、私たちは、愛する人間として他人と結びつく者となるのです。
 「結びつく」というのは、人間の隠された本質かもしれません。ちょうど「磁石」のように、人間は何かに結びつかずにはおれないということです。そして、正しいものに結びつかなければ、人間は、正しくないものに結びついてしまうのです。パウロは、コリントの教会の人たちに、「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう」と言っています。つまり、イエス・キリストの福音をまだ知らなかった時、世の動きのままに、しっかりした人間、腹の座った人としてではなく、同調的、迎合的、あるいは、反発的、対立的に、いい加減なものに結びついていっていたと言っているのです。
 聖霊は、私たちを父なる神と、そして、イエス・キリストと結び付けてくれます。そのようにして、私たちはしっかりした人間、腹の座った人間になれるのです。しっかりした人間とは、それは、十字架につけられ、死んで葬られ、そして、その死に打ち勝って復活し、昇天され、父なる神さまの右に座しておられるイエス・キリストから、人間として、問題、課題を抱えつつも、どのように生きるべきか、さらにそれをどのようにして乗り越えていくかということを教えられるのです。教えられるだけでなく、その力が与えられているのです。私たちが聖霊によって、三位一体の神と結び付けられるとき、私たちは人間らしい生き方を知るのみならず、そのように生きる力を与えられ、しっかりした人間、他人と共に、わが道を歩むところの、個人的であって、同時に社会的な人間になるのです。
 さて、聖霊降臨祭を祝うということは、神さまと共に生きるということであり、そして、私たちがお互いに「神の民」、「神の子」として共に生きるということです。だとしたら、今日の三位一体主日にあっても、神さまと、そして、お互いに、共に生きる幸いを味わい、その喜びを分かち合いたいものです。そこから、神と共に、そして、人と共に生きる、それぞれの日々の生活が始まっていきます。そして、それが伝道となるのです。
 望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださるように。
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2013/05/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
説教「教会が起こった日」(使徒言行録2:1-21)
ヨハネ福音書16:4b-11、2013・05・19、聖霊降臨祭(典礼色―赤―聖餐式)、創世記11:1-9、使徒言行録2:1-21

使徒言行録2:1-21
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方に住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを
聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
 終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
 血と火と立ちこめる煙が、それだ。
 主の偉大な輝かしい日が来る前に、
 太陽は暗くなり、
 月は血のように赤くなる。
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」



説教「教会の起こった日」(使徒言行録2:1-21)

本日は、ペンテコステを祝う礼拝の日です。これは、過越しの祭りから、七週の祭りとして、49日が満たされたその安息日の翌日、すなわち、キリスト者たちにとっての主の日、日曜日に聖霊が、彼らの上にくだったことを祝う聖霊降臨祭のことで、ペンテコステとは、50日目を意味する言葉です。この日に、教会が起こった、教会が誕生した日として、キリスト教でも、復活祭と降誕日と共に、三大祭りの日として、その日以来次第に祝われてきた特別の祝日です。主イエスが昇天する前に、弟子たちに約束されたものを待ちなさいと、言われていた聖霊が、ついに、弟子たちの上にくだったのであります。
それは、マルコの縁のある大きな家の二階座敷で起こったことであったかもしれません。12使徒や、母マリアなどが、一緒に祈りながら、一つ所にいた、120名もの弟子たちが居合わせる場所であったかもしれません。ペンテコステとは、七週の祭りとして、収穫感謝の祭りであったものが、他のユダヤ教の三大祭り、過越しの祭りや、仮庵の祭り(仮小屋・スコトの祭り)が、後に、みな、出エジプトを記念する祭りとして定着していたのであります。その50日に及ぶ日々が満たされた時、突然、一緒にいた彼らの家を、激しい風のような物音が、びゅうと響き渡ったのであります。そして、炎のような赤い舌の形をした聖霊が、弟子たち一人一人の上にとどまったのであります。それで、本日の聖卓の布の色も、このように真っ赤な赤が、聖霊を表わすものとして、用いられているのであります。
そして、このときの物音に、驚いて、七週の祭り、あるいは、五旬祭と呼ばれるユダヤ教の一大祝日にエルサレムへと駐在していた天の下のあらゆる国から、敬虔なユダヤ人や、ユダヤ教への改宗者たちが、集まってきたのであります。そして、驚いたことには、主イエスの弟子たちが、地中海を中心として中近東のいろいろな国から来ていた離散していたユダヤ人たちや、ユダヤ教への改宗者たちの生まれ育った母国の言語で、神の大いなるみ業を預言していたのであります。
集まった者たちは、たまげて、これは、ガリラヤから来た無学な者たちではないかと、ただただ困惑していたのであります。そして、エルサレムを中心として、東西南北、また、ローマから来て滞在していた者たちや、クレタ島の者たちや、アラビアの者たちまで、あらゆる言語の人たちが、この出来事に、驚き、これは一体何なのかと不思議がっていたのであります。しかし、中には、彼らは、新しい甘いぶどう酒に満たされているのに過ぎないとあざ笑う者たちもいました。そのとき、あのペトロが、11人と共に立って、大胆に神の言葉のスピーチをし、宣言を始めます。皆さんに知っていただきたいことがあります。どうか、私の言葉に耳を傾けてほしい。さて、今は、朝の9時だから、この者たちが酒に満たされているのではありません。今日起こっているこの出来事は、預言者ヨエルを通して預言されていたことなのです。
すなわち、終わりの日に、と神は言われる。すなわち、私から、すべての人々に霊をくだそう。そうすると、あなた方の息子、娘は預言するであろう。若者たちは幻を見、老人たちは夢を夢見るであろう。また、あなた方の僕も、しもめも、預言するであろう。それらの日々に、上では天に徴が、下では地に前兆が現れるであろう。すなわち、太陽は闇へと変わるであろう。月は、血のように赤くなるだろう。地では、血と火と煙の蒸気を私は与えよう。かの大いなる、輝かしい主の日がやってくる前に。そして、主の名を呼ぶすべての者は、救われるであろう、とペトロは、ヨエル書3章の1節から5節を引用して、この日に、その預言が、成就したことを大胆に、集まって来た人々の前で宣言するのであります。ヨエル書では、主の日は大いなる恐るべき日であると、ありますが、使徒言行録の著者ルカは、主の日を大いなる輝かしい日と表現を変えているのであります。
こうして、12弟子たちは、もはや、逃げまどう臆病な弟子たちから、大胆に、全人類への主イエスの名による救いを宣べ伝える者に変えられているのであります。そして、この日から、教会が起こされ、天の下のあらゆる国民のもとへと、救いを伝えに出て行く弟子たちへと、押し出されて行くのであります。それは、当時の彼らにとって、地の果てと考えられたローマ帝国の都ローマにまで宣教する教会が誕生したのであります。
私たちは、この日の出来事を、2000年前の、今では古くなった記念碑的出来事として考えるべきではありません。私たちは、今日も、この主なる神から霊が、全人類へと降り注がれていることを、信じて疑いません。主イエスの教会の宣教は、救済史の終わりまで続くのであります。そして、終わりの日には、老若男女すべての人が、神の大いなる、そして、輝かしい主の日が来るまで、主の名を呼び求めて救いに与ると聖書は約束しているのであります。教会はそのために、今も世界中に存在し、宣教していくのであります。
私たちは、仏教や神道や、あるいは、イスラム教、ユダヤ教等の人たちにも、尊敬と学び合いの交わりを求めながらも、主イエス・キリストの十字架と復活と昇天を通して、全人類が救いに与っていることを、この日のペトロたちと同様に勇敢に証しし、それにふさわし生き方をしたいものであります。私たちは、罪の誘惑に負けやすい者でありまして、しばしば、父なる神とみ子、そして、聖霊の意にそぐわない罪を犯してしまいがちな者でありますが、日々、み言葉によって、励まされ、また、同信の兄弟姉妹との交わりを通して、強められ、日々、新たな人間に再創造されながら、キリストのからだとしての教会につながって、生涯を終りの日まで歩み通していきたいものであります。今日はキリスト教の三大祝日の一つとして、この後、キリストの肉と血に与る聖餐を喜んで受けましょう。
2013/05/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の約束を待つ喜び」(ルカ24:44-53)内海望牧師
ルカ24:44-53、2013・05・12、昇天主日(典礼色―白―)、使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙1:15-23

ルカ24:44-53
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



説教「主の約束を待つ喜び」(ルカ24:44-53)内海望牧師

 昇天主日の聖書は何度読んでも心動かされます。新緑の美しい5月。野原には草花が咲き乱れ、思わず外に出て輝く太陽のもと深呼吸をしたくなるような季節です。このような時期に、イエスさまが、「手を上げて人々を祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」と言う昇天の場面を心に思い描くと、新鮮な空気が心いっぱいに広がって行くような気もちになります。イエスさまが手を上げ、祝福しながら、天に昇って行かれる一瞬一瞬、その祝福のみ手に包まれる範囲は広がり、ついには全世界を覆う祝福となるのです。本当に美しい風景です。そして、イエスさまは「栄光の座」にお着きになり、この世界は新しい時を歩み始めるのです。
 私たちは、イースター以来、毎週日曜ごとにヨハネの黙示録を読んで来ました。そこに描かれていたのは、新しい天と、新しい地が現れる救いの完成の日の様子でした。その時には、神さまが人と共に住み、私たちの目から涙をことごとく拭い去って下さいます。もはや、死も、悲しみも、嘆きも、労苦もない時なのです。その日を目指して歩み続けているのが私たちです。黙示録には、天にある新しいエルサレムに向かって歩む、私たちの讃美の声に呼応して、天使も合唱をしていると美しく描かれていました。
 いまイエスさまは「栄光のキリスト」として昇天されています。
 しかし、ここに至るまでにはイエスさまは苦難の道のりを歩んで来られたのです。46節では、イエスさまご自身、聖書を引用してその道のりを改めて弟子たちに語っていらっしゃいます。すなわち「メシア(キリスト)は苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」というものです。そうです。イエスさまは人々に嘲られ、十字架の痛みに耐えるという苦難の道を歩んで来られたのです。このイエスさまの歩みを、フィリピ書は「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執せず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と書いています(363ページ)。イエスさまは、人間に仕える僕として弟子たちの足を洗い、町や村を残らず回って人々に福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされたのです。イエスさまは罪と死に苦しむ人々の心を思いやり、はらわたがねじれるような痛みを持って一人一人に接して下さったと聖書は伝えてくれます。「へりくだって」という意味は、「どん底まで下って、私たち人間を下から支えて下さる」という意味です。
 しかし、そのイエスさまの愛に対する人間による報いは十字架の苦しみと死でした。人間は、なぜそんなことをしたのでしょうか。それは人間の傲慢、妬み、虚栄心が行った業に他なりません。私たち人間は、12弟子たちと同じように、いつも「誰が偉いか」という、のです。私たちは常識がありますから、そのような感情は表に出しませんが、心の中には徹底的に仕える生き方をなさる時、人々はひた隠しにしていた自分たちの罪の姿を暴かれてしまうのです。私たちは皆自分を高くするファリサイ人なのです。だから、イエスさまのような純粋に僕としての生き方をする方がいると困るのです。
 人々は、イエスさまの前に打ち砕かれ、悔い改めることも出来ました。しかし、彼らは居直り、イエスさまを亡き者とするため十字架につけ、殺してしまったのです。
 しかし、それでもイエスさまは「父よ、彼らを赦して下さい」という祈りを捧げつつ息を引き取られました。愛の極みということが出来るでしょう。
 このように、イエスさまは、人間のあらゆる苦しみ痛みを経験され、人間以下のところまで下って下さった方でしたが、神さまは、このイエスさまを今、「高く引き上げあらゆる名にまさる名」をお与えになり、栄光の座につけて下さったのです。

 ところで、今日の昇天の記事は、私たちに決定的な時を示します。ヘブライ人への手紙1章3節によると、イエスさまは「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」と昇天の記事を違った角度から語っています(401ページ)。「人々の罪を清められた後、天に昇られた」のです。
 イエスさまは十字架上で『「成し遂げられた」と言って頭を垂れて息を引き取られた。』のですが(ヨハネ19:30)、まさにその時、世界は、新しい時を歩み始めたのです。イエスさまが息を引き取られた時、この世界は清められたのです。救いの御業は成し遂げられたのです。まだ完成の時には至っていませんが、イエスさまの十字架の贖いにより、既に決定的な転換がこの世界に起こったのです。
 この「既に」と「まだ」という時の間を生きるのが私たちなのです。しかも、この福音は一部の信心深い者たちだけにではなく「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と聖書には書かれています。イエスさまがみ手を上げられた時、祝福は全世界に及んだのです。
 これは大事な点だと思います。ともすれば、私たちは神さまの恵みを独占しているかのような気持ちになります。確かに、私たちは罪の赦しの恵みに与りました。しかし、これは「すべての人々に与えられた恵み」なのであって、私たちは、この罪人の罪を赦し、清めて下さるイエスさまの十字架の恵みを信じることによってのみ赦しの喜びが与えられるのです。決して、私たちが他の人々より信心深いとか、道徳的に優れているから恵みが与えられたというのではありません。私たちは「罪赦された罪人」なのです。正真正銘の罪人です。その正真正銘の罪人が、確かに赦しの恵みに与っているのです!
 私たちは、時々戸惑うことがあります。「本当に私のような者が赦されてよいのだろうか」と自問することがあります。ローマ書やガラテヤ書、コリントを読むと驚くような出来事が書かれています。それは、教会内で「裁き合うこと」が常にあったという事実です。「君は間違った信仰を持っている」と教会員同士、お互い裁き合っているのです。パウロは、その度に、「キリストはその間違った兄弟のためにも死んでくださったのです。」と悲しみのうちに言わなければなりませんでした。これが、ともすれば、私たちが理想化してしまう初代教会の現実であったのです。しかし、振り返ってみると、これが私たちの現実であることも認めなければなりません。もっと言えば「私の現実」なのです。先ほども述べましたように、私たちの心には傲慢、ねたみ、虚栄心がいつも渦巻いているのです。これを否定することは出来ません。「私は、本当に赦されてよいのだろうか」と自問せざるを得ない所以です。
 しかし、イエスさまは断固として、「すべての人々に罪の赦しが与えられる。私がその救いの業を十字架において成し遂げたのだ」と宣言されるのです。だから、ためらわず、大胆に、喜びを持ってこの恵みに身を投げたいと思います。私たちの罪は、私たちの贖罪の業によって贖えるものではありません。「罪を償う」と簡単に言いますが、「取り返しのつかない罪」という言葉は真実です。しかし、イエスさまは断固として、「私が君の罪を贖うために死んだのだ。私の愛を信じなさい」とおっしゃるのです。このイエスさまのみ言葉によって、私たちも死から復活することが出来るのです。私たちにも「新しく生きる力」が与えられるのです。イエスさまが手を上げて祝福しながら天に昇って行かれる時、私たちにも、その祝福に包まれ、新しいいのち、復活の命が与えられたことを確信することが出来ます。そして、私たちには、この祝福が必要なのです。これだけが頼りなのです。毎週の礼拝において、祝福を受ける時、私たちの心には大きな安らぎが与えられます。
 ですから、今、イエスさまは弟子たちから離れて天に上げられたのですが、弟子たちは、悲しむのでなく、「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神をほめたたえる」日々を送ることが出来たのです。先週は、ヨハネ14章が日課で与えられました。イエスさまが十字架につかれる直前、最後の晩餐の時、弟子たちの足を洗い、別れの説教をなさる場所でした。その時、弟子たちは「心を騒がせ」、不安に満ちていました。しかし、今日の弟子たちは違っていました。罪の赦しを与えられ、新しいいのちに生きる弟子たちは、「世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいる」と約束されたイエスさまのみ言葉を信じ、完成の時を信じて喜びを持って待つことが出来る者となったのです。
 現代は、「待つことが出来ない時代」、あるいは携帯電話を持つことによって「待つ必要がない時代」と言われます。私たちは「待つ」ことが出来なくなっています。
 「待つ」ということは、自分の心から「我」を取り去って「開(空)けておくこと」と言ってよいでしょう。今日の日課である使徒言行録1章4節で、イエスさまは「父の約束されたものを待ちなさい」と「待つこと」を命じていらっしゃいます。7節には「父がお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」ともおっしゃっています。「信じて、心を開いて待つ」。これは、心に祈りの水路を開けておくと言うことであります。イザヤ書30章15節には「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある」とあります。これが「祈ること」「待つこと」ではないでしょうか。弟子たちは、約束を信じて待つ喜びを経験したのです。私たちも、「み国を来たらせたまえ」と祈りながら、喜びのうちに落ち着いた静かな心を持って日々をしっかりと生きて行きたいと思います。
 








2013/05/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスが父なる神のもとへ帰る時」(ヨハネ14:23-29)
ヨハネ14:23-29、2013・05・05、復活後第5主日(典礼色―白―聖餐式)、使徒言行録14:8-18、ヨハネの黙示録21:22-27

ヨハネによる福音書14:23-29
 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。



説教「イエスが父なる神のもとに帰る時」(ヨハネ14:13-29)
復活節も終わりに近づきました。昨日は、東教区50年記念大会が開かれ、推定600人を超える人々が、三鷹のルーテル学院大へ、また、国際キリスト教大学チャペル・礼拝堂へ集まりました。同じ信仰を持つ兄弟姉妹が、あるいは、求道者が、あのように大勢集まって、礼拝をし、あるいは、学びをし、賛美をする。それは、得がたい体験であります。
さて、復活節の終わり近くに、本日与えられている個所は、ヨハネ14:23-29であります。先週の個所も、13:31-35で、互いに愛し合いなさいと勧められ、既に実質的に、主イエスの告別説教にはいっていますが、本日の個所も14章から16章、17章の告別説教として知られる個所であります。14:13-29が、この喜ばしい復活節に与えられている意味は、どこにあるのでしょうか。しばらくご一緒に考えてみましょう。イスカリオテのユダでないほうのユダが、私たちには、ご自分を現そうとなさるのに、世にはなさらないのは、なぜでしょうかと訊いた言葉に対して答えられたのが、本日の14:13-29であります。私を愛しているものは、私の言葉を守る。そして、私の言葉にとどまると主は言われます。そして、主は、天の父なる神のもとに今から、ご出発なさろうとしています。そして、自分が父のもとに行くとき、私の言葉にとどまる人のところへまた、帰ってくるといわれます。これは、いつのことなのでしょうか。再臨のときに、私たちを裁くために、より分けるために、み子イエスがこの世界に戻って来られることは、私たちは知っています。
けれども、ここでは、この後、十字架に付けられ、復活し、そして、天の父のもとへ一旦帰った後、弟子たちのところに、戻ってくるかのようであります。私の言葉は、実は、私を送られた父の言葉である。その言葉、互いに愛し合いなさいなどという言葉にとどまる人のところへ、父なる神とみ子なるイエスが、やって来てその人のところに滞在するというのであります。そして、また、主イエスは、弁護者、聖なる霊を、私の名において、あなた方のところに父が送るといわれるのであります。そして聖霊が、あなた方に教え、私の行ったことをすべて、思い起こさせるであろうと言われるのです。私たちの小教理の理解では、父は、創造者、み子は、救い主、罪の赦しを与える方、贖い主、そして、聖霊は、きよめる方、聖化をもたらす方と学びますが、ここでは、聖霊は、主イエスの言葉を理解させ、思い起こさせる方であります。
聖霊は今も働いて、主イエスと父のなさったみわざを、教えられます。聖霊が来なければ、主イエスのみわざ、み言葉は、歴史を通して世界中には伝わらなかったでありましょう。さて、最後に主イエスは平和をあなた方に残し、与えるが、世が与えるような平和ではないと言われます。
政治的は平和も大事ですが、もっと根本的な平和、シャロームであります。それは、調和とか福祉とか、真の魂の健康を意味する、私たちが何よりも必要とする平和であります。だから、あなた方は心を騒がさせるな、おののくなと、十字架の死を前に、ご自分の復活において、もたらされる主イエスの語ったみ言葉とみわざ、そして、それらによってもたらされる平和を前もって弟子たちに約束なさるのであります。
津田沼教会の歩みが、この遺言を賜ったイエスの言葉に従って、進められ、神の国の進展が、少しずつでもこの地になされるように、共々に、祈っていきたいものであります。本日はその主の与えられた御自身のからだと血、聖餐にともにあずかりましょう。アーメン。



2013/05/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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