津田沼教会 牧師のメッセージ
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「愛の掟」(ヨハネ13:31-35)
ヨハネ13:31-35、2013・04・28、復活後第4主日(典礼色―白―)、使徒言行録13:44-52、ヨハネの黙示録21:1-5

ヨハネによる福音書13:31-35
 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」



説教「愛の掟」(ヨハネ13:31-35)
復活節では、先週の主日から、第一朗読に使徒言行録が、また、第2朗読では、ヨハネの黙示録が、そして、福音書は、ヨハネ福音書から、日課が与えられています。主イエスの十字架の死から、復活、そして、主の昇天の出来事が、日曜日の記事として与えられている訳であります。
 本日のこの記事は、主イエスが弟子たちの足を洗った後、最後の晩餐をする中で起こった出来事であり、主のみ言葉であります。時は夜であり、最後の晩餐で、イスカリオテのユダは、主からパンをいただくと、悪魔もユダの中に入ったと、記された後の主イエスの言葉であります。主は、今、人の子(私)は、栄光を与えられた。そして、私の父なる神も、これによって、栄光を与えられたというのであります。
 ところで、浄土真宗の中興の祖、蓮如上人の「御文章」を読みましたが、分かりやすい浄土真宗の教えが、蓮如によって残されています。迫力のある文章であります。ルターより一世代ほど前の人でありますけれども、現代の日本人が読んでも、伝わってくる内容の文章であります。ルターと親鸞の教えの類似性がよく比較研究されたりしていますけれども、違いはと言えば、本日の第二朗読のヨハネの黙示録のような天上での礼拝や約束にあるのではないかと思います。仏教では、この世は無常である、その中で、例えば、法然や親鸞さんは、南無阿弥陀仏、すなわち、阿弥陀仏に南無すなわち、帰依することを、無学の人も、庶民も貴族も関係なく、称名すれば救われると唱えているのであります。
 キリスト教も、イエス・キリストに信仰のみによって信頼して行けば救われるのでありますが、この世界と、来るべき世界は、始めがあって終わりがあり、地上の生命を終えた者たちは、最後の審判の時に、羊と山羊のように、分けられ、新天新地において、もはや、嘆きも、苦労もなく、神の民として、小羊なる主イエスと父なる神のもとで、礼拝にあずかるのであります。
 ヨハネ福音書13章31節から35節では、12使徒の一人であったイスカリオテのユダの裏切りを通して、神の御計画が実現するのであります。主イエスがまもなく受ける十字架の死と昇天を通して、人類の救いが完成するのであります。それが、父なる神のみ心なので、この一見、闇と思われるユダの背信によって、主イエスも、主イエスを世界に送り込んだ父なる神も栄光を与えられるのであります。
 そして、弟子たちが、主イエスの死後、再び結束して、救いの成就を世界に宣べ伝えることを可能にするべく、主イエスは、最後の遺言のように、告別説教(ヨハネ福音書14章~16章)の前に、弟子たちに必要な「愛の掟」をお命じになるのであります。
 それは、まもなく、主イエスが、死へと出発し、父のもとへと出発するに際して、お命じになったみ言葉であります。すなわち、私がいくところへ、あなた方は今は行くことができない。ユダヤ人たちに言ったのと同じことを、あなた方に言っておく。そして、新しい掟を、いましめ、命令、教訓・格言をあなた方に与える。すなわち、私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさいと言われるのです。愛するというのは、アガパオーという言葉であり、キリストの愛、神の愛であるアガペーから来ている動詞であります。
 私たち人間は本来、自己中心に生きている者であり、アガパオーの愛を生まれながらにしては持っていないのであります。しかし、十字架の死を通して示される愛を通して、私たちもまた、神の愛に生きる者となるのであります。
 信者同士のまことの愛を通して、この世の人は皆、私たちが、キリストの弟子であることを知るようになると主は言われるのであります。
 主のみ言葉につながって生きて行くとき、もはや、私たちは、自己中心ではなく、他者を重んじ、お互いに、主イエスが私たちを愛して下さったように、生きることができる者とされるのであります。復活節の喜びの時、主イエスの本日のみ言葉に改めて、耳を傾け生きていく者とされましょう。アーメン。










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2013/04/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「死から永遠の命へ」(ヨハネ10:22-30)
ヨハネ10:22-30、2013・04・21、復活後第2主日(典礼色―白―)、使徒言行録13:39、ヨハネの黙示録7:9-17

ヨハネによる福音書10:22-30
 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。

説教「死から永遠の命へ」(ヨハネ10:22-30)
復活節に、なぜ、本日の個所が読まれるのでしょうか。これは、福音書記者ヨハネの時代のユダヤ人の指導者たちとの教会共同体との間の対立を表わしているのであります。ソロモンの回廊で、教会の者たちが、ユダヤ教の指導者たちと対決していたのであります。
それは、神殿再奉献祭という12月の半ばから2月の半ばにわたるユダ・マカバイが勝ち取った神殿の再奉献を記念し、祝う祭りで、神殿崩壊の後にもなお、記念されていた祭りでありました。そのソロモンの回廊で、主イエスが、ユダヤ人の指導者たちと対立したことを、重ね合わせているのであります。そのユダヤ人たちは、我々を宙に浮かばせておくのはやめてくれ、あなたが、もしメシアなら、はっきりとそういってほしいと論争を吹きかけてくるのであります。
主イエスは、私はずっと、言ってきた、それなのに、あなた方は信じないといいます。そして、父なる神の名で、私がしている業どもが、私について、証しているが、あなた方は信じない。あなたがたは、これらの私の羊どもではないからだと言われます。私の羊どもは、私の声を聞き分け、認識し、私に従う。そして、私は彼らに永遠の命を与えるのであり、彼らは決して永遠に滅びない。そして、誰も私の手からそれらを奪わないであろうと言われるのであります。そして、父が与えてくださったものは、すべてのものよりも偉大であり、だれも、御父の手から奪うことはできない。私と父、私たちは一つであるといわれるのであります。復活した主イエスは、三位一体の神であられ、父と一つであられるのであります。そして、羊飼いみ子の羊である私たちは、だれよりも大きな、偉大なもの、大事なものであると、主イエスは言われます。
復活の主に従うことによって、永遠の滅びから、免れ、死から永遠の命に移されているのであります。まことの羊飼い、主イエスに従って、その主のみ声を見分けながら、また、喜びの主の復活に与りながら、滅びの業を打ち捨てて、悔い改め、歩んでまいりましょう。 
羊は迷いやすい動物でありますが、自分たちの安全を、羊飼いに預けて、その後をついて行くのであります。私が、聖地旅行に行ったときも、少年羊飼いによって、数多くの羊たちが、子羊も混じっていたでありましょう、草のある山肌を導かれながら、それが、道跡になって、はっきりと残っていました。羊たちは、安心して、羊飼いの少年に、群れとなって従って行ったことが分かりました。
私たち、キリストに救われた者も、まことの大牧者イエスに従って、死の存在から放たれ、永遠の命に与る道を歩み求めてまいりましょう。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。
2013/04/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「平和があなた方にあるように」(ルカ24:36-43)
ルカ24:36-43、2013・04・14、復活後第2主日(典礼色―白―)、使徒言行録9:1-20、ヨハネの黙示録5:11-14

ルカによる福音書24:36-43
 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。



説教「平和があなた方にあるように」(ルカ24:36-43)

私たちは、本日、ルカ24:36-43を、復活後第2主日の福音個所として与えられています。イースターから、ルカ24:1節からの連続の3箇所が選ばれているのであります。
今日のところは、先週の福音であった、シモンに現われたという前回のエマオ途上とエマオでの顕現、エルサレムに戻ってみると、他の弟子たちが復活の主がシモンに現われたと言っていますので、復活の主の3回目の顕現ということになります。
核となる弟子たちに、主が、彼らがこういうことを話しているときに、弟子たちの真ん中に立ち、平和があなた方にあるようにと、挨拶するのであります。
平和とは、ヘブライ語ではシャローム、ギリシャ語ではエイレーネといいますが、ここでは単なるありふれたこんばんわというような挨拶ではなく、深い痛みを持ち、不安と恐れと後悔の念などに満たされていた弟子たちに、まことの平和、健康、福祉といった深い意味の言葉が、復活の主によって、先生、イエス様を守れず、裏切ってしまった弟子たちに、慰めと希望を与える言葉をまず、投げかけられるのであります。
弟子たちは、心が騒ぎ、うろたえ、どきもを引き抜かれて、恐れおののくのであります。今日の記事は、先週のように劇的な、サスペンスに富んだ物語ではありません。地味な、信じ切れないでいる、沈黙の弟子たちが記されています。彼らは、亡霊、幻影、幽霊を見ているのではないかと恐れるのであります。しかし、主は、私に触れなさい、見なさい、亡霊、プネウマという、通常「霊」と訳される言葉でありますが、肉体を持った主イエスだとは、最初思えないで、信じることができず、疑い深い弟子たちの姿が記されているのであります。
今日の場面で弟子たちは一言も、しゃべっていません。霊は足や手、体や骨はないが、私にはある。私である、恐れることはないと、弟子たちを励ますのであります。喜びの余り、信じられないで、不思議がっていると、主は、ここに何か食べ物はあるかと訊かれ、焼き魚の一切れを差し出すと、主はみんなの前でむしゃむしゃと、焼き魚を食べるのであります。ここから、主はこの後、全世界への復活の勝利の福音を弟子たちにのべつたえるべく、宣教命令、使命の委託を、再び、弟子たちに託するのであります。そして、本日の福音、また聖書を通して、2000年近くを隔てた私たちにも、復活の主は「平和があなた方にあるように」と津田沼教会の私たちの真ん中に立って、勇気づけ、宣教への委託を今なお、与えて下さっているのであります。

人知では到底測り知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあってあなた方の心と思いとを守るように。

2013/04/14(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「エマオにおける復活の主の顕現」(ルカ24:13-35)
ルカ24:13-35、2013・04・07、復活後第1主日(典礼色―白―聖餐式)、使徒言行録5:12-32、黙示録1:4-18

ルカによる福音書24:13-35
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「お泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


説教「エマオにおける復活の主の顕現」(ルカ24:13-35)
今から、25年前になりますが、聖地旅行に行きました。エジプトから、シナイ山を登り、死海のほとりから、ゴラン高原を通り、ガリラヤから、最後は、エルサレムという旅程でした。最後のエルサレムに入る前に、バス旅行でしたが、この辺りが、エマオと言われていますと、添乗員の方が言われたのを覚えています。かすかなエマオ付近のバスから垣間見た記憶があります。
本日の福音書ルカによる福音書24章の13節から35節を読みますと、エルサレムからエマオまでは、60スタディオンと書かれていますから、11キロメートル強にあたります。二人の主イエスの弟子たちが、エルサレムで起こった出来事を、対話しながら、エマオに向かっていました。そこに自分たちの家があったのでしょうか。過越しの祭りで、仮の宿があったのでしょうか、聖書はそのような背景については何ら記していません。
 さて、その二人を、復活の主イエスが追いついて来て、一緒に並んで歩きだすのであります。イエスは、彼らに、あなた方が話しているのは、何のことかと聞くのです。二人は、急に顔を曇らせ、あなただけが、ついこのところ、エルサレムで起こった出来事を見知らぬ人であったのですかとそのうちのクレオパという名の弟子が問いかけます。
 主は、どんなことをか、と問うので、ナザレのイエスのことです。私たちは、彼こそ、イスラエルを贖い、救い出す方だと期待していました。彼は、神の前にも、すべての民の前にも、言葉にも、業にも、力ある預言者となられました。ところが、祭司長たちや、議員たちが、彼を十字架につけて殺してしまったのですと、答えます。クレオパとは、聖書でここでしか出て来ませんが、ある伝説では、主イエスの叔父にあたる人物ではなかったかとも言われています。
 人々は、主イエスを、力ある預言者の一人としてしか見ていなかったのであり、弟子たちもまた、そうでありました。自分たちの偉大な先生を十字架の死で失って、絶望の底にあったことでしょう。それに対して、復活の主は、聖書、すなわち、旧約聖書を持ち出して、道々、語り出すのであります。ああ、心が鈍くて愚かな者たちよ、メシアは、苦しみを受けて、彼の栄光に入るはずだったではないか、とモーセから始めて、また、預言者たちからも始めて、聖書を彼らに解釈してくれていたのであります。あとで、エマオの家で復活の主に気付いたとき、彼らは振り返って、主が聖書を説き明かししてくれたとき、私たちの心は燃えていたではないかと気付きますが、この時にはまだ、彼らの目は妨げられていて、その見知らぬ人が、復活の主だとは気付かなかったのであります。これはまだ、サタン、悪魔によって、目を遮られていたのでありましょう。
 やがて、エマオの村に近づきますが、主イエスは、なおも、先に行こうという素振りを見せていたので、二人は、だいぶ時間も遅くなり、日も傾いたので、どうぞ自分たちの家に、一緒にお泊まりくださいとしきりに勧めたので、主イエスは、中にはいられました。
 アブラハムや、ロトが、知らずして、天使たちを自分のところでもてなしたように、主イエスの二人の弟子も、主を強く泊まるように勧めて、復活の主に出会うことになるのであります。
 ユダヤでは、遅い食事に、一番重きを置いていたとのことであります。復活の主が、横になって、食事の席につき、パンを裂き、感謝を唱えたとき、弟子たちは、あの5つのパンと2匹の魚で、5000人の男たちを養い、満腹させた自分たちの先生であることに気付き、復活の主と認識できたのであります。彼らの目は、今度こそ、開かれたのでありますが、復活の主は、消え去ってしまわれました。二人は、道々、彼が、聖書を説き明かしてくれたとき、私たちの心は燃えていたではないかと語り合い、そのまますぐに、急いで、エルサレムへと引き返したのであります。
 すると、11人とほかの弟子たちも集められていて、主がシモンに現れたと言っており、二人も又、パン裂きのとき、主と分かった次第や、道々、聖書を説き明かして下さって、自分たちに現れたことを伝えていたというのであります。
 このイースターの出来事を、ルカは詳細に、このエマオ途上の復活の主の顕現を頂点として書き残しているのであります。マグダラのマリアたちが、墓に行き、二人の天使たちに出会い、あの方は生きていると言われ、弟子たちのところに帰って伝えましたが、弟子たちには、愚かなことに思えて、信じられなかったことを、クレオパたちは、エルサレムから追いついてきた復活の主に告げたのでしたが、彼らは、まさか、それが、復活の主だとは分からなかったのであります。
 復活の主が、旧約聖書、モーセと預言者たちから始めて、メシアは、必ず多くの苦しみを受け、彼の栄光にはいることになっていると聖書を自ら解釈してみせられ、そして、エマオの家で、食事の交わり、パン裂き、あの5000人の人々を満腹させた時と同じしぐさを見せたときに、初めて、二人は、それが復活の主だと分かったのであります。
 私たちの持っている通常の理性では、復活の主は分かるものではありません。旧約聖書の証言とそれを解釈して下さる復活の主、そして、晩餐の主人としてふるまわれる復活の主の側からの働き掛けがあって初めて、主イエスの復活は弟子たちの眼を開き、理解させることができるのであります。十字架の死は敗北ではなく、復活へと通じる勝利へとつながるのであります。
 生前の主も、御自分の受難、十字架の死と復活を弟子たちに何度も予告しておられましたが、弟子たちは、恐ろしくて、質問することができませんでした。しかし、今、エマオへの途上で、復活させられた主御自身が、旧約聖書の真髄を説いてみせ、また、生前と同じように、食卓の主人としてふるまって、弟子たちに、御自分が、旧約聖書に約束されているメシアであることを、示されるのであります。
 その時から、2000年隔てた現在も、主イエスは、これらのみ言葉と、復活後のみ業を通して、悪魔を退け、死に勝利したことを、明白に示しておられるのであります。私たちは聖書とそこに約束され、またそれを成就された復活の主に、クレオパや、シモン・ペトロ、使徒たちやマグダラのマリアらと共に、み言葉を通して、信仰の目を開かれて、相まみゆることができるのであります。復活の主によって、全く新しい存在として歩むことができるのであります。この日の出来事を人類の新しい出発の日として、祝い、それぞれの与えられた生涯を、感謝をもって、歩んで行きたいものであります。アーメン。






2013/04/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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