津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主はよみがえられた、ハレルヤ」(ルカ24:1-12)
ルカ24:1-12、2013・03・31、復活祭(典礼色―白―聖餐式)、出エジプト記15:1-11、コリントの信徒への手紙一15:21-28

ルカによる福音書24:1-12
 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体は見当たらなかった。そのために途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。





説教「主はよみがえられた、ハレルヤ」(ルカ24:1-13)

私たちは、先週、3月24日、枝の主日を迎え、受難週を過ごしました。主イエスが、12弟子の一人、イスカリオテのユダによって、敵どもに渡され、ピラトの判決のもとに、十字架刑に二人の犯罪人と共に十字架に付けられたのであります。
ルカ福音書によれば、遠くから、ガリラヤから同行してきた女の人たちも、主の納められる新しく岩を掘られた墓穴を見つめていたとあります。金の夕方までに彼女たちは、香料を買い求めたのでありましょう。金の日没から土の日没まで、安息日を守り、安息日からの1日目、すなわち、週の初め、日曜日の朝早くの深みに、マグダラのマリアたちは、香料を携えて、その墓に赴いたのであります。墓の入口をふさいでいた岩は大きかったので、どうしたものかと、彼女たちは、考えながらも急いだでありましょう。
ところが、石は既に転がしてあって、中にはいって見ると、主イエスの遺体を見出さなかったのであります。次に起こったことには、彼女たちが途方にくれていると、二人の人がまばゆい衣を着てそばに立ったのであります。彼女たちは恐れて、地に顔をつけたのでありますが、二人の人、天使は言うのであります。「なぜ、生きておられる方を死人たちと共に、探すのか。あの方は、ここにはおられない、ところがどっこい起き上がらされたのだ。まだ、ガリラヤにおられたときに、いわれた言葉を思い起こしなさい。すなわち、『人の子は罪人たちの手、ローマ人や、エルサレムのユダヤ人の指導者たちの手に渡され、十字架に付けられ、三日目に起き上がることになっている』と言われたではないか」と。
そこで、彼女たちは、主イエスの言葉を思い起こします。そして、引き返して11人と他の使徒たちに、起こったことすべてを伝えます。しかし、彼らは、女たちの言う言葉がたわ言、ナンセンスに見えて、信じないでいた。で、ペトロは、立ち上がり、墓へと走った。  
そして、中をのぞくと、亜麻布、リネンの包帯どもだけを見出し、驚きながら、自分の家へと立ち去ったというのであります。
復活という出来事は、私たちの理解、理性では信じがたいことであります。そして、イースターの本日の記事は、天使たちの言葉と、空虚な墓というだけの記事で終わっています。これから、続く主イエスの復活の物語の序曲に過ぎないのであります。その女性たちの名が記されていますが、マグダラのマリアだけは、4福音書の復活の出来事に必ず出てまいります。
彼女は、七つの悪霊に取り付かれていた女性でしたが、主イエスによって、癒された女性でした。せめて先生の遺体に香料を塗り、丁重に墓に納めたいと思っていち早く週の初めの朝早くやって来たのですが、ルカによれば、彼女は復活の主ご自身には会っていないのであります。
パウロの、本日第2朗読で読まれたコリント一の15章によれば、主イエスと出会った証人たちが記されていますが、空虚な墓については触れていません。しかし、ルカ福音書は空虚な墓について記しています。見ないで信じるものは幸いであると、ヨハネ福音書では、主がトマスに語っていますが、復活とは、旧約聖書によって、また、新約聖書においては、主イエスの預言・約束として何度も明記されている出来事なのであります。もし、復活がなければ、飲み食いに耽ろう。明日は滅びる身なのだからということになります。しかし、単なる死後の命ということでなく、霊的体をもって復活することをパウロも明言し空虚な墓もそれを表明しているのです。復活という聖書が約束していた出来事を、私たちも信じることが許されています。また、ここから、新しい人生の歩みを共に始めてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなた方の心と思いとを守るように。



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2013/03/31(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「受難から復活へ」(ルカ19:28-48)
ルカ19:28-40、2013・03・24、枝の主日(典礼色―紫―聖餐式)、ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

ルカによる福音書19:28-40
 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。
 天には平和、
 いと高きところには栄光。」
 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」
 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・・。しかし今は、それがお前、には見えない。やがて時が来て、敵が周りにほう塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。
 『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

説教「受難から復活へ」(ルカ19:28-48)
 枝の主日となりました。ここからの1週間が受難の1週間であって、この週の金曜日に主イエスは、十字架に掛けられたと考えられているのであります。共観福音書はいずれも、また、時期の設定は違いますが、ヨハネ福音書も、このエルサレム入城の記事を記録しているのであります。
 そして、ルーテル教会では、この記事を、長さは違いますが、教会暦の一年の初めの日曜日、すなわち、12月始めころのアドベント第1主日と、そして、本日の枝の主日との大事な節目に2回にわたって読むことになっているのであります。こういう個所は他になく、ここにルーテル教会の特徴があるとも言えるのではないでしょうか。
 四旬節の最後の日曜日に、私たちは再び、エルサレム入城のルカの記事を、19:28-48と記事を長くして読むのであります。
 エルサレム入城というと勝利の王としての入城ということがよく言われるのでありますが、エルサレムとその住民、特にその宗教的指導者たちによって、拒まれ、否認される王としての、外観としては、そのような入城であります。
 今日のルカ福音書の筋を追ってみましょう。「ムナ」のたとえを語られた後、主イエスは先頭に立って、エルサレムへ上って行かれるのであります。思い返せば、ルカ福音書9:51以下は、エルサレムを目指しての「旅空を歩むイエス」でありました。その旅もいよいよ、終わろうとしているのであります。
 私も、聖地旅行に行った折、最後の自由に過ごせる日に、エルサレムの市街を回り、東に位置するオリーブ山に登ってみました。エルサレム入城の時の道はどこだったのだろうと、思い巡らしながら、山頂近くまで行って、市街を見下ろしながら帰ってきました。
 主イエスは、来るべき方、王として入城するために、ベトファゲ、ベタニアの近くまで来たとき、二人の弟子を遣わして、命じます。向こうの村へ行きなさい。そうすれば、まだ誰も人を乗せたことのない子ろばがつながれているのを見出す。それをほどいて、連れて来なさい。もし誰かが、子ろばの綱をほどいたりしてどうするつもりかと訊かれたら、「その主が必要とされています」と答えなさいと。
 二人が行ってみると、主が言われたとおりに見出した。で、子ろばをほどいていると、そんなことをしてどうするつもりかと、その持ち主たちに言われたので、「その主がこれを必要とされています」と答え、二人は、子ろばを連れて来ます。そして、自分たちの上着をその上に敷き、その上に主イエスをお乗せします。本日は、枝の主日と言われますが、ルカでは、枝を持ってくる人々は出て来ません。大勢の弟子たちが、その主の行かれる前に、自分たちの服を広げるのです。
 主イエスは、本日の第1朗読であるゼカリヤ書9:9-10を念頭に置いていたのかもしれません。しかし、勝利の主というよりも、御自身は、十字架につく者として、悲壮な決意で、本日の讃美歌にもありましたように、うなだれながら、神殿に入って行かれたのではないでしょうか。そして、エルサレムが見えてくると、そのために、泣いて言われるのであります。お前のために私は何度、お前が平和の道を知っていることを望んだであろう。しかし、今はそれは、お前から隠されている。そして、日々が来る、敵どもが、お前に向けて柵を放り投げ、お前をあらゆる方向から攻めるであろう。そして、お前も、お前の中にいる子たちも、地にたたきつけよう。神の訪れの時をお前たちは知らなかったからであると。
 ルカ福音書は紀元後70年よりも後に書かれたと考えられています。しかし、ローマ軍によるエルサレム陥落の出来事に従って、ルカがこの記事を書き加えたと考えるのは早計でしょう。主イエスは、エルサレムがやがて敵軍に壊滅されることを予知できたでありましょう。
 それから、エルサレム入城の場面は、記されず、既に神殿の境内に入っていて、犠牲の動物などを売る者たちを追い出して、「私の家は祈りの家であるであろう」とあるのに、お前たちは、強盗の隠れ家にしていると非難されるのであります。そして、日中は、神殿の境内で教えられたが、エルサレムの指導者たちはどうすることもできなかった。なぜなら、民衆は、彼に聞くことに夢中になっていたからだと、本日の記事、出来事は締めくくられているのであります。
 私たちは、本日の出来事、2000年近くも前のエルサレム入城の主イエスを想い起こしながら、今日から、受難週の歩みを始めます。十字架の死を承知しながら、主イエスは、エルサレムに入城なさったのであります。そして、今週の受難の出来事の後に、勝利の復活が待っているのであります。受難から復活へと続く1週間を、1日1日、思い起こしながら、新しい生活を始めようではありませんか。アーメン。

2013/03/24(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストの裁きと赦し」(ルカ20:9-19)内海望牧師
ルカ20:9-19、2013・03・17、四旬節第5主日(典礼色―紫―)、イザヤ書43:16-28、フィリピの信徒への手紙3:5-11

ルカによる福音書20:9-19
 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々の者になる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。
「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。』
 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。


説教「キリストの裁きと赦し」(ルカ20:9-19)内海望牧師

 教会暦、カレンダーを与えられているということは、ある出来事に私たちの心を集中させ、心に緊張を呼び起こさせます。四旬節というのは、わたしたちの心をキリストの十字架に集中させます。時の流れに身を任せるような生活でなく、しっかり歩調を整えて一歩一歩、キリストの十字架に向かって歩む日々です。私どもとは比較にならない真剣さで十字架の死に向かって歩を進めていらっしゃるイエスさまの姿を辿る時です。
 イエスさまは、神さまの愛の忍耐について人々に向かって語っていらっしゃいます。神さまは、私たち人間のために「良いぶどう園」を用意して下さいました。そこで香り高いぶどうが実るのを楽しみにしていらっしゃったのです。この世界は神さまの喜びの場所であったのです。ところが、人間はそのぶどう園を自分の欲望を満たすためだけに用いて、神さまへの感謝など一向にしません。反対に、ぶどう園を神さまから奪い取ろうとします。世界を支配する者になりたいのです。これが人間の原罪です。アダムとイブは「神さまのようになりたい一心で」食べてはいけないと厳しく禁じられていた「善悪を知る木」の実を食べてしまったのです。今日のたとえはそれを指しています。ですから、神さまからの僕を袋叩きにし、追い返してしまいます。しかし、神さまは決して諦めることなく、何度も何度も僕を送ります。僕とは預言者のことです。旧約聖書を読むといかに神さまが真剣に悔い改めを迫っているかが分かります。ある時は「君たちを滅ぼす」という厳しい言葉をもって、またある時は「お前たちが死んでよかろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。立ち帰って生きよ」と切々と諭されます。神さまは人間の罪を見逃すことがありません。「罪を犯した者が罰せられる。」ということは当然のことです。神さまの前では、私たちには逃げ場はありません。恐ろしい裁きが待っているだけです。しかし、この神さまは同時に人間を極みまで愛する方なのです。「決して諦めないで」預言者を送り続ける神さまの心の痛みがここにはあります。旧約聖書は、神さまの忍耐の歴史といってよいでしょう。決して諦めない愛。
 しかし、民は、一時的に悔い改めることがあっても、すぐに罪の世界に戻ってしまいます。そこでついに、神さまは最後の手段を取られます。愛する息子イエスさまの派遣です。「愛する子」という言葉は「身を切られる思いで」という意味だと北森先生は注釈されていました。そうでしょう。わが子を最も危険なところに派遣するのですから、その痛みは推察出来ます。
 しかし、農夫たちは、神さまの愛子イエスさまを「ぶどう園の外に放り出して殺してしまった」のです。「園の外」つまり「城壁の外」に捨てられるということは民の交わりから捨てられるということです。ゴルゴタがそこです。ここで、人間の罪は頂点に達します。世界の創造主であり、主である神さまをこの世から追い出し、世界の主人になったと凱歌をあげるのです。「相続財産は我々のものになる」という勝ち誇った言葉の中に人間の傲慢の極致を見ます。
 イエスさまは、このような仕打ちに対して、「ぶどう園の主人は農夫たちを殺し、他の者に与えるに違いない」とおっしゃって、たとえを打ち切られます。更に、「園の外に捨てられたイエスさまは、新しい民を造るための家の隅の親石となる。この石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」と新しい創造を予感させる言葉をおっしゃるのです。しかし、その前に罪人は徹底的に打ち砕かれるのです。これは、私たちの予想を越えた急転直下の結末です。私たちは「どうして、イエスさまがこのような恐ろしいことをおっしゃるのだ」と唖然とします。
 しかし、実は、「罪を犯した者は死ぬ」という結果は当然なのです。私たちはイエスさまの愛に馴れ親しみ過ぎて、それに甘え、罪の恐ろしさを軽く見ているのです。神さまの寛容と忍耐を良いことにして、私たちは神さまの裁きを侮っているのではないでしょうか。パウロは「思い違いをしてはいけません。神は、侮られることはありません」とガラテヤの教会に警告を発しています。私たちは、神さまの愛に甘えて、罪の深さ、恐ろしさをごまかしているのです。このような時、私たちは決して恵みの大きさを理解できません。罪を小さくしていますから、恵みも小さくなってしまっているのです。小さな罪と小さな恵みの中にごまかして生きているのです。十字架の愛を小さくしてしまっています。この結末が私たちにとって予想外だとしたら、それは私たちのこの「罪を縮小する」という罪が原因です。イエスさまは、はっきりと「君たちは死すべき罪人だ」とおっしゃっているのです。
 イエスさまのたとえを聞いて、律法学者や祭司長たちは、イエスさまが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気付いた、と書かれています。どういうことでしょうか。
 ドストエフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」という小説の中で、イエスさまが人々の祈りに答えて15世紀に、再びこの世に来られたという設定で物語を書いています。ところが、人間は、この時もまた同じようにイエスさまを抹殺しようとするというのです。ここにドフトエフスキーの人間洞察の深さがあります。全く無私の思いで人々を愛し抜くイエスさまが来られたら、私たちの偽善、隠された罪すべて明らかになってしまうからです。
 律法学者、祭司長は宗教家です。僧正もおなじです。自分は正しく生きている、間違っている人(異端)は罰さなければならないと人を裁く人々に対するイエスさまのとどめの一撃のような気がします。「裁きは神の家から始まる」(ペトロ一4:17)と書かれている通りです。しかし、ここで悲劇的なのは、イエスさまを抹殺しようとしている僧正自身は正しいことをしていると考えている点にあります。黒い悪魔、白い悪魔がいるとルターは言いました。黒い悪魔の誘惑はいかにも悪魔らしい誘惑をするのですぐ分かるし、戦うことが出来る、しかし、白い悪魔は私たちをだまし、良いことをしていると思わせて、私たちを自分のいいように操り、陥れるのだというのです。
 私たちが真に恐れなければならないのはこの白い悪魔です。律法学者、祭司長は、この罠に落ちていたのです。それを指摘されたと直感的に悟ったのでしょう。それで、殺意を抱いたのです。

 さて、ここで今、イエスさまは裁き主として立っていらっしゃいます。確かに、イエスさまは裁きを行う方でもあるのです。「私たちは皆、キリストの裁きの前に立ち」(コリント二5:10)と最後の審判についてパウロは語っています。あるいはマタイ25章の有名なたとえがあります。最後の審判の時、人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて栄光の座につかれる。そして、羊を右に、山羊を左にと分けられるのです。右側に人々は「祝福された人々」です。左側の人々は「呪われた人々」です。私たちは、どちら側に並ばされるのでしょうか。最後の審判の厳しさに思わず襟を正す思いになります。
ところが、私たちはイエスさまの十字架の出来事において衝撃的な事実に出会います。イエスさまの右と左に二人の強盗が一緒に十字架につけられたとマルコは伝えます。このようにしてイエスさまは「犯罪人の一人に数えられた」と言うのです(マルコ15:28)。イエスさまは罪人の側、左側にいらっしゃるのです。さらに、イエスさまは、犯罪人の一人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」とまで断言されているのです。そうなのです。「罪の赦しの洗礼」を私たちと共に受けられ、私たち罪人と共に生きることを明らかにされたイエスさまは、十字架においても罪人の列に立って下さったのです。もし、予想外の出来事が起こったというならまさにこの事実ではないでしょうか。「裁き主イエスさま」が「裁かれる側」に立っていらっしゃるのです。そして、その死によって左側に立たざるを得ない私たちの罪を赦して下さっているのです。「父よ、彼らをお赦し下さい」という十字架上のイエスさまの祈りが世界を包んでいるのです。
 今日は、この私たち罪人の只中に立って私たちのために祈って下さるイエスさまに心から感謝したいと思います。考えて見れば、律法学者、祭司長はイエスさまのたとえで、自分たちの罪をはっきり認めたのです。しかし、決してそれを告白しようとはせず居直ったのです。バッハのマタイ受難曲を毎日聞いていますが、イエスさまが最後の晩餐の折、「あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている」とおっしゃったとき、「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と言い始めた」という箇所があります(26章21節)。しかし、その聖書の言葉に続けてバッハは「それは私です」「私こそ罪と縄目に縛られ、捨てられる者です」というコラールを付け加えています。これはバッハ自身の告白でしょう。律法学者、祭司長もそうすればよかったのです。
 前にも紹介しましたが、ルターが「大胆に本物の罪人になれ。そしてもっと大胆に本物の恵みに与れ」と言ったのは、このことを言っているのです。この時、キリストの恵みの計り知れない大きさを経験することが出来るでしょう。何ものにも優る喜びを経験することが出来るでしょう。イエスさまは、私たちが悔い改めたから赦して下さったのではありません。悔い改めない罪人のために命を捨てて下さったのです。赦しの恵みの中で、真実の悔い改めが起こってくるのです。大胆に罪人となり、本物の赦しの恵みに与りましょう。そして、復活の喜びを共にしましょう。新しい時の始まりです。イースターは間近です。
2013/03/17(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神に帰る」(ルカ15:11-32)
ルカ15:11-32、2013・03・10、四旬節第4主日(典礼色―紫―)、イザヤ書12:1-6、コリントの信徒への手紙一5:1-8

ルカによる福音書15:11-32
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を下さい』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たした時、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来てほふりなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を穂降られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛をほふっておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」



説教「神に帰る」(ルカ15:11-32)
四旬節第4主日を迎えました。私たちへの慰め、励ましとして、本日はルカ15:11-32が与えられています。さて、レンブラントの絵画に、「放蕩息子の帰郷」という有名な絵があります。それは、父の下に帰ってきた弟息子と、それを迎え入れる父と、それを横から冷淡な、あるいは無関心な目でみつめる兄息子が他の2、3の人物と共に描かれています。
父は盲目のような目で、両手を差し伸べ、年老いた目で見ています。私たちは、弟息子に大いに共鳴します。それは異邦人であった私たちが誠の神に立ち返った姿を現しています。これらの人物の絵に、ヘンリ・ナウエンは、大きく動かされて「放蕩息子の帰郷―父の家に立ち返る物語」と題する本を書きました。
彼も指摘しているように、私たちは、弟息子でもあり、兄息子でもあり、更には、驚くべきことですが、二人を迎え入れる父でもあるのではないでしょうか。あるいはあるべきではないでしょうか。
神学生の頃、「傷ついた癒し人」というヘンリー・ナウエンの著書がある種のブームになっていました。今から25年ほども前のことです。その著者が、この同じオランダ生まれの画家の「放蕩息子の帰郷」と題する絵のポスターに引かれ、この絵の本物を見るためにロシアに旅行し、この絵との対話が始まったのです。
主イエスがなさった譬え話としても、最も有名な、そして、美しい譬え話の一つがこの「放蕩息子の帰郷」でしょう。ヘンリー・ナウエンは、この絵を見て、更にその後の人生を変えられたのであります。最後は、カナダのラルシュという障害者たちとの共同体で晩年を過ごしたようであります。
息子は、父に対して、私が受け継ぐことになっている相続財産を分けて下さいとまず、頼みます。兄に対して三分の一の割合であったでしょうか。父はその弟息子の要望に答えて、その相続分を分けてやりました。ほどなくして、この弟息子は受け継いだ相続財産を金に換え、遠くの国へ旅立ちました。そして、自堕落な生活して、金をまき散らすような生活にうつつを抜かしていました。金も底をつき始めたころ、その地方に大きな飢饉が襲い、彼は食べるにも事欠くようになりました。ある町の名士のところに身を寄せると、その名士は彼を農場へ送って豚の世話をさせました。ユダヤの人々にとって豚の世話をするということは、何よりも呪われた、忌々しい運命を意味していました。弟息子は、せめて、豚の食べるいなご豆でも食べて、食を満たしたいと思いましたが、誰も彼にその食を与えようとはしませんでした。その時、弟息子は、我に返って、こう自分に言いました。私は飢えて死のうとしている。しかし、私の父の家では雇い人たちが有り余るほどのパンを与えられて生活している。私は今すぐ帰って、父にこう言おう。私は、天に対しても、あなたの前でも、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人のように、私を扱って下さいと。
そして、立ち上がって、故郷に向かい始めたのです。そして、まだ父の家からは遠く離れていたのに、父は彼を見出し、断腸の思いに駆られて、走り寄り、首を抱き、接吻します。弟息子は、お父さん、私は天に対しても、あなたに対しても、罪を犯しました、もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありませんと答えました。しかし、父は、しもべを呼んで、この子に一番上等な服を着させ、手に指輪をはめてやり、靴を履かせ、肥えた子牛を連れて来て、屠らせ、宴会をして楽しもうというのです。
レンブラントの絵では、頭は殆ど坊主刈りで、裸足さながらの弟息子は父に寄りかかり、謝ろうとでもしているようです。それは、レンブラント自身の人生の浮き沈みを表わしている姿でしょう。そして、ヘンリー・ナウエンもまた、そこに、自分の現実をも重ね合わせて見たのです。私たちは、もともとの異邦人であり、あるいは、神から離れた人間として、この弟息子に自分を重ね合わせるしかない存在なのではないでしょうか。
その時、兄息子は畑にいて野良仕事を済まし、帰ってきます。家が近づくに連れ、音楽やダンスのざわめきが聞こえ、兄息子は、僕を呼び寄せて、いったい何事なのかと訊き出そうとします。弟さんが御無事で帰って来たというので、子牛を屠らせ、お父様が宴会をお始めになっているのですと言うと、兄息子は、腹を立て、家の中へ入ろうとはしません。父親は、出て来て、彼を宥め、中へ入って宴会に加わるようにと説き伏せようとします。
しかし、兄は、父に向かって、あなたのあの息子は、あなたの身上を遊女たちと食いつぶして戻って来ると、あなたは子牛を屠っておやりになる。私は、この通り、あなたの命令に背いたこともなく過ごしてきましたが、友達と宴会を開くために子山羊の一匹でも下さったことはないではありませんかと答えるのです。
父親は、あなたのあの兄弟は死んでいたのに生き返った、失われていたのに、見出された、だから、喜び祝うのは当然ではないかとなだめようとするのです。
ヘンリー・ナウエンは、この兄息子、無関心な冷たい目で見る、父と同じく赤いマントで身を装った人物として描かれた中にも、自分を重ね合わせて見るようになります。
落ちぶれて、人生に失敗した弟を冷めた目でみつめる兄、それは、自分ではないだろうかと。自分の信仰生活を誇り、他者のそれより優っているとの傲慢や、嫉み、優越感の中にいる自分を見出したのです。更に、また、驚くべきことには、ただひたすら、弟息子に手を置き、殆ど盲目のような傷ましい父親のその両手を見て、片方は父の慈愛に満ちた力強い手、しかし、他方は、擦り切れて痛々しい母親のような手をしていることに気付き、これは、人間である私たちのあるべき姿、罪人の立ち返りを、心から喜び、同情する、物惜しみしない、あるべき私たちの姿でもあると考えるようになるのです。「放蕩息子の帰郷」父の家に立ち帰る物語という一枚の絵画との出会いと対話、黙想から、ヘンリー・ナウエンは、自分のただすべき道を、その人生の最晩年に見出していったのです。私たちも又四旬節のこの時、真の悔い改めとそれへの共感・喜びへと招かれています。神に立ち帰るということが、何よりも神の、そして、み子イエスの喜びであり、それは、罪人にも、ファリサイ派などの自分を義とする人々にも同じように差し出されている招きなのです。受難節から、イースターへと十字架の死から復活へと進まれる主イエスの道を仰ぎ見ましょう。
2013/03/10(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の忍耐」(ルカ13:1-9)
ルカ13:1-9、2013・03・03、四旬節第3主日(典礼色―紫―聖餐式)、出エジプト記3:1-15、コリントの信徒への手紙一10:1-13

ルカによる福音書13:1-9
 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい。』」



説教「神の忍耐」(ルカ13:1-9)
私たちは、四旬節に入って3回目の主日を与えられています。今は、主の十字架の道行きを覚え直す時であります。毎日、毎日、この季節、主の十字架の死による私たち人類の罪を、思い起こすべきでありますが、私たちは、克己するといってもそれほど、強くはありません。
ですから、せめて主日には、慰めのみ言葉、福音を与えられて、また、新たな四旬節の1週間を生きる力と希望を得るために、主日があるとも言えましょう。私にとりましても、この年を明けてからの身内や先輩の召天が、続きまして、改めて死を覚えさせられる時期を過ごしております。
さて、本日の福音は、ルカ13:1-9であります。前半の13:1-5と13:6-9に分けられるのでありますが、いずれも、互いにつながりがあるということで、ルーテル教会では13:1-9がまとめて、ペリコペー、福音の個所とされているのであります。
前半は、主イエスがどこにいたときの記事か定かではありません。しかし、ルカの構成上は、9:51以下にまとめられていますので、主イエスがエルサレムに顔をこうばらせて、向かっていく「旅空のイエス」ともいうべき段階での出来事として記されているのであります。ある人たちが、まさにその時、カイロスという絶好の機会ともいうべき時に、すなわち、人々は時、カイロスの徴を見分けるべきだと主が教えられていたときに、エルサレム神殿でのガリラヤ人たちの巡礼のときの虐殺、あの悪名高きポンティオ・ピラトによる虐殺、そして、ささげていたいけにえの血とガリラヤ人たちの血を混ぜるという残忍な出来事を、主イエスのもとにやって来て報告するのであります。
主は、あなた方は、そのガリラヤ人たちがより罪深かったために、そのような目にあったのだと思うのか。いいや、言っておくが、あなた方も同じように皆、悔い改めなければ、滅びるであろうと、はっきりと断言されたのであります。
また、あのシロアムの塔が倒れて、18人が亡くなったが、彼らは他のエルサレムの住民よりも、より負い目があるために、そのような目にあったと思うのか。いいや、私は言っておくが、悔い改めなければ、あなた方も同じように、皆滅びるであろうと言われたのであります。私たちの持っている罪は、神との関係が破れていること、あるいは、的外れとも言えましょうが、クリスチャンも、クリスチャンでない人も、罪が優越して、浸透している点では共通なのであります。東日本大震災で、被災者となった少女が教皇ベネディクト16世に、テレビで質問していましたが、どうして、神様がいるのに、こんな悲しい出来事が起きるのですかと尋ねると、教皇は、私も分かりませんが、何かに希望を見出すべきだということはいつかは分かるようになるでしょうというふうに答えていました。さて、罪は私たちを覆っています。そこから、解き放たれるためには、すべての人は、クリスチャンも、ノンクリスチャンも、悔い改めが必要なのです。躓き、罪の誘惑は避けられないからです。
さて、それから、「デ」、彼は譬えを言われたと続きます。ある人が、ぶどう園に植えられたいちじくの木を持っていた。彼は、実を探そうとやって来たが、見出さなかった。彼は、園丁に、私は、3年間も、実を求めてやってきたが、一度も実を見出さなかった。なぜ、それは、土地をふさいでいるのか。切り倒してしまいなさいと言うと、園丁は、ご主人様、もう一年待ってください、私は周りを掘って肥やしをやってみますから。それで、もしも実をつけるかもしれません。それでも駄目なら、あなたが切り倒すでしょう、と答えたというのであります。
もちろん、この園丁は、語られる主イエスご自身を指しているでしょう。私たちが、神の忍耐に答えて、実を結ぶ、悔い改めの実を結ぶものとなるように、主イエスが、父なる神さまとの間に立って、とりなしてくださっているのであります。私たちは、この主イエスによって、初めて、罪から解き放たれ、それにふさわしい生活の実を結ぶものとなるように、招かれているのであります。その幸いを感じ取りながら、今日ここから新しい1週間を、新たな希望をもって歩んでいきましょう。アーメン。
2013/03/03(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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