津田沼教会 牧師のメッセージ
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「エルサレムへの旅の終りに」(ルカ18:31-43)
ルカ18:31-43、2013・02・24、四旬節第2主日(典礼色―紫―)、エレミヤ書26:7-19、フィリピの信徒への手紙3:17-4:1

ルカによる福音書18:31-43
 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。


「エルサレムへの旅の終わりに」(ルカ18:31-43)

皆さん、おはようございます。説教交換で、市川教会に招かれましたことを心から感謝しています。今、私は58歳に近づいていますが、今から25年前のこの頃、3月下旬に、初めて聖地旅行、海外旅行に行くことができました。「出エジプトの旅」というテーマで、エジプトからバスで出エジプトの旅をし、シナイ山にも登り、15日間の旅行を終えました。市川教会の金子さんや安芸さんともご一緒させていただき、最後はガリラヤからエルサレムという旅程でした。
ルカ福音書は特に9:51から、エルサレムを目指しての「旅空を歩むイエス」をテーマとしています。四旬節第2主日の本日は、主イエスがまもなく、エルサレムに入る途上での出来事であります。主は、12弟子たちを、受け入れて、異邦人に人の子、御自分が渡され、あざけられ、虐待されて、彼らは鞭打った後彼を殺すが、三日目に人の子は起き上がる、復活すると、告白なさったのであります。しかし、弟子たちは、その言葉の意味が隠されていて、まだ、啓示に与っていなかったので、何のことか何も理解できなかったのであります。
それから、一行は、エリコの町に近づきます。本日の前の部分では金持ちの議員が、神の国よりも、この世の富を手放すことができない記事が載っています。しかし、本日の出来事においては、道端で座って、物乞いをしていた、恐らく、バルティロマイが、主イエスの群衆が通り過ぎるのを、人々に確かめて、「イエスさま、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と必死で忍耐強く訴えるのであります。道の傍らで、頼りなく物乞いをしていたこの盲人が、「主よ憐れんでください」と、粘り続け、主は立ち止まり、自分のところに連れて来るようにお命じになります。
近づくと、主は「私に何をしてほしいのか」とお尋ねになります。バルテロマイは、「主よ、見えるようになりたいのです」と申し出ます。私たちの毎週の礼拝において、キリエを唱えますが、「主よ、憐れんで下さい」、「キリエ・エレーソン」というのは、この盲人の言葉であります。
私たちは、毎週の礼拝に会衆一同集って、主に対して、「私を憐れんで下さい」と、冀うのであります。特に、四旬節のこの時期に、今日の個所は本当に相応しい個所ではないでしょうか。
私たちは1週間の間にも多くの罪を犯し、それを、主に憐れんで頂いて、罪赦される者とされるのであります。この盲人は、自分が見えるようになりたいのですと率直に主に告白し、懇願するのであります。これは、私たち信者・求道者の生活の偽らざる現実の姿ではないでしょうか。
「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」とは、盲人のバルティマイオスの根気強い信仰の発露であります。私たちも、四旬節、主の十字架の道行きを覚えて、特にこの時期、慎ましく生活し、神が見えるような、あるいは、あるいは、神に向かって叫び続ける毎日を送りたいものであります。
12弟子たちは、主の受難・復活予告が、この時まだ何も分からず、隠されていましたけれども、それが実現した後、主の言葉の真意を見出し、旧約聖書が、十字架にかかるメシア、救い主、イエス・キリストを預言していることを、啓示によって知ることができたのであります。
私たちも、現実の荒波にのみ込まれて、主イエスが、十字架にかかって、もろもろの罪から解き放たれることをしばしば、忘れ、恐れや疑い、不信仰に、呑み込まれそうになりますが、本日の盲人のように、主よ見えるようにならせて下さいと絶えず呼び求める者にさせて頂きたい者であります。アーメン。






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2013/02/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1-13)
ルカ4:1-13、2013・02・17、四旬節第1主日(典礼色―紫―)、申命記26:5-11、ローマの信徒への手紙10:8b-13

ルカによる福音書4:1-13
 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
  ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、
  あなたをしっかり守らせる。』
また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
  天使たちは手であなたを支える。』」
 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。



説教「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1-13)

四旬節に入り、その第1主日は、毎年、荒れ野の誘惑の記事が、共観福音書にしたがって3年サイクルで読まれます。今年はC年で、ルカ4:1-13が与えられています。
主イエスは、洗礼の時に、あなたは私の子、私の愛する者、私の心に適う者と呼ばれ、聖霊が天が開けて主イエスに向かってくだりました。そして、ルカ福音書では、イエスの系図が続いて記され、彼の先祖は、アダムから、神にまで至ります。その彼が、聖霊に満たされ、3つの主だった誘惑に耐えるために、霊によって、ヨルダン川から戻り、荒れ野に導かれます。彼は新しいアダムとして、旧約聖書のアダムのように、蛇、サタンの誘惑に負けないお方として描写されています。
 “霊”において導かれ、40日間何も食べずに過ごされた後、彼は、空腹を覚えられ、その時、悪魔が、彼を試みます。あなたは神の息子なら、この石に、パンになるように、命じなさいとささやきます。
 主イエスは、申命記からみ言葉を取って対抗します。人は、パンのみによって生きる者ではないと書かれていると。マタイの並行個所では、さらに、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きると書かれていると引用します。
 亀井勝一郎氏は、主イエスのこの公生涯での初舞台では、まだ権威が足りない、なぜなら、まだ旧約聖書の言葉を引用しているにとどまっているからであると書いていますが、果たして、そうでしょうか。確かに、およそ30歳で人々の前に宣教の使命のために現れた主イエスは、自分の権威に頼らず、旧約聖書、しかも、いずれも申命記からの引用によって、悪魔の誘惑に対抗しています。しかし、その方法こそ、悪魔に打ち勝つ秘訣なのではないでしょうか。自分の力、自分の思い、自分への漠然とした信頼こそ、悪魔の猛攻撃に対しては弱いものなのであります。そして、私たちも、自分の力で何とか切り抜けられると油断する時に、悪魔の策略によって打ち負かされてしまいやすい者なのであります。
 昔、出エジプトの民は、荒れ野を40年間旅し、飢えたとき、天からのマナを与えられて飢えをしのぐことができました。しかし、彼らは、モーセとアロンに向かってつぶやき、エジプトでの奴隷生活の方がまだましだったと不平を洩らし、主なる神に頼り、従順であることができませんでした。
 しかし、主イエスは、人はパンだけで生きる者ではないとの申命記の言葉を引用し、聖書に信頼し、石がパンに成るように言いなさいという悪魔(ディアボロス・中傷する者の意)のささやきを退けたのです。み言葉によって、悪魔の誘惑に打ち勝たれたのであります。
 第二の誘惑は、瞬時にして主イエスを高みに引き上げ、この地上の全王国を見せ、その権力とそれらの繁栄・栄光を示し、それらは、私に属しており、任されており、もし、私を拝むなら、誰にでもそれを私は与えると悪魔は約束します。主イエスは、ただ神にのみ仕え、礼拝するようにと書かれていると、同じく申命記から引用して、この悪魔のささやきを撃退します。この地上の国々の権力と繁栄ぶりは、この世の君、サタンに属しており、主イエスをこの世の君にしようと動揺させようとします。しかし、主イエスのもたらす神の国は、この世の君とは相容れないものです。そして、主イエスの道は、十字架の道であり、この世の王となる道とは相反するものなのです。十字架に主がおつきになるとき、主は、私の国がこの世のものであったなら、十二軍団がやって来て、私を守ったことであろうと主は後にお語りになるのです。現代においても、この世の権勢に引きずられ、権力欲におぼれている政治家たちがいかに多いことでしょうか。
さて、次に、三番目に、悪魔は、主イエスをエルサレム神殿の頂点に連れて行き、今度は、自分も聖書、詩編91編を引用し、あなたが神の子なら、ここから下へ自身を投じるように唆せます。神は天使たちに命じてあなたを守らせ、あなたの足を石に打ちつけることがないように、その手でもって持ちあげると書いてあると言って、主を追いこもうとしたのです。
主イエスは、この時に際しても、同じく申命記を引用し、あなたは、あなたの主なる神を試さないであろう、試してはならないと言われていると答えます。主イエスは、奇抜なふるまい、見せびらかしによって、自分がメシアであることを示すことを、み言葉を盾として拒むのであります。主イエスが、神の子であるのは、父なる神に、そのご意志にあくまでも従順であることによってであることを、示されるのであります。
それは、人々をあっと驚かせるような道をとることではなくて、十字架の死と復活という私たちの想像もつかなかったメシアの道を選ぶためでありました。
これらの3つの誘惑は、神の子イエスを、何とか打ち負かそうとするあらゆる誘惑の代表格のようなものでありました。
悪魔は、その他あらゆる誘惑を終えた後、時、カイロス(絶好の機会)まで、彼から去ったと記されています。悪魔は、最終的には、受難の時、裏切り者のユダの口の中へ入る時まで、表立っては、前面に出て来なかったようでありますが、悪魔の働きが、この誘惑の時以降、まったくなくなったわけではありません。
主イエスの宣教は、一方では、その後も悪魔に対する戦いでもありました。しかし、最後は、一見敗北にしか見えない十字架の死を通して、悪魔を打ち砕かれ、それに勝利なさったのであります。
しかし、本日の記事は、主イエスの宣教の初めに、悪魔による3つの表立った誘惑に、主イエスが、決して、自分の思いによってではなく、旧約聖書のみ言葉を引用して、打ち勝っていかれたことを示しています。
主イエスは、旧約聖書で、預言されていたとおりに、十字架の死と復活によって、神の救済史に則って、あらゆる悪魔の誘惑を退け、撃退なさったのであります。
四旬節、主の十字架への道行きを覚える季節に、私たちは、入っています。先だっての灰の水曜日から、日曜日をのぞいての40日間、私たちは、弱い存在ではありますが、主の十字架を仰ぎながら歩む時であります。そして、今年は、3月31日が復活祭、イースターに当たります。主のみ苦しみを覚えながらも、その間の主日、日曜日には、主日礼拝で、毎回、福音を読み、喜びと慰めに満たされるように、日課が組まれているのであります。
私たちの信仰生活は、なかなか、思う通りには進んで行きませんけれども、主イエスが既に悪魔の誘惑に打ち勝ってくださっていることを覚え、絶望することなく、日々聖書を取り出し、主イエスがなさったように、私たちも、聖書66巻、あるいは、それに続編をも時として加え用いながら、御言葉によって、悪魔に打ち勝って行く日々を過ごしていきましょう。そして、父なる神、主なる神のご意志は、主イエスを十字架の死につけて、私たちの罪を打ち破り、主の復活によって、喜びの福音に生きる者とならせることにあることを、これらの聖書全巻を通して深く読み取っていきたいものであります。アーメン。

2013/02/17(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「彼の最期についての話し合い」(ルカ9:28-36)
ルカ9:28-36、2013・02・10
変容主日(顕現節最終)白。申34:1-12、2コリ4:1-6

説教「彼の最期についての話し合い」(ルカ9:28-36)

皆さん、おはようございます。いよいよ、本日をもって、顕現説を終える変容主日を今日は迎えています。顕現主日、主の洗礼日と同じように、先週までの緑から、白に教会で用います色も変わっています。これは、神さまを表す色であり、主の変容、あるいは変貌主日というのに、ふさわしい主の衣が真っ白に輝いたという本日の出来事そのものにもあっている色であります。顕現節は、特に異邦人である世界のすみずみにまでいたるわたしたちに、救い主であるキリストがあらわされ、そのご正体が明らかにされることを覚えるときでありますが、本日のルカ福音書9:28-36は、まことにそれを考えるのにふさわしい出来事が記されていると思います。本日のか所で起こった出来事について、しばらくご一緒に考えていきましょう。
 それは、ペトロが、主イエスを「神からのキリスト」すなわち、メシアですと告白をし、それから、主がご自分の受難予告をなされ、弟子たる者はそれぞれ自分の十字架を背負って、主に従っていかなければならないことをおときになり、それらの言葉から八日ほどたったころにおこった出来事で、主は、祈るために、特にペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて山におのぼりになったのであります。それがどこの山であったかは記されていません。ナザレとナインの間のタボル山であったという伝説もありましたが、当時はその山の上には要塞もあったともいわれますし、八日もかかって上られたということですから、フィリポ・カイザリヤからさらに北のヘルモン山という3000メートル近くの山であったかもしれません。特に異邦人のローマ世界に住む人々に向かって書いたであろうルカにとって、そのような地理的な特定は大事なことではなかったでありましょう。
 そして、成ったことには、主イエスが祈っている間に、その顔の外観が変わり、その衣は光り、輝いていたのであります。そして、二人の男が現れ、主イエスと何か論じ合い、あるいは相談しあっていたのであります。それは、モーセとエリヤでありました。旧約聖書の律法と預言者を代表するふたりとも、言えましょう。旧約聖書では、やがて、モーセのような預言者が現れると申命記18:15などには記されていますし、当時、イエスの時代には、メシアの来る前にエリヤが先駆者として再び来るという期待がありました。
 この出来事は、おそらく夜に起きた出来事でありましょう。ペトロたちは眠さで重くなっている目をあげて、よくみると、主イエスがそのふたりと、主がまもなくエルサレムで遂げようとしている最期のことを語り合っていたのであります。この「最期」という言葉は、エクソドスという言葉で、出エジプトという場合に使われる言葉で、脱出とか、旅立ちという意味であり、主イエスの死と復活と父のもとへの昇天を含めた意味が込められています。罪と死というエジプトの世界から、わたしたちを主が解き放たれることについて、語り合われていたのであります。どうしてそれが、モーセとエリヤだと彼らはわかったのでありましょうか。まして、夜のことであればなおさら不思議なことです。しかし、それは、神によって啓示されたことであり、わたしたちは、信仰の目を持ってこのような出来事をそのままに受け取ることが大事ではないでしょうか。
 しばらくすると、主イエスから彼らが離されていくことがおこり、ペトロは思わずこう言いました。「わたしたちがここにいるのはすばらしいことです、わたしたちは三つの仮小屋を作りましょう。ひとつはあなたに、ひとつは、モーセに、そしてさらにひとつは、えりやのために」と。彼は何を言っているのか、自分でもわからなかったのであると書かれています。それは、スコトの祭りといって、もともとは、収穫感謝の祭りから、イエスの時代には、出エジプトの出来事を記念する、エルサレム巡礼の三大祭のひとつとなっていた祭りの祝い方をペトロは、思わず口にして、モーセ、エリヤと主イエスがそこにおられるすばらしさをひきとどめたいと、ペトロは思ったのかもしれません。しかし、そのとき、雲が起こって彼らをおおい、雲の中に彼らが入っていくので、彼らは恐れました。モーセとエリヤが雲の中に入っていったのを見て、恐れたとも読めます。すると、雲の中から声が成り、「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」という声が聞かれたのであります。ペトロは、こののちも、主を否認し、弟子たちは十字架のときに主を見捨てて離散するということが起こっていますから、この雲からの声が何を意味するのかは、主の語復活後、あるいは聖霊降臨を経て、さらには、多くの失敗や困難、試練の後に、このときの出来事の意味、天からの声の意味がようやくわかっていけたのに違いありません。
 現代を生きているわたしたちはどうでしょうか。多くの人が「私こそは真理を語っている」「正論は、わたしのほうにある」と様々に世の知恵者は語り、また、特に日本では宗教のようなものは、すみに追いやられがちであります。けれども、わたしたちのよって立つべきお方は、キリストお一人なのであります。モーセもエリヤも、主イエスを指差すために、使命を与えられた、いわば、キリストの証人であり、洗礼者ヨハネともどもに、主の前に備えをするもの、あるいは、救い主の前触れにすぎないのであります。
 現代は情報が行きかい、非常に便利な文化生活を、私たちは営んでいます。しかし、それを誤用したり、盲信しては危ういのであります。わたしたち、人類に与えられている救い主は、聖書によれば、主イエス・キリストをおいてほかにはないのであります。死と罪というエジプトから脱出し、約束の地へ、神の国の民として生きるように、わたしたちは、本日の出来事を通して招かれているのであります。主イエスの洗礼のときに聞かれた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声は、本日の変容の日の出来事において、私たちに向けての声となったのであります。主イエスこそ、メシアであり、「選ばれた方」十字架の苦難を通してわたしたちをお救いになる、しもべとしての道を歩まれる救い主であります。多くのすばらしい賜物を持った方々が確かに、わたしたちの周りにはいますけれども、わたしたちの罪と死から解き放つことのできるお方は、主イエスをおいて、他にはわたしたちには与えられていないのであります。この主イエスを仰ぎながら、どのような困難をも、あるいは、喜びをも、わたしたちは感謝をもって受けとめ、歩んでいきましょう。
人知ではとうていはかりしることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。 

 
2013/02/10(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちの目と耳を開いてくださる方」
ルカ6:17-26、2013・02・03、顕現節第5主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書17:5-8、コリントの信徒への手紙一12:27-13:13

ルカによる福音書6:17-26
 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また、病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 「貧しい人々は、幸いである、
  神の国はあなたがたのものである。
  今飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。
  人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
 あなたがたはもう慰めを受けている。
 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
 あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である、
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。
 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」




説教「私たちの目と耳を開いてくださるお方」(ルカ6:17-26)

本日の説教題を「私たちの目と耳を開いてくださる方」と、本日の主日の祈りから決めさせていただきました。私たちが見えなくなっている目と聞えなくなっている耳を開いてくださる、それが、本日の主イエスの御言葉、四つの幸い、祝福と、四つの不幸、呪い、あるいは裁きの言葉であるからです。
主イエスは、山から12使徒たちと下りて来て平地にお立ちになりました。それは、私たち多くの民衆がいる場所です。病気に脅かされ、汚れた霊につかれている者たちがおり、また、彼らは、主イエスに聞くことを、求める群衆でもあります。彼は、多くの人々をいやしておられ、それは、彼から力が出て行っていたからであると、聖書は記しています。 
主イエスは、12使徒を、山の上で徹夜で祈って選びましたが、その中には、反逆者も、疑い深い者も、拒絶し否認する者も含まれていました。十字架の死に赴くために、主は、これらの使徒たちを選んだのであります。
私たちも、主イエスによって選ばれ、見出された弟子ですが、功績があって、優れているので選ばれたのではなく、主の十字架の死において選ばれているのに過ぎないのであります。
津田沼教会で、英語で聖書を読む会をやっています。エレミヤ書を少しずつ進んでいますが、そこに熱心に通って来られるお爺さんは、フレンド学園で長く教鞭をとられた社会科の先生でありますが、88歳になられており、御国に召されるのは、信仰が与えられたお蔭で、別に怖くないとおっしゃいます。私などには到底そういう境地にはなれない者ですが、主イエスの本日の出来事、そして、御言葉は、私たちに、本当の幸いを示してくれているように思われます。
この平地に住む私たち、悩み苦しみに覆われている者の所に、主自ら、旧約の預言、イザヤ書61章の1-2節に示されているとおりに「貧しい人に良い知らせを伝え」「捕われ人には自由を」、「嘆いている人々を慰める」ために、十字架につく主イエスがお出でになられたのです。
私たちは、主イエスの言葉によって、慰められ、力づけられます。貧しい人は、幸いだ、なぜなら、神の国、神の支配はあなた方のものだから、と言われ、今飢えている人たち、あなた方は、幸いだ、なぜなら、あなた方は満腹にされるだろうからと言われ、あなた方、今泣いている者たちは、幸いだ、あなた方は笑うようになるであろうからと言われ、人々があなた方をひどく嫌い、追い出す時、そして、人の子のために、汚名を着せるときあなた方は幸いだ、あなた方は喜び小躍りせよ、天におけるあなた方の報いは大きいからである。あなた方の預言者たちにも、彼らの先祖たちは同じようにしたからであると言われます。
しかし、災いなのは、富んでいる者たちだよ、なぜなら、あなた方は慰めを受け取ってしまっているからだと。続けて、今満腹しているあなた方は災いだよ、あなた方は飢えるようになるから。今笑っているあなた方は災いだよ、あなた方は、泣き悲しむことになろうからと、言われ、人々があなた方をほめるとき、あなた方は災いだよ、なぜなら、偽預言者たちにも、彼らの先祖たちは同じようにしたからと言われます。
私たちは、人の子イエスの名のために、苦しむことをも賜っています。
果たして、私たちは、富んでいる者でしょうか、貧しい者でしょうか。私たちは実は、貧しい者、神の前に窮状をさらけ出すしかない者ではないでしょうか。しかし、私たちは御子の十字架の死によって贖われている者であります。本日のみ言葉を糧に、新しい1週間へと出て行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2013/02/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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