津田沼教会 牧師のメッセージ
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「人間をとる漁師に」(ルカ5:1-11)
ルカ5:1-11、2013・01・27、顕現節第4主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書1:9-12、コリントの信徒への手紙一12:12-26

ルカによる福音書5:1~11
 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの1そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終ったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。


説教「人間をとる漁師に」ルカ5:1-11
 
特に大切な津田沼教会総会の本日、与えられている福音は、ルカ5:1-11であります。マルコ、マタイとは違って、ルカは、ペトロたちの召命を、湖辺で、4人の漁師たちに声をかけ、彼らはすぐに従ったという短い記事ではなく、5:1-11を通して、詳細に記しています。
今日の個所の少し前で、既にシモンのしゅうとめの病を癒し、今日の個所も、群衆が押し寄せ、水辺で危ないので、二そうの舟があったのをごらんになり、その一そう、ペトロの持ち舟に、少し沖へ漕ぎ出すように、お頼みになっています。
そして、この舟を、説教壇のようにして、舟に腰掛けて、神の言葉を聞きに来た群衆に、教えをたれているのであります。そして、いつしか、群衆は場面から散らされて消えていき、主は、シモンに深みへと漕ぎ出すように命じになるのであります。
シモンは、先生、私たちは一晩中漁を苦労してやりましたが、1匹も取れませんでした。ですが、あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょうと答えると、おびただしい魚を彼らは取り囲んで、網はやぶれそうになるほどでありました。それで、仲間の者たちに合図して、助けに来てくれるように求めました。彼らが来て、二そうの舟はとれた魚で一杯となったのです。
それを見て、シモン・ペトロは、神の臨在を感じ、恐れと自分の無価値感におそわれ、主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですからと語るのであります。主は、恐れることはない。あなたは今から後、人間をとる漁師になる。これは、生きたまま、人間をすなどるという意味であります。他の一緒の者たちも恐れ、また、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様でしたが、彼らは、二そうの舟を陸に引き上げ、すべてを後にして、主イエスに従ったのであります。
ここから、シモンは、新しい、人間をすなどるという人生の新たな段階に移るのであります。そして、このときから、主イエスに従う群れ、教会が生まれているのであります。親鸞は、弟子一人持たずそうろうといましたけれども、主イエスは、私たち一人ひとりを、主イエスの弟子として召しだし、用いると言われるのであります。新しい弟子たちの群れが、本日のシモンの召命から、そしてその仲間たちの召命から始まっているのであり、既にここから、教会が始まっているのであります。霊的な舟と霊的な網とを用いて私たちは、人を生かすようにすなどる使命を与えられており、新しい人間とされているのであります。
私たちは皆、主によってそれまでとは違う新たな段階に入れられている。そして、独りでも多くの人々をすなどることが、主イエスによって与えられ、派遣されているのであります。今後、津田沼教会が、宣教のわざをどこまで進めていくかが、一人一人に問われているのであります。私たちは「人間をとる漁師」として、残された人生を歩んで行く者であります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方にあるように。
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2013/01/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「人知を超える神の愛」(ルカ4:16-32)内海望牧師
ルカ4:16-32、2013・01・20、顕現節第3主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書1:4-8、コリントの信徒への手紙一12:1-11

ルカによる福音書4:16-32
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕われている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆がイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。




 説教「人知を超える神の愛」(ルカ4:16-32)内海望牧師
 イエスさまは、ガリラヤのカファルナウムを中心に「霊の力に満たされて」宣教活動を始められました。そして今日の日課にはふるさとであるナザレに帰って来られた時の出来事が記されています。
 イエスさまは会堂でイザヤ書61章を朗読され、会衆に「この聖書の言葉は今日、あなた方が耳にした時、実現した」と力強く語られました。今日、待ちに待った救いの時が到来したという宣言です。ここでクリスマスの意味がはっきりと分かります。イエスさまがこの世に来られたということは、救いの時が始まったという出来事であったのです。まさにイエスさまの真の姿の顕現です。
 「今日」という言葉に力を感じます。
 実はルカは「今日」という言葉を好んで用いています。少し煩雑になりますが、そのうち今日の日課と同じ意味の4か所を取り上げてみ言葉の意味を深めたいと思います。
 初めは、良くご存じの2章11節です。天使から羊飼いたちが「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げられた時、羊飼いたちは急いで行って「飼い葉桶」に寝かされている乳飲み子に出会いました。彼らは「救い主の到来というのに、その場所がみすぼらしい飼い葉桶であって、どうして宮殿ではないのだろう」など理屈をこねず、素直にみ言葉に信頼し、救い主が来られたことに感謝し、賛美しつつ帰って行きました。このみ言葉への大胆な信頼こそ私たちが羊飼いから学ぶべき大切な心です。これは決して軽率な態度ではありません。
 次に、19章1節以下です。ここにはイエスさまと徴税人ザアカイとの出会いの出来事が記されています。5節、9節に「今日」という言葉が記されていますが、9節の「今日、救いがこの家を訪れた」とイエスさまがおっしゃった言葉が印象的です。この時代のイスラエルにおける徴税人とは、当時イスラエルを統治していた古代ローマ帝国から定められていた税金徴収の下請けをしていた人々です。これは請負制度になっていて、いちばん高く請け負った者が指名されるのです。ですから、出資金を回収するために、規定より高く取ることが多かったのです。またローマ帝国という権力を後ろ盾にしていますから、かなり高圧的に徴収できたのです。西ローマ帝国でも400年以上続きましたし、東ローマ帝国は1453年まで存続したのですから、古代ローマ帝国は秩序は保たれていたでしょう。徴税人という職業が悪いというわけでなく、職業を自分の私利私欲のために利用する人物が多いため、また占領国の下請けという面もあって、ユダヤ人の間では、「罪人」と呼ばれ嫌悪の的となっていました。ですから、この個所でも誰も背の低いザアカイのために道を譲ろうとはしませんでした。しかし、どうしてもイエスさまと出会いたいという強い願いを持っていたザアカイは桑の木に登ってイエスさまを待っていたのです。その時、イエスさまは上を見上げ、ザアカイに向かって、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃったのです。ザアカイは喜んでイエスさまを迎えました。群衆は、「あの人は罪深い男の所へ行って宿を取った」と言って非難しました。
 ザアカイがどうしてもイエスさまにお会いしたいと願った心のうちには、今の自分の生き方に対する深い痛みがあったからでしょう。彼も不正を働いていたのです。この生活を捨てて、どうにかして新しく生きたいという祈りを心に持っていたのです。これは私たちの心の底にある共通の祈りです。「もう一度新しく生きたい!」という切実な祈り。ですから、イエスさまの招きを聞くとすぐにずっと考えていたことを口にしました。8節です。ここで興味深いのは「4倍にして返します」という言葉です。「不正にだまし取った場合は5分の1を加えて賠償せよ」というのが聖書(民数記5:6)の定めでした。ザアカイも当然その定めを知っていたでしょうが、「4倍にして返します」と言っているのです。ここにザアカイの悔い改めの本気さを見ることが出来ます。「失われた者を捜して救うために来た」とおっしゃるイエスさまに罪赦され、新しいいのちを頂いたザアカイは喜びに満たされました。その喜びはザアカイだけにとどまらず家族全体に広がっていったのです。「今日、救いがこの家に訪れた」とイエスさまがおっしゃった理由です。イエスさまは徴税人の仕事をやめなさいとはおっしゃいませんでした。職業に貴賎はありません。職業からザアカイを引き離されたのでなく、罪から引き離されたのです。私たちも自分の職業をどう生きるかがザアカイを通して問われています。
 3番目は、これもよくご存じの個所です。23章43節です。イエスさまは十字架につけられ、苦しい息の下から御自分を殺そうとしている人々のために「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈られました。この祈りこそ世界を支える祈りです。人知をはるかに越えたイエスさまの愛です。限界のない赦しの愛です。私たちには決して出来ない祈りです。イエスさまの両側には同じように十字架につけられている犯罪人がいました。ひとりはイエスさまを罵り続けましたが、もう一人はそれをたしなめながら、イエスさまに向かって、「イエスさま。あなたの御国においでになる時には私を思い出して下さい」と嘆願します。その時、イエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる」と約束を与えて下さったのです。
 パウロの名を借りて、初代のキリスト者が『「キリスト・イエスは罪人を救うために来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私はその罪人の中で最たる者です』(テモテⅠ1:15)と語っている通りです。死刑囚も赦しの恵みに与ったのです。真の平安が与えられたことでしょう。
 これこそ、すべての罪人が救われるのは確かだという福音です。私たちにも、パラダイスが約束されているのです。
 ようやく今日の日課に辿り着きました。4番目の今日です。
「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」という力強い宣言に羊飼い、ザアカイ、死刑囚そして私たちも喜びました。しかし、ここだけ群衆の間に喜びがありません。反対に、イエスさまを崖から突き落とし殺そうとしているのです。すでに十字架の影が漂っている雰囲気です。何がこのような雰囲気を生み出したのでしょうか。それは、イエスさまの人知を超えた罪人をも救う限界のない愛が原因です。イエスさまが当時異邦人と呼ばれ、神さまの愛の外にいると信心深い人々が蔑んでいたシドン地方のサレプタのやもめ、シリア人ナアマンにも神さまの愛が注がれたとお話しになるのを聞いて群衆は怒り狂ったのです。「あんな罪人たちと自分を一緒にしないでくれ。私たち信仰深い民こそ愛されるに相応しい者だ。彼らは滅ぶべきだ。」と怒り狂ったのです。ここにいわゆる信仰深い人々の恐ろしさがあります。いや、人間の罪の恐ろしさというべきでしょう。私たちは徹頭徹尾自己中心的なのです。
 「目の見えない人は視力を回復し」と聖書にありますが、「見える」と思っている人にはこの言葉は何の感動も与えません。しかし、「見えない人」には救いの光です。同じように罪人だけが「失われたものを捜して救うために来られた」イエスさまを心から喜ぶことが出来るのです。
 私たちは、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」というイエスさまの言葉を羊飼いの素朴な信頼、ザアカイの祈り、死刑囚の悔い改めの心を持って心から受け容れましょう。そして感謝しましょう。この罪人の頭のような私に与えられた恵みの喜びは、私たちから流れ出て家族全体にしみわたるでしょう。そして更に隣人へと向かって行くのです。素晴らしいことではありませんか。そのような喜びの群れとして生きることを喜びましょう。
2013/01/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスも洗礼を受ける」(ルカ3:15-22)
ルカ3:15-22、2013・01・13、主の洗礼日(典礼色―白―)、イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

ルカによる福音書3:15-22
 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



説教「主イエスも洗礼を受ける」(ルカ3:15-22)

本日は、「主の洗礼日」の礼拝でありまして、先週の顕現主日に続きまして、聖卓などに用いられます典礼色は、今日もまた、特別の白であります。来週の顕現後第3主日からは、しばらく、緑色の時期となりまして、主イエスの語ったみ教えとなされたみわざが、今年の主たる福音書であるルカによる福音書に従って読み進められていきます。
さて、本日の福音では、民衆は、洗礼者ヨハネを、ひょっとしたら、彼がメシアではないかと待ち望みながら、そして、彼らの心の中で熟考していたと始まります。しかし、ヨハネは、それをまったく打ち消して、すべての者たちに対して、自分はメシアではない。自分は、水で洗礼を授けているが、その方は、聖霊と火で洗礼をお授けになり、私よりもはるかに強い方であり、私は、その方の履物・サンダルの革紐を解くのにも適当ではないと断言します。ギリシャ世界、ローマ世界では、主人の履物のひもを解いたり、運んだりするのは奴隷の務めでありましたが、ユダヤ人たちの間では、僕たちには、その務めもなかったそうであります。ヨハネは、自分は来るべきメシアに対しては、その僕、奴隷以下の者でしかないとまで断言するのであります。
ヨハネは、来るべきメシアが来られる前に、罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を説教していたのであります。私よりはるかに強いその方は、聖なる霊と火でもって、洗礼を授けるであろうと洗礼者ヨハネは、皆に語って答えたのであります。
洗礼者ヨハネまでの時代と、主イエス・キリストが来られるメシアの時代ではまったく様相は、異なるのであります。ヨハネは、あくまでも、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を説教していました。本日の福音のルカ3:15-22のすぐ前にも、実を結ばない木の根もとには、既に、斧が置かれているといい、人々に悔い改めにふさわしい実を結ぶ、善行をするようにと勧告していたのであります。そして、ヨハネよりはるかに強い、来られるメシアは、脱穀場を、手に箕をもって、風で、穀物と籾殻をより分け、穀物は納屋へ、もみ殻は、消えることのありえない火で、焼き尽くされるであろうと言っていたのであります。
そのように、聖霊において、また火でもって、洗礼を授けるであろうと、聞きますと、私たちは、メシアは、恐ろしい裁きをもたらすお方なのではないかと、来るべきメシアについて想像するのであります。
しかし、メシアとして来られた主イエスは、譬え話で後に述べられるように、2年も実のならないいちじくの木を、もう1年だけ、その周りに肥をやってみますから、待って下さいとその持ち主、父なる神に、私たちのために、父との関係で、今もとりなしてをしてくださっているお方なのであり、そして、最後には十字架の死によって、私たちを罪の永遠の呪いから解き放ってくださったお方なのであります。
さて、このヨハネは、そのように民衆に多くのことを、又異なることどもを、訓戒しながら、福音を宣べ伝えていたのであります。ヨハネの呼びかけは、悔い改めへの呼びかけでありましたが、同時に、聖霊と火において、洗礼を授けられるメシアを指さし、良き知らせを知らせるものでもありました。  
一方、このヨハネは、人々に悔い改めの水による洗礼を説教する正しい人でありましたので、領主ヘロデ・アンチパスを、その多くのしでかしたその悪事のゆえに非難し、また、弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したことで非難したので、このことに、更に加えて、ヨハネを獄に閉じ込めて、後に殺したのでありました。
ルカはそのように、洗礼者ヨハネが命を落とすことになる出来事を先に記し、それは、洗礼者ヨハネの時代と主イエスの時代を峻別するためにそのように編集し直して、書いているのであります。
さて、そこで、成ったことには、すべての民衆が、洗礼を受けていたとき、そして、主イエスも洗礼を受けていたとき、そして、主イエスは祈っておられたと記されています。主はヨルダン川の水で洗礼をお受けになった。天上の最も高いところから、世界の地の最も低いところまで、身を降ろして、主も、私たちと同じように、洗礼をお受けになられたのであります。そして、その時、彼は祈っておられたと、記されています。ルカは、祈りの姿のイエスを繰り返し、重大な場面で記述しています。最期の十字架上の上でも祈られ、私の魂をあなたにお預けしますとまで祈られていたのであります。すると、成ったことには、天が開け、聖霊が鳩のように、有形の形で、くだってきたのであります。鳩は、イスラエルの民をも象徴し、また、天地の再創造、被造物の再創造をも表わしています。なぜ、聖霊が鳩の形において降ったのか、諸説がありますが、鳩の降下に続いて、声が成り、あなたは私の愛する子、私の心に適う者という声が聞かれたのであります。「娘の声」という鳩が、ぐうぐう鳴くような声が天からそのように、聞こえて来たのでしょうか。よく分かりませんが、鳩の有形の形で、聖霊が降り、「あなたは、私の愛する子、神の独り子、あなたにおいて私は喜んだ」というふうに、原文は成っているのであります。
この主イエスの洗礼における出来事は、神と神の独り子、イエスとの独一的な親密な関係を表わしています。
主イエスは、聖霊と火で私たちに洗礼を授けてくださいます。それは、私たちが実を結ばないので直ちに裁かれるのではなく、かえってご自身が十字架にかかって、私たちのために罪を赦してくださる、そのような洗礼を授けてくださるのです。ヨハネは、悔い改めの洗礼を水で授けましたが、主イエスは、火と聖霊で、私たちをまったく新たに、再創造して、新しく生きることができるように、してくださったのです。そのような意味で、主イエスもヨハネから、洗礼を受けられたのであります。私たちが、罪赦されて、新しい人間として、生きていけるように、聖霊と火で洗礼を施してくださったのであります。本日の礼拝に集っている私たちは、そのイエスの洗礼に与った者の群れであります。
私たちは、私たちの周りの人々、身内や友人をも、このイエスの洗礼に与ることができるように、この一年、主イエスと共に祈りながら、教会生活を続けてまいりましょう。
長い一生の間には、しかしなお、私たちは、罪を、言葉と思いと行いとによって犯さざるを得ない弱い存在であります。しかし、主イエスから受けた聖霊と火とによる洗礼は、すべての罪を取り除くほどの強い、神によって設定された恵みの手段であります。
マルチン・ルターも、サタンに悩まされたとき、インク壺を壁に投げつけて、自分は洗礼を受けている、自分は洗礼を受けていると繰り返し言って、サタンの試みを退けたと言われています。
私たちの受ける洗礼は、外観上は、洗礼者ヨハネが行った、ただの水による洗礼でありますが、父と子と聖霊のみ名によって、受けるものでありまして、洗礼者ヨハネが良き知らせとして、説教していた聖霊における、そして、火におけるキリストの洗礼なのであります。
父なる神と御子なるイエスが、「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者」と天から声が成った、その父と御子との独一的な関係が示された、その洗礼に私たちも与っているのであります。今日の日課の出来事は、私たちと無縁な出来事ではないのであります。そのためにこそ、主イエスは、私たち、民衆と同じように、身を低くして、ヨルダン川の深みにまで降りて来てくださったのであります。聖霊と火による洗礼は、旧約聖書で既に預言されているものでありました。霊と火が、私たちにも降り注ぐ出来事が、本日の主イエスも洗礼を受けたという出来事の中で、成就されたのであります。そのように想起しながら、私たちの受けている洗礼を大切にし、又、聖餐をも大事に守っていきたいものであります。
2013/01/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「救い主の星に導かれて」(マタイ2:1-12)
マタイ2:1-12、2013・01・06、顕現日(典礼色―白―聖餐式)、イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12

マタイによる福音書2:1-12
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いてエルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。






説教「救い主の星に導かれて」(マタイ2:1-12)

皆さん、新年明けましておめでとうございます。昨年の12月24日夕方から始まったクリスマスも今日まででおしまいであります。そして、そのクリスマスの終わる日は、いつも、顕現主日として、福音はマタイ2:1-12が与えられています。今年は、初めての日曜日が顕現主日となっています。昔から、3人の博士たちの来訪として、特に、ヨーロッパの教会では大切にされてきた個所であります。
3人というのは、彼らの差し出した宝箱からの贈り物が金、乳香、没薬であったからでありまして、後には、この3人は、王であったというふうに伝説となって、伝えられてきました。そして、ルターや、初代教父たちは、その3つの贈り物は、この生まれた子、メシアが、王であり、神であり、また、受難と死を表わしているものだと解釈しました。これらは、アラビアや中近東の特産でありますが、ルターたちが先のように、解したのも、故あることだと思います。
皆さんは、このお正月どのように過ごされたことでしょうか。私も、元旦礼拝が終わった後、松山にいる母を訪ねて帰って来ましたが、兄や妹にも会い、身内にもあって、改めて、キリスト教を伝えることの困難さを味わって戻ってきました。今日の個所を思い起こしてみましょう。
ヘロデ王の日々に、東方から占星術の学者たちが、エルサレムへと到着した。そして、ユダヤ人たちの王としてお生まれになった方はどこにいますか。私たちはその方の星が昇るのを見て、拝むために来たからですと尋ねます。ヘロデも、全エルサレムもそれを聞いてうろたえたというのです。そして、民の全祭司長たちや律法学者たちを呼んで、どこで、メシア、ユダヤの王が生まれることになっているのかとヘロデは問いただします。ヘロデにとっては、自分がユダヤ人の王であるのに、別なユダヤ人の王が生まれたと聞いては、うろたえるしかないのであります。
民の全指導者たちは、旧約の中から引用して答えますが、自らそこに赴こうとはしないのであります。彼らは、それは、ユダヤのベツレヘムです。預言者を通して書かれている通りです。すなわち、ユダのベツレヘムよ、お前は、ユダの君たちの中で、決して、一番小さいものではない。お前から、指導者が出て、イスラエルの民を牧するであろうと、書かれていますといいます。また、ヘロデは、占星術の学者たちをひそかに呼んで、その方の星はいつ輝いたかと聞き、それを彼らから確かめて、ベツレヘムへと行かせ、見つけたらすぐに、私のところに報告してくれと言って送り出します。
占星術の学者たちは、それを、聞き流して、出て行くと、見えなくなっていた主の星が導き、その子のいる真上で止まります。そして、非常に大きな喜びを喜んだというのです。そして、彼らは、宝物から、金、乳香、没薬を差し出して、拝んだ後、渡します。そして、夢で、ヘロデの元へ帰るなとお告げがあったので、別の道を通って彼らの国へと立ち去ったのであります。私たちは、主の救いの星に導かれて、主の導きを信じてこの一年を歩んでいきたいものであります。アーメン。

2013/01/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神殿礼拝を守るヨセフとマリア」(ルカ2:21-24)
ルカ2:21-24、2013・01・01、主の命名日(典礼色―白―聖餐式)、民数記6:22-27、ペトロの手紙二1:1-11

ルカによる福音書2:21-24
 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名づけられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。



説教「神殿礼拝を守るヨセフとマリア」(ルカ2:21-24)
皆さん、2013年の正月を迎え、おめでとうございます。また、私たちは、今、クリスマスを祝っている最中でもあります。そして、1月1日、本日は、毎年、主の命名日としての礼拝を、教会は祝ってきたのであります。
昨年の12月25日から八日目の本日、主がイエスと命名されるという厳粛な日を迎えているのであります。本日与えられましたルカ福音書2:21節から24節という短い個所が、主の命名日には、毎年読まれるのであります。
これは、クリスマスイブ礼拝で読まれましたルカ2:1-20の記事と、先週の日曜日、降誕後主日に読まれましたルカ2:25-40の記事の間に記されている短い記事であります。まず、ルカ2:21は、主の命名にかかわる大事な1節であります。そして、その割礼のための8日の日々が満たされたとき、その時、彼はイエスと名づけられた、これは、天使によって彼が胎内に妊娠する前に名づけられたものである、とこの記事は記されています。 
イエスとは、「神は救い」という意味の名前であり、ヘブライ語ではヨシュアであります。マリアとヨセフは、その告げられた通りに、生まれた子を命名し、また、このときに、ザカリアがその息子の名をヨハネと名づけ、また、その日に割礼を施すことになっていたのであります。
主イエスも、アブラハムの子孫として、当時のユダヤ人とまったく同じように割礼をも受けたのであります。これは、神である方が、人となり、しかも、罪人と同じ位置にまで降りて来られ、十字架の上で流された血を暗示させる最初のしるしとして、割礼の血を流されたのであります。
この2:21は、ルカによる福音書全体の要約のようなものであります。あたかも太字のゴチック体でこの一文は全体の見出しのように書かれているものであります。
それから、2:22-24が続くのであります。「彼らの」清めの日々が満たされたとき、モーセの律法に書かれている通りに、彼ら、すなわち、両親は、彼を主にささげるために、奉献するために、贈呈するために、エルサレムへと、ベツレヘムから連れ上ったのであります。「彼らの清めの日々」とはユダヤ人たちの清めの日々とも解しえますが、マリアとヨセフの「清めの日々」と考えるべきでしょうか。
初めての男の子、胎を開いた初めての男の子の場合は、出エジプトの出来事に由来して、母は7日汚れ、そしてその後30日間、合計40日の日々が清めのための日々として、神殿に詣でるわけにはいかなかったのでありますが、この期間を終えて、彼らは、神殿に彼をささげるために、主の律法に書かれている通りに、主に聖なるものと呼ばれるであろうという定めに従ったのであります。そして、主の律法で言われている通り、いけにえを与え、ささげるために、すなわち、山鳩の一つがいか、家鳩の雛二羽を持って、神殿に詣でた、礼拝しに行ったのであります。
ヨセフとマリアは、それほど裕福ではなく、どちらかといえば、貧しかったのでありますが、当時の敬虔なユダヤ人として、エルサレムの神殿に、詣でる、礼拝をするカップルであったのであります。
私は、なぜ、ユダヤ人たちが今もなお旧約聖書だけにとどまって、イエス、神は救いということが実現した、イエスこそがメシア、キリストであることを信じて新約聖書にまで来ないのかと昔から疑問に思っていますが、少なくとも、マリアとヨセフは、生まれた子供が、「神は救い」というメシアの実現を信じた両親であったことを幸いだと思うのであります。神殿礼拝を守った敬虔なユダヤ人としてのヨセフとマリアを覚えて、私たちも、この一年、教会での礼拝を大事にしていきたいものであります。アーメン。






2013/01/01(火) 11:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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