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津田沼教会 牧師のメッセージ
「マリア、祝福された方よ」(ルカ1:26-38)内海望牧師
ルカ1:26-38、2012・12・16、待降節第3主日(典礼色―紫―)、サムエル記下7:8-16、ローマの信徒への手紙16:25-27

ルカによる福音書1:26-38
 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。


説教「マリア、祝福に満ちた方」(ルカ1:26-387)内海望牧師

 今日の日課とそれに続く46節以下の「マリアの賛歌」と呼ばれる個所は、聖書の中でも最も美しい場面の一つです。マリアのもとに天使の長であるガブリエルが神さまからの伝言を届けました。それは「あなたは世界を全く新しくする救い主の母になる」というものでした。たくさんの画家がこの場面に感動して、「受胎告知」の場面を描きました。また、音楽家は46節以下の「マリアの賛歌」(この賛歌のラテン語訳の最初の言葉をとって「マグニフィカート」あるいは「マニフィカト」と呼ばれる)から多くの音楽を生み出しました。ルターも『マグニフィカート』と呼ばれ今なお読む者に感動を与える珠玉の一文を書きました。マリアという名前は今日でも、世界中の教会(東方教会、ローマカトリック、プロテスタント教会の礼拝で、あるいは修道院)で途切れることなく歌われています。
 それでこの出来事に出会ったマリア自身の心はどうだったのでしょうか。聖書には、天使からの神さまの伝言を聞いた時、マリアは「戸惑った」「考え込んだ」と記されています。
ガブリエルが続けて「恐れることはない」と語ったことを考えると、喜びより「恐れ」「おびえ」を感じたのが真相ではないでしょうか。マリアは自分の所に神さまからの使者が来たという事実に怯えてしまったのです。神さまの前に立つ恐れです。ですから、「おめでとう、恵まれた方(祝福された方=ルター訳)と言われても、喜びより怯えてしまったのです。
 マリアは自分が神さまに覚えられるような信仰深い行いをしたとは少しも思っていませんでした。立派な人格の持ち主でもないと自覚していました。ですから、マリアは率直に「私は主のはしためです。」と答えています。また48節でも同じ言葉を繰り返し、「身分の低い、このはしため」となお自分を低くしています。ここで「身分の低い」ということばは、おそらく「日の当らない所に生きている」という意味でしょう。「人生の苦悩を知っている人」と言い換えてもよいでしょう。ルターは想像をたくましくして、「マリアは哀れなみなしごであったかもしれない」とまで書いています。ある聖書注解者が「自分は存在する意味がない」と解釈しているのを考えると、ルターの想像もあながち的外れでもないかもしれません。何れにせよ、マリアは神さまに特別に選ばれるような資格・美点を持っている人物でなく、むしろ日の当らない低い所に生きる苦悩を知る人であったことは間違いありません。そのマリアに今ガブリエルが喜びのメッセージを運んで来たのです。
 マリアは理性の命じる所に従って一応反論したかったのですが、ガブリエルが「神には出来ないことは何一つありません」と言われた時、この神さまからの伝言を素直に受け入れたのです。ここで「恐れ、おびえの心」が「感謝の心」に変わりました。それは「神さまがこの身分の低い取るに足りない私にも目を留めて下さっている」という事実を信じることが出来たからです。神さまのために何一つ差し出すものが出来ないこの私のことを神さまが気遣って下さっている、これこそマリアにとって何よりも大きな喜びであり、奇蹟でした。「お言葉通り、この身に成りますように」と答えるマリアの姿は、まさに無償の祝福を受けた者の美しさに満ちていたことでしょう。
 今日、私たちが信じたいのは、マリアを心に留められた神さまは、今ここにいる私たちをも心に留めて下さっているのです。私たちに何の取り柄もないとしても、赦されない罪人であっても、神さまは、「私たちをしっかりと心に留めて下さっているのです。決して忘れ去られてしまう存在ではありません。このことを信じるのがアドベントの喜びです。
 かつてマリアの謙遜を称賛する時代がありました。しかし、ルターは、この受胎告知の場面で大切なのはマリアの謙遜でなく、神さまの顧みこそ驚くべき喜びであると語りました。私もそう思います。

 マリアはこの喜びを心に秘めて、その喜びだけで一生涯生きて行くことも出来たことでしょう。それほどの喜びでした。しかし、マリアがまだ知らない福音の深みがこの出来事にはあったのです。マリアの名前は、共観福音書では誕生の後、エルサレムの神殿でシメオン、アンナに出会ったこと、エジプトへ逃亡したこと、12歳の時神殿に行ったことでぷっつりと途切れています。ヨハネ福音書だけがカナの結婚式、そして、19章にイエスさまの十字架の傍らに立つマリアに触れています。特にこの個所は非常に大切な個所だと思います。何故なら、それはマリアがベツレヘムからゴルゴタまでイエスさまと行を共にしたことを強く示唆する一節だからです。何故なら、共観福音書は皆、イエスさまの宣教活動の初めから、十字架、復活まで、女性たちがイエスさまに従って来たと語っているからです。マリアもその一人であったと信じることは容易に出来ます。つまり、あのアドベントのマリアはイエスさまの十字架の死と復活に出会ったのです。マリアは、この時初めて福音のすべてを理解することが出来たのです。ベツレヘムの飼い葉桶はゴルゴタの十字架、そしてイースターの喜びへと続いていたのです。アドベントの出来事は美しい牧歌以上の深さを含んでいたのです。
 なぜイエスさまは十字架の苦しみと死を負わなければならなかったのでしょうか。それは私たちの罪の赦しのため、私たちが滅びないためです。私たち一人一人に目を留めて下さった神さまは、私たちを罪と死の縄目から解き放つために、この世に来られた方なのです。イエスさまは、飼い葉桶にまで身を低くして、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ姿になられた方であり、私たちの負うべき罪と死の重荷を担って下さった方なのです。私たちの悲しみ、罪の悲惨を負う僕として、そして何よりも私たちの罪と死を自分のものとして負って下さったのです。私たちの罪は、イエスさまの死を必要とするほど深いものだったのです。
 私たちは、人生を長く歩むに従って心が鈍感になってしまうことがあります。何でも自分で出来るような妙な自信をつけて「霊性の欠乏」に気付かなくなってしまうことがあるのです。確かに「飢え」があるのですが、それを心の下に押し込んでしまうのです。しかし、私たちの心はいちばん深い所で罪と死の重荷に苦しみ、救いを求めているのです。それは自分の力ではとうてい贖うことが出来ないほど大きいのです。私たちは日常のルーティンにただ流されるような生活の中で、立ち止まり、心の奥底にある「魂の叫び」(霊の渇き)に耳を傾ける必要があります。「霊の渇き」それは「救って下さい。赦して下さい」という祈りです。マリアも人生の途上で何度もこの祈りを口にしたことでしょう。
 そのような私たち人間の魂の底からの祈りを聴き取り、私たちに罪の赦しと新しいいのちを与えるために、イエスさまは十字架の死という代価を支払って下さったのです。マリアはイエスさまの十字架の死を見つめながら、福音の大きさに改めてひれ伏したことでしょう。
そしてイースターの朝、心からの感謝を持ってイエスさまがその世界に来られたことを喜んだことでしょう。そして、クリスマスに起こった奇跡はこのことであったのだと改めて心にとめ、きっと新しい「マグニフィカート」を歌ったに違いありません。
 「マグニフィカート」という言葉は英語の「マグニファイ」(大きくする)という言葉と同じです。マリアはこの取るに足りない、無にすぎないような私にまで目を留めて下さった神さまを出来るだけ大きくしたかったのです。そして自分は出来るだけ小さくしたかったのです。そして今、その福音の大きさ(高さ、深さ)が計り知れないものであったということを改めて知ったのです。それはマリアだけでなく、世界を包む神さまの愛の出来事であったことを知ったのです。
 私たちは既にイエスさまの十字架の死と復活の出来事を知っています。先ほど、アドベントの福音は、神さまが私たち一人一人のことを心にかけて下さっていることだと申し上げました。ベツレヘムの飼い葉桶からゴルゴタそして復活の朝の出来事を見つめてみましょう。その時、私たちも十字架の傍らに立つマリアと共に「神さまが私を心にかけて下さっている」という福音の意味を心から知ることが出来るでしょう。それはひとり子の血をさえ惜しまないで私たちを罪と死の縄目から解き放って下さったということなのです。
 「聖なる楽観主義」という言葉があります。現在の宇宙天文学の知識からすれば、太陽系の中の地球など本当にちっぽけな塵のような小さな存在にしか見えません。そのような地球が消え去ってしまわないのは、神さまの顧みがあるからなのだと語った人がいます。そして、たとえ私の生活が、またこの世界が、どんなに暗くても絶望的に見えても、あのマリアを心に留めて下さったイエス・キリストにおいて示された神さまの愛を信じる時、希望を失わない日々が与えられます。
 ルターは、イエスさまが私たちの只中に来て下さったこと、そして私たちを赦すため私たちに仕える僕として十字架を担って下さったという奇跡に比べれば、ほかの奇跡は小さな出来事にすぎないと、クリスマスの説教で語っています。その通りです。今日は、この奇跡をご一緒に信じましょう。パウロは、「私の福音」という言葉を用いています。パウロにとって救い主の到来は抱きしめたくなるような身近な出来事だったのでしょう。
 このことを覚え、心から悔い改め、世界の希望であるイエス・キリストのご降誕というクリスマスの喜びを全世界の人々、すべての被造物と共にしようではありませんか。
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2012/12/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)