津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「多くの人を立ち上がらせるお方」(ルカ2:25-40)
ルカ2:25-40、2012・12・30、降誕後主日(典礼色―白―)、エレミヤ書31:10-14、
ヘブライ人への手紙2:10-18

ルカによる福音書2:25-40
 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」
 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分の町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。



説教「多くの人を立ち上がらせる方」(ルカ2:25-40)
 本日は、降誕後主日であり、クリスマスの期間に入っています。与えられています個所は、シメオンとアンナとの神殿でのヨセフとマリアと赤子の主イエスとの出会いであります。このような、赤ちゃんイエスを見て、待たれたメシア、救い主だと分かるということは、不思議なことでありますが、御子の降誕に当たっての不思議な出来事として、ルカ福音書は、私たちに書き残してくれているのであります。
 この子は、待たれて来たメシアだとシメオンとアンナは分かったのでありますが、二人とも老人と考えられます。老人は、経験も豊富で、人を見抜く力もしばしば、優れているものでありますが、シメオンは、この子を、メシアだと、聖霊に導かれて神殿にやって来て、出くわすなり、見抜くのであります。ルカは、この人は、敬虔で神を畏れる人であって、メシアに会うまでは死を見ないであろうと約束されていたと言います。そして、その通り、見るなり、両親から、この子を抱いて、ヌンク・デュミトス、ルーテル教会の式文に特徴的な、ヌンク・デュミトスを歌い、信仰を告白するのであります。
 そして、この子は、多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせることになる。そして、マリアに、あなたの心も剣で刺し貫かれるだろうと、語るのであります。そして、それは、人間の心の中にあるものが、あらわになるためである、とシメオンは語るのであります。
 イエス・キリストを私たちが宣べ伝えても、必ずしもそのすべての人が、従順に受け入れるわけではありません。否、むしろ、シメオンが言うように、多くの人の反対を受けることになるのであります。
 しかし、一方では、聖霊の導きと言いましょうか、神さまの恵みによって、主イエス・キリストの故に、主イエス・キリストを救い主、自分の罪の贖い主であると、告白して、聖書に従って一生を送る人も稀ではないのであります。
 使徒たちから始まった伝道、宣教によって、この2000年来、世界中に、キリスト教が広まって来ているのであります。私たちは、日本人の人口のうちの1パーセント程の人しか教会に行っていないと嘆く必要はないのであります。
 一生をかけて、イエス・キリストを救い主として、証しして行くのであります。往々にして、キリストを信じる私たちよりも、信じるに至っていない人たちの中に、もっと優れた、行いの立派な人がいる者であります。私も、自分を顧みまして、例えば、兄よりもずっと、人格も、行いも、生活も見劣りすることを痛感させられます。しかし、本日であったシメオンの信仰告白を知らされている者として、より劣った、土の器に過ぎませんが、「キリストによって、立ち上がらせられている者であることを確信するのであります。
 年老いた女預言者アンナも、御子をほめたたえて、人々に証ししていたと本日の記事は伝え、そして、御子は、ルカによれば、ガリラヤのナザレに帰って、成長し、強められ、神の恵みが、御子の上にとどまっていたと締めくくられているのであります。
 私たちは、悲観しないで、この御子こそ、唯一の救いであり、私たちの罪のためにやがて、十字架につかれ、死んで、復活なさり、今も、天の父の右の座に座して、聖霊を送りたもうお方であることを、宣べ伝えてまいりましょう。アーメン。



スポンサーサイト
2012/12/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「まことの主、キュリオス」(ルカ2:1-20)
ルカ2:1--20、12・24、降誕祭(前夜)(典礼色―白―)、イザヤ書9:1-6、テトスへの手紙2:11-14


ルカ2:1-20
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝させた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天への大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。




説教「まことの主、キュリオス」(ルカ2:1-20)

皆さん、クリスマス、おめでとうございます。私たちは、毎年、地域の方々をもお招きして、クリスマスイブの礼拝を共にします。そして、イザヤ書9章とテトスへお手紙2章の御言葉、そして、ルカ福音書2:1-0を毎年、聞くのであります。
ルカ20:1-20を中心として、本日のみ言葉を聞きましょう。主イエスはルカ2章に入るまで、前面にでて来ません。そして、2章に入って初めて、生まれた赤子として登場するのであります。それは、奇跡による誕生ではなく、当時のローマ帝国の力による平和、パックス・ロマーナと呼ばれる力による平和のもとに翻弄されながら、皇帝アウグスツフスの治世のとき、そして、クリニウスがシリアの総督であったときに成った人口調査を契機として、起こるのであります。
アウグスツゥスは、紀元前31年くらいから紀元後11年くらいまでの間、ローマ帝国の皇帝であり、本名はオクタビアヌスという名で、アウグスツゥスというのは、称号でありました。それから、現代まで2000年も経ち、世界は軍事力による支配と経済力による支配を、大きな国家が興っては、栄華盛衰を繰り返してきたのであります。
日本も現在、経済力では世界3位ですが、2050年には、今の人口の三分の二になると予想されています。
さて、その人口調査のため、ガリラヤのナザレから、ユダのベツレヘム、「パンの家」という意味のダビデが王となる前に少年として羊飼いをしていた町に、ダビデの家と家族の出であったので出身地の町、ベツレヘムへと進んでいたのであります。
ところが、一緒に連れて来ていたいいなずけのマリアが、月が満ちて最初の赤子を産み、布切れでおおって、飼い葉桶の中に寝かせたのであります。
彼らには客室において場所がなかったからだと聖書は記しています。どちらかと言えば、貧しい地位にあって生まれ、後に、主イエスも言われるように、「人の子には、枕するところがない」のであります。
そのころ、その地域では、ベツレヘムから死海に少し下ったところに、「羊飼いの野」と言われている羊を飼う者たちの場があり、そこで、羊飼いたちは寝ずの番をして、その群れを守っていました。
するとそばに、天使が立ち、彼らを天から光がスポットライトのように照らしたのであります。彼らは大きな恐れを恐れさせられたと、原文では書いてあります。私たちは今は、この津田沼という大都会に住んでおりまして真っ暗な闇夜を知らず、古代の人々のように神さまを身近に感じることが少なくなっているかも知れません。
さて、天使は、「恐れるな、なぜなら、今日、ダビデの町で救い主があなた方のために生まれた。この方こそ主、キュリオス、メシア、キリストである」と告げます。そして、「これが、しるしであり、あなた方は飼い葉桶に寝かされた赤子を見出すであろう」と語るのです。そして、突然、天使の大きな軍勢が起こり、「いと高きところでは神に栄光が、地には平和が、み心に適う人間たちのうちにある」と賛美の歌声を奏でるのであります。「み心に適う人間たちにおいて」というのは、弱く、自分の罪深いことをよく知っている、神さまのご好意なくしてはまともに生きていけない者たちにということであります。それは、突き詰めていけば、私たち人類のすべての者であるとも言うことができるでしょう。津田沼教会は、千葉ベタニアホームという4つの母子ホームと2つの保育園を営んでいますが、津田沼教会が深いかかわりを持つその傘下の夏見母子ホームという30家族くらいの母子ホームがあります。その職員の女子青年の方が、今は結婚してやめられ、遠くへ転居しましたが、「私は教会に来ると、自分が独りではないのだなあと感じます」と言っておられました。
そうです。神のご好意によって、御子イエスが与えられ、私たちはもはや、いかなる窮乏や試練の中にあっても一人ぼっちではないのです。
さて、天使たちが去っていったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムの町に行って、主が語られたことを見てこようではないか」と急いで出かけるのであります。そして、マリアとヨセフと、飼い葉桶に寝かされた赤子を見出し、羊飼いたちは、天使が語ってくれたことと、言われたとおりだったことを、人々に知らせます。人々は、驚き怪しんだのでありますが、マリアは、ずっと、これらの言葉、出来事について思い巡らしていたのであります。それを聞いた当時の人々は、そんなこともあるものだろうかと、信じることはできないままで、ただ聞き流したのでありますが、マリアだけは、一連の出来事を知らされて、その意味をあれこれと考え、心に納めていたのであります。
そして、羊飼いたちは主から言われたとおりに見聞きしたことで、神をほめたたえ、賛美しながら、帰っていったのであります。主イエスは、当時考えられていたローマ皇帝アウグスツゥスが主、キュリオス、なのではなく、この人間となって生まれた神の子こそ、私たちの「まことの主、キュリオス」であり、真の平和、平安をもたらす方であります。
神と疎遠な関係になっていた私たち人間をいやす救い主としてお生まれになり、しかも、その知らせは、当時の人々の中にあって、局外者であった羊飼いたちに知らされ、彼らは、信じ、それを確かめ、人々にも証ししながら、日常の生活へと戻っていったのであります。
私たちも、羊飼いたちに倣い、このまことの平安の主、キュリオスを宣べ伝える証し人となって、クリスマスを過ごし、また新らしい年2013年を迎えたいものであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなた方を守るように。


2012/12/24(月) 19:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「マリアのエリサベト訪問」(ルカ1:39-45)
ルカ1:39-45、2012・12・23、待降節第4主日(典礼色―紫―聖餐式)、ミカ書5:1-4a、
ヘブライ人への手紙10:5-10

ルカによる福音書1:39-45
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ゼカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」



説教「マリアのエリサベト訪問」(ルカ1:39-45)
皆さん、クリスマス、おめでとうございます。本日は、待降節第4主日で、まだ、聖卓などの色は紫ですけれども、私たちは、この日を12月25日前の近い日曜日としてクリスマス主日としても、毎年祝うのであります。
本日与えられている記事はルカ1:39-45であります。先週の天使による受胎告知に続く記事であります。原文を見ますと、それらの日々に、マリアは、立ち上がって、親戚であったと伝えられますエリサベト―、すなわちザカリアの妻で、年老いて天使のお告げによって身ごもったヨセフの母を訪ねて、ユダの山里にある町へと急いで進んでいくのであります。
特にルカによる福音書は、旅をするイエスが描かれます。9:51からは、エルサレムで十字架に付くために、顔をこわばらせて、進み始める旅の途上での出来事や奇跡、み言葉がが記されていくのでありますが、本日の記事は、主イエスがマリアのおなかに宿っての人としての始めての旅であります。この後も、主イエスがなさった数々の旅の出来事が記されているのであります。
そして、私たちの人生も、また、旅の連続ではないでしょうか。今年の一年、皆さんにとって、どのような人生の旅だったでしょうか。
さて、ナザレからユダの山地にあったエリサベトの家までマリアの旅は、何日間かかかったことでしょう。そして、ザカリアの家に入ると、マリアは、エリサベトに挨拶するのであります。低い身分の者として、平凡は田舎娘であったであろうマリアは、エリサベトに呼びかけるのであります。
すると、エリサベトのおなかにいて、6ヶ月を過ぎていた後の洗礼者ヨハネはおなかの中で跳ねたのであります。受胎後6ヶ月もすれば、おなかの中で飛び跳ねるということは、十分ありえたことでありましょう。エリサベトも、マリアも、この世の中にあっては低いものとして、どちらかと言えば、ごく普通の平凡な者として歩んでいた二人であったでしょう。しかし、聖霊を通して、また、天使のお告げを受けて、二人は、子を宿すのであります。
エリサベトは、マリアの挨拶を受けて、子が飛び跳ねた後、聖霊に満たされて、大きな叫び声でもって叫ぶのであります。「あなたは、女たちの中で祝福されています。そして、あなたのその胎内の子、実も、祝福されています。そして、私の主のお母さんが、私に向かってやってくるとは、私でもって、どこからあるのでしょう」と語るのであります。この女たちの中で祝福されていますという言葉は、女たちの中で最も祝福されているという意味であります。
さらに、「なぜなら、見よ、あなたの挨拶の声が私の両耳に成ったとき、私の胎内の赤子は、歓喜に満ちてはねたからです。そして、主から彼女にしゃべられたことどもをもって、完成、成就があるであろうと信じた方は幸いです」とエリサベトはずっと年下のマリアに語りかけたのであります。
歴史の中に、貧しいおとめと、年老いた不妊であった、この世の目から見れば、低き者であった二人を通して、救い主、み子の到来が確認され、二人は喜び合ったのであります。このアドベントの喜びのメッセージを、本日、私たちは改めて聞くのであります。この後、マリアは、マグニフィカート、マリアの賛歌を歌い上げるのであります。
旧約聖書の時代から待たれていた真のメシア王の到来を、私たちはここに見出すのであります。やがて、二人は、洗礼者ヨハネと、主イエスとして、私たちの前に登場するのであります。
教会暦での新年を、このような素晴らしい、しかし、山里のわびしい小さな町で起こった二人の出会いを、私たちも信じて喜び祝おうではありませんか。私たち、罪人のために、ついには、十字架におつきになって、救いを完成される方が、この地上に宿った日々を感謝しながら、新たな気持ちで、新年を祝いましょう。そしてこれから、ルカ福音書と共に、今年一年を、人生の旅として、新たに、歩み始めたいものであります。アーメン。




2012/12/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「マリア、祝福された方よ」(ルカ1:26-38)内海望牧師
ルカ1:26-38、2012・12・16、待降節第3主日(典礼色―紫―)、サムエル記下7:8-16、ローマの信徒への手紙16:25-27

ルカによる福音書1:26-38
 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。


説教「マリア、祝福に満ちた方」(ルカ1:26-387)内海望牧師

 今日の日課とそれに続く46節以下の「マリアの賛歌」と呼ばれる個所は、聖書の中でも最も美しい場面の一つです。マリアのもとに天使の長であるガブリエルが神さまからの伝言を届けました。それは「あなたは世界を全く新しくする救い主の母になる」というものでした。たくさんの画家がこの場面に感動して、「受胎告知」の場面を描きました。また、音楽家は46節以下の「マリアの賛歌」(この賛歌のラテン語訳の最初の言葉をとって「マグニフィカート」あるいは「マニフィカト」と呼ばれる)から多くの音楽を生み出しました。ルターも『マグニフィカート』と呼ばれ今なお読む者に感動を与える珠玉の一文を書きました。マリアという名前は今日でも、世界中の教会(東方教会、ローマカトリック、プロテスタント教会の礼拝で、あるいは修道院)で途切れることなく歌われています。
 それでこの出来事に出会ったマリア自身の心はどうだったのでしょうか。聖書には、天使からの神さまの伝言を聞いた時、マリアは「戸惑った」「考え込んだ」と記されています。
ガブリエルが続けて「恐れることはない」と語ったことを考えると、喜びより「恐れ」「おびえ」を感じたのが真相ではないでしょうか。マリアは自分の所に神さまからの使者が来たという事実に怯えてしまったのです。神さまの前に立つ恐れです。ですから、「おめでとう、恵まれた方(祝福された方=ルター訳)と言われても、喜びより怯えてしまったのです。
 マリアは自分が神さまに覚えられるような信仰深い行いをしたとは少しも思っていませんでした。立派な人格の持ち主でもないと自覚していました。ですから、マリアは率直に「私は主のはしためです。」と答えています。また48節でも同じ言葉を繰り返し、「身分の低い、このはしため」となお自分を低くしています。ここで「身分の低い」ということばは、おそらく「日の当らない所に生きている」という意味でしょう。「人生の苦悩を知っている人」と言い換えてもよいでしょう。ルターは想像をたくましくして、「マリアは哀れなみなしごであったかもしれない」とまで書いています。ある聖書注解者が「自分は存在する意味がない」と解釈しているのを考えると、ルターの想像もあながち的外れでもないかもしれません。何れにせよ、マリアは神さまに特別に選ばれるような資格・美点を持っている人物でなく、むしろ日の当らない低い所に生きる苦悩を知る人であったことは間違いありません。そのマリアに今ガブリエルが喜びのメッセージを運んで来たのです。
 マリアは理性の命じる所に従って一応反論したかったのですが、ガブリエルが「神には出来ないことは何一つありません」と言われた時、この神さまからの伝言を素直に受け入れたのです。ここで「恐れ、おびえの心」が「感謝の心」に変わりました。それは「神さまがこの身分の低い取るに足りない私にも目を留めて下さっている」という事実を信じることが出来たからです。神さまのために何一つ差し出すものが出来ないこの私のことを神さまが気遣って下さっている、これこそマリアにとって何よりも大きな喜びであり、奇蹟でした。「お言葉通り、この身に成りますように」と答えるマリアの姿は、まさに無償の祝福を受けた者の美しさに満ちていたことでしょう。
 今日、私たちが信じたいのは、マリアを心に留められた神さまは、今ここにいる私たちをも心に留めて下さっているのです。私たちに何の取り柄もないとしても、赦されない罪人であっても、神さまは、「私たちをしっかりと心に留めて下さっているのです。決して忘れ去られてしまう存在ではありません。このことを信じるのがアドベントの喜びです。
 かつてマリアの謙遜を称賛する時代がありました。しかし、ルターは、この受胎告知の場面で大切なのはマリアの謙遜でなく、神さまの顧みこそ驚くべき喜びであると語りました。私もそう思います。

 マリアはこの喜びを心に秘めて、その喜びだけで一生涯生きて行くことも出来たことでしょう。それほどの喜びでした。しかし、マリアがまだ知らない福音の深みがこの出来事にはあったのです。マリアの名前は、共観福音書では誕生の後、エルサレムの神殿でシメオン、アンナに出会ったこと、エジプトへ逃亡したこと、12歳の時神殿に行ったことでぷっつりと途切れています。ヨハネ福音書だけがカナの結婚式、そして、19章にイエスさまの十字架の傍らに立つマリアに触れています。特にこの個所は非常に大切な個所だと思います。何故なら、それはマリアがベツレヘムからゴルゴタまでイエスさまと行を共にしたことを強く示唆する一節だからです。何故なら、共観福音書は皆、イエスさまの宣教活動の初めから、十字架、復活まで、女性たちがイエスさまに従って来たと語っているからです。マリアもその一人であったと信じることは容易に出来ます。つまり、あのアドベントのマリアはイエスさまの十字架の死と復活に出会ったのです。マリアは、この時初めて福音のすべてを理解することが出来たのです。ベツレヘムの飼い葉桶はゴルゴタの十字架、そしてイースターの喜びへと続いていたのです。アドベントの出来事は美しい牧歌以上の深さを含んでいたのです。
 なぜイエスさまは十字架の苦しみと死を負わなければならなかったのでしょうか。それは私たちの罪の赦しのため、私たちが滅びないためです。私たち一人一人に目を留めて下さった神さまは、私たちを罪と死の縄目から解き放つために、この世に来られた方なのです。イエスさまは、飼い葉桶にまで身を低くして、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ姿になられた方であり、私たちの負うべき罪と死の重荷を担って下さった方なのです。私たちの悲しみ、罪の悲惨を負う僕として、そして何よりも私たちの罪と死を自分のものとして負って下さったのです。私たちの罪は、イエスさまの死を必要とするほど深いものだったのです。
 私たちは、人生を長く歩むに従って心が鈍感になってしまうことがあります。何でも自分で出来るような妙な自信をつけて「霊性の欠乏」に気付かなくなってしまうことがあるのです。確かに「飢え」があるのですが、それを心の下に押し込んでしまうのです。しかし、私たちの心はいちばん深い所で罪と死の重荷に苦しみ、救いを求めているのです。それは自分の力ではとうてい贖うことが出来ないほど大きいのです。私たちは日常のルーティンにただ流されるような生活の中で、立ち止まり、心の奥底にある「魂の叫び」(霊の渇き)に耳を傾ける必要があります。「霊の渇き」それは「救って下さい。赦して下さい」という祈りです。マリアも人生の途上で何度もこの祈りを口にしたことでしょう。
 そのような私たち人間の魂の底からの祈りを聴き取り、私たちに罪の赦しと新しいいのちを与えるために、イエスさまは十字架の死という代価を支払って下さったのです。マリアはイエスさまの十字架の死を見つめながら、福音の大きさに改めてひれ伏したことでしょう。
そしてイースターの朝、心からの感謝を持ってイエスさまがその世界に来られたことを喜んだことでしょう。そして、クリスマスに起こった奇跡はこのことであったのだと改めて心にとめ、きっと新しい「マグニフィカート」を歌ったに違いありません。
 「マグニフィカート」という言葉は英語の「マグニファイ」(大きくする)という言葉と同じです。マリアはこの取るに足りない、無にすぎないような私にまで目を留めて下さった神さまを出来るだけ大きくしたかったのです。そして自分は出来るだけ小さくしたかったのです。そして今、その福音の大きさ(高さ、深さ)が計り知れないものであったということを改めて知ったのです。それはマリアだけでなく、世界を包む神さまの愛の出来事であったことを知ったのです。
 私たちは既にイエスさまの十字架の死と復活の出来事を知っています。先ほど、アドベントの福音は、神さまが私たち一人一人のことを心にかけて下さっていることだと申し上げました。ベツレヘムの飼い葉桶からゴルゴタそして復活の朝の出来事を見つめてみましょう。その時、私たちも十字架の傍らに立つマリアと共に「神さまが私を心にかけて下さっている」という福音の意味を心から知ることが出来るでしょう。それはひとり子の血をさえ惜しまないで私たちを罪と死の縄目から解き放って下さったということなのです。
 「聖なる楽観主義」という言葉があります。現在の宇宙天文学の知識からすれば、太陽系の中の地球など本当にちっぽけな塵のような小さな存在にしか見えません。そのような地球が消え去ってしまわないのは、神さまの顧みがあるからなのだと語った人がいます。そして、たとえ私の生活が、またこの世界が、どんなに暗くても絶望的に見えても、あのマリアを心に留めて下さったイエス・キリストにおいて示された神さまの愛を信じる時、希望を失わない日々が与えられます。
 ルターは、イエスさまが私たちの只中に来て下さったこと、そして私たちを赦すため私たちに仕える僕として十字架を担って下さったという奇跡に比べれば、ほかの奇跡は小さな出来事にすぎないと、クリスマスの説教で語っています。その通りです。今日は、この奇跡をご一緒に信じましょう。パウロは、「私の福音」という言葉を用いています。パウロにとって救い主の到来は抱きしめたくなるような身近な出来事だったのでしょう。
 このことを覚え、心から悔い改め、世界の希望であるイエス・キリストのご降誕というクリスマスの喜びを全世界の人々、すべての被造物と共にしようではありませんか。
2012/12/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「来られる方を待つ者として」(ルカ3:1-6)
ルカ3:1-6、2012・12・09、待降節第2主日(典礼色―紫―)、マラキ書3:1-3、フィリピの信徒への手紙1:3-11

ルカによる福音書3:1-6
 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアのヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」


説教「来られる方を待つ者として」ルカ3:1-6

第2アドベントには、私たちのルーテル教会では、洗礼者ヨハネの荒れ野で呼ばわる声についての記事を、毎年3年サイクルでマタイ、マルコ、ルカ福音書から与えられています。本日の福音は、ルカ3:1-6であります。皇帝ティベリアスの御代の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、フィリポがトラコンなどの領主、リサニアがアビレネの領主であったとき、神の言葉が、洗礼者ヨハネに臨むのであります。紀元後27年辺りのことであったと考えられています。
そして、この洗礼者ヨハネこそが、荒れ野で呼ばわる声であります。そして、ヨルダン川の全近隣で、罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を説教し始めたのであります。
そして、有名なイザヤ書40:1-11から引用されるのであります。これは、第2イザヤの冒頭でありまして、慰めよ、あなたの民をあなた方は慰めよと、あなた方の神は言われると始まります。あなた方の罪咎は2倍にして満たされ、その服役は終わった。
そして、山や丘は平らにされ、谷は埋められ、バビロン捕囚から、神が導いて、イスラエルの民をエルサレムへ、シオンへと帰らせる。だから、道を平らにし、でこぼこ道は大路として、まっすぐに、ならしめよ。
草や花はしぼむ。人は、草や花に似ている。人間の生涯は、神の目から見れば一瞬、束の間のはかないものである。
しかし、神の言葉はとこしえに無くならない。それに拠り頼むしかない。そして、主なる神は、力を奮ってあなた方を導くお方である。しかし、その一方では、子羊を養う羊飼いのように、あるいは乳を飲ませる母羊たちをふところに、抱いて、導き帰られる恵みの神であると、イザヤ書は、語っているのでありますが、そのように、主イエスがやって来られる。それに備えて、道筋をまっすぐにし、大路を平らにせよ、でこぼこ道を平らにせよと呼ばわる声、それが、洗礼者ヨハネの声であり、私たちに、主イエスを迎える準備をさせる使命を持って、洗礼者ヨハネは、荒れ野で声をあげ、悔い改めの洗礼を説教して回るのであります。
この待降節の時、私たちの心から、邪悪な心を取り除き、主を迎えるのにふさわしい準備をしておきなさいと洗礼者ヨハネは声を上げるのであります。アドベント、到来、冒険の時、私たちの心をまっすぐに神に向け、クリスマスの主イエスを待ちぞなえる時として、過ごすように、イザヤが預言した通り、新約聖書の時代に入り、長く待たれた洗礼者ヨハネが、声を上げるのであります。
ルカのこの記事の特徴は、当時の歴史の中に、待たれたメシア、主イエスがお出でになられる前の状況を、当時のローマ皇帝から、皇帝は主、キュリオスとも呼ばれていましたが、その歴史の政治権力の中に、まずは、洗礼者ヨハネを「荒れ野に呼ばわる声」として、登場させる点にあります。イザヤは、バビロン捕囚からイスラエルの民を解放し、帰還させる神の声を預言したのでありますが、それから、何百年もたって、その声とは、実は洗礼者ヨハネであり、彼が、メシアのお出でになられる前の先駆者として、でこぼこの道や、山や丘を平らにするよう呼びかけるのであります。
私たちは、今、一年の教会暦の始まりを迎え、クリスマスに備えていますが、イザヤが預言しているように、私たちの心はでこぼこだらけであり、闇が覆っていると言えないでしょうか。
救い主が馬小屋で誕生するのを、迎える備えは出来ているでしょうか。真に嬉しい救い主の誕生を、心から喜べる準備ができているでしょうか。
私たちは、洗礼者ヨハネが、荒れ野で悔い改めに至る洗礼を説教している2000年近くも前と同じように、でこぼこの道のままであり、今もなお、ヨハネのあげる声に耳を澄まさなければならない生活を送っているのではないでしょうか。
預言者イザヤは、すべての肉が神の救いを仰ぎ見るであろうと預言しています。この教会暦の一年の初めは、教会暦の色は、紫であります。これは、王であるキリストを指し示すと共に、あの十字架につかれる前の受難節、四旬節の色でもあります。
そして、私たちは、救い主、イエスが、十字架につかれるために、この世界にお生まれになるのに、備えるべく、式文では、ハレルヤ三唱の代わりにキリスト讃歌を歌うのです。「キリストはおのれを低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまでみ旨に従われた」と。
イザヤが預言したバビロン捕囚からの解放と帰還の約束は、洗礼者ヨハネによって、実現するのであります。日本人も、人の生涯を草や花に譬える優れた宗教的感覚を持っています。しかし、イザヤの預言は、単なる無常観ではなく、神の言葉はとこしえに、無くならないと宣言するのであります。
私たちは、はかなく、滅びてしまうものではなく、神の言葉によって、とこしえに生きる者とされているのであります。しかし、そのためには、悔い改め、御子を迎えるために、道備えをし、心の中に巣食っているでこぼこの道を平らにしておく用意が必要なのであります。そして、そこにこそ、アドベントの喜びが与えられるのであります。もう2週間もしますと、私たちは、主のご降誕を心から祝うべくクリスマスを迎えるのであります。
私たちの罪の贖いのために、父なる神は私たちに、御子を十字架につけるべく、ベツレヘムの馬小屋で生まれさせられるのであります。
12月25日が、主イエスのご降誕の日とされたのは、主イエスが亡くなって後、何世紀もたってからのことでありました。しかし、冬至の闇の最も長い時から、再び日が長くなって行くまことの義の太陽として、主イエスは、私たちの心の闇を打ち砕いて下さる方として、人々に光を与え、希望の光をもたらす方として、この日にお生まれになったと人々は信じるようになったのであります。
心の中の闇、憎しみとか怒りを、私たちは、まことの光としてお生まれになられるお方によって打ち砕いていただかねばならない。その準備をなすべく、洗礼者ヨハネは、今も荒れ野で呼ばわるのであります。まっすぐな大路を私たちは用意して、主のご降誕に備えていきましょう。アーメン。



☆津田沼教会クリスマスのご案内

○12月22日(土)午後3時~5時、教会学校クリスマス会

○12月23日(日)午前10時半~12時、待降節第4主日・クリスマス主日礼拝
         正午~午後2時、祝会

○12月24日(月・休日)午後7時~8時、クリスマスイブ燭火礼拝

○2013年1月1日(火)午前11時~12時、主の命名日礼拝







2012/12/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「再び来られる王」(ルカ19:28-40)
ルカ19:28-40、2012・12・02、待降節第1主日(典礼色―紫―聖餐式)、エレミヤ書33:14-16、テサロニケの信徒への手紙二3:6-13

ルカによる福音書19:28-40
 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。
 天には平和、
 いと高きところには栄光。」
 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」





説教「再び来られる王」(ルカ19:28-40)
 
 皆さん、アドベント、おめでとうございます。私たちは今日から、新しい教会暦の1年を始めます。ルーテル教会では、アドベント、待降節の第1主日に読まれるのは、主のエルサレム入城の記事です。
 今年は、A年、B年、C年の3年サイクルのC年ですので、ルカ19:28-40が与えられています。これは、来年の3月頃の受難節の終わりの週の枝の主日にも読まれますが、そこでは、文字通り、エルサレムに十字架にかかるために入城されるのですが、本日は世界の終りに、終末の時に再び来られる王としての再臨のイエスを覚える時として読まれるとも言えましょう。
 第1のアドベント、主の到来とは2000年ほど前にお生まれになった時、すなわち、クリスマスの時であります。
 そして、第2のアドベントとは、再臨のイエスが来られる時です。
 主イエスは、エルサレムに入られる前に、譬え話をなさった後、自分が前面にたって、エルサレムへと進んで行かれます。
 そして、オリーブ山のふもとまで来て、ベトファゲとベタニアに近づかれたとき、二人の弟子を使いに出します。向かい側のあの村へ、それはおそらく、ベトファゲでしょうがそこへと進んで行きなさい。そうすれば、まだ、だれも人を乗せたことのない子ろばがつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、なぜそんなことをするのかと尋ねたら、「彼の(それの)主が必要を持っているからです」と言いなさい。
 それで、二人が行ってみると、言われた通りであったので、それをほどいていると、その持ち主たちが、これも主人たちがという、主と同じ字が使ってありますけれども、なぜ、ほどいたりするのかと、言ったので、「彼の主が必要を持っておられるからです」と答えます。約束が前もって主イエスとの間でできていたからでしょうか、聖書はそれについては何も説明していません。
 二人はそれを引いて来て、自分たちの服をその上にかけ、主イエスをお乗せします。そして、他の者たちも、自分の服をその進まれる道へと広げます。
 これは、子ろばに乗られた主が、ある意味の王であることを示しています。大勢の弟子たちは、神がなされた大いなるみ業、奇跡を見て来たので、大声で、ほめたたえられよ、主の名において来られた方、王は、天には平和、いと高きところでは栄光がと、賛美し始めます。
 主は、ゼカリヤ書の預言の言葉にある子ろばに乗って来られる柔和な王を実演していたのでしょうか。
 オリーブ山の坂に入ると、弟子たちは皆、歓呼します。そして、群衆の中のファリサイ派どもが、先生、弟子たちを黙らせてくださいと言うと、言っておくが、もし彼らが黙れば、この石どもが叫ぶであろうと、これは、避けがたい救い主を見たからであり、だれもとどめることはできないと言われるのであります。
 私たちは、本日から始まるこのアドベントの第1主日に、再び来られる主、そして、まことの王の中の王を待ち備えるのです。そわそわする年末ですが、心を静めて、再臨の主が来られることを、心して待ちましょう。そして、第1のアドベントのクリスマス、主のご降誕を迎えるのにふさわしく、本日から、目を覚まして、新たな1年を歩み出しましょう。アーメン。


2012/12/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。