津田沼教会 牧師のメッセージ
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「戸口から見える世界」(マルコ13:24-31)栗原茂牧師
マルコ13:24-31、2012・11・25、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)、ダニエル書7:9-10、ヘブライ人への手紙13:20-21

マルコによる福音書13:24-31
 「それらの日には、このような苦難の後、
  太陽は暗くなり、
  月は光を放たず、
  星は空から落ち、
  天体は揺り動かされる。
  そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」



説教「戸口から見える世界」(マルコ13:24~31)栗原茂牧師
 
~覚悟から始めよう~
「人間の覚悟」五木寛之著(新潮新書)
~これからの時代、自分でできる覚悟の一つとして言えば、できることは一つ一つ自分でやる、ということではないでしょうか。
「覚悟」橋田幸子著(中央公論社)~戦場ジャーナリストの夫と生きた日々~
悲しみとか嘆きとか怒りと、そういう感情の高ぶりは、不思議なことにまったく湧き上がってこなかった。やっぱり「戦場ジャーナリストの妻」としての“覚悟”が、どこかで出来上っていたのでしょうか。~もう一つはっきりさせておきたいのは、真相に迫れたのは、私たち遺族と、デイヤさんをはじめとする民間の協力者の奮闘があったからだ、ということ。繰り返しになりますが、日本政府はほとんど何もしてくれなかったのです。~日本は本当に「イラクの人のために」行動しているでしょうか?私たちが「選んだ」政治家たちの決定は、果たして本当に正しい道なのでしょうか?他の誰でもなく、日本人一人ひとりがそのことを真剣に考える“時”来ているのではないかと、私は思います。
「覚悟」栗山英樹著~理論派新人監督は、なぜ理論を捨てたのか~

語句の説明 ギリシャ語は4つの言葉を使い分けて、時をどのように把握するか教えている。
1) アイオーン 生物に関して生存期間、一生、時代、この世、永遠
2) クロノス  測ることのできる短い、長い、時間
3) ホウラ   厳密に日の出から日没までの時間
4) カイロス  本質的な瞬間、決定的時点、神に与えられた“瞬間”
      (恵みの時)カイロスだけは、カウントできない“時”
絵本「風の中を変え今日も行く」 そして、 マイラ・タウンゼンドさんのこと
 使用済みの核燃料(核のゴミ)は、ガラスと混ぜ合わせたステンレス容器に詰められて“核分裂”を続けています。その危険な高レベル放射性廃棄物の容器1310本はフランスから返還され六ヶ所村の地下に保管されています。しかし英国に保管されている850本のうち、返還されたのは104本にすぎません。仮置場の六ヶ所村は、すでに満杯です。これから先どうするのでしょうか?
 下北半島迄はるばる英国から「あさこはうす」の小笠原厚子さんを訪ねて来たマイラさんの心配は尽きません。核のゴミは未来永劫どこも引き受け手はありません。そして被ばく労働者なしに稼働も制御もできないしろものなのに、その危険度を福島原発事故で十分経験したはずなのに、それでもなお、大間ではフルMOX燃料(プルトニウム)を燃やす原発工事を再開するなんて信じられないというのです。一冊の絵本という戸口から日本の現状を憂い、すぐさま行動を起こした彼女の来日は、私にとって福島事故後も原発輸出そして再稼働する日本人の反省の無さと驕り、さらには命を守る“覚悟”の欠如を問うものでした。人々の命と社会を守るという責任感の欠如があったとは、すでにこの7月「国会事故調査委員会」の報告書で厳しく批判されたことです。

斧は既に、木の根元に置かれている。(マタイ3:10)

 今回の「下北半島スタデイツアー」の感想を一言で表現すると私の場合、表記の聖句に集約される。それは幼い頃、最初に日本地図を目にした時から、下北半島は、ずっとその斧にしか見えなかったから。
 しかしツアー二日目に、この下北半島が別の呼び方をされているということを野辺地教会の牧師白土清さんに教えられた。なんと、“ついに<死も来た>半島”と自嘲気味に言うヒトがいるというのである。捨て場のない“放射性ごみ”を未来永劫引き受ける半島になってしまうとしたら、まさしくそう言わざるを得まい。同じ発音で語義を重ねる“ことば遊び”は、通常笑いの種だが、この<死も来た>半島になることだけは何としても食い止めなければならない。
   斧は既に、木の根元に置かれている。(マタイ3:10)
 ツアー三日目、一行が訪ねた小笠原厚子さんの暮らす「あさこはうす」は、鉄条網に囲まれた大間原発のすぐそばにあった。大型バスの車体を鉄条網が傷つけそうな狭い道を、運転手は何度も何度も慎重にハンドルを切りなおし奥まった「あさこはうす」に我々を運んでくれた。到着した時、我々は一斉に拍手をして運転手のプロの腕をたたえ感謝をした。それほど際どくギリギリの道だったのである。
 既に人伝には耳にしていた「あさこはうす」が目の前にあった。7年前に亡くなられた母親の熊谷あさ子さんと娘の小笠原厚子さんの二人が建てた家である。156人の地権者がいて、そのうちの155人が土地を売り払っても、最後に残った熊谷あさ子さんが守り抜いた土地に建つ家である。戦いはすでに30年余の歳月が経っている。聞くと、「あさこはうす」は、一度は請け負ってくれた大工さんが翌日に現れて、これを引き受けると、これから自分の仕事が無くなってしまうと言って断ってきたために、素人の親子が苦労に苦労を重ねて建てたものだという。やはり現地に来なければ知ることの出来ないツアーの重い意義をここでしたたかに噛みしめる。「あさこはうす」は、最後の一人になっても、へこたれてはおられない母と娘が、そうはさせじと“美しい海と大地の自然の力”を味方にして建てた“居城”だった。
 私は絵本「風の中を変え今日も行く」を買い求めて、植樹祭で汚れた手のまま厚子さんと握手をした。握り返す厚子さんの柔らかい手の感触と厚子さんの笑顔がこのツアーから持ち帰る最高の土産である。
 一行は「あさこはうす」の敷地内に三本の桜の苗木の記念植樹をした。河津桜。久々にスコップを手にする私に、スイスから参加しているWCCの核問題担当責任者であるジョナサン・フレリクスが語りかける。あの宗教改革者マルチン・ルターは“明日世界が終るとしても私は木を植える”と言ったと。
 それは私がルター派の牧師であることを知っての会話である。私は大きくうなずきながら、その時、実はもう一つの言葉を連想していた。“木には希望がある”(14:7)というヨブ記にある言葉である。酪農大学で林業を専攻するY君と昨夜話題にしたばかりであった。
 木は切られてもまた新芽を吹き、若枝の絶えることはない。(14:7)
 「我ここに立つ」これはルターが口にした言葉であるが、あの中世の時代に、圧倒的に支配するこの世の権力を向こうに回してたったひとりで立ち向かったルターの戦いが、この日、私の中で、国策を背にする電源開発と正面に向き合い一歩も引かず戦う「あさこはうす」の厚子さんの戦いと完全に重なり合って一つになった。最終日、大間原発訴訟裁判の原告団で弁護団代表の河合さんの報告を聞くと、これはまぎれもなくルターが免罪符に異議を唱えたあの“ウオルムスの国会での戦い”そっくり!である。記念植樹に込められた“希望”をつなぎたい。




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2012/11/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「すべてを献げたやもめ」(マルコ12:41-44)
マルコ12:41-44、2012・11・18、聖霊降臨後第25主日(典礼色―緑―)、列王記上17:8-16、ヘブライ人への手紙9:24-28

マルコによる福音書12:41-44
 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」




説教「すべてを献げたやもめ」(マルコ12:41-44)

今年の教会暦も来週の聖霊降臨後最終主日で終わりとなります。この時期に本日与えられているのは、マルコ12:41-44であります。このやもめは、列王記上に出てくるやもめを思い起こさせます。
主イエスは、この貧しいやもめが、持っているものをすべて、生活費、ビオスという言葉ですが、これには、生活、生命という意味もあり、彼女は、自分の生活全体を、神殿の宝物殿とも解される言葉ですが、その幾つも置いてあるラッパ状の形をした献金箱に投げ出したのであります。この後、どうなったかは、記されていません。この後、主イエスも十字架上にあげられ、生命を私たちのためにささげてくださるのであります。その意味で、このやもめは、主イエスをも暗示しています。
私たちも、神から与っている生命をすべて、神さまのために、ささげる生涯を送りたいものであります。
 この個所を読みます時、教会での献金のことを考えずにはおれません。維持献金が献げられないから、教会生活からやむをえず、退いてしまわれている教会員がおられます。私たちはそのような兄弟姉妹のためにも祈らねばなりません。
 そして、本日の記事において、主イエスが宣言されたように、自分の生活費を差し出した、額としては小であっても、真心のこもった献金をする者を、主は、一番多く入れたのだと言われて今も、私たちは真剣に受け止め、一緒に教会生活が守られるように、支え合いながら、津田沼教会につながる方が一人でも多くなり、支え合えるように、励みたいものであります。アーメン。

2012/11/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あなたは神の国から遠くない」(マルコ12:28-34)
マルコ12:28-34、2012・11・11、聖霊降臨後第24主日(典礼色―緑―)、申命記6:1-9、ヘブライ人への手紙7:24-28

マルコによる福音書12-28-34
 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。



説教「あなたは、神の国から遠くない」(マルコ12:28-34)

今年マルコ福音書と共に歩んできた教会暦も気が付きましたら、もうあと、主日が3回ほどになりました。そして、本日の記事も、既にエルサレムにおいて、マルコによれば、主が十字架におつきになるために、お入りになったところでのある律法学者との対話のやり取りであります。宣言物語という範疇に属するとも言えましょう。サドカイ派が復活はないとして主イエスに議論を吹きかけ、7人の兄弟が次々と死に、レビラート婚に従って、一人の女を次々と妻として受け継いだとき、復活があるものなら、天の国では彼女はだれの妻になるのかと論争したのでありますが、天の国では、死者たちは天使のようになって、地上の夫婦がそのまま夫婦になるということなどはないと主は論破されたのでありますが、それに続いて、一人の律法学者がそばによって来て、主イエスが立派にお答えになったのを見て、質問するのであります。
神の掟、旧約聖書において特に律法学者たちによっても、重視されていたモーセ五書においては、第一に大切な掟は、どの掟、命令でしょうかと尋ねるのであります。この律法学者は、他の一般的に主イエスに対抗し、悪意、敵対心を持っていた律法学者やファリサイ派どもとは違って、主イエスを尊敬していたようであります。ひょっとしたら、もっと早く、ガリラヤ宣教のころのエピソード、出来事であったのを、最後のエルサレムにおける出来事として、マルコがここにあえて、先延ばしにして編集しているのかもしれない。
さて、主イエスはそれはこうだと答えられます。聞け、イスラエルよ、私たちの主なる神は一なる主であり、他に、この主ヤハウェしかおられない。あなたは主なる神、ヤハウェをあなたの心の全体から、あなたの魂の全体から、あなたの思いの全体から、また、あなたの力の全体から愛するであろう。
そのように、先ず答えられるのであります。それは、4つの側面から分析的に主ヤハウェを愛せよというのではなく、先ず神が私たちを一方的に愛して下さっていることから、私たちの人格のすべてを投入して神の愛に応答するようにと言われるのであります。旧約聖書のうち、どの掟が最も大切かについては、主イエスの時代にも議論されることが多かったのであります。
当時のラビ、ユダヤ教の教師として有名なヒレルによると、あなたがされて嫌なことを他人にもしないように、それが、第一の掟であり、残りの全旧約聖書は、その注解、その掟の解釈にすぎないと教えたのでありました。
ここで、主イエスは、さらに、加えて、第2の命令は、これであると言われます。すなわち、あなたの隣人をあなた自身のように、あなたは愛するであろう、愛さなければならないと、言われます。申命記6章4-5節とレビ記19章の18節を主は、これら以上に大きな命令はないと答えられたのであります。いずれも、神がまず人を、出エジプトの体験を通して、憐れみ、私たちを愛の契約によって選ばれた民、イスラエルとして愛してくださったことから起こる愛であります。
私たちが神を愛するのは、歴史上中近東で栄えては滅びて行った大帝国や近隣の国々の神々のような偶像の神々ではなく、一なる主が一方的に私たちを顧み、愛してくださったからである。私たちは、その神の愛にただ応答するしかない者であります。
質問したその律法学者は、お見事です、先生、本当です。すなわち彼(ヤハウェ)を心の全体から、理解力の全体から、力の全体から愛すること、そして、隣人を自分自身のように愛することは、焼き尽くす献げ物や犠牲よりもはるかに勝っていますと答えますと、主は、あなたは、神の国から遠くないと答えられ、もはや、彼にあえて質問しようとする者はいないのであったと、本日の記事は結ばれているのであります。
初めから、神が私たちを愛してくださったように、私たちも神を同じように愛する(アガパオー)ことは必ずしもできることではありません。だからこそ、旧約の民たちは、日毎に、あるいは日中にも何回も、シェマー、イスラエルとこの申命記の掟を繰り返して口にし、忘れないように励んだのであります。
神を人間の側から愛する(アガパオー)という表現は、新約聖書に7回ほどしか出てきません。これは、本来神の側から、人間に対して抱く無償の愛だからであります。 
また、それと共に、隣人を自分を愛するように愛することも、私たちには容易な業ではありません。私たちが隣人を愛する(アガパオー)ことは、実際には自己献身・自己犠牲の愛へと少しずつ成長していくしかないものだと思います。そして、それはイエスがなさったあの良きサマリア人の譬えにあるような献身的な憐れみの愛であります。
さて、この律法学者は思慮深く答えたので、あなたは神の国から遠くない、神の主権に近いところにいると主イエスによって認められ、励まされるのであります。これは、終末論的な、死とか天国と地獄とか最後の審判における神の国においてその領域にあるもの、そこに近いものと認められたというよりも、現在、イエスのご来臨において、神の支配の切迫している只中で、あなたはその近くにいる、救いに近い所にいると主イエスは保証なさったのであります。
 一なる私たちの神なる主への愛と、隣人、すべての国籍や身分を超えた仲間への愛が、切迫している神の国、神の統治・主権において求められているのであります。本日登場した律法学者は、その神の国から遠くない、離れていないと主によって約束を与えられました。
 私たちは、どうでありましょうか。特に日本では、八百万の神が今でも崇拝されていると言っても過言ではありません。出エジプト、バビロン捕囚からの解放をなさしめた聖書の一なる神を信じることは決して容易なことではありません。確かに仏教や神道にも、長く日本人を支えて来た尊い教えがあり、伝統があり、私たちは、それに尊敬と畏敬の念をもって、対話し、協力すべきところでは協力し合い、理解し合うということを忘れてはなりません。
 しかし、私たちは、聖書に語り伝えられてきた一なる神、主、ヤハウェの神を信じ、そして、その神が送りたもうた唯一の御子イエス・キリストの謙遜と十字架の愛と復活を信じる強い信仰がなければなりません。
 私たちが、教会に週ごとに集まり、礼拝し、聖餐を受け、また、週の半ばにも、数名の者がみ言葉の学びと祈りのために集められるのは、この一なる神への愛のためであり、また、仲間である隣人への愛のためであります。世の中には慌ただしい変遷の現実がありますが、その中で、常に一なる神を覚えることによって、私たちもまた、主イエスから「あなたは、神の国から遠くない」と約束されるのであります。多忙な中にあっても、静寂な生活の中にあっても、この一なる神と隣人への愛をもって、聖書を離さず信仰生活を全うしましょう。アーメン。



説教のご案内
 
○11月25日(日)午前10時半からの聖霊降臨後最終主日の説教奉仕に、日本福音ルーテル教会引退教職、栗原茂牧師がお出でになられます。こぞって、ご参集ください。
 
説教者、栗原茂牧師
説教題「戸口から見える世界」(マルコによる福音書13:24-31)
2012/11/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「この世の苦難と勝利」(ヨハネ16:25-33)
ヨハネによる福音書16:25-33
 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」








説教「この世の苦難と勝利」(ヨハネ16:25-33)

本日は、全聖徒主日であります。聖徒とは、聖人君子といった意味ではなく、自分の力や功績によってはとても生きられないと痛感し、神によりすがって生き、あるいは生きてきたすべての者たちを指しています。
本日の聖壇の布は、白で、神ご自身を表しているのです。そして本日の福音は、ヨハネ16:25-33が与えられています。主が弟子たちと別れる間際にした最終講話・説教の1節であります。
主は、初めから、父なる神と臨在しておられましたが、父は、御神は、独り子イエスをこの世界に送り、そして、肉をまとい、当時の極刑でもあり、恥辱でもあった十字架におつきになり、復活して、天の父の右にお戻りになることを、本日の主は語っておられます。これまでは、なぞめいた象徴的な言論を主はなさっていましたが、本日の個所では、率直に、あけすけに、今から起こることを、語られています。主は、父のもとからこられ、この世界の悪しき者をご存知であります。主は、しかし、十字架と復活を通してこの世に打ち勝たれるのであります。まもなく、弟子たちは、主の受難のとき、ちりぢりにされ、おのおのその家へと、ガリラヤへと、イエスを独り残して、帰っていくときが来る、否既に来ていると、明白に言われるのです。
弟子たちは、主がすべてを知っておられ、誰も質問しなくても、人間のうちに何があるか、すなわち、その幼いときから、人間の心に悪が、罪があることをご存知でした。
主は、しかし、一人ではなく、父と共にいると言われます。受難のときも、十字架のときも父なる神と一緒におられるのであります。そして、主は、あなた方が、平和を持つために、このことを言っておくと言われました。
この世ではあなた方には苦悩、苦痛があるが、しかし、元気を出せ。私は世に既に打ち勝っていると言われるのであります。
本日は、津田沼教会につながる先に天に召された方々と共に、礼拝をし、聖餐に与ります。私たちは、聖餐式のとき、先に天国に行かれた方々と共に、聖餐に与っているのであります。先になくなられた方の涙を、主はみ国で拭い取ってくださいます。
色々な、最期の時を、この方々は迎えたでありましょう。人は生きてきたように死んでいくといわれます。十分なお別れもできずに亡くなられた方も少なくないでしょう。しかし、主は、すべてをご存知で、その方々を慰め、休ませてくださっています。私たちは、み言葉によって元気を出し、残された人生を精一杯歩んで生きたいものであります。アーメン。
2012/11/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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