津田沼教会 牧師のメッセージ
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「幸いな者たち」(マタイ5:1-6)
マタイ5:1-6、2012・10・28、宗教改革主日(典礼色―赤―聖餐式)、ヨシュア記24:14-24、コリントの信徒への手紙一1:10-18

マタイによる福音書5:1-6
 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
  
 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである。
   その人たちは満たされる。」



説教「幸いな者たち」(マタイ5:1-6)

 1517年10月31日に、すなわち、全聖徒の日、11月1日の前の日、ルターがヴィッテンベルクの城教会の扉に、95カ条の提題を掲げ、免罪符による当時のローマ教会の腐敗と誤りを是正しようとしました。ところが、この提題が、ルターの思いを超えて、ヨーロッパ中に反響の呼び、期せずして宗教改革の火蓋が切って落とされることになったのであります。
 この宗教改革の記念の500年祭が2017年に、すなわち、5年後に近づいてまいりました。ローマ教会とルーテル教会では、信仰義認に関して、話し合われ、数年ほど前にほぼ共通の理解が得られています。
 さて、この記念すべき宗教改革主日に、今年与えられている福音は、マタイ福音書5:1-6であります。どうして、この短い部分が、この記念すべき日に与えられているのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 イエスが集まって来た大勢の病人を癒したりしてから、主イエスはそのおびただしい群衆に目をやりながら、山に登り、腰かけると、弟子たちが近寄ってきます。
 モーセがシナイ山に登って、十戒を与えられたのと対照的に、主も、山に登り、初めてのまとまった説教をマタイ福音書のこの5章から7章までなさるのであります。
マタイでは、主イエスは第二のモーセ、しかも、モーセをはるかに上回る存在として描かれています。
主イエスは、座ったまま、口を開いて教えられ始めるのであります。そして、この山上の説教は、弟子たちに向けて語られたのみならず、心ある聴衆にも向けて語られていることが、7章の最後から理解できるのであります。
そして、主イエスは、山上の説教の最初に、本日の個所の言葉を語られています。
心の貧しい人たちは幸いである、天の国は彼らのものであると。本日の部分は、8福と言われているものの最初の4つの幸いな者たちを扱っています。それはなぜでしょうか。8福は、受動的なものから、次第に能動的な、積極的なものへと高まっていきます。
そしてまた、文体も、韻を含んだ美しい言葉で構成されています。最初の言葉は、直訳すると、祝福されている者たちだよ、霊において物乞いする者たちは。何故なら、天の国は彼らの者だからである、となります。そして、残りの3つの幸いな者たちも、同じような語順で述べられていますし、それらは、第1の幸いな者たちの具体化であります。
幸いな者たちだよ、悲しんでいる人たちは。なぜなら、彼らは慰められるであろうから。そして、第3には、幸いな者たちだよ、柔和な者たちは。なぜなら、彼らは地を受け継ぐであろうからとあり、本日の部分の第4福には、幸いな者たちだよ、義のために飢え渇く者たちは。なぜなら、彼らは満たされるであろうからとなっています。
嘆いている者たちは、神によって慰められようし、柔和な者たちは、地、全地を受け継ぐであろうし、義のため、神と人との関係で正しい振る舞いに対して、飢え渇いている者たちは、神によって満たされるであろうからと、主は約束なさっているのであります。
そして、これは、他の聴衆たちにも、語られている言葉なのですが、今一歩深く考えるならば、これらの言葉は、主イエスご自身のことを言っておられるとも言えるでありましょう。後の個所で、私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさいと言われている通りであります。
そして、宗教改革の偉大な業績を残したマルティン・ルターも、自分は神のみ前に、神のみ言葉を求める乞食にすぎないと、近づく死を前にして語ったと言われています。
主イエスに従い、また、マルティン・ルターに従って、自分の功績やタラントに頼るのではなく、恵みの神に全幅の信頼を寄せていく信仰者として、私たちも、本日のみ言葉の後に従っていく者として歩みたいものであります。アーメン。
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2012/10/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の支配にゆだねる」(マルコ10:17-31)
マルコ10:17-31、2012・10・21、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―)、アモス書5:6-15、ヘブライ人への手紙3:1-6

マルコによる福音書10:17-31
 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」




説教「神の支配にゆだねる」(マルコ10:17-31)

本日の福音、マルコ10:17-31は、弟子たちに対して、主イエスが、エルサレムに十字架にかかるために、向かいながら、教えを述べている一連の個所に続くものです。弟子たちは、主イエスとの、弟子としての最後の段階でも、主イエスの真意を悟らないでいます。主は、弟子たちに、外に対してはできる限り、寛大に、しかし、自分にたしてはとことん、厳しくあるように教え、また、先週は結婚と離婚について教え、また、子供が、主イエスご自身に向かって連れて来られるのを、妨げないようにと教えられました。
 本日の個所、マルコ10:17-31は、イエスが旅に出ようとしているときに、ある一人の人が駆け寄ってきて跪いて、質問するのです。永遠の命を受け継ぐためには、私は、何をすればよいのでしょうかと。
主イエスは、あなたは、古くからの教えを知っているはずだ。すなわち、殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、他人について偽って証言するなかれ、あるいは、あなたの父母を敬えと。
この人は、そういうことなら、若い時から、守って来ましたと、答えます。主イエスは、その時、彼を愛しながら、見つめて言うのであります。あなたには、欠けていることが一つある。あなたの持ち物、財産を売り払って、貧しい人に施しなさい。そして、やって来なさい、私に従いなさいと。その人は、ショックを受けて、悲しみながら立ち去った、なぜなら、多くの財産を持っていたからであると聖書は記しています。
それから、弟子たちに、神の国に入ることは何と難しいことであろう。金持ちが、神の国にはいるよりは、らくだが、針の穴をくぐるほうがまだ易しいと言われたのであります。
当時は、多くの財産に恵まれているのは、神さまの祝福を受けているからだと考えられていました。旧約でもアブラハムが、多くの財産に恵まれ、長生きして生を全うしたことが、記されています。
しかし、主イエスは、富の危険について、警告を発しているのであります。富、財産は求めれば求めるほど、貪欲になって、限りがないという落とし穴があるのであります。
そのとき、弟子たちは、驚いて、それでは、だれが、神の国に入れるであろうかと問うていたのであります。
そして、ペトロが、弟子たちを代弁して、御覧ください、主よ、私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりましたというのです。
主イエスは、私のために、また、福音のために、父、母、畑、兄弟姉妹を捨てた者は、今この時、迫害と共に、それらの百倍を与えられるであろうと、お答えになり、更に、来るべき世においては、永遠の命を与えられると約束なさったのであります。
ペトロたちは、すべてを捨てて主イエスに従ったと言いますが、実際には、女弟子たちが、主イエスの一行を経済的に支援し、食事の世話などもしたと考えられます。
また、主イエスのエルサレムでの十字架の死のあと、ペトロたちは、ガリラヤ湖の故郷に戻り、漁をしたりしています。ペトロには、妻もいて、後に伝道旅行に伴なったりしています。
お金が不必要だと、主イエスは言っておられるのではありません。教会につながるにも、尊い献金が必要であります。この世の財貨の危険を覚えながら、神の支配にすべてをゆだねて、思い煩うことなく、教会生活に専念することが求められているのであります。
「フーテンの寅さんとイエス」という本が出版されたりしていますが、主イエスも、フーテンの寅さんのように、無一物で、時々、故郷に戻って来ながら、神の国の宣教に専念したのであります。今日出て来た金持ちの人は、神の国に入り、永遠の命を受け継ぐためには、その大きな財産を放棄することが必要でありました。私たちは、この世の財貨を、神の国の宣教のために、用いながら、それに執着しないことが求められているのであります。主イエスは、自分に、福音に従って来る者は、迫害を受けるが、それと共に、捨てたはずの母や、兄弟姉妹や、畑をこの今、この時において、百倍も受け、来るべき世においては永遠の命を受け継ぐと約束なさり、大勢の初めの者たちが、後の者たちになり、後の者たちが、初めの者になると、警告をも発しておられます。
長い信仰歴を持った人が必ずしも、先に神の国に入ると保証されているわけではなく、後から来た人で先に神の国に入る者も大勢いると、私たちが、日々、目覚めて、信仰生活を送ることが、主イエスによって求められているのであります。
弟子たちは、主イエスの十字架と、復活の後に、初めて、主イエスの本日の教えをも理解したことでありましょう。私たちも、力弱く、愚かな者ではありますが、主イエスの約束と戒めに従って、1週間、1週間を過ごしてまいりましょう。アーメン。
2012/10/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「家庭の祝福」(マルコ10:1-16)
マルコ10:1-16、2012・10・14、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―)、創世記2:18-24、ヘブライ人への手紙2:5-9

マルコによる福音書10:1-16
 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

説教「家庭の祝福」(マルコ10:1-16)
 
本日の福音、マルコ10:1-16は、先週の福音の続きであります。先週の福音は、マルコ福音書9:38-49でありました。既に、主イエスの一行はエルサレムへの旅を始めています。それにもかかわらず、主イエスの弟子たちは、主が、主がエルサレムにおいて十字架の死に渡されることが、分からないままなのであります。
そして、先週の個所では、弟子たちは外の人たちに対してはできるかぎり寛容であるべきこと、しかし、自分自身に対しては、とことん、厳しくあるべきこと、そして、塩味の付いた平和な生活を過ごしなさいと主イエスのお言葉を通して示されたのでありました。
さて、本日の個所は、主イエスは、そこを立ってユダヤとヨルダンの向こう側へと行かれた。すると、大勢の人が集まってきたので、いつものように、教えられていた、と始まります。主イエスのいるところに、どこでも、大勢の者たちがすぐにやって来るのであります。そういう魅力と力を、主イエスは備えた方だったのであります。
主はユダヤとヨルダン川の向こう側へ行かれたとありますが、具体的にどこを指しているのかはよくわかりません。マルコは、それよりも、主イエスの行かれるところに、人々が自然と大勢集まって来て、いつものように、彼らに対して教育の宣教をしたという点に、より深い関心を持っているのであります。
そこへ、ファリサイ派の者たちが来て、イエスに、夫が妻を離縁することは、認められるのでしょうかと、彼を試みようとして質問するのであります。モーセは何と言ったかと、主イエスは問い返されます。
すると、彼らは、モーセは夫は離縁状を書いて妻と離縁することを認めましたと答えます。それに対して、主は、それは、あなたたちの心が頑固、すなわち、つむじ曲がりなので、それを認めたのに過ぎないと答えられます。
そして、天地創造の初めの時から、神は人間を、彼らを、男と女とに創られたと、創世記から説き明かされるのであります。人、アダムは、必要な助け手として、エバ、命という意味の伴侶をようやく得るのであります。人、男(イシュ)は、主なる神によって眠らされ、神はそのあばら骨から抜き出して、女(イシャー)を造り出され、与えられたのであります。それによって、男はふさわしい伴侶、助け手を与えられ、これこそ、私の肉の肉、私の骨の骨と、喜びの声を上げた出来事を、主イエスはここで取り上げられるのであります。
そして、それゆえ、人は父母を離れ、妻と引っ付けられ、結ばれる。もはや、二人は二人ではなく、一つであり、一体となる。そして、それゆえ、神が合わせられた者を、人は離してはならないと、結婚の意味を創世記の言葉から引用されて、結婚生活の大切さ、神聖さを説くのであります。神が合わせられたとありますが、これは、神が二人に、同じくびきを負わされたという意味でもあります。
さて、家に戻って、さらに弟子たちが質問していました。するとイエスは、彼の妻を離縁する者は、そして、別の者と結婚するものは、最初の妻に対して姦通の罪を犯すのであり、妻が夫を離縁して、別の男と結婚するならば、彼女も姦通の罪を犯しているのであると答えられたのであります。
モーセ五書の申命記24章の1節によれば、妻に何か恥ずべきことを見出して、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせると規定されています。
これに対して、主イエスは、ファリサイ派が質問して、彼を試そうとしたのに対し、それはあなた方の心が頑固なのでやむをえず、認めたのに過ぎないと答え、天地創造の初めから、神は彼らを男と女に造られたと、結婚の起源について、説き明かすことに専念されたのであります。
イエスの時代、男の側から、もっぱら、離縁状を書いて、女に渡し、家を出させることが行われていました。女の側から、離縁して、夫のもとを去り、別の男と結婚するならば、それも、女、妻は、姦淫の罪を犯すことになると主イエスは語っておられます。当時、女の側から離縁するということは、ユダヤ人たちの慣習では一般には認められていないことでした。ヘロディアが夫のもとを去り、ヘロデ・アンティパスの妻となったことが、主イエスのこの言葉の背景にあるのでしょうか。
いずれにしても、主イエスは、結婚生活の神聖さを、創世記の天地創造の初めに立ち帰って、説き明かししたしたのでありました。
結婚と離婚とは、それから、2000年を経た今日ではより複雑な問題になっています。ルターも、結婚生活の困難さと本当の意味での祝福を説いています。修道士であったルターは、よく知られているように、修道女であったカタリーナ・フォン・ボラと結婚しています。そして、結婚について、興味深いことを言っています。以下は、「ルターの慰めと励ましの手紙」(タッパート編、内海望先生訳、354ページ)からの文章の一部抜粋です。
「マルティン博士はため息をつき、こう言いました。「結婚というものは、何と私たちを煩わせるものか!二人をいっしょにさせるのに大きな努力、骨折りが必要だ。その後、二人のきずなを継続させるためには、もっと大きな努力がいるのだ。・・・アダムとエバは、900年の間に(創世記5章5節)容赦なく言い合った。エバがアダムに『あなたは林檎を食べた!』と言えば、『だけど何故お前はそれを私にくれたのか?』とアダムが言い返す。・・・彼らの長い生活の間、彼らは自分たちの堕落に、ため息をつかせる数知れない悪魔に出会ったことは疑いの余地はない。結婚とはそれほど大きな制度としてあるのだ!・・・だから、幸福な結婚生活を過ごす男性は幸いである。それは稀な贈り物ではあるが」。そして、後にこう付け加えました。「台所で何をして良いのか分からない妻や召使を持った男性は殉教者だ。それは、そこから多くの悪が生まれてくる、第一番目の災いなのだ」と。私が出会ったある神父さんは、60歳代でしょうか、剪定をしていて、こけてしまい、今も腰骨骨折で痛めながら、バス停まで一緒に歩きました。もちろん、独身生活をしています。独り身で大変でしょうと、言葉をかけますと、結婚生活も色々あるからねともらされたことでした。さて、本日の福音は、結婚と離婚の問題の後に、マルコ15:13-16では、主が子供を祝福なさるという出来事が記されています。これは、英国圏では、子供の洗礼式に読まれる記事です。人々が主イエスに触っていただくために、子供たちを連れて来ます。すると、弟子たちは、先生を煩わさせまいとして、彼らを叱ると、主イエスは、憤激して、子供たちが、私のもとに来るのを妨げてはならないと言われ、彼らを抱いて、両手を彼らに置いて祝福なさるという純正な主イエスのふるまいが記録されています。神からの贈り物として与えられるものを、子供たちは、無心に受け取るのであり、自分たちの功績や努力でみ国を獲得しようとはしません。そのような受容性、み国を、主イエスを、受け入れる者こそが、神の国、神の支配に与ると主は約束されているのであります。夫婦の制度の神聖さ、また、子供たちにこそ、み国が用意されていることを、弟子たちは、本日の出来事を通して知らされながら、一行は、エルサレムへの旅、主がそこで十字架の死を迎えられる旅を進んで行くのであります。私たちもまた、主イエスが回復して下さった結婚生活の神聖さと祝福、また、弱いがしかし、神の支配をしっかりと受け入れる子供たちの純真さに目を留めながら、新しい1週間へと旅立っていきましょう。アーメン。
2012/10/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ふところの深さにすがる」(マルコ9:38-50)徳善義和牧師
マルコ9:38-50、2012・10・07、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―聖餐式)、民数記11:24-30、ヤコブの手紙4:13-5:8

マルコによる福音書9:38-50
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見かけましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつかずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」





説教「ふところの深さにすがる」(マルコ9:38-50)徳善義和牧師

 今日の聖書の個所を皆さん読んで、あるいは、お聞きになって、ああ、よく分からないな、あるいは、ところどころ分かると思った方がいらっしゃいませんか。これは、イエスさまが、弟子たちを教育した教育風景、それがいくつか点描、いくつか取り出したように弟子たちが覚えていて、主として、イエスさまのお答えがずらっと書いてある。そう思ってその様子を復元してみると、少し、分かってきます。
 イエスさまが弟子たちを、教育なさった、教育の原風景、学校もありません、教室もありません。集会室もありません。教科書もありません。カリキュラムもなければ、授業の教案もありません。何にもない。状況、危機的な状況です。イエスさまは、私たちが今日読んだ一つ前を開けると、御自分の死と復活の二度目の予告をなさっている。その話を二度も聞けば、一度目は、ペトロがそんなことが起こらないようにと言って、サタンよ、引き下がれと言われたのは、聞いたところですが、それで、少しは変わるかと思ったら、変わらない。イエスさまは、二度目なさったのと、道々歩いている。イエスさまが弟子たちを教育なさった教育は、道々歩きながらの教育です。イエスさまだから、特別ということではなかったでしょう。
 孔子もそうだった、ソクラテスもそうだった。昔の教育などというものは、それは、野原の真ん中でお庭に座ったり、何にもカリキュラムもないところで、教育が行われていたのですが、この風景も不思議なわけではない。でも、事態は深刻です。何もイエスさまの受難予告の効き目がない。道々、弟子たちが、だれがいちばん偉いかと論じ合っていたのを聞いて、イエスさまはお答えになる。これが、私たちが今日読んだところの前の段落です。
で、次の段落、ヨハネがイエスさまに言う。それに、イエスさまがお答えになる。これが教室です。イエスさまは、変なことをしたとお思いになりますか。皆さん、論語という本があることお聞きになったことがあるでしょう。孔子が残した本です。これは、弟子たちと孔子の問答集が大体書いてある。そこにも、殆ど孔子の答えしか書いてないので、我々は変に思うのです。しかも、昔の言葉で。私たちは、漢文を習った最初の頃に、これを読まされました。友あり、遠方より来る、また、楽しからずや。かな文字の入ってない文章を読まされる。学びて、また、学ぶ、楽しからずや。難しい、大体、お爺ちゃんが漢文の先生でしたから、面白くない。
 こういう返答を孔子がするには、弟子がどんな質問をしたかなと考えると、俄然、面白くなる。そういう本を私は書いてみたい。しかし、時間と意欲がもうない。先生、先生はいつも物を考え、難しそうな顔をしています。先生にも何か楽しいということがあるんですかと弟子たちが聞いたに違いない。私にだって楽しいことはあるさ、友だちがいる、遠くから私のところへ訪ねて来てくれる。これは、人生の楽しみの一つではないかね。
 学びて、時に、学ぶ。本を読むさ。その本を、また、引っ張り出して読んでみる。ああ、こういうことだったのかと、新しい発見をする。これも楽しいことだろう。
 質問が出てくると楽しくなります。昨日、僕、論語面白い言葉ないか、コンピューターで、調べてみた。学びて思わざれば暗し、思いて学ばざれば、すなわち、危うし。これだけ、聞いたら何のことか分からないですね。これを、質問付きで復元してみます。先生、人間、何か一生懸命学ぶ、本を読むことに尽きるのですね。いやいやそうではないぞ、本を読むだけで、自分で考えることをしなければ、お先、真っ暗だ。自分で考えてるだけで、本を読んで、人が考えていることを自分がそこから学ぶということがなければ、独りよがりになって、危ないこと極まりないのだぞ。孔子様は、そう返事なさったのですよ。
 こういうふうにしてね、皆さん、マルティン・ルターの本が終わったら、その次に、どこか本屋さんに行って、論語の易しい本を買ってきてね、読みながら、一つ一つ、これは弟子たちがどういう質問をしたのかなと思いながら読んでみると、あのへんちくりんな難しい本が、楽しい本になります。
 今日の所もそうです。最初だけは、質問らしいのがあります。ヨハネがいささか得意げですね。先生、お名前を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、私たちに従わないのでやめさせようとしました。私たちの言うことを聞かない。あなた、それをやるならね、私たちのグループに入ってからやりなさい。それに、イエスさまがお答えになった。やめさせてはならない、わたしの名を使って奇跡を行い、そのあとで、私の悪口は言えまい。
 私たちに逆らわない者は私たちの味方なのである。どこに問題があるのかですよ。悪霊を従わせるというのは、イエスのみ名によってなのです。イエスのなさった奇跡は、イエスのみ名のゆえに起こったことなのです。それを、弟子たちは、自分の力だと思い込んだ。私たちに従って来ない、けしからんじゃないですか。
 ここに飛躍があるんですよ。私たちに従う必要はない、イエスさまに従う。この間違いを、イエスさまはすぱっと言われますね。答え、簡単です。我々の普段の言い方で言うならば、友達の友達はみんな友達。でも、ここにイエスさまが中央の柱のように立って来ると、友だちが変わってきますね。弟子たちは、イエスの弟子なのです。イエスのみ名によって語り、イエスのみ名によって祈り、イエスのみ名によってしるしを行うことを許されてその力を与えられている。いつしか、ローマ時代です、これは、俺たちの力なのだと思うようになる。その力の優れている奴はだれかと考えるようになると、だれがいちばん偉いかというところにもつながってくる。そうじゃないですね。
 我々がいつも考えなければならないのは、信仰の中で、我々はイエスの弟子、イエスのもの、だから、みんな、私の名によって、奇跡を行った後に、私のこと、悪口を言う者はいまい。そのままにしておきなさいよ。
 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、キリストの弟子だというのは、この聖書の訳しすぎですね、キリストのもの、クリスチャン、キリストのものだ、弟子まで出なくてもいい、キリストの者のはしっくれでもいい。その小さいはしくれにでも、水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。だれが偉いかというあの論争の続きでもあるような気がしますね。
 その後に続いて起こってることについては、質問が書いてありませんから、きっとおそらく、いくつかの質問があったと思います。私を信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれる方がはるかによい。前の質問ともちょっと変わってくるでしょうね。
 私たちの後について来る者の中には、大した奴じゃないんですが、いろんなことを言う男がいましてね、女でもいい。取るに足りないやつでしたから、追い出してしまいましたよ。純粋に限りますからね、イエスさまの弟子は。と、弟子たちのだれかが、私は言ったかもしれないと考える。私について来ようとする者にはどんな者にでも、心を尽くして、その人たちの魂の導きをするのが、あなたがた弟子たちの務めではないのか、とこう言ってるわけです。そんな奴はだめ、そんな奴だめといって足でけっとばす。
そんな奴はだめだと白い目で見る。こういう場面が、目に浮かぶじゃないですか。その手、その足、その目こそ、取って捨てなきゃだめなくらいだ。こういうイエスさまの返事。そういう、あなた方が小さいと思っている人、自分たちの仲間、さっきは、外の人で、ヨハネの弟子たちがイエスの名によって、奇跡を行っているのはけしからんと言った訳。今度は、自分たちの仲間でもね、えりすぐりにしようと思って、あれもだめ、これもだめというその手、その足、その目が問題だよ、そうじゃない、そういう小さい者も一人一人、イエスの名によって集まって来る者として、心を尽くして、共どもに、信仰の歩みを、イエスさまに従う信仰の歩みを続けて行くのだよ、二つ、比べて見るとこうなりますね。一つは、主のみ名によって集う者、いろんな人たちがいるにしても、ほかの人たちにはできるだけ、主のみ名によって集うという、そのことだけ、できるだけ、寛容でありなさい。しかし、弟子たち、あなた方よ、その時に、自分に関してだけは、できるだけ厳格でありなさい、我々なかなかそうはいかない、世の中の生活をしていてもね、いろいろ厳格なことを言う人いますよ。
 つつましくテレビに登場するあの方などもそうですね。いれずみしていてもいけない、首だと。市役所の職員で、自分が何か不倫したら、いやこれは、家庭内の事ですから・・・。
そうじゃないんですよ、イエスさまのおっしゃるのは。ぼくは、あの人はあそこでやめるといいと思ったね。あれであの人、男が上がるのに、あの人やめないから、今や、週刊誌の新聞の広告じゃありませんけど、もう秋風になってほしい。これは、我々の姿です。人に厳しく、自分に優しい。イエスさまが言っているのは反対ですよ。
 いや、そんなふうに、イエスの名によって従う群れのことについて、ほかの人にやさしくして、自分に厳しくする、どういう風にしたらできるんですか。誰かが聞いたんです。私たちにはそれできません。これが、最後の2節ですね。区切りがついていないから、どこで切っていいのか分からない。ここで切るでしょう。そしたら、イエスさまは、人は皆、火で塩味を付けられる。どういうふうにこれを読むか、複雑な読みになるのですが、つまり、要するに、この最後の2節で言っているのは、自分の内に塩を持ちなさい。そして、味付けするためにその塩を少しずつ持ちなさい。
 塩って難しいですね。やわらかいやつ。私なんか、時々自分でやると失敗しますね。お料理をきちっとやる人など、何とスプーンで測ったりしませんから。目も見えないのに塩の引き出しに指先突っ込んでぽいっと入れるわけですから、失敗する。
お砂糖でもぱっと入れますから甘すぎて、・・。塩味、難しいね。自分の内に塩を持って、この塩で、自分に厳しくしなさい。この塩がめから、自分は塩がめです。だけど、この塩がめから、味付けするだけは用心して、ちょっとだけ、食べ物の味が引き立つように、上手に使いなさい。それで、自分に厳しく、他人に優しくなる。
 この塩加減、この辺りは、お料理のベテランの女性方にとっては、うん、そうだそうだと、いろいろお考えになるにちがいないと思います。で、この問答は、まだずうっとこれから先も続くんですよ。この次、この聖書は小見出しが付いてますけど、離縁について教える、これも、質問、そして、答えです。そういう質問と答えで、イエスさまは弟子たちの教育をなさった。時間は切迫している。もう二度目の予告をしました。
 最後に、もう一度三度目の受難予告がありますが、その最後ぎりぎりの予告が迫っている。残り時間がない。弟子たちに伝えるべきことは伝えておかなければならない。ある意味でこの教室は、必死のイエスさまの教育活動だったでしょう。この問答、これが生きてくるのは、信仰問答ですから、教理問答です。皆さん方、洗礼をお受けになる時、小教理問答書で勉強なさるとすれば、質問があったのを思い出されますか。聖文舎の訳は、どうしても捨てきれなくて、何の意味ですかという訳を付けている。あれは、マルティン・ルターが書いた原文から長いこと英文に訳されて、英訳から明治の頃に、だれか日本人が翻訳した。それで、今でも続いているのですが、英語の訳は、What does this mean?聖文舎の森優社長の時に、何度も、私は、これを変えなさいと言ったが変えなかった。「これは何の意味?」そこまででした。マルティン・ルターが言った通りに、Was ist das?これにかえなさいよと言った。子供が、父ちゃん、これはどんな意味?なんて聞かない。父ちゃん、これなあにときくんです。それがここに書いてある。
信仰の学びというのはこういう形で起こるんですね。これは何だ。一体これはどういうことを言っているんだろう。そういう質問をして下さい。牧師の務めは、そういう一つ一つの言葉に出る信仰の問い、言葉に出ない信仰の問いに答えること、信仰の生活の中での実際の人と人との交わりの中で、今日我々が学ぶのは、人に優しく、自らに厳しく。そして、その背後に見えてくるイエスさまの姿、このイエス様のお姿は、あくまでも優しい。手を切って捨てよ、足を切って捨てよ、目を取って捨てよと厳しくいっているようだけれども、この弟子たち一人一人を、そんなこと言っているようではお前は破門だとお捨てにならないから。マルコ福音書は、ある意味で、初めから終わりまで弟子たちの失敗談です。青いラインで、ここは弟子たちの失敗という欄を書いていったら、半分以上青になるのじゃありませんか。なぜ、書いたんでしょう。
 こんな私たちでも、イエスさまはお捨てにならなかった。こんな私たちでも、イエスさまは教え定めて、最後に、もう一度復活して、ガリラヤに呼び集めて、そして、ガリラヤから私たちを全世界に送り出して下さった。少し分かるようになった弟子たちのそういう思いが詰まった福音書ですね。イエスのことを伝えながら、弟子たちは、あまりにもきわまる失敗談を残し続けた。その中で、弟子たち自身、よくぞ、私のような者を我慢して、教え育て、そして、宣教に送り出して下さったものだと、後々の日に感謝せずにおれなかったはずだと、私は思います。
 イエスさまの愛が深い、イエスさまの愛は深くて限りがない、それは、今日私たちが読む聖書の個所では、イエスさまの懐は実に深い。そういうことを知らされることになると思います。私たちもまた、主ご自身が備えよと言って下さった塩を私たちの内に保ち続けながら、その塩を働かせ続けて、その塩を少しずつ使った平和、和みの信仰生活、人生の味を出していきたいものだと、この聖書の個所を読みながら、私はしみじみとイエスさまのお言葉をかみしめた訳でした。お祈りしましょう。
天の父なる神さま。
今日も私たちは、あなたのみ言葉のもとに、イエス・キリストご自身が語られたことばのもとに、膝をかがめて耳を傾けることが出来たことを感謝をいたします。イエスさまが弟子たちに、物分かりが悪い弟子たちに教え諭すように優しい愛の心で教えて下さった教えを、私たちもそれぞれに信仰の内に受け止めて、信仰の生活をしていくことが出来ますように。共どもに集う時も、信仰の日々を一人で過ごす時も、あなたが私たちを導いて下さるようにお祈りをいたします。主のみ名によって感謝して祈ります。アーメン。






2012/10/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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