津田沼教会 牧師のメッセージ
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「第二の受難と復活の予告」(マルコ9:30-37)
マルコ9:30-37、2012・09・30、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書11:18-20、ヤコブの手紙4:1-10

マルコによる福音書9:30-37
 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」




説教「第2の受難と復活の予告」(マルコ9:30-37)

本日は、聖霊降臨後第18主日であります。マルコ福音書とともに歩んで来ましたB年の教会暦も残すところ、本日を含めてあと9回の主日になりました。本日の個所、マルコ福音書9:30-37は、第2の受難と復活の予告、9:30-32と9:33-37の部分に分けることができます。
主イエスの一行は、先週のフィリポ・カイザリア地方での第1回目の受難、復活予告の後、恐らくヘルモン山における主の変貌の出来事、そして、下山してからの汚れた霊にとりつかれた子の癒しのあと、そこから、出て行き、ガリラヤを通って進んでいましたが、主は、誰かに知られることを望んでおられませんでした。
元の文を見ると、なぜなら、彼は彼の弟子たちに教えておられ、彼らにこう語っておられたからであるとなっています。
すなわち、人の子は、人々の手に渡され、彼らは彼を殺し、彼は殺された後、三日後に起き上がる、復活するというのであります。これは、裏切り者ユダによって人々の手に渡されるというよりも、神のご計画に従って引き渡されるというのであります。
イエス・キリストは世界の4大聖人と歴史では紹介されますが、私たちのために、神のご計画に従って殺されることになっている点が他の聖人たちと異なるのであります。弟子たちは、この時も、主の言葉が分かりませんでした。そして、主に尋ねることを恐れていたと記されています。
特にマルコの弟子像は、無理解の弟子たちなのであります。そして、彼らはカファルナウムにやって来て、主イエスは、家に入ると弟子たちに質問されるのであります。道において何をあなたたちは、論じ合っていたのか。彼らは黙然たりと聖書は記しています。なぜなら、彼らは、道々、誰が一番偉いかと討議していたからであるというのです。
いよいよガリラヤ宣教が終わって、エルサレムへの道を進んでいるときになっても、弟子たちはその弟子としての序列、優劣を論じ合っていたのであります。その時から、2000年経った今も、私たちの教会の現実も大同小異ではないでしょうか。
主は座って、彼らを呼び寄せ、言い聞かせるのであります。あなたたちのうちで、1番でありたい者は、すべての者の最後にならなければならない、そして、その者は、すべての者に仕える者、ディアコノスになるであろうと言われるのであります。私たちは名誉を求め、いい評判を得たいと願います。
しかし、主イエスは、ご自分の死と復活を通して、すべての人の贖いとして、身代金として、ご自分の命を投じるために、来られた方なのであります。弟子たちは、その点がよく分からないままで、エルサレムの道を主に同行しているのであります。
主は、一人の子供を受け取られ、みんなの真ん中に立たせ、抱いて言われます。私の名の上に、このような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる者は、私ではなく、私を遣わされた方、すなわち、父なる神を受け入れるのであると権威に満ちた言葉を残されています。
子供は、親に信頼して育っていきます。教会の中において、小さい者たち、弱い者たちを主イエスの名のゆえに、受け入れる者こそ、自分ではなく自分を死と復活に与らせるために遣わされた父なる神を受け入れる者であり、そういう者こそが、教会、あるいは、神の国、神の支配の中で一番偉い、一番大きな存在であると謙遜に、そして、父なる神に従順に言われるのであります。私達は、神様から与えられた命をそのように生かしていきたいものです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。






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2012/09/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あなたのために身代わりになられた方」(マルコ8:27-38)
マルコ8:27-38、2012・09・23、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)、イザヤ書50:4-11、ヤコブの手紙2:1-18

マルコによる福音書8:27-38
 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」




説教「あなたのために身代わりになった方」(マルコ8:27-38)

主イエスは、出かけて行って、フィリポ・カイサリアの村々にまで来ました。もちろん、12弟子たちも一緒でした。この地方は、風光明媚で、パンの神、豊穣の神を崇敬している地方でした。あえて、そこまできたときに、主イエスは、弟子たちに聞かれるのであります。人間どもは、私のことを何者だと言っているか。弟子たちは答えます。洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか昔の預言者たちの一人だと。主イエスが何者であるかを、その地方の人々もしっかりと把握していたわけではなかったのです。現代の日本の社会においても、私たちも、主イエスから人々は私のことを何と呼んでいるかと尋ねておられます。千万の神を信じているのが、日本の現実でもあるからです。
それで、次に弟子たちに、あなた方は私を何と呼ぶかと訊かれます。弟子の筆頭格としてのペトロが答えました。あなたはメシア、(ギリシャ語ではキリスト)ですと。人々は、やがて、メシアが来て、ローマ帝国の圧政から、イスラエルを再建してくれると当時、信じて待っていたのであります。
しかし、主イエス、このメシアは、苦しみにあって、死ななければならない、そして、三日後に起き上がる復活のメシアであったのであります。人の子は、祭司長たちによって、無価値と宣言され、殺される。しかし、三日後に起き上がると主は初めて、受難と復活の予告をなさったのであります。
すると、ペトロはわきへ主イエスを連れて行って、そんなことがあってはならないとばかりに、主をいさめ始めるのであります。それに対して主は、サタン、私の後ろに立ち去れと叱ったのであります。あなたは、神のことを思わず、人のことを思っていると。
主イエスはこの世で栄誉を受け、喝采を受けるメシア、救世主ではなかったのであります。この受難と、三日後の復活によって、私たちを罪の奴隷から解放してくださるために、主はお出でになられたのであります。あなたが、そして、私が、罪の奴隷であったところから、身代わりとなって、あなたのために、私のために身代わりの十字架にかかってくださるのであります。そして、それによって、私たちの真の自己が、獲得されるのであります。
この全世界を手に入れても、自分の魂を失ったら、何の利点があろうかと主は言われます。私たち自身の本来あるべき自己を喪失するなら、たとえ、全世界を手に入れても、何ら益することはないのであります。
私は、27歳で京都教会で洗礼を受けるまで、さ迷い続けてまいりました。当時の京都は、信仰宗教も盛んであり、そのような宗教の集会に足を向けたことも幾度もありました。
しかし、失敗をして、どうにもならなくなった時、主イエスに相まみえたのであります。
そして、32歳で、日本ルーテル神学校を求めて上京し、それから、6年も神学生を続けてようやく、38歳で牧師となることができました。色々な苦難や失敗に遭ったことは、むしろ、主イエスにまみえるために、良かった、神の配剤だと今では感謝しています。
牧師になっても困難は続いています。説教の課題など多くの問題も抱えています。けれども、私たちのために、身代わりになったお方を、私は知らされた者であります。
皆さんも、色々な悩みをお抱えでしょう。しかし、皆さんお一人お一人のために、主イエスはお出でになられ、十字架におつきになり、三日後に復活させられて、新しい命を私たちに与えて下さっているのです。
絶望することなく、毎日、み言葉を読んで、祈り、希望に満ちた1週間、1週間を、過ごしてまいりましょう。アーメン。

2012/09/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスさまのため息」(マルコ7:31-37)内海望牧師
マルコ7:31-37、2012・09・16、聖霊降臨後第16主日礼拝(典礼色―緑―)イザヤ書35:4-10、ヤコブの手紙1:19-27、

マルコによる福音書7:31-37
 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」



説教「イエスさまのため息」(マルコ7:31-37)内海望牧師

 ここでもイエスさまは、苦しんでいる人を無名の人としてではなく、まさに「向かい合う人」として接してくださっています。32、33節を読むとよく分かります。相手が耳が聞こえず、舌が回らない人ですから、イエスさまは無言です。しかし、イエスさまの細かい所作の一つ一つに愛の深さを感じます。このイエスさまの動きを「言葉なしの説教」と語った人がいます。いずれにしても、このようなイエスさまの前では、私たちのだれ一人「大海の一滴」などではありません。一人のかけがえのない私になるのです。あの12年間病に苦しんでいた女性のことを思い出して下さい。あの女性に向かって振り返って下さるイエスさまと同じです。
 私たちは、このイエスさまの愛をしっかりと心に刻み込んでおきたいと思います。私たちは孤独感にさいなまれることがあります。思わず「私なんかどうでもよい」と沈み込んでしまい憂愁に包まれて一歩も歩めなくなることもあります。しかし、そのような時、「世の終わりまで、いつも、あなたと共にいる」と約束された方の愛を思い出して下さい。イエスさまは私たちを見放されません。
 この耳が聞こえず、舌が回らない人は本当に驚いたことでしょう。何故なら、彼は人に連れられて、イエスさまのもとに来ました。ところが、実際には、イエスさまが、彼のもとに来て下さったのです。「重荷を負う者、誰でも私のもとに来なさい」と招いて下さるイエスさまですが、イエスさまは基本的には近づいて下さる方なのです。そして、しっかりと寄り添って下さる方なのです。
 その姿が、「天を仰いで深く息をつき」という姿によく現れています。「深く息をつき」という言葉は「ため息」あるいは「呻き」と言い換えてもよい言葉です。「何とかして、この人の苦しみを取ってあげたい」という共に苦しむ思いが「呻き」となって出て来たのです。あるいは、深い祈りと言ってもよいでしょう。
 今朝は、このイエスさまの「ため息」あるいは「呻き」について思いを深めたいと思います。
 イエスさまは、祈ることの切実さと苦しみをとことんまで経験された方です。私たちは、イエスさまの祈りに「聞き届けられない祈り」の苦しみの経験を見出します。イエスさまは、最後の晩餐後、ゲッセマネで祈られました。「アッバ、父よ、この杯を私から取りのけてください」と。まさに「呻き」です。ルカ福音書によると、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されているほどでした。これと同じような経験をしたことがある方もあるでしょう。その辛さを経験してくださった方がイエスさまなのです。それどころか、イエスさまは、十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた方です。そして、まさにこの方が、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と約束して下さっているのです。だからこそ、イエスさまが共にいて下さるということは何ものにも代え難い慰めなのです。同じ苦しみを経験して下さっている方が共に祈って下さるのですから。ここで、「共にいる」「寄り添って下さる」という言葉の意味がはっきりしてきます。これに比べると、私たちが口にする慰めの言葉がどんなに浅薄なものであるか身を切られる思いにさせられます。
 更に、一歩思いを深めましょう。
 人生の歩みの中で、私たちは、貧しい時、豊かな時、順調なとき、逆境の時などいろいろな出来事に出会います。その渦中にあって、私たちはいつも自分の都合のよいように生き方を変えて行きます。環境に適応させるということはあるでしょう。ところが心の向きまで変えてしまうことがあるのです。
 実は、場合によっては、イエスさまが共にいて下さることさえ忘れて自分のことに熱中してしまうのが、私たちのありのままの姿ではないでしょうか。あの放蕩息子は他人事ではありません。
 「祈っている時でさえ、自分のことを考えている」と修道院時代のルターは自分の心の動きに震え慄きました。これはいい加減な感想ではありません。ルターは心から神さま中心に生きようと決意し、エルフルト大学法学部卒という約束された未来を捨てて修道院に入ったのです。真剣に修道士として定められた規則を守ろうと努力しました。それでも、自分の心はねじれていて、どうしても自己へ自己へと歪んで行くのだ、と絶望のため息をあげているのです。パウロも、「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。私はなんと惨めな人間なのだろう」と嘆いています。まさに、これは誠実に生きようとする人間共通の「呻き」ではないでしょうか。
 イエスさまが、「いつも、あなた方と共にいる」とおっしゃった時、そのような罪人である私たちの姿をよくご存じだったのです。私たちがイエスさまを離れ、自分本位に生きている時、イエスさまに逆らって生きているとき、それでもイエスさまは、「変わることなく、いつも共にいて下さる」のです。「いつも」と言う約束は真実なのです。私たちは何と不実な民でしょうか。
 更に、ゲッセマネの祈りを思い返してみます。「この杯を取りのけて下さい」と祈られたイエスさまですが、これに続けて「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と付け加えていらっしゃいます。この時、イエスさまは神さまの御心が罪人を救うために自分が死ぬことなのだということをご存じだったのです。だからこそ、イエスさまは十字架上で「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」のです(ヨハネ19章30節)。つまり、イエスさまは私たち罪人、恩知らずの徒を救うために、それが御心に適うことだと信じたから、その御心を成し遂げるために命を捨てて下さったのです。御自分の命を救うことをなさらず、御自分の死によって私たちを救って下さったのです。「いつも、あなた方と共にいる」という言葉にはこの重さ、イエスさまの格闘があるのです。決して、いい加減な約束ではありません。命がけの約束です。
 イエスさまが「深く息をつき」と書かれている言葉には、これら全部が含まれているのです。パスカルがこんなことを書いています。「イエスさまは世の終わりまで苦悶しておられる。」そして、「世の終わりまで」と言う言葉の意味は、「すなわち、地上で人間がうごめいている限り」ということだと説明しています。イエスさまの祈り・呻きは世の終わりまで続くのです。その呻きには、この私の罪に対する祈りも含まれています。私たちもイエスさまを苦しめている一人なのです。
 しかし、私たちはまた、このイエスさまが復活の主、勝利の主であることも知っています。確かに、イエスさまは今もこの私たちと共に苦しんで下さる方です。しかし、同時に罪と死に対する勝利を成し遂げられた方なのです。ですから、私たちは滅ぶべき罪人として、かけがえのない一人として、イエスさまの勝利にも与ることが許されているのです。イエスさまの「父よ、彼らをお赦し下さい」と言う執り成しの祈りに心から感謝し、共に喜びましょう。
 最後に、「開け」(エッファタ)というイエスさまの命令に目を向けたいと思います。私には、この言葉はイエスさまが「自我を離れ去り、自由になれ」と私たちに呼びかけて下さる励ましの声として心に響きます。単なる命令でなく励ましの言葉です。このイエスさまの愛を聴き取る耳を与え、み言葉を伝えるため舌を解きはなって下さったように聞こえるのです。このみ言葉に励まされて、この1週間を歩み出しましょう。共に福音を聴き取り、救いを宣べ伝える群れとして歩んで行きましょう。



2012/09/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「恵みの机に集いて」(マルコ7:24-30)
マルコ7:24-30、2012・09・09、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)、イザヤ書35:1-3、ヤコブの手紙1:2-18

マルコによる福音書7:24-30
 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。




説教「恵みの机に集いて」(マルコ7:24-30)

先週は、ガリラヤのゲネサレト湖畔で、エルサレムからの律法学者たちや、ファリサイ派どもと、食事のこと等で論争をし、彼らは、昔の人の言い伝えに縛られ、主イエスの福音と対立するという記事、マルコ7:1-15が福音として与えられていました。
主イエスは、本日の記事において、「そこから」、ある家から、あるいはむしろ、そのゲネサレト湖畔から、立ち上がり、ティロスの地方の境界線の辺りまで、やって来て、ある家に入り、だれからも、知られまいと思っておられましたが、彼が来たといううわさは知れ渡り、隠れていることができませんでした。彼は、ここに来て、さらに、シドンを回り、デカポリスをめぐって、ガリラヤ湖の南側までやっていくのであります。
この地、ティロスとの境界線あたりまで、来たのは、何の目的であったのか、書かれていませんが、ヘロデ・アンティパスの追っ手を逃れての逃避行でもなく、異邦人伝道のための宣教活動のためでもなく、むしろ、主ご自身のプライベートな時間を持ちたかったからでありましょう。
これから先のことを考え、一人で、じっくり思い巡らすことを欲されたのでありましょう。さて、早速、ある女の人が、主イエスが来られたことを耳にして、すぐ、この家にやって来たのであります。彼女の小娘は、汚れた霊に取り付かれ、母親は、何としても、主イエスに癒していただきたかったのであります。そして、なりふり構わず、主の足もとにひれ伏したのでありました。
この女性はギリシャ人で、国籍は、シリア・フェニキアであったといいます。今、シリアは内戦が激しく続いていますが、シリアは紀元前1000年も前から高度な文化が発展していた場所であります。しかし、この女性、この異邦人、異教徒は主の下に、すべてをさらけ出して、主イエスに、彼が悪霊、悪鬼を、娘から追い払っていただくようにと懇願したのであります。
主は、「まず、子供たちに満腹させることをあなたは、認めねばならない。子供たちのパンをとって、子犬に投げてやるのはよろしくない」と、断言されたのであります。もちろんこの子供たちとは、神の選ばれた民、イスラエル人たちを指し、小犬たちとは、異邦人たちを指していることは、この女性にもすぐ分かったことでしょう。主イエスは、異邦人たちのことを「小犬たち」と呼んで、通りをうろつき回る野犬どもとは異なる家にいるペットとしての「小犬たち」と呼んでおられます。
さて、ところが、その女の人は、その主の言葉に応じて、主に語るのであります。「主よ(あるいは先生よ)。そして、机の下の子犬たちは、子供たちのパンくずからは食べるのです」と、機知と主への信仰に基づく言葉を即座に主に言い返すのであります。すると、主は、直訳すると、「その言葉のゆえにあなたは行きなさい、あなたのその娘から悪鬼は、出て行ってしまっている」と約束なさったのであります。これは、遠く離れていても奇跡を起こすことができる主の超自然的な力によることであります。離れた場所にいる娘をも、直に触ったり、起き上がらせたりすることなしにも、主は癒しの奇跡を起こすこともできるのであります。そして、その母親は、家に帰ってみると、娘は床に伏しており、悪鬼は去っているのを見出したのであります。その小娘は、悪霊が起こさせた最後の発作を経た後、体を消耗し尽くして、床に伏して眠っていたのであります。
この異教徒であります母親は、主の約束を信じました。そして、この異邦人は、私たち、ユダヤ人以外への宣教を目指していた主イエスのみ心に適う信仰を持ち、主イエスのなさった約束を信じ、娘の癒しに与ったのであります。
私たちも、この女性のように、どんなことがあっても、主イエスにすがりついていく信仰を与えられたいと思います。マルチン・ルターも言っていますように、信仰から離れることが、悪霊が私たちに願っている第一のこと、最高の願いであります。
私たちは、古代の人々のように、悪霊の存在を敏感に感じませんが、聖書が証しするように、昔も今も、悪霊の力は強力に働いています。私たちは、み言葉によりすがり、毎週、たとえ、聖餐式はなくても、十字架に死に、三日目に復活された主イエスのもとに、聖霊によって集められている、聖徒であります。日曜日の礼拝を中心として、1週間、1週間を、主イエスのなさったみ業、語られたみ言葉を頼りに、あらゆる疑いに打ち勝って、強い信仰を与えられていきたいと思います。

人知では、とうてい、測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方の心と思いとを守るように。
 
2012/09/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の言葉か、昔の人の言い伝えか」(マルコ7:1-15)
マルコ7:1-15、2012・09・02、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―聖餐式)、申命記4:1-8、エフェソの信徒への手紙6:10-20

マルコによる福音書7:1-15
 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。―ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
 『この民は口先ではわたしを敬うが、
  その心はわたしから遠く離れている。
  人間の戒めを教えとしておしえ、
  むなしくわたしをあがめている。』
 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」




説教「神の言葉か、昔の人の言い伝えか」(マルコ7:1-15)
 先週は、教区の宣教ビジョンセンターという集まりで、足尾銅山の跡地を中心に、教職、引退教職、また、信徒2名を合わせて、合計9人でレンタカー2台に乗り合わせて、見学と研修の一泊二日の旅行をしてきました。足尾銅山は、1610年に発見され、閉山に至ったのは、それほど昔ではない1974年のことであります。その中で足尾鉱毒問題として、田中正造が日本としては、初めてとも言える公害問題に立ち向かい、その半生をかけたといってもよい大切な働きをなしたのであります。その田中正造は、1912年の死でありますから、今年は没後100年であります。明治天皇に足尾鉱毒問題を、直訴したことでも有名であります。そして、何度かの獄中にいるときに、新約聖書に出会ったようであります。渡良瀬川の水が、以前のように清流に戻ることを念願しながら、一生を終えた人であります。今では、足尾銅山跡地は、世界遺産指定を目指して、申請がなされているということであります。
 さて、本日の福音記事は、ガリラヤにおいて、主イエスとエルサレムからのファリサイ派や律法学者たちと、論争した出来事であります。
 主の敵対者たちは、主の弟子たちが、汚れた手で、すなわち、手を洗わないで、パンを食べているのを見て、主イエスに質問するのであります。どうしてあなたの弟子たちは、昔の人の言い伝え、伝統に従わないで、手を洗わないで食事をするのかと。すなわち、当時のファリサイ派や律法学者たち、特に熱心なエルサレムの学者たちは、念入りにこぶしで、肘まで念入りに洗ってからでないと、食事をしなかったと言います。その他にも、鉢や銅の器、やかんなどを、水につけたり、寝台を洗ったりと、細かな昔の人の言い伝えを口頭伝承や、文書となった伝承を几帳面に守っていることがイエスの時代には一杯ありました。
 主イエスは、それに対して言われました。あなた方のことをイザヤは、見事に預言したものだ。あなた方、偽善者は、口では私を尊崇しているが、その心は私から遠く離れている。私を空しく礼拝し、人間の命令を教えとして教えていると。神の命令、掟を後に残して、人間の伝統を固守していると。
そして、彼らに言っておられました。あなた方は、見事に神の教え無効にし、あなた方の伝統を固持していると。なぜなら、モーセは言ったからである。あなた方の父母を敬え。父母をののしる者は死でもって死なしめよと。ところが、あなた方は、父母に対しても、あなたにささげるものは、コルバン、すなわち、神への贈り物ですといえば、父母への務めを果たさなくても良いと言っている。そうして、神の言葉を無効にして、あなた方の伝統でもってそうし、あるいは、あなた方の伝統で教えている。そしてそのような、多くのことをあなた方は行っていると。
 それから、主イエスは、再び群衆を呼び寄せて、彼らに語っておられたのであります。あなた方は皆、私に聞きなさい。そして、洞察を得なさい。人間の外から彼へと入るものは何も、彼を汚すことはできない。そうではなく、人間の内側から出てくるものどもが、人間を汚すものどもなのであると。
 主イエスは、基本的に、どんな食物も清いとされたのであります。確かに、食物にも、ある人にとってはふさわしくないものもあるでしょう。私は、普段、アルコールは飲まず、タバコもやらず、他の刺激物もなるべく避けています。しかし、色々な食物を食べても、それで、人間の心が汚されるというわけではありません。
 人間を汚すものどもは、心の内側から出てくるものどもであります。私たちは、自分の内側から出てくる言葉によって、思いによって、自分をも汚すことになるのであります。1週間の生活を振り返るとき、特に、家庭で、心の内側から出てくる悪い思い、悪意とか、妬み、憎しみとかが、出てくることを私は痛感させられます。
 しかし、1週間のそうして出てきた思いと行いと、言葉を、私たちは、神のみ前にさらけ出し、悔い改めることによって、赦され、新たな1週間へと、新しい心とされて押し出されていくことができます。そして、神の言葉によって、多くのことに煩わされている1週間の中で、欠くことのできないただ一つのものを、選び取ることができるのです。
 田中正造もまた、特に晩年は新約聖書を手放さず、明治時代の権力との戦いの中で、非暴力を守り、神の言葉に立って、渡良瀬川の水を再び清くし、治水の事業のために、一生をかけて、100年前にその尊い生涯を終えたのであります。
 私たちも、本日、聖餐式に与りながら、心の内側から清い者とされて、9月の月を始めていきたいと思います。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2012/09/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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