津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「人間のための安息日」(マルコ2:23-28)
マルコ2:23-28、2012・06・24、聖霊降臨後第4主日(典礼色―緑―)、申命記5:12-15、コリントの信徒への手紙二4:7-18

マルコによる福音書2:23-28
 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」



説教「人間のための安息日」(マルコ2:23-28)

 本日の福音の部分は、論争物語とよばれる物語の一節であります。安息日に、主イエスと弟子たちが麦畑を通り過ぎて行く出来事が起こりました。主イエスは先頭を行かれ、その12弟子たちは後に続きながら、麦畑のその麦の穂をつまみ取っては食べながら進んでいました。実は、これは、ユダヤの律法では許されることでありました。隣人の者たちは、その畑で、好きなだけ、取って食べてもよい、ただし、鎌を入れてはならないという美しい法律が、旧約聖書の中に見られるのであります。
 ただ、ここで、それをどこからか見ていたファリサイ派どもは、それが、安息日であったことを指摘して、麦の穂を摘み取ることも、彼らの解釈によれば、安息日にしてはならない労働に当たるとしていたのであります。
 法律を守ること自体が、人間よりも、先走って、重大なことになってしまっていました。ご存じのように、安息日とは、7日目に、主なる神が天地創造のわざを終えて、それをすべて見て、その目に適い、良かったとして、休まれたことから、生まれたものであります。
 神の業を想い起こし、あるいは、出エジプトを導かれた主なる神の業を、思い起こすために、神にならって、7日目を人間も休むことになったのであります。
 昔、法学生のころに、人間のための法律か、法律のための人間かといった法哲学を学んだ記憶があります。「権利のための闘争」といった本を買って読んだ記憶もあります。
 当時のファリサイ派は、むしろ「安息日のための人間」を重視し、安息日そのもののほうが、より大切であると考えるようになってしまっていました。
 主イエスは、人間のための安息日であり、さらに、ご自分は、安息日の主でもあると言い切りました。神のもと、父のもとから、神のご意志に従って、この世界にお出でになり、人間を罪から解き放つために、十字架で死に、罪に死んで、三日目に復活させられるためにお出でになられたことを、敵対者たち、当時の宗教的エリートに向かって宣言されたのであります。
 現在では、安息日は、キリスト者にとって、土曜日ではなく、主が復活された日曜日に合わせて世界中で、日曜日に守るのが大勢となりました。
 私たち、キリスト者にとっては、日曜日から始まる1週間は、神のみ言葉を聞いて始まり、1週間の新たな生活へと、リセットする大切な時であります。
 しかし、なかなか、「人間のための安息日」を守ることは、難しいものがあります。特に牧師にとっては、日曜日には説教の働きが与えられています。一番大切な日曜日の、神の言葉を語るべき日に、説教準備で疲れ果てて、主日を迎えるという悪循環に染まっているのが、私にとっては現実であり、牧師になって18年を過ぎましたが、未だに克服されていない大きな課題であります。
 けれども、いずれにしても、主日は、特に福音書との葛藤を経ての安息日であります。非常に大変なのですけれども、主イエスのみ言葉とみ業に向かい合うことが許されているその幸いをも、実感させられるのであります。皆さんに、この弱き器のために祈ってもらいたいと、心から念ずる者であります。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなた方と共にあるように。
スポンサーサイト
2012/06/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「新しいぶどう酒は新しい革袋に」(マルコ2:18-22)
マルコ2:18-22、2012・06・17、聖霊降臨後第3主日(典礼色―緑―)、ホセア書2:16-22、コリントの信徒への手紙二3:1-6

マルコによる福音書2:18-22
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」




説教「新しいぶどう酒は新しい革袋に」(マルコ2:18-22)

先週は、主イエスが、徴税人レビを弟子として召し出し、徴税人レビの家で罪人たち、徴税人たち大勢と、弟子たちと共に主が食事をしたことに対して、ファリサイ派が批判したとき、「私が来たのは、正しい人たちを招くためではなく、罪人たちを招くためである」と言われた論争物語が読まれました。
本日の福音記事は、それに続くマルコ福音書2:18-22の論争物語であります。「ファリサイ派の弟子たちや、洗礼者ヨハネの弟子たちは、断食をしているのになぜ、あなたの弟子たちは、断食しないのですか」と、人々がやって来て質問します。それに対して、主イエスは、「既に、花婿を持っているのに、花婿の室にいる息子たち、即ち、招かれた客たちである弟子たちは、断食できるだろうか、それはできない」と言われるのであります。
主イエスの到来において、待たれていた神の国、神の支配は既に来ており、既に喜びの時が成就しているのであります。しかし、「花婿が取り去られるときが来る。その時、その日において、彼らは断食するだろう」と、言われるのです。それは、主イエスが弟子たちのもとから十字架の死により命を奪われ、取り去られるときであります。そのときには、花婿の死を悲しみ、主イエスの弟子たちは喪に服して泣き、断食するであろうと答えられたのであります。主イエスは花婿であり、私たち教会はその花嫁であります。
旧約聖書において、約束されていた花婿が、お出でになり、喜びの祝宴、婚宴の時が始まっているこの時に、どうして、彼の弟子たちは断食などできようか、彼がいる限り断食することはできないと主イエスは反論なさるのであります。
そして、主イエスは、続けて二つの類比・たとえの言葉を、人々に提示し、差し出すのであります。「だれも、古い衣服・外套に新しい織り立ての布を継ぎ当てとして縫い付けたりはしない。さもなければ、新しい布地が縮かみ、その糸も引っ張って、その部分は浮き上がり、古い衣服の穴、裂け目は、もっと大きく成る」と言われるのであります。すなわち、古い衣服に継ぎを当てるには、水につけた縮んだ布を当てるものである。そうすれば、古い外套は、よりよくフィットし、新しい衣服・外套以上にかえって着心地もよくなる場合もあるのであります。 
それに続けて、主は、「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりしない。さもないと、ぶどう酒も皮袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるべきだ」と言われます。新しいぶどう酒は醗酵して、使い古して固く張り切った、しかし脆くなっている革袋どもを張り裂き、両方とも駄目になると言われるのであります。
主イエスの弟子たちの断食は、まったく新しい、自由な特質を持っており、洗礼者ヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の弟子たちの憂鬱で事細かなことにこだわる形式的で、かつ徒に厳格な断食とは両立しがたく、相容れないものであると言われるのであります。
また、時と場合に応じては、古いものと新しいものを自由に取り入れる新しい生き方が、主イエスの到来によってもたらされたのであります。主イエスは、必ずしも、古いものは常に良くなく、新しいものが良いと主張されているわけではありません。古い、使い慣れた外套の方が、動きやすく、機能的な場合も間々あるように、古い旧約聖書が、主イエスの登場によって、まったく無用になったわけでは、勿論ありません。たとえば、旧約聖書の中にある詩編は、今なお、キリスト教会で礼拝や式文の中で、有用なものとして用いられ、大事にされているのであります。それどころか、主イエスは、旧約の律法を廃止するために来られたのではなく、それを完成するために、お出でになられたのであります。主は、律法の一点一角もないがしろにされてはならず、また、あなた方の義は、律法学者たちの義に優っていなければ、あなた方は神の国に入ることはできないと弟子たちに言われました。
しかし、主イエスの弟子たちと、洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちとの間には、根本的に相容れない相違があるのであります。それは、主イエスの到来によって、与えられた教会の新しい生き方、生活状況と、それ以前の、特にファリサイ派どもの宗教的に制限的な律法に捕われた生き方の間には、妥協の余地はまったくないということであります。私たちは、新しいぶどう酒を注ぎ入れるのにふさわしい新しい品質の革袋を整え、用意しなければならないのであります。私たち主イエスの弟子たちの断食は、罪から私たちを自由へと解放する主の再臨を目を覚まして待ち望む喜ばしきものへと、大変革されている、新しい質の断食であり、主の十字架と復活を知らされている者の喜びの断食なのであります。アーメン。

○ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校講壇奉仕
2012年7月8日 (日)午後1時~2時半

講演会「少子・高齢社会と社会福祉」
講師:金子和夫先生

「高齢者でも、障がいを持っていても、いわゆるひとり親家庭であっても、地域で暮らしていくために何が大切なのでしょうか。特に高齢者が置かれている現状と政策的対応、そして地域の眼、地域の絆などについて一緒に考えたいと思います。」

<講師のプロフィール>
ルーテル学院大学教授・社会福祉学科長
趣味はスポーツ。特に野球。少年野球の指導や中学野球の審判をやっています。今の関心事は、福祉系高校卒業生を含めた福祉労働全般に関心があります。

○当日の午前10時半~11時半、聖霊降臨後第6主日礼拝
説教「サタンを追い出しに来られた主イエス」渡辺賢次牧師
   (マルコによる福音書3:20~30)
どなたも、主日礼拝、午後の講演会、いずれにも、どうぞご出席ください。
2012/06/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「罪びとを招くために」(マルコ2:13-17)
マルコ2:13-17、2012・06・10、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―)イザヤ書44:21-22、コリントの信徒への手紙二1:18-22

マルコによる福音書2:13-17
 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」




説教「罪びとを招くために」(マルコ2:13-17)

先日、勝田台家庭集会に行きました。もう、20年以上も続いている5名ほどの集会です。なかなか、教会へと通じない主婦たちも交えての集会です。一人ひとりのために、私は祈らなければならないと思わされます。今日は、マルコ福音書2:13-17が福音として与えられています。
ここでは、主によって、徴税人レビが弟子として、召しだされます。ファリサイ派の律法学者たちから、罪人、遊女たちと共に、嫌われ、交わりから疎外されていた徴税人であったレビの職場にまで接触して、主イエスは、自分の方から近づかれます。
湖のほとりでの大勢の集会で、教えられるのみならず、世の中の屑として、軽蔑されていた徴税人の下へ、主イエスは、自由に、自ら近づかれ、声をかけます。私に従って来なさいと。大勢の民衆が従い、人気が高かった主イエスの一声で、レビは立ち上がり、彼の後についていきます。
そして、今度は、レビの家で、食事を共にしようと、主や弟子たちは、横になります。そこには、大勢の徴税人の仲間や、罪人の群れが同席しています。そして、ファリサイ派の律法学者たちがいて、主の弟子たちに抗議してこう言います。あなた方の先生は、徴税人、罪人と食事を共にしていると。
食事を共にするというのは、交わりの大切なあり方でありました。今でも、食事を共にするということは、親しい交わりを意味しますが、主イエスの時代、それは、今よりもはるかに大切な交わりの時であり、そこから、聖餐式も始まり、また、別に愛餐会も、初代の教会で何にも増して、大切なものになっていったのです。
さて、ファリサイ派たちの抗議を耳にした主イエスは、彼らに向かって言います。丈夫な人には医者はいらない、医者を必要とするのは病人であると。これは、病める人、病の人こそ、医者を必要とするのであり、病める人とは、私たちキリスト者みんなを意味しているのではないでしょうか。丈夫な人は医者、真の医者主イエスを必要としていません。それに近いと思われる人も私たちの周りに確かにいますが、私たちは、主イエスという真の医者を必要としており、また、私たちを通して、真の医者へと、それを必要とする大勢の人たちへと証しすべく、キリストの弟子とされているのであります。そして、ファリサイ派の人たちとの論争において、私が来たのは正しい人たち、自分たちを正しい者だという枠に入れて罪人たちと一線を画し、交わろうとしないファリサイ派の人々に対して、皮肉にも、主は自分が来たのは、あなたがたを呼ぶためではなく、罪人を呼ぶためであると言われるのであります。
善人なおもて、往生を遂ぐ、いわんや、悪人をやと親鸞聖人は言いました。ルターも、キリスト者は、最も大きな罪人であると言いました。そして、罪人のままで、主イエスの十字架と復活によって、義人とされていると言いました。私たちは、そういう意味で、レビと同じく、罪の中から、呼び出された罪人であります。キリスト者としての証しは難しいものであります。
勝田台集会の主婦たちにも、また、夏見母子ホームの若い職員たちも、キリストこそ唯一の救い主であることを、私たちは、証し、祈り続けねばなりません。信仰を既に与えられている私たちは、信仰にまで至っていない人たちのために、忍耐とみ言葉、聖書によって、日々、キリストによって与えられた自由を持つものとして、ファリサイ派の枠を超えて、人々に、罪びとを招くためにお出でになられた方を指し示し、教会へと導く、あるいは、再び教会に戻れるようにお互いに努めたいものです。アーメン。









2012/06/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「新たに生まれること」(ヨハネ3:1-12)
ヨハネ3:1-12、2012・06・03、三位一体主日(典礼色―白―聖餐式)イザヤ書6:1-8、ローマの信徒への手紙8:14-17

ヨハネによる福音書3:1-12
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれたものも皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」






説教「新たに生まれること」(ヨハネ3:1-12)

今年の初めに、加賀乙彦さんが、「科学と宗教と死」という小さな本を、集英社新書から出されました。加賀乙彦さんは、精神科医であり、作家であり、そして今は、カトリックの信仰の徒でもあります。門脇神父から、別荘にご夫婦で夏休みに4日間も泊り込んで、キリスト教について、質問をし、疑問が解けて、その年のクリスマスに洗礼を受けられました。ある意味では、本日の福音の、夜、話しにやってきたニコデモと通ずるところがあるように思います。加賀さんは、精神科医であり、死刑や無期懲役になった犯罪者たちから、学び、人間にとっての宗教の大事さを痛感し、ついには、カトリック教会で洗礼を受けるに至ったのであります。
そして、現在は、東日本大震災で日本は、未曾有の危機に瀕していますが、宗教の力によらなければならないとして、がんばろう、日本ではなく、諸外国が応援してくれたように「日本のために祈ろう」と、宗教の力をもっと日本人は見直さなければならないと、主張されているのであります。
 さて、三位一体主日に、私たちは、ヨハネ3:1-12を与えられています。三位一体の神について、特に聖霊の働きについて、共に考えて見たいと思います。ニコデモは、主イエスの大きな働き、しるしをなさっているのを見て、夜に、主イエスのもとに、話に来るのであります。彼は、ファリサイ派の学者で、サンヘドリンの議員でもありました。主に、あなたがなさっているようなわざは、神が共におられなければできないことですと言いました。すると、主イエスは、あなたに、よくよく言っておくが、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われるのであります。
ニコデモは、年をとった者が、もう一度、母の胎内に入って生まれなおすことができましょうかと、反論します。この「新たに」というのは、「上から」とも訳せることばで、神から、生まれなければならない。そして、「水と霊とから」、生まれなければ、神の国に入ることはできないと言われます。
風は、自分の欲するところに吹く。あなたはその音をきくが、それがどこからきて、どこへいくかを、知らない、霊から生まれるものも、同じである。霊は欲するところに、生まれるものだが、上から生まれなければ、自由な霊のものになることはできないと、言われるのであります。
私たちは、「水と霊とによって」、ここにいる多くの人が洗礼にあずかっています。そのことが、ニコデモ、ファリサイ派の学者、議員であったニコデモにはこの夜の話では到底分からないのであります。
しかし、主イエスが十字架にかかって死んだとき、没薬などをもって、葬りに来ていますから、後には、主イエスの隠れた弟子になったのでしょう。私たちも、聖霊の風によって、洗礼に与った者として、自由な霊と共に歩むことが大事なのであります。アーメン。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。








2012/06/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。