津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「新しく創り変えられる」(使徒言行録2:1-21)
ヨハネ15:26-16:4a、2012・05・27、聖霊降臨祭(典礼色―赤―聖餐式)エゼキエル書37:1-14、使徒言行録2:1-21、

使徒言行録2:1-21
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されるのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 「神は言われる。
 終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
 血と火と立ちこめる煙が、それだ。
 主の偉大な輝かしい日が来る前に、
 太陽は暗くなり、
 月は血のように赤くなる。
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」



説教「新しく創り変えられる」(使徒言行録2:1-21)
 
最近、新書大賞、第1位「ふしぎなキリスト教」という対談を本にしたものが講談社現代新書として出され、大勢の人に読まれており、聞いたところでは、既に30万部を超えているそうであります。橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対談でできており、橋爪先生は東工大の社会学者で、ルーテル大岡山教会で洗礼を受けておられるそうであります。一読しましたが、難しい部分もあります。牧師としては、これはどうかなという点もありますが、現代の社会学者に、私たちが虚心坦懐に耳を傾けることは、有益なことであると思います。6月17日(日)午後3時から、東京池袋教会で、宣教ビジョンセンターでお招きし、学びと懇談の時を持つことになりましたので、津田沼教会の方々も、一人でも多く足を運ぶことを願っています。
 さて、今日は、聖霊降臨祭、すなわち、ペンテコステの礼拝であります。キリスト教の三大祝日に当たっています。復活祭、降誕祭は、教会では盛大に祝われますが、ペンテコステは、それに比べると、まだ、祝い方が、低いのではないかと思われます。しかし、復活祭から、40日目が主の昇天日、そして、50日目、それをギリシャ語でペンテコステというのですが、この一連の出来事が、私たちの真の救いの出来事なのであります。私たちが、全世界に福音を宣べ伝えるために、復活の主が言われた約束されたもの、すなわち、聖霊がエルサレムでくだるのを待ちなさいと言われていた出来事が、この日、起こり、実現したのであります。
今年も、第2朗読の、使徒言行録2:1-21を通して、その時の出来事を追体験してみたいと思います。
 ペンテコステの日、すなわち、五旬祭の日が満たされたとき、弟子たちは、12人のみでなく、約120人の弟子たちが、一つ所に一緒にいました。すると、大風のような物音がして、その家を占拠することが起こりました。そして、弟子たち、みんなの頭の上に、火のような、分かれ分かれの舌のようなものが、現われたのです。そして、遂に、一人ひとりの上に聖霊がくだったのであります。そのとき、その音に驚いた、エルサレムに住み、あるいは滞在していたユダヤ人たちが、やって来て、キリストの弟子たちが、ユダヤ人たちの故郷の言語で、あるいは、舌で、神の大いなるみ業を語っていたのを見て、正気を失うほど、驚き怪しんでいたのであります。
 それは、離散したユダヤ人たちの住んでいた、パルティアや、リビアやクレタ島やアラビアや、カパドキアや遠くローマからも来ていたユダヤ人たち、あるいは、それへの改宗者たちであったのであります。メソポタミアから地中海世界に離散していたユダヤ人たちが、このユダヤ教の三大祭りに帰って来ていたのであります。
 そして、これは、いったい、何なのか、どうなることかと、戸惑っている群衆たちでありましたが、別の者たちは、彼らは甘い新しい酒に酔っ払っているのだと嘲る者たちもいました。
 その時、あのペトロが、他の11人の弟子たちと共に立ち上がって、演説するのであります。主イエスを見捨て、その人の子とは知らないと弟子であることを打ち消したあのペトロが、声を張り上げて、語る者とされたのであります。ユダヤ人の人たち、エルサレムに滞在する私たちにすべての皆さん、このことを知っていただきたい、そして私の言葉に耳を傾けていただきたい。今は、朝の9時だから、彼らは酔っ払っているのではない。これは、預言者ヨエルによって預言されていたことなのです。すなわち、終わりの日々に、御神は、言われる、私は、私の霊から、すべての肉に向かって、すなわち、すべての人に向かって、霊を注ぐ。すると、あなた方の息子、娘は預言するだろう。そして、あなた方の若者たちは幻を見、あなた方の老人たちは、夢を見る。また、かの日々には、私の僕たちに向かって、また、私のはしためたちに向かって、私の霊から注ぐ、すると、彼らは預言するであろう。
 そして、上では、天に兆しを私は与えよう。そして、下では、地上にしるしを、すなわち、血と火と蒸気の柱を。太陽は闇へと変えられるであろうし、月も血へと変えられるであろう。偉大な、栄光ある主の日が来る前にと。
 そして、主の名を呼び求めるものは誰でも救われるであろう、と引用して、終わりの日が成就したことを証言したのであります。
教会に来るということは、聖霊の働きであります。そして、十字架のある教会は、すべて、聖霊によって建てられているのであります。
 この聖霊降臨日の出来事を通して、私たちは、聖霊を受けて、ペトロたちと同様に、全世界に向かって、主イエス・キリストのみ名を宣べ伝える者に、新たに創り変えられていくのであります。
 1週間のうちに、言葉と思いと行いによって、主のみ前に罪を犯さざるを得ない私たちでありますが、聖霊と火によって洗礼を受けた者として、また、それを目指している者として、1週間、1週間、絶えず新たに創り変えられながら、宣教のわざに押し出されていきましょう。アーメン。
 
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
スポンサーサイト
2012/05/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「復活の主のご昇天」(ルカ24:44-53)
ルカ24:44-53、2012・05・20、昇天主日(典礼色―白―)召天者記念礼拝
使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙1:15-23

ルカによる福音書24:44-53
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



説教「復活の主のご昇天」(ルカ24:44-53)

今朝は、昇天主日でありますが、召天者記念礼拝をも重ねて、礼拝を守っています。今年で召天者記念礼拝を、この時期にも持つように役員会で承認してもらいました。ちょうど秋の全聖徒主日が11月3日のバザーと近いために、ゆっくりとお茶の時間を取ることもままならなかったためです。幸いに今年は昇天主日にご遺族の方々をお招きし、共に、生と死についても、思いを凝らすことができて、嬉しく思います。
本日の福音は、ルカ24:44-53であります。ルカ福音書では、主の復活日と主の顕現は、あたかも一日で終わったかのように記されています。エマオ途上で、クレオパともう一人に、復活の主が現われます。
そして、再び、エルサレムで集まっていた弟子たちのいるところに、同じ復活の主イエスが現われ、手足を見せ、弟子たちの前で焼き魚をもむしゃむしゃと食べられるのであります。
それに引き続くのが、本日の福音であります。主は、弟子たちに、宣教の業を委託し、彼らに言われるのであります。まだ、あなた方といたときに、しゃべっておいた言葉は以下のことである。すなわち、モーセの律法と預言者たちと詩編において、すなわち、旧約聖書において、私について書かれていることはすべて成就しなければならない。そして、また、弟子たちの心の目を開いて、言われるのであります。すなわち、以下のように書かれている。メシアは、苦しみを受け、三日目に死人の中から復活することになっているというのであります。
旧約聖書を読んでみましても、そのように具体的に書いてある個所はないのでありますが、旧約聖書全体の語っていくところを突き詰めていくと、キリストがお出でになり、十字架に架かって死に、三日目に復活し、さらには、昇天するということが、啓示されているというのであります。
そして、あなた方弟子たちは、すべての国の人々に、罪の赦しへの悔い改めを彼、主イエスの名の上に、告げ広める主イエスの証人になるというのであります。
そして、主イエスは父の約束したもの、聖霊を私が送るまで、都にとどまりなさいといわれるのです。そして、彼はベタニアの近くまで、弟子たちを導き、両手をあげて、彼らを祝福すると、彼らからはなれて行き、天へともちあげられつつあったのであります。彼らは、大きな喜びと共に、エルサレムに引き返してきます。主との今生のお別れなのに、悲しみではなく、主が天に上げられるのを知って、自分たちに託された宣教の使命を受けて、主にひれ伏し、戻ってくるのであります。そして、絶えず、すなわち、すべてのことを通して、神殿の境内にいて神をほめたたえていたのであります。福音書のはじめでは、神殿で祭司ザカリアが、疑い、戸惑い、天使の言葉が信じれなかったのでありますが、最後は、大祭司イエスによって祝福を受け、弟子たちは、神殿の境内に出入りして神をほめたたえる喜びと感謝にあふれて、福音書は終わるのであります。そして、次週は約束された聖霊の降臨を祝うペンテコステの礼拝となります。私たちは、それぞれ与えられた寿命を生きている者であります。長寿社会になったといっても、寿命が尽きれば、この地上の生活は終わりのときが来ます。しかし、主イエスの十字架と死と復活と昇天によって、真の命を生きることができるものとされたのであります。諸困難を乗り越えて、先に召された故人たちをしのびながら、精一杯の人生を歩んでいきましょう。

人知ではとうてい知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方の心と思いとを守るように。
2012/05/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストに選ばれた私」(ヨハネ15:11-17)内海望牧師
ヨハネ15:11-17、2012・05・13、復活節第5主日(典礼色―白―)、使徒言行録11:19-30、ヨハネの手紙一4:1-12

ヨハネによる福音書15:11-17
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。


説教「キリストに選ばれた私」(ヨハネ15:11-17)内海望牧師

 この個所を読んで違和感を覚えるのは「互いに愛し合いなさい」と「愛すること」が命じられている点です。「愛する」ということは命じられていることでなく、自発的な自然の情ではないでしょうか。
 神さまは人間を「互いに心を通い合わせる存在」として創造して下さいました。私たちは罪人ですが、それでも「愛し合うこと」は知っています。今度の大震災に際しても何百万もの人々が誰の指示にもよらず、自発的に支援のために被災地に駆けつけています。被造物としての人間の良い面が表れたと言えましょう。これは、人間共通の自然の情と言ってよいでしょう。従って、洋の東西を問わず、古代から隣人愛を説く格言は数多く見られます。「友のために命を捨てること」の尊さを語る文章も数多くあります。隣人愛という言葉は決して聖書の専有物ではありません。イエスさまもやや皮肉に「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている」と自然の情としての愛を語っていらっしゃいます。(マタイ福音書7章)
 しかし、イエスさまはここで「愛し合いなさい」と命じていらっしゃるのです。どうしてこのような命令をなさるのでしょうか。この謎を解く鍵は「私があなた方を愛したように」という言葉にあります。イエスさまが私たちを愛して下さったように「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっているのです。ここにおいて愛の意味が全く違ってくるのです。
 それではイエスさまは私をどのように愛して下さっているのでしょうか。
 イエスさまは弟子たちに「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」とおっしゃています。イエスさまが弟子とされたのであって、弟子たちがイエスさまを自分たちの主としたのではないのです。そして、「君たちはもはや僕ではなく、友である」とまでおっしゃっているのです。私たちは当然のように「慈しみ深き友なるイエスは」と歌いますが、決して当然のことではありません。私たちはイエスさまの前から逃げ隠れることはあっても友だちになれるような人間ではありません。このことは誰よりも私たち自身がよく知っています。毎週の礼拝において私たちは数えきれないほど自分の犯した罪を告白せずにはおられないような人間です。しかし、それでもなおイエスさまは私たちを友と呼んで下さるのです。
 弟子たちの召天の記事を読むと、イエスさまが先ず漁師であるペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに声をかけて弟子とされたのであって、反対ではありません。弟子として得あらばれた理由は何も分からずに彼らはイエスさまに従っていったのです。ルカによる福音書によるとペトロなどは「主よ、私から離れて下さい。私は罪人なのです」と叫んでいます。自分がイエスさまの弟子になるなどとても相応しくないと直感的に感じたのでしょう。しかし、まさにその相応しくないペトロを選んで下さったのがイエスさまなのです。申命記には次のような言葉があります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただあなたたちに対する神の愛のゆえに・・・」と「神さまの選び」について書かれています(申命記7章6節以下。292ページ)。「君たちを宝の民として選んだのは、何か君たちに取り柄があると言うことでなく、ただ神の愛のゆえにである」という意味です。
 神さまの愛には「愛する理由」がないのです。私たちは神さまから愛されない理由は数え上げることが出来ます。ひねくれているし、意地悪いし、他人の欠点ばかりあげつらうし、嫉妬深く、いつも憎しみを心に持っているなどパウロがガラテヤ書で「悪のカタログ」に列挙しているような心を私たちも皆持っているのです。それでも、イエスさまは私たちを「友」と呼ぶ弟子の中に加えて下さっているのです。ヘブライ人の手紙には「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされないで」とすべての人のために死んで下さったイエスさまのことを賛美しています。私たち罪人に寄り添い、「友」どころか「兄弟」となって下さっているのです。
 先週の日課でも、イエスさまは何の理由も言わず、ただ端的に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と一方的に宣言されるのです。そうしないと私たちは枯れて切り倒されてしまうからです。私たちが「枝にして下さい」と願ったからではなく、イエスさまが枝として下さったのです。今日の第二の日課であるヨハネの手紙一4章10節には「私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と書かれています。滅ぼさるべき罪人、「外に投げ捨てられるべき枝」を救うために御自分の命を捨てて下さったのがイエスさまの愛なのです。
 イエスさまにとって「友であること」「兄弟となること」とは、まさに罪人のために御自分の命を捨てるという生き方であったのです。この点に至って、イエスさまのおっしゃる「友のために命を捨てる」という言葉はもろもろの格言をはるかに越えた全く新しい雄大な意味を持つ言葉となったのです。「友」という言葉は、イエスさまにとって「敵」「罪人」と同意語なのです。しかも、イエスさまは、その罪人である私たちの兄弟と呼ばれることを恥としない、仲間となってくださったのです。そのような愛によって私たちもイエスさまの弟子として選ばれたのです。これに優る光栄ある喜びはありません。
 このような愛は私たちが経験したことのない愛です。私たちの人間の愛には結局のところ打算があり、「自分の気に入った人を愛すると言う」利己的な面を取り除くことは出来ないのです。だからこそ、イエスさまは「愛し合いなさい」と命令されるのです。これは決して自然にわき出るようなものではありません。その意味では、イエスさまは、私たちの用いている「愛」という概念を打ち砕かれたと言ってよいでしょう。イエスさまは「自分を愛してくれる人を愛したからとてどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしている」と、いわゆる隣人愛を批判していらっしゃいます。
 しかし、問題は、私たちがどうして、イエスさまがなさったように互いに愛し合うことが出来るかという点にあります。これまで考えて来たように、私たちは犯した罪を数え上げることすら出来ないような罪人であり、私たちの愛には打算があり、利己的です。とうていイエスさまのように人を愛することは出来ません。今日のイエスさまの愛の命令は、私たちを苦しめるだけなのでしょうか。
 決してそうではありません。私たち罪人を友と呼び、兄弟とし、私たちの罪を贖うために命を捨てて下さったイエスさまの愛に触れる時、私たちの心にはあふれるばかりの感謝と喜びが起こって来ます。ルターは「キリスト者の自由」の最後に、神さまの愛は、キリストから我々の中へ、更に又、我々から他の人々の中へと「流れ込んで行く」と書いています。私が素晴らしい愛の実践者となることは出来ません。しかし、キリストの愛が私を通して人々の中へ流れ込んで行くのです。あるいは、「キリストの愛に触れた時、人は絶えず生き生きと何か善いことをなさずにはおれない」ともルターは言っています。そこには「自分が何か善い事をする」という感覚はありません。イエスさまの愛が私たちを揺り動かすのです。このイエスさまの愛は、私たちの人生に力を与え、方向を与えてくれるのです。つまり生き方が変えられるのです。
 この頃、しみじみ思うことがあります。私たちには、イエスさまの愛の高さ深さを知ることが出来ないと言うことです。毎朝、赦された罪の大きさに驚き、感謝することしかありません。赦される罪の大きさに驚くばかりです。その意味では、私たちは終わりの時までイエスさまの愛の大きさを完全に知ることは出来ないでしょう。しかし、それでも、その豊かさを経験し味わうことは出来るのです。その時、「互いに愛し合いなさい」という命令が命令でなくなるのです。「自分が何か善いことをする」と努力するのでなく、「主よ、用いて下さって感謝します」という祈りが口をついて出て来るような朝を迎えることが出来るのです。確かに、イエスさまは、「この私のためにも死んで下さった」のです。「決して見捨てない」と約束して下さったのです。ですから、「慈しみ深き友なるイエスは」と歌ってよいのです。私たちの救いの確かさはイエスさまの十字架の愛にあるのです。この確かさに立って、平和と感謝、喜びと希望を持って生きて行きましょう。



2012/05/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「み言葉にとどまる」(ヨハネ15:1-10)
ヨハネ15:1-10、2012・05・06、復活節第4主日(典礼色―白―聖餐式)、使徒言行録8:26-40、ヨハネの手紙一3:18-24


ヨハネによる福音書15:1-10

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ばないものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。




説教「み言葉にとどまる」(ヨハネ15:1-10)

今朝の与えられています福音はヨハネ15:1-10であります。どうして、復活節の喜びの時に、この告別説教といわれる部分の一節が与えられているのでしょうか。しばらく、ご一緒に考えてみたいと思います。
さて、先週は、全国総会が開かれて4日ほど、総武線に乗って、大久保の東京教会に通いました。ある夕方、全国総会の日の帰りの大勢の乗客の電車内で、私のすぐ後ろの方で二人の若者が話をしていまして、聖書がある所に置かれてあって、何となく開いて読んでいると、そこには、主イエスがペトロに湖に行って魚を釣れ、そうすれば、その魚の口の中に、銀貨一枚が入っているだろう、それを取って、税金として納めなさい等ということが書いてあるが、いかがなものかというふうな話していました。私は、ミニカラーをはずして、いましたので、後ろに牧師がいるとは気づかなかったことでしょう。
私たちは、主日の祈りにもありましたように、激動の現代日本社会に生かされています。その中で、キリスト教信仰を持って一生を生き通すということは、牧師もですが、信徒の方々にとってはより以上に、言語を絶した試練の中を生きていくことを意味します。確かに明治時代や、戦前に比べれば、信仰の自由が保障され、まだ、ましになったと思いますが、1週間の間にも、私たちは、信仰に生きる試練の中を何とか生きているというのが、現実かもしれません。
しかし、私たちは、その中で一人でも多くの人に福音を告げ広め、教会に導くという尊い使命に与っているのであります。仏教を始め、他の宗教もあります。あるいは、無神論ではなくても、ある信条を守って生きている大勢の日本人同胞がいます。
私たちは、そんな中で、キリスト教信仰に導かれて、生きていますが、無教会派の人であったか誰であったか、著名な人が、キリスト教なしに生きてゆける人々は強いと思う、自分にはそれが不思議であると、書かれていたのを記憶しています。
しかし、信仰を持って生きることは、決して弱い生き方ではなく、私は、それのほうがずっと強さを要求されるのではないかと思うのです。
今日の聖書では、主は、「私はまことのぶどうの木、信頼できるぶどうの木、そして、私の父なる神は農夫、ぶどう園の剪定する者であり、あなた方は、ぶどうの木の枝である」と、いきなり、言われているのであります。そして、実を生まない枝は、取り除き、実をもたらす枝はさらに、剪定して、もっと豊に実を生むものとされるというのであります。イスラエルの12弟子たちにとって、ぶどうの木は、イスラエルの民のシンボルでありましたから、この譬え、表現は私たち以上に実感を持って感じられたことでしょう。主は、私たちは、主につながっていなければ、実を豊に結ぶことはできず、主を離れてしまえば、彼しぼみ、火の中に投げ出されて、燃やされるといわれます。
主から離れるとき、罰と裁きが待っているのであります。しかし、主のみ言葉に、キリストにつながっていれば、豊かに実を結び、主の弟子として神の栄光を表わすことになると言われるのであります。
私たちが、主イエスというぶどうの木につながっているならば、必ずや、私たちは豊かな実を生む枝であることが出来ると約束して下さっているのですから、安心して、み言葉から、離れないようにすれば、大丈夫だと保証して下さっているのであります。
私たちは、礼拝につながり、聖餐に与り、み言葉にとどまり続けて、人々を、家族を愛し、一人でも多くの人々を主イエスにある幸いに導く責任と特権をも与えられているのであります。この復活節の喜ばしい季節に、主が残してくださったみ言葉にとどまり、キリストというぶどうの木につながる枝として、新たな1週間へとこの場から派遣されていきましょう。アーメン。

2012/05/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。