FC2ブログ
津田沼教会 牧師のメッセージ
「光に来る真理を行う者」(ヨハネ3:13-21)
ヨハネ3:13-21、2012・03・18、四旬節第4主日(典礼色―紫―)民数記21:4-9、
エフェソ2:4-10

ヨハネによる福音書3:13-21
 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」



説教「光に来る真理を行う者」(ヨハネ3:13-21)

本日の福音の個所はニコデモとの対話の続きでありますが、語り手が、主イエスから、むしろヨハネ福音書記者自身へといつの間にか乗り移っていくようなみ言葉であります。ニコデモは、「人が老いて新たに生まれることができましょうか」と、主イエスに尋ねますと、主は「人は新たに、あるいは、上から生まれなければ神の国に入ることはできない」とお答えになっているのであります。
そして、「天から降って来た者、人の子以外に天へと上っていく者はいない」とお語りになります。そして、昔、モーセが荒れ野の40年の出エジプトの旅において蛇を上げたように、人の子も上げられることになっていると、言われます。これは、今日の第1朗読で読まれた民数記のモーセの故事に由来しています。出エジプトの民が、不平を言い、荒れ野において蛇にかまれて大勢が命を落としていたときに、モーセが神に取り次ぐと、「青銅の蛇を作ってさおの上にあげよ」と言われたのに対して、その通りにすると、たとえ、蛇にかまれてもそのさおの上の蛇を見上げた者は助かったという故事であります。
この出来事の中に、福音書記者ヨハネは、キリストが十字架に挙げられることが予型として、既に約束されていると見るのであります。人の子も、モーセが作った蛇のように十字架の上にあげられることになっているというのです。
キリストの十字架は、記者ヨハネにとって、天への高挙と共に、あるいは、復活と共に、キリストの栄光なのであります。私たちは今、四旬節を歩んでいますけれども、せめてその主日には、福音、よき知らせを聞いて、新たな喜びの信仰へと招かれるのであります。記者ヨハネは、「神は、この世を愛された、それは、その独り子を与えるほどにであった。それは、彼へと信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を持つためである」と言います。 
この独り子を与えるとは、主イエスを十字架につけることをも意味するのであります。一方、信じない者は、既に裁かれていると言います。独り子を見たのに信じないものは、既に裁かれている。
「終わりのときに、私の語った言葉がすべての人を裁くであろう」とも、主は言われていますが、ここでは、現在既に裁かれているというのであります。それというのも、信じない者は、光が来たのに、それよりも闇を愛したので、自分の邪悪な行いどもが明るみに出されないために、闇を愛するからであると言われるのであります。
一方、真理を行う者は、光に向かってやって来る、それで、彼の行いどもが、神に導かれてのものであることが知られることになると、本日の福音の言葉は終わっているのであります。
私たちは、毎週、いや、毎日、式文でも告白しますように、言葉や思いやふるまいによって、罪を犯す者であります。それは、案外、家庭において、あるいは親しい間柄において犯すものであります。
しかし、本日の主日の祈りにもありましたように、光に向かって歩めるように、神の愛へといざなわれるように、私たちは祈らなければならない存在であります。真理を行う者は、偽りをのぞき、互いに愛し合う者になるように祈らなければなりません。そのためにこそ、主は十字架に上げられるべく、私たち人類に与えられたのであります。私たちは、弱い存在ですから、十字架を見上げ、天に上げられた人の子イエスを信じなければ、まともな生き方はできないのであります。
この四旬節第4主日に、十字架にあげられる主は、既に栄光の主であることが、指し示されています。ある同僚の牧師が、本日の福音は、個人的な悔い改めだとかいうものではなく、もっと大きな神の恵みを示したものだと、私の説教黙想を批判してくれました。厳しい批判でしたけれども、それは当たっていると今は批判してくれたことを感謝しています。
神は、恵みによって、一人の人さえ、滅びることを喜ばれず、独り子を私たちに与えてくださったのであります。それに感謝して応答する四旬節の毎日でありたいものです。アーメン。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


スポンサーサイト
2012/03/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)