津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストの愛の高さ、深さ」(ヨハネ12:44-50)内海望牧師
ヨハネ12:44-50、2012・03・25、四旬節第5主日(典礼色―紫―)エレミヤ書31:31-34、、
エフェソの信徒への手紙3:14-21

ヨハネによる福音書12:44-50
 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」




説教「キリストの愛の広さ、深さ」(ヨハネ12:44-50)内海望牧師

私たちは、キリストの十字架の死に思いを集中する四旬節の時を過ごしています。改めてイエス・キリストの十字架を見つめてみたいと思います。
信仰とは「何かを考えること」ではありません。私たちの全人格をもって神さまの前に出ることです。その怖れの中でイエス・キリストの十字架の愛を経験することなのです。
キリストの十字架の愛を経験するということは、感嘆符でしか表現できないほど大きなものです。今日の第二の日課であるエフェソ書3章18節でも「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであることか」とその愛の人知を越えた大きさに感嘆の声をあげています。ところが、私たちは、いつの間にか、キリストの十字架を私たちの理解できる範囲に縮めてしまってはいないでしょうか。あまりにも安易に「救い」を語りすぎてはいないでしょうか。
さて、今日の福音書に目を留めてみます。12章全体に非常に切迫した雰囲気が感じられます。イエスさまは「私の時はまだ来ていない」と言い続けてこられましたが、荘重なエルサレム入城の後、今やついに神の子の時が来たと宣言なさるのです。イエスさまは「今、わたしの心は騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、私はこの時のために来たのだ。」(12章27節)と新たな決意を持って十字架への道をしっかりと歩み始められました。また、44節には、「イエスは叫んで言われた」と記されています。「叫んで」という一句に万感の思いがこめられています。「救ってください」「叫ぶ」という言葉は尋常ではない緊張を示しています。それは当然です。イエスさまの歩みはまっすぐに十字架に向かっているからです。
ところが、ここで、イエスさまは「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためでなく、世を救うために来たからである」とおっしゃっています。イエスさまは「人々は彼を信じなかった」(イザヤ書53章1節)という辛さの只中にあります。しかし、滅ぶべき罪人が一人も滅びないようにと今ご自分の命を捨てようと十字架へ向かっていらっしゃるのです。この「一人も滅びないように」というイエスさまのみ言葉を聞くとき、私たちはいつも感動を新たにします。「一人も滅びないで」ということは罪人も含むという意味です。決していわゆる善男善女だけの救いではありません。事実、この後すぐイエスを見捨てて逃げてしまうような弟子たちに対して僕となって足を洗って下さるのがイエスさまなのです。
ところが、私たちが驚くのは、イエスさまの覚悟、緊張に比べると、弟子たちはいい加減です。ルカ福音書によると、最後の晩餐の後でも12弟子たちは「誰がいちばん偉いか」と言い争っているし、ゲッセマネの園ではイエスさまが血の汗を滴らせながら祈っていらっしゃるのに弟子たちは眠りこけているのです。しかも、いよいよイエスさまが逮捕されてしまったとき、12弟子たちは皆イエスさまを見捨てて逃げてしまったとマタイは伝えています。ペトロなどは「イエスさまを知らない」と3度まで断言するのです。イエスさまは全くの孤独のなかで十字架を負わなければならなかったのです。12弟子は他の弟子たちとは違います。ずっとイエスさまと起居を共にし、イエスさまのなさったこと、語られたことを身近かに目撃していたのです。
しかし、私たちに12弟子を非難する資格はありません。私たちでも自分の身が危うくなったら友だちでも、先生でも見捨てて自分の身を守ることを第一にしてしまうような利己的な人間なのです。裏切る者なのです。12弟子の姿を見る時、「それは私の姿だ」と痛みの中で告白しなければならないのが私たちの姿なのです。
今日の第一の日課であるエレミヤ書31章31節以下を読んでみましょう。ここは新しい契約について書かれている聖書でも最も大切な個所です。神さまはここで「新しい契約は『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す』」とおっしゃっています。石に刻まれた律法ではないのです。決して見失わないように心に刻みつけようとおっしゃっているのです。そうでもしなければ人間はすぐに神さまの約束を消し去ってしまうからです。逆に言うと、それほど人間に罪は深く私たちに食い込んでいるのです。エレミヤは人間の罪が「心の板に、祭壇の角に鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがね(鏨)で刻み込まれている」と語っています。エレミヤはそれほど人間の心に深く食い込んでいる罪の恐ろしさを経験しているのです。消しゴムで消したり、洗剤で洗い流せたりするものではないのです。それでもなおイエスさまは不信仰な罪人を救うためにご自身の命を捨てようと歩み続けていらっしゃるのです。私たちは自分の罪を小さくし、ペトロのようにイエスさまに「命までお捨てにならなくても」というような人間なのです。イエスさまが苦しんでいらっしゃるのは他ならぬこの私のためなのに。
 パウロはそのような自分の姿を見て、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。・・・私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」と絶望の声をあげています。この個所は人類の最も悲痛な叫びであると言った人がいます。確かにそうです。私たちは年を重ねれば重ねるほど自分の罪の深さに気づかされます。それでも私たちは何とかなるさとばかり、素知らぬ顔をして生きているのです。ここで私たちは罪と裁きの厳粛さを思わなければなりません。パウロは神さまの憐れみをいいことにして、「その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」とローマの信徒に、迫っています(2:4)。あるいはガラテヤの信徒に向かって「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。(6:7)」とも語っています。私たちは、「神の愛」「キリストの十字架の愛」という言葉に慣れ切ってしまって、神さまの裁きを侮ってしまってはいないでしょうか。十字架に向かうイエスさまの厳しさに比べて、私たちの態度はあまりにもいい加減ではないでしょうか。今、イエスさまは、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ぶどん底までいらっしゃるのに。
ところが、(大丈夫!)そのような私たちが一人も滅びないようにと、イエスさまは最後まで歩み続けて下さったのです。そして、「父よ、彼らをお赦し下さい」と私たち罪人のために祈りつつ「成し遂げられた」との一言を残して息を引き取られたのです。ヨハネ福音書13章1節には「イエスは、この世から父のもとへ移る時が来たことを悟り、世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。分かりにくい文章ですが、文語訳では「弟子たちを極みまで愛された」と簡潔に記されています。分かりやすいし、原文にも忠実です。十字架上のイエスさまの言葉を聞く時、まさに「極みまで」罪人を愛し抜かれたイエスさまの姿を見、感動させられます。罪人を救うための犠牲はこれほど大きいのです。
パウロは「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ」(コリント一6:20)と語っています。私を救うためにイエスさまはご自分の命を身代金として与えて下さったのです。この事実を私たちは真剣に受け取りたいと思います。そして、もっと真剣にこの恵みを受け取って行きたいと思います。パウロは「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」(ローマ5:20)と語っています。イエス・キリストの十字架の愛は感嘆符でしか語られないと言った所以です。キリスト・イエスの愛の広さ、深さは私たちにとって測り知れなく大きなものなのです。しかし、私たちが罪と裁きの厳粛さを真剣に受け止め、同時にイエスさまの十字架の愛を真剣に受け止める時、本物の罪の赦しがどんなに大きいものであるかを知るのです。満ち溢れる喜びを経験することができるのは確かです。復活の輝きに溢れたイースターを待ち望みつつ日々を歩みましょう。
スポンサーサイト
2012/03/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「光に来る真理を行う者」(ヨハネ3:13-21)
ヨハネ3:13-21、2012・03・18、四旬節第4主日(典礼色―紫―)民数記21:4-9、
エフェソ2:4-10

ヨハネによる福音書3:13-21
 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」



説教「光に来る真理を行う者」(ヨハネ3:13-21)

本日の福音の個所はニコデモとの対話の続きでありますが、語り手が、主イエスから、むしろヨハネ福音書記者自身へといつの間にか乗り移っていくようなみ言葉であります。ニコデモは、「人が老いて新たに生まれることができましょうか」と、主イエスに尋ねますと、主は「人は新たに、あるいは、上から生まれなければ神の国に入ることはできない」とお答えになっているのであります。
そして、「天から降って来た者、人の子以外に天へと上っていく者はいない」とお語りになります。そして、昔、モーセが荒れ野の40年の出エジプトの旅において蛇を上げたように、人の子も上げられることになっていると、言われます。これは、今日の第1朗読で読まれた民数記のモーセの故事に由来しています。出エジプトの民が、不平を言い、荒れ野において蛇にかまれて大勢が命を落としていたときに、モーセが神に取り次ぐと、「青銅の蛇を作ってさおの上にあげよ」と言われたのに対して、その通りにすると、たとえ、蛇にかまれてもそのさおの上の蛇を見上げた者は助かったという故事であります。
この出来事の中に、福音書記者ヨハネは、キリストが十字架に挙げられることが予型として、既に約束されていると見るのであります。人の子も、モーセが作った蛇のように十字架の上にあげられることになっているというのです。
キリストの十字架は、記者ヨハネにとって、天への高挙と共に、あるいは、復活と共に、キリストの栄光なのであります。私たちは今、四旬節を歩んでいますけれども、せめてその主日には、福音、よき知らせを聞いて、新たな喜びの信仰へと招かれるのであります。記者ヨハネは、「神は、この世を愛された、それは、その独り子を与えるほどにであった。それは、彼へと信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を持つためである」と言います。 
この独り子を与えるとは、主イエスを十字架につけることをも意味するのであります。一方、信じない者は、既に裁かれていると言います。独り子を見たのに信じないものは、既に裁かれている。
「終わりのときに、私の語った言葉がすべての人を裁くであろう」とも、主は言われていますが、ここでは、現在既に裁かれているというのであります。それというのも、信じない者は、光が来たのに、それよりも闇を愛したので、自分の邪悪な行いどもが明るみに出されないために、闇を愛するからであると言われるのであります。
一方、真理を行う者は、光に向かってやって来る、それで、彼の行いどもが、神に導かれてのものであることが知られることになると、本日の福音の言葉は終わっているのであります。
私たちは、毎週、いや、毎日、式文でも告白しますように、言葉や思いやふるまいによって、罪を犯す者であります。それは、案外、家庭において、あるいは親しい間柄において犯すものであります。
しかし、本日の主日の祈りにもありましたように、光に向かって歩めるように、神の愛へといざなわれるように、私たちは祈らなければならない存在であります。真理を行う者は、偽りをのぞき、互いに愛し合う者になるように祈らなければなりません。そのためにこそ、主は十字架に上げられるべく、私たち人類に与えられたのであります。私たちは、弱い存在ですから、十字架を見上げ、天に上げられた人の子イエスを信じなければ、まともな生き方はできないのであります。
この四旬節第4主日に、十字架にあげられる主は、既に栄光の主であることが、指し示されています。ある同僚の牧師が、本日の福音は、個人的な悔い改めだとかいうものではなく、もっと大きな神の恵みを示したものだと、私の説教黙想を批判してくれました。厳しい批判でしたけれども、それは当たっていると今は批判してくれたことを感謝しています。
神は、恵みによって、一人の人さえ、滅びることを喜ばれず、独り子を私たちに与えてくださったのであります。それに感謝して応答する四旬節の毎日でありたいものです。アーメン。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2012/03/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「宮清めー十字架への道」(ヨハネ2:13-22)
ヨハネ2:13-22、2012・03・11、四旬節第3主日(典礼色―紫―)、出エジプト記20:1-17、ローマの信徒への手紙10:14-21

ヨハネによる福音書2:13-22
 ユダヤ人たちの過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。


説教「宮清めー十字架への道」(ヨハネ2:13-21)

 本日は、東日本大震災から、ちょうど、一年めの日曜日にあたっており、首都圏では、聖イグナチオ教会で、東日本大震災1周年を記念しての、カトリック、プロテスタント教会が教派を超えて、合同祈祷集会が、午後3時から、開かれることになっています。行ける方は是非、参加しましょう。
 さて、その1周年目の日曜日、四旬節第3主日に与えられているのは、ヨハネ2:13-22のいわゆる主イエスがなさった宮清めの出来事であります。本日からしばらく、四旬節に、福音として、ヨハネ福音書が道いられます。
 主イエスは、共観福音書によれば、その生涯の最後に、3年の公生涯の最後に、行い、それが主イエスの逮捕の直接の引き金のようになっているのでありますが、ヨハネ福音書ではその公生涯の始めに、宮清めをなさっている。しかも、非常に、暴力的な仕方で詳細に、宮清めをしたことが記されているのであります。本日の出来事を、CSの説教の担当であった柴田兄が、紙芝居でやろうと、教会で捜したそうですが、なかったとのことでした。
 教会学校の子供たちは、いつものやさしいイエスさまではないので、好まない傾向があると聞いたことがあります。
 しかし、今日のシリア情勢を見ましても分かる通り、暴力的な鎮圧や、それに対する民衆の反乱などを考えますと、そのあたりに散らかっていたロープを集めて、鞭を作り、牛や羊、鳩など追い出し、商売している人をも追い出し、両替人の机をひっくり返されたりしたのは、それほど、度を越した暴力とは言えないと思います。
 主は、この後、3年ほど、宣教をなさいますが、その始めに、エルサレムの神殿を清める必要をお感じになったのではないでしょうか。ユダヤ人のエルサレムの指導者たちは、そんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるかと、迫るのでありますが、主は、「この神殿を壊してみよ、私はそれを3日間で起こしてみせよう」と言われたのであります。ユダヤ人たちは「この神殿は、建てるのに、46年もかかっているのに、あなたはそれを3日で、起こすと言われるのですか」と訝しがっています。
 それは、実は、彼の体を指して言っておられたことだったのです。主がサマリアのスカルの女に言われたように、主イエスの到来によって、エルサレムでも、サマリアの山でもなく、主イエスの体を通して、まことの礼拝が始まることになるのであります。
 四旬節のこの時期に、主イエスが、この神殿を清めて、公生涯をお始めになったことは、すべてが新しく始まることを意味しているのであります。主イエスは、その新しい時代が来たことを、その猛々しさを通して、示されたのであります。
 私たちは、今、四旬節を歩んでいます。願わくば、私たちも悔い改めと主が来て下さった喜びをもって、この時期を歩んでいきたいものであります。

 人知では、到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2012/03/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「弟子たちの無理解」(マルコ10:32-45)
マルコ10:32-45、2012・03・04、四旬節第2主日(典礼色―紫―聖餐式)、創世記28:10-22、ローマの信徒への手紙4:13-17a

マルコによる福音書10:32-45
 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」





説教「弟子たちの無理解」(マルコ10:32-45)

四旬節第2主日を迎えました。先週の「荒れ野での40日間の誘惑」に引き続いて、今朝は、マルコ10:32-45の記事が与えられています。第3の受難予告そして復活予告とそれに引き続いて起こった弟子たちの無理解に関わるエピソードが本日の福音であります。
「るうてる」の3月号には、一面に今朝の記事からの説教が掲載されています。「驚くべき十字架」と題して、10:45に焦点を当てた説教であります。
さて、今日の福音の出来事は、こういうものであります。彼ら、主イエスの一行は、初めてエルサレムを目指してその途上にありました。主イエスは先頭を導き歩み、それを見て、弟子たちはびっくりし、また、驚かされていました。主イエスは、彼らに言います。「見よ、私たちは、エルサレムに上っていく。人の子は、祭司長や律法学者から、死刑の宣告を受け、異邦人に引き渡される。異邦人は彼をあざけり、つばをはきかけ、殺す。そして、彼は三日後に起き上がる。」
マルコの描く弟子像は、主イエスを理解できない弟子たちをテーマとして掲げていることであります。彼らは、三度目の受難予告にもかかわらず、主イエスが何をなさろうとしているのか、また、主イエスが何を語っておられるのか、正確には分からないのであります。けれども、主のふるまい、そしてお言葉に、びっくりし、恐れさせられていました。主の進まれるエルサレムにおいて、何か大変なことが起ころうとしていることは、鈍い弟子たちも察知していたようであります。そして、その受難予告の直後に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが近づき、自分たちがお願いすることをかなえてほしいと願い出るのであります。「主は何をしてほしいのか」と聞きますと、二人は、「あなたの栄光において、一人をあなたの右に、一人をあなたの左に座れるようにしてください」と願い出るのであります。主は、「あなた方は、何を要求しているのか分かっていない。あなた方は、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることが出来るか」と問われると、「はい、できます」と、答えるのであります。
杯は、詩編23編のように、喜びを表わすこともありますが、ここでは苦い杯、苦難あるいは、死を意味します。洗礼は、苦難、神から受ける裁きなどをここでは意味します。主は、「あなた方はその杯を飲み、その洗礼を受けることになるが、私の右、左に座ることは、私が与えることができるものではなく、用意されている者たちに与えられるのだ」と言われました。このやり取りを聞いていた他の10人の弟子たちは怒り始めます。すると、主は、彼らを呼び寄せて、言われるのです。
「あなた方は知っている、異邦人の支配者と考えられている者たちは彼らを支配し、えらい者たちは彼らに圧制を強いている。しかし、あなた方においてはそうではない。あなた方のうちで一番になりたい者は、すべての人のしもべ、ディアコノスになり、偉くなりたい者は、すべての人の奴隷になるであろう。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人のために、身代金として、その命を与えるためだからである」と、主は諭されたのであります。
多くの人のとなっていますが、これは一人に対してすべての人のためにという意味であります。私たち人類すべての人のために、主は命をささげるために来られたのであります。私たちは、自分がこの世界で、あるいは、仲間の中でどんな地位に、名誉にあるかと考えがちですが、主は、ご自身の模範に従って、どこまでも、ご自身が歩んでいく同じ苦難に従って来るように、私たちを招いておられます。マルコの描く弟子たちと同じように、私たちは、主イエスが十字架につく苦難の道を歩むことが難しい者であります。しかし、おずおずと、主イエスの道に、戸惑いを覚えながらもついて行くのが、私たちの現実、実際のところでありましょう。今日の第一の朗読の創世記28:10-22は、「ヤコブの見た夢」の出来事でありました。ヤコブは兄エサウに憎まれ、孤独と不安の中、ラバンおじさんを頼って、ハランに向かうのですが、その途上べテルと呼ばれることになる寂しい場所で、一夜を過ごすのでありますが、石の階段を神のみ使いたちが、上り下りする夢をみ、そして、ここにも主がおられると目覚めて石の枕を立てて、祭壇とし、油を注ぐのであります。欠点だらけのヤコブが、あるがままの姿で、主なる神に祝福を受けるのであります。
私たちも、欠点あり、弱さを抱えた人間でありますが、十字架に向かわれる主に従順に従っていくとき、思いがけない神の祝福に与れるのであります。

人知では、到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。









2012/03/04(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。