津田沼教会 牧師のメッセージ
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「四十日の誘惑」(マルコ1:12-13)
マルコ1:12-13、2012・02・26、四旬節第1主日(典礼色―紫―)、創世記9:8-17、ペトロの手紙一3:18-22

マルコによる福音書1:12-13
 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。



説教「四十日の誘惑」(マルコ1:12-13)
 先週の水曜日、2月22日に、聖灰水曜日の礼拝が守られ、今年はその日から4月8日(日)の復活祭まで四旬節に入り、日曜日を除く40日間が始まっています。
 そして、四旬節の第1主日は、毎年、共観福音書から、荒れ野の誘惑の記事が与えられています。
 今日は、マルコ1:12-13節が与えられています。これは、主イエスが洗礼をお受けになり、主に向かって聖霊がくだってきた出来事に続く記事であります。後に、主はもう一度洗礼を受けねばならないと言われます。
 再度の洗礼とは、十字架の死と復活の出来事を示しているのです。
 昔、出エジプトの民は、葦の海を渡り、40年間の荒れ野の旅の果てに、もう一度ヨシュアがヨルダン川を渡るときに、主なる神によって、川底を通過することができたのであります。
 さて、私たち津田沼教会の礼拝に参加している多くの者たちは、洗礼を受けていますが、本日の主イエスの遭われた誘惑、あるいは試練を、私たちも人生の荒れ野の旅において、体験していくのであります。私たちは、しばしば、誘惑に負け、倒れ伏すでありましょうが、今日の主イエスの荒れ野での出来事を思い起こしながら、人生を歩んで行くのであります。
 そして、今日の記事は、このように始まっています。「そして、直ちに、“霊”は彼を荒れ野へと投げ出す、追いやる。そして、彼はサタンによって、四十日間、罪へと誘われておられた。そして、彼は野獣と一緒であった。そして、天使たちが来て、奉仕をしていた。」
この奉仕というのは、ディアコニオーという動詞で、仕える、特に給仕していたことを表わす言葉であります。熾烈なサタンとの戦いを耐え忍ばれていたのであります。
 サタンとは、もとは、天使で、天の法廷で人間を告発する検察官のような存在でしたが、バビロン捕囚期の頃から、神に敵対する悪魔を表現する者となっていました。
 荒れ野は、さそりや毒蛇がおり、獅子や熊や野山羊、ジャッカルのような狂暴な野生の獣が辛うじて生息できる場所でありました。その野獣どもが、主イエスと共にいたということであります。アダムの失楽園以前の状態が主イエスの到来によって回復されたことをも暗示しています。蝮の穴に童が手を入れても害されないというイザヤの預言が、ここに実現しているとも言えるでしょう。荒れ野は孤独な、生命がほとんど存在しない場所でありますが、それがかえって、神との交わりに適した場所ともなるのであります。
 顧みるに、私たちも、今もなお、人生の荒れ野に遭遇し、そこを旅しているキリスト者の群れであります。
 主イエスは、熾烈な、サタンとの誘惑、あるいは、試練、試みに遭いながら、イスラエルの民とは違って、それに屈することはなかったのであります。そして、天使たちが、共にいて、給仕をしてくれていたのであります。
 私たちは、新しいイスラエルの民とされているものです。なかなか思い通りに信仰生活、日常生活が送れない者でありますが、主イエスの洗礼と、十字架と復活に至る二度目の洗礼の間を、私たちも、歩んで行くのであります。
 このレントの時期を、心を静かにしながら、平安のうちに進んで行きましょう。そして、洗礼を希望される方がおられましたら、その準備にふさわしい時ですから、是非、申し出てください。そして、信者の方々も、かつてのおのおのの洗礼を思い起こしながら、主イエスとの交わりに再び生かされてまいりましょう。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。







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2012/02/26(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちが聞くべき唯一のお方」(マルコ9:2-9)
マルコ9:2-9、2012・02・19、変容主日(典礼色―白―)、列王記下2:1-12a、コリントの信徒への手紙二3:12-18

マルコによる福音書9:2-9
 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。






説教「私たちが聞くべき唯一のお方」(マルコ9:2-9)

顕現節最終主日でもある変容主日を迎えました。典礼色も神ご自身を表わす白に、緑の色から変わっています。そして、今週の水曜日、2月22日の灰の水曜日からレント、四旬節・受難節に入ります。それは、紫の色で表わされ、悔い改めを意味し、復活祭前の日曜日を除く40日間が始まります。
それは、洗礼を受ける人のための時期でもあります。津田沼教会でもお一人でも、洗礼を受け、あるいは堅信礼を受ける人が出てくることを、望んでいます。
さて、今日は、白で表わされます特別に大事な日曜日です。主をメシアと、ペトロが告白した後の6日後のこと、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に導き上ります。山の、人に妨げられない場所にいき、祈るためでありました。それは、十字架への道に備えるときでもありました。
主は、山頂で、彼らの前で、変容されます。神によって、姿、形が変えられたのであります。これは、人間的に神々しくなったというレベルの出来事ではなく、神さまからの啓示でありました。洗礼をお受けになったとき、「あなたは、私の愛する子、私の心に適う者」と主イエスにだけ、啓示された声が、今回は主イエスにだけではなく、同行した3人に、成ったのであります。「これは私の子、愛する者、彼にあなた方は聞きなさい」との声が雲の中から成ったのであります。その雲からの声の前に、エリヤがモーセと共に現われ、主イエスと話し合っていたのでありますが、ペトロは、畏怖の念から、とんちんかんな応答をして、「3人のために、仮小屋を三つ建てましょう」というのです。しかし、彼らを雲が覆い、先ほど言いました宣言と命令の声が神から成ったのであります。モーセにでもなく、エリヤにでもなく、あるいは、イザヤや、どんな素晴らしい預言者に聞くのでもなく、主イエスに聞くように私たちは、命ぜられ、招かれているのであります。かつて、ある先輩の牧師が、説教で人間は、悪いものだということが、迷惑メールを考えれば納得がいくでしょうと言いました。また、教会にも素晴らしい人がいるし、教会外でも素晴らしい人がいることを、皆さんは知っているでしょうと、言われました。素晴らしい人格のある人や賜物のある人は、教会の内外を問わず、沢山います。
しかし、私たちは、主イエスがメシアであり、しかも、私たちのために、十字架についてくれる唯一の苦難のしもべであることを、知らなければなりません。旧約聖書は、旧約聖書、新約聖書は新約聖書と分けて考えがちですが、私たちは、いずれもが、主イエスこそ、メシアであり、私たちの罪の唯一の贖い主であることを、知らなければなりません。それこそ、ルターが、生涯を通して知り、聖書を通して強調した真実であります。
私たちも、聖書と主イエスに全幅の信頼を置いて、残された生涯を歩んでいきましょう。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。


2012/02/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「罪をゆるすお方」(マルコ2:1-12)
マルコ2:1-12、2012・02・12、顕現節第6主日(典礼色―緑―)、ミカ書7:14-20、コ
リントの信徒への手紙一9:24-27、JELC宣教の日

マルコによる福音書2:1-12
 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。



説教「罪をゆるすお方」(マルコ2:1-12)

本日の福音はマルコ2:1-12であります。「ガリラヤの春」という、主イエスにとってある意味では順調な時期が、本日の部分以降かげりを見せ始めるのであります。本日の部分は、主イエスが、数日後、カファルナウムに再び戻って来られるという記事で始まっています。それは、ペトロの家での出来事であったかもしれません。
その家に、主イエスがいることが知られ、大勢がその家の戸口に向かってやって来て、隙間もないほどとなりました。その家の中で、主は福音を語っておられました。そこに、中風の患者、脳卒中のような、あるいは、半身不随で、手や足が麻痺したような患者を、4人の者たちが、担架のようなもの、あるいは、マットレスのようなものに、乗せてやってくるのであります。しかし、入口も人で一杯で、仕方なくどうにもならないところでありますが、途方もなく熱心な彼らは、家の脇の階段を通って屋根に上ります。平坦な、梁の間を枝や泥で固めた簡単な屋根であります。そして、彼らは、主イエスがおられる上の辺りを屋根を取り除き、泥を掘り出して、そこから、その人を、床ごとつりおろすのであります。
その彼らの信仰を見て、「子よ、あなたの罪どもは赦される」と主は語られるのであります。そこに、律法学者たちも座っていて、彼らは心の中で、彼は冒涜している。神のほかにだれが、人の罪どもを赦すことができようかと、心の中であれこれ熟考していたのであります。
主は、その霊でもって、彼らの考えていることを見抜いて、何をあなた方は、心の中で、熟考しているのか。人の子が罪を赦す権威を持っていることを知らないのか。「あなたの罪は赦される」ということと、「あなたの床から起き上がって、歩き回れ」ということと、どちらがたやすいかとお聞きになるのであります。あなたの罪どもは赦されるというほうが、難しいのではないでしょうか。それは、見えないからであります。しかし、主は、人の子が罪を赦す権威を持っていることをあなた方が知るためにといって、「あなたは起き上がりなさい、そして床を担いで、自分の家に帰りなさい」と語られたのであります。すると、彼はすぐに起き上がり、みんなの見ている前を床を持ち上げて出て行ったのであります。そこにいたすべての人々は、仰天し、「こんなことは、今まで一度も見たことがない」といって、神の栄光をたたえたのでありました。
私たちの罪をも、主は赦すことのできる神からの代理者・代表者なのであります。私たちも、罪赦されて今も主イエスを通して、心も体もいやされて、まったきものとされていることを感謝しながら、み言葉に、福音に耳を傾け、従って歩んでいきましょう。

人知では到底測り知ることのできない平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。

2012/02/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「癒しと宣教の開始」(マルコ1:29-39)

マルコ1:29-39、2012・02・05、顕現節第5主日(典礼色―緑―)、ヨブ記7:1-7、コリントの信徒への手紙一9:16-23

マルコによる福音書1:29-39
 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブもヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。




説教「癒しと宣教の開始」(マルコ1:29-39)

先週の福音の個所は、マルコ1:21-28でした。本日はそれに続くマルコ1:29-39が与えられています。安息日の今で言う土曜日のシナゴーグでの説教、邪悪な霊の追放に続いて、彼ら一行はシモンとアンデレの家にすぐに向かいます。シモン、ペトロはこの日の出来事、主イエスが自分たちの家に4人と共に直行された出来事を、非常に嬉しく思い、忘れることはなかったでありましょう。まだ、日没前の出来事であったでありましょう。
彼らが家に着くと、彼らが気づいたのか、あるいは、別の家にいた人々が言ったのか、シモンの姑が熱を出して寝ていることを語ります。主イエスは、近づかれ、姑の手をとってお起こしになると、熱は出て行き、彼女は、奉仕をし始めた、具体的には多分給仕の仕事をして、彼らをもてなしていたのであります。
これは、主の共同体に奉仕する女の弟子たちの見本として、マルコは、多分、ペトロから得た伝承を記しているのであります。まだ、安息日が終わっていなかったでありましょうが、主は個人的に、家の中の病者を癒すことをいとわなかったのであります。そして、土曜の日没が来ると、町全体が、その家の戸口へと集められていたというのであります。そして、さまざまな種類の病者や悪霊にとりつかれた者たちを人々は連れて来、主イエスは、癒しておられ、あるいは、悪霊どもを追い出していたのであります。
そして、主は悪霊どもが、しゃべることを禁じておられたのであります。それは、彼らが主イエスのことを知っていたからであります。すなわち、彼がメシアであることを知っていたのであります。しかし、主イエスがメシアであることは、主イエスの受難、十字架による死と、復活を通して初めて、メシアとなるのであって、この時点では沈黙命令を主はお出しになるのであります。
私たちもさまざまな病気にかかったり、悪霊が取り付くというのに近い出来事が起こることは今でも起こることであります。そして、科学や病理学が進んで、良い薬が作り出され、病気を抑えることは可能になりましたが、主によって癒されるということは、主イエスの宣教のための一つのしるしでしかないのであります。
主イエスによって神の支配に入れられれば、病気も悪霊も、恐れることはなくなるのであります。主イエスは、その翌日、まだ、真っ暗な、朝早く、起きられ、出て行き、寂しい場所へと独りで行かれ、そこで祈っておられました。
神との深い交わりが示されています。さて、シモンたちは、主イエスがいないのに気づいて、彼を追跡し見出します。そして、みんながあなたを探していますと言います。
すると、主は、あらゆる方向へと周りの市場市へと行こう。そのために、私は出てきたのだからと、言われます。触れられるだけ多くの人々に福音を告げるのが主の使命でした。そして、主は、ガリラヤの全近隣へと、彼らのシナゴーグへとみ言葉を伝えながら、また、悪霊を追い出しながらやってこられたと、本日の福音は締めくくられています。
主は、人々に寄り添いながら、私たちの弱さや、不条理な現実をよくご存知で、癒され、また、神の福音を宣教してくださるお方です。私たちも、弱いものですが、主イエスによる癒しと神の国の宣教のために、この一年を、自分たちの場所から、地域へと、あるいは、家庭へと、押し出されていきましょう。

人知では到底測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。








2012/02/05(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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