津田沼教会 牧師のメッセージ
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「権威ある新しい教え」(マルコ1:21-28)
マルコ1:21-28、2012・01・29、顕現節第4主日(典礼色―緑―)、申命記18:15-20、コリントの信徒への手紙一8:1-13

マルコによる福音書1:21-28
 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。





説教「権威ある新しい教え」(マルコ1:21-28)
本日は、総会礼拝であります。総会礼拝に与えられました福音は、マルコ1:21-28であります。「彼らは、カファルナウムへと入った。そして、すぐに、安息日に、彼は会堂、シナゴーグへと入って教えておられた。彼らは、彼の教えに圧倒されていた、なぜならば、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように彼は教えておられたからである」、と始まるのであります。
文面としては、ぎこちなくなりますが、原文では、続いて、「そしてすぐ、汚れた霊における人、邪悪な霊における人がこう言って叫んだ」と続くのであります。 
「ナザレのイエスよ、あなたと私たちと何の関係があるのか。私たちを滅ぼしに来たのか、あなたがだれであるか、私たちは知っている、神の聖なる者だ」、というのであります。 
そして、イエスは、警告して言われるのであります。「『お前は、口輪をかけられよ、そして、彼から出て行け』。すると、邪悪な霊は、彼をけいれんさせて、大声をあげて、出て行った」のであります。
「そして、すべての人たちは、仰天して、お互いにこう論じ合って語っていたのであります。『これは何なのか、権威、権能に従った新しい教えだ。邪悪な霊に命じると、彼らも彼に聞き従う』」と。
主イエスは、邪悪な霊を従える神の聖者が来ると信じられていた通り、魔術などを一切使わず、ただ、権威ある教えと言葉だけで、悪霊を従えることができたのであります。
「こうして、彼の聞こえは、すぐに、あるゆる方向に、ガリラヤの全近隣へと出て行ったのである」と、本日の記事は締めくくられているのであります。
私たちは、本日、津田沼教会の総会を午後、開こうとしています。本日の記事は、それにふさわしい個所ではないでしょうか。私たちは、弱い存在であります。邪悪な霊との戦いに、主イエスの言葉と権威によらないでは、太刀打ちできるものではありません。私たちの津田沼教会の群れは、小さな、弱い群れであります。けれども、主のみ教えと、言葉と、権威に信頼していくときに、多くの前に立ちはだかる困難と課題を克服していくことができると、本日の記事を通して私たちは、示されているのではないでしょうか。それまで、待たれていたお方が、メシアとして、現われたことを今日のみ言葉は示しています。このお方から、離れるとき、私たちは、無残にも、邪悪な霊に飲み込まれ、敗北せざるを得ません。しかし、このお方のお言葉と教えに従うとき、どんな邪悪な霊も、聞き従わざるを得ないと、本日の聖書は語っています。私たちは、もう駄目ではないかと感じさせられる罪による敗北をしばしば、経験します。しかし、希望をもって、待ち望み、忍耐して、雄雄しく、うろたえることなく、進もうではありませんか。
 今年の主題聖句をヨシュア記1章9節から選ばせていただきました。「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」とあります。そして、主題を「上り坂を登る」というふうに決めさせていただきました。ヨシュアがモーセの後を継いで、モーセ亡き後、約束の地、イスラエルを前にして、主から頂いた言葉であります。津田沼教会も、今が一番大変な上り坂を迎えているということができましょう。
 しかし、約束の地は、既に見えており、私たちが、み言葉を拠り所として、一致して進む時、あらゆる困難も、乗り越えて行くことが出来るのであります。本日の与えられました福音も、主イエスがお出でになったことを通して、邪悪な霊に対して、それを屈服させる神の子が既にご支配している新しい世界を示しているのであります。そのことを、今一度確認して、新しい1年を踏み出そうではありませんか。
 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなたがたの心と思いとをまもるように。アーメン。







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2012/01/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ガリラヤの春」(マルコ1:14-20)
マルコ1:14-20、2012・01・22、顕現節第3主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書16:14-21、コリントの信徒への手紙一7:29-31

マルコによる福音書1:14-20
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。



説教「ガリラヤの春」(マルコ1:14-20)
 先週の「主の洗礼日」まで、主日の典礼色は、白でありましたが、本日からは、顕現節の第3主日でありますが、典礼色は緑になっています。マルコによる福音書の記事が、順を追って、読んでいかれます。
 今日は短い一節、マルコ1:14-20が与えられています。それは、さらに、1:14-15と1:16-20に分けることができます。最初のくだりは、「ヨハネが渡された後、イエスは、ガリラヤへと行かれた。そして、『時は満ちた、神の国は近づいた。なんじら、悔い改めて福音を信ぜよ』」というものでありました。この「時」というのは、カイロスという言葉で、絶好の好機というふうな特別な時を表わす言葉です。主イエスの到来の時とともに、神の支配が始まっているのであります。
 そういうふうにして、主イエスは、神の福音を、すなわち神の良き知らせを、ガリラヤで宣言し始めておられたのであります。多くの宗教、あるいは、文化、あるいは、科学の発展の中にありまして、主イエスが神の国を宣言して廻るという独一的な第一歩が踏み出されるのであります。もちろん、この出来事は、旧約聖書の長い長い預言、メシアが終末の時に来られるという約束の成就として、起こったのであります。
 さて、後段1:16‐20では、最初の弟子たちの召命という出来事が記されています。古代のガリラヤの漁師たちをどうして、主イエスは、よりによって彼らを選び召し出されたのか、太古の漁師たちを自然の中にその生業のままに、置いておくべきではなかったのかと、評論家の亀井勝一郎氏は書いているのであります。あるいは、それは、私たち、教会につながれた一人一人についても言えることかもしれません。主イエスに出会い、弟子として召されることがなかったならば、普通の日本人として、自然に、おおらかに、土っぽく、生きることができたのではないかとさえ、思えなくもないのであります。
 しかし、主イエスに一方的に声をかけられ、主イエスの弟子として、彼らは従ったのであります。そのことを、ペトロは、一生忘れることなく、マルコ福音書記者を通して、叙述しているのであります。
 彼らは、主イエスが、ガリラヤの海、実は湖でありますが、この海に沿って歩んでおられたとき、シモンと、アンデレの兄弟が、網を打っているのを目に留めるのであります。そして、「私に従ってきなさい。そうすれば、人間どもへの漁師たちになるように、私はあなた方をするであろう」と呼びかけるのであります。すると、彼らは、すぐに、網を後に置いて、従ったというのであります。ルカによる福音書の並行個所によれば、弟子となる前に、一定の関わり合いができており、主イエスについての知識はある程度あったようであり、それが、史実であったかもしれません。ヨハネによる福音書も、主イエスのもとにアンデレが、ヨハネの弟子であったのに、シモンのところに行き、主イエスを紹介しています。
 しかし、マルコ福音書は、何の面識もなく働いていた二人に、一方的に「私に従ってきて、ガリラヤの海の魚ではなく、人間たちを取る漁師になるようにしてやろう」という言葉だけによって、従うのであります。
 続く、二人の兄弟、ヤコブとその兄弟ヨハネの場合も事情は同じであります。主は、更に少し進まれると、やコブとヨハネが、舟の中で網を繕っているのを目にされ、声をかけ、呼ばれるのであります。すると、彼らも、父ゼベダイを雇い人たちと共に、舟の中に残して、彼の後に出て行ったという、単純な事実が記されているだけなのであります。
 さて、2000年を経ました現在の私たちの事情はどうでありましょうか。本当に多くの宗教と呼ばれるものが、現在の日本の社会に存在しており、あるいは、無宗教の人も増加しており、また、同じキリスト教でも、異端と呼ばれる者から正統な教派と言われるものが、たくさん存在しています。牧師をしておりますと、色々な、同じキリスト教と言われるものでも、違った立場の人が訪ねて参ります。統一教会の壮年の方が、年末にも、是非、感謝の意を込めて挨拶だけでもしたいと、電話をかけて来て、お菓子をお礼にと言って渡して、帰って行かれました。彼ら夫婦は、20年以上も、統一教会の信仰によって、信仰生活を送って来られた。文鮮明師は、世界の宗教が対立するのをやめて、世界平和のために、宗教が一致することを念願としていると、その自伝の前書きに書いておられる。
 私たちは、たとえば、そのような異端と呼ばれる信仰、宗教の中にも、真しに、清く正しくいきている信者を見出すのであります。
 私たちは、宗教が、混然と存在し、もはや、キリスト教だけが真理であるというふうな主張はできない世界に生きております。しかし、そこに、自分たちの信じる固有の宗教、信仰の自由を、与えられているのであります。
 そして、ルーテル教会に属します私たちは、ルターが見出した救い、救い主イエスへの信仰のみ、恵みのみ、聖書のみという信仰の真理を信じる者たちであります。
 そして、マルコ福音書1:16-20によれば、当時のファリサイ派のラビたちは、シナゴーグでもっぱら、教え、弟子たちは、自分の師とするラビを選ぶ権利があり、そして、弟子たちが、切磋琢磨して、自分のラビを乗り越えて、より偉大なラビになることもできた。
 しかし、主イエスの場合は、事情は異なるのであります。「あなたたちが私を選んだのではない。私があなたたちを選んだ」と主イエスははっきりと言われるのであります。そして、父、み子、み霊は三位一体の神であり、人間・人類とは異なり、その創造主なのであります。そして、私たちは、師に勝る者ではなく、師に似たものとなることで十分なのであります。
 主イエスの弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師たちであり、あるいは、収税所に座って税務を処理していた徴税人マタイであり、マグダラのマリアであり、あるいは、幼子たちまでも含んでいます。
 私たち自身についても思い起こしてみましょう。私が主イエスに召されたのは、長い長い求道生活の挙句の果てのことでした。それまで、私は、京都の宗教の盛んな町で、大学生で、仏教の新派や、キリスト教の諸派にも、顔を出し、病気を経ていたこともあって、何とか救いを見いだしたいと思って求道していました。結局は、キャンパス・クルセ―ドの集会にも、行っており、その一人の英会話を教えてくれる女の先生、派遣されていた青年がたまたま通っていたルーテル京都教会にも足を伸ばし、求道しておりました。
 そして、非常に残念な失敗を犯しまして、そのとき、主イエスが「私はあなたを見捨てない。安心して私に従って来なさい」という声を聞き、幻を見たのであります。
 現在、牧師をして18年経とうとしていますが、思いのままに、伝道・牧会出来ていない現実があります。しかし、主に従ったことによって、他では得難い出会い、喜びにも与って来ました。奢ることなく、また、現実に埋没することなく、後ろではなく、前を見て、主の御用に当たる牧会者・伝道者になりたいと、本日のペトロたちの召命の記事を、頭に納めて、2012年度を歩んでいきたいと思う者であります。アーメン。

 
2012/01/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「罪人と共に生きるイエスさま」(マルコ1:9-11)内海望牧師
マルコ1:9-11、2012・01・15、主の洗礼日(典礼色―白―)、イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

マルコによる福音書1:9-11
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


説教「罪人と共に生きるイエスさま」(マルコ1:9-11)
 聖書日課は、先週の顕現主日(クリスマス)から一気に成人されたイエスさまの洗礼へと飛んで行きます。聖書に記されている誕生以来のイエスさまの歩みは、ごく限られています。八日目の宮参り、命名、エジプト避難、ナザレ帰還と成長、十二歳の時のエルサレム神殿訪問だけです。しかも、それらすべては神さまのひとり子らしい特別な奇跡を伴った華々しい歩みでなく、当時の社会の習慣に従ってのごく普通の幼児の歩みでした。唯一特別に見えるエジプト避難にしても、それはその時の親としては誰でも当然行ったことであったでしょう。言い換えれば、教祖とか、偉大な人物の誕生、幼年期に語り継がれるような輝かしい奇跡的な出来事は何一つなかったということです。しかし、まさにここに「私たちの救い主」であるイエスさまの生き方、人格が明らかにされています。すなわち、イエスさまは、私たち普通の人間と同じ姿で生きて下さる方でした。
 ところで、今日のイエスさまの洗礼は、私たちに何を伝えてくれるのでしょうか。
 マルコは「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」と洗礼の出来事を極めて簡潔に記しています。ところが、マタイ、(ルカ)福音書ではヨハネが痛烈な悔い改めの洗礼を迫る説教が記されています。ファリサイ派や、サドカイ派と呼ばれるそれぞれ当時の宗教的指導者と呼ばれる人々に向かって「蝮の子らよ、斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」とまで迫る厳しいものでした。
 そのようなヨハネの足もとにイエスさまが来られて洗礼を求められたのです。ヨハネは驚き、「私こそ、あなたから洗礼を受ける者です。」とイエスさまに思いとどまらせようとしました。洗礼を授けるべき方が、洗礼を受けるべき人々、悔い改めを必要とする人々の間に立っていらっしゃるのです。イエスさまはヨハネが罪を弾劾している人々、徴税人、権威をかさに人々を脅かす兵士たちの間に交じって立っていらっしゃるという驚くべき出来事がここにあるのです。最後の預言者とも呼ばれるヨハネは神さまの側に立って罪人に激しく悔い改めを迫っています。ところが、イエスさまは罪人の側に立っていらっしゃったのです。これがヨハネの驚きでした。
 しかし、イエスさまが家畜小屋の飼い葉桶での誕生の時から、この私たちの側におられたということは驚きであると共に、これこそ私たちにとって何ものにも代え難い福音、良いニュースなのです。そして、イエスさまは、洗礼を受けられることによって、ご自分が徹頭徹尾罪人と共に生きる方であることを示して下さったのです。イエスさまの洗礼は罪ある人類とイエスさまとの連帯の深さを示す出来事であったのです。
 ここで更に、イエスさまの受難の出来事を思い出して下さい。マルコ福音書では付記の形ですが、イエスさまが十字架につけられた状況を「こうして『その人は犯罪人のひとりに数えられた』という聖書の言葉が実現した。」と書いています。あるいはルカ福音書は、最後の晩餐の後、イエスさまご自身が「言っておくが、『その人は犯罪人のひとりに数えらいます。ここで「聖書の書かれている聖書の言葉」とはイエスさまを預言しているイザヤ書53章12節の言葉を指します。つまり、イエスさまは誕生から十字架の死に至るまで罪人と共に生きて下さった方です。従って、イエスさまの愛のまなざしからもれてしまうような人間は一人もいないのです。どんなに罪深い者であっても、イエスさまは確かに私たち一人一人を愛して下さっているのです。私たちは、その確かさを罪人の列に並んで洗礼をお受けになるイエスさまの姿から得ることが出来ます。抽象的な話をしているのではありません。私たちが取り返しのつかないようなことを犯している時でも、確かに私たちはイエスさまの愛のもとにあるのです。しかも、イエスさまは、裁判官の席から赦しの手を伸べるというのでなく、ご自分を犯罪人のひとりの数えられるような場所において私と共にいて下さるのです。イエスさまの洗礼はこの事実を示す出来事なのです。

 さて、唐突ですが、この救いの確かさを必死に追い求めたルターの心に思いを馳せてみます。ルターは、友人の突然の死に出会って、震え慄きました。今、自分が突然死んだらどうなるだろうか、罪人である自分は切り倒されて永遠に燃え盛る火に投げ込まれるのではないかという不安、恐れにとらわれたのです。そこで修道院に入ったのです。修道士として守るべき規則をきちんと守る生活をすれば、神さまに赦され、救いの確かさを与えられると信じたのです。
 このようなルターの願いは、決して時代遅れの中世ヨーロッパ人の願いではありません。
いつの時代にも心の平和、安心を求める心はあります。
 私たちも、安心した人生を生きるため懸命に学び、働いています。優れた業績を出せば生活の確かな基盤が与えられると安心します。業績が落ちれば不安になります。ルターは、信仰的な面ですが、同じ不安にさいなまれたのです。思考レベルは違いますが、私たちが高学歴を求めて必死に勉強する、高収入を求めて良い会社を探しまわる心理と同じです。ルターは同じ真剣さをもって救いの確かさを得て安らかな思いを得ようと努力したのです。その努力は傍目にもその努力はすさまじいものであったようです。修道院長が心配して、「君は神さまと争っているような気がする。少し、休んだら」と忠告したほどでした。かつて企業戦士という言葉がよく用いられました。朝早くから、夜遅くまで、それこそ必死に働きました。修道士時代のルターは、きっとそのような姿であったのでしょう。
 しかし、結局ルターは救いの確かさを得ることが出来ませんでした。「私は、確かに救われた」という確信が得られなかったのです。反対に、努力すればするほど、自分の心に潜む罪の姿に気づかされ新たな不安の中へと陥るのでした。ついに、ルターは完全に絶望してしまいました。自分は死すべき罪人だと知ったのです。
 ところが、まさにその時、この罪人の一人として数えられることを厭わず、罪人の中に生きて下さるイエスさまに出会ったのです。この方が裁く側でなく、こちら側、裁かれる罪人と共にいらっしゃる限り、絶対に見捨てられることはない、と救われている確かさを得たのです。自分の信仰的行い、道徳的努力によって決して得ることの出来なかった確かさをイエスさまの愛に見出したのです。絶望が希望に変わり、不安が平安に変えられたのです。ルターは確信をもってイエスさまの愛を信じて生きて行く者に変えられたのです。自由な喜びに満ちた日々を歩み始めたのです。福音に生きる喜びです。
 ここにおいて、イエスさまの洗礼が、私たちの生活と結びつくのです。
 私たちは、洗礼を受けるイエスさまを通して、わたしたちの「内に」「下に」「共に」いる方の姿を見ることが出来ます。(ルーテル教会で良く用いられる表現。)イエスさまは、御言葉の説教と、礼典を通して絶えず私たちの心を新しくして下さる方です。【内に働く愛の力】です。同時に、この方は罪の赦しを受けなければ生きていけない私たちを【下から】支えて下さる方です。足もとがぐらつくと人生全体が不安になります。しかし、イエスさまは確かな土台として私たちを支えて下さいます。ですから、私たちは決してぐらつくことはありません。そして、私たちに寄り添って【共に】歩んで下さる方なのです。
 この確かさは、たとえ生活上の不安があっても、業績社会にあって功績を出すことが出来なくても、その不安を補って余りある確かさです。イエスさまは、私たち一人一人にとって「傷ついた葦を折ることなく、暗くなって行く灯心を消すことがないように」と支えて下さる方なのです。
 与えられたこの新しい一年も、自分の信仰的な行いではなく、決して失われることのないイエス・キリストの愛を確かなものと信じ、平安と希望のうちに日々生きて行きましょう。
2012/01/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ベツレヘムの星」(マタイ2:1-12)
マタイによる福音書2:1-12、2012・01・08、顕現主日(典礼色―白―)、イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12

マタイによる福音書2:1-12
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



説教「ベツレヘムの星」(マタイ2:1-12)

本日は、顕現主日の礼拝です。昨年は、12月25日(日)が降誕祭で、それから8日目が1月1日(日)で、主の命名日を迎え、本日は、降誕祭から13日目の主の顕現日を1月6日(金)に過ごし、昨日まで14日間を降誕節として、守ったのであります。私たちの教会暦では、昨日までがクリスマスであった訳です。そして、顕現主日には、毎年、マタイによる福音書2:1-12が読まれますけれども、聖書とは不思議な書物でありまして、本日の記事も、何度読み直しても尽きない泉のようなものであります。顕現主日に与えられている出来事を、皆さんとご一緒に、今年も聞いてまいりましょう。
 マタイ2:1-12は、イエスの出生について、ルカ2:1以下とは違って、事細かくは記していません。イエスが、ヘロデ王の日々において、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方から、マゴスたち、マギたちがこう語りながら到着したと本文は始まっています。占星術の学者たちと、新共同訳聖書は訳しているのでありますが、これは、マゴス、複数形マゴイという言葉で、使徒言行録では魔術師と訳されているものであります。東方というのは、バビロニア辺りを指していると思われます。バビロニアでは、占星術、あるいは、今で言う天文学のようなものが盛んでありまして、その魔術師たちが到来して語るのであります。「ユダヤ人のお生まれになった王はどこにいますか。なぜなら、私たちはその方の星が昇るのを見たからです、そして、彼を拝むために、私たちはやって来たからです」と。
 古代世界では、偉大な人物が生まれる時に、著しい星が現れることが信じられていました。モーセが生まれた時にも、大きな光が辺りを照らしたと伝えられています。モーセ以上に大いなる方、イエスが生まれたときに、星が現れたということは、十分に考えられることであります。
 例えば、ケプラーは、紀元前7年に、彗星が現れたと計算しました。旧約聖書でも、民数記24:17では、バラムはこう預言し、託宣をしています。「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつのしゃくがイスラエルから立ち上がり、モアブのこめかみを打ち砕き、シェトのすべての子らの頭の頂きを砕く」と。
 さて、その時のエルサレムの反応はどうであったでありましょうか。聖書は、ヘロデ王は、これを聞き、うろたえた、そして、エルサレムの全住民もそうだったと記しているのであります。コップの中の水をかき混ぜるときのように、動揺させられたというのであります。この世界でのユダヤ人の王であるヘロデは、まことのユダヤ人の王であるイエスの誕生を聞いて、あわてふためき、エルサレムの全住民も拒絶反応を示したのであります。
 そして、ヘロデはすべての、民の祭司長たちや律法学者を集めて、キリスト・メシアがどこで生まれているのかを知ろうとしていました。彼らは、言います。「ユダヤのベツレヘムにおいて。なぜなら、こう預言者を通して言われているからです」と言って、ミカ書の5:1、3とサムエル記5:2を引用して語るのであります。「そして、なんじ、ユダの地、ベツレヘムよ、あなたは、ユダの君たちのうちで、いと小さき者ではない。なぜなら、あなたから指導者が出て来るからであり、その者が、私の民、イスラエルを牧するであろうから」と。ダビデが育ったベツレヘムの地からメシアが現れると当時の人々は信じて疑わなかったのであります。そして、ヘロデは今度は、魔術師たちを密かに呼んで、彼のその星が昇った時について正確に確かめ、彼らを、ベツレヘムへと送って、言うのであります。「あなた方は行って、その子のことについて詳しく調べてくれ。そして、見つけたなら、すぐに、私に知らせてくれ、私もやって行って、彼を拝めるように」と。魔術師たちは、ヘロデの言葉を聞いた後、出発すると、見よ、彼の星が、彼らの先に行っていたというのであります。そして、ついに、その子のいる場所の真上で止まったのであります。
 彼らは、それを見て、非常に大きな喜びを喜んだと、聖書は記しています。そして、彼らは、その家の中へとやって来ると、その子と共に彼の母を見出した、そして、彼らは跪いて、彼を拝んだのであります。異邦人である魔術師たちが、マタイ福音書では、最初にユダヤ人のまことの王であるイエスを見出すのであります。私たちも、ユダヤ人ではなく、もともとは異邦人でありますが、この魔術師たちと同じように、主イエスを拝むことが許されているのであります。そして、日曜日ごとに、このユダヤ人たちの王とまみえ、交わることができるのであります。
 そして、彼らはその宝箱を開けて、あるいは、懐を開いて、贈り物を申し出るのであります。それは、黄金、乳香、没薬であります。これらは、特に乳香、没薬は、アラビア原産のものでありましたが、高価なものとして、輸入品として、贈り物とされていたのであります。これによって、このユダヤ人たちの王に、彼らは忠誠と服従を示しているのであります。これを、教会教父たちやルターは、黄金は、王としてのイエスを表わし、乳香は、神としてのイエスを表わし、没薬は、人としてのイエス、あるいは、イエスの受難と死を表わすものとして解釈しました。
 しかし、より重要なのは、主イエスを、ユダヤ人たちの王として、また、神の導きによって、主イエスに出会い、ひれ伏し拝むことであります。モーセよりもはるかに偉大な第二のモーセを、救い主、メシアとして受け入れ、拝むことは、この日の異邦人である魔術師のみならず、すべての異邦人、そして、私たちにも、許されている恵みなのであります。
 幼子イエスを抹殺しようとしたヘロデを、魔術師たちは、夢で啓示を受けて、そのもとに、戻らないようにと主に導かれ、彼らは、別の道を通って、彼らの国へと引き返したと本日の聖書は、締めくくられています。魔術師たちは、それまでとは、まったく異なる新しい道を示されて、自国へと旅立つのであります。
 私たちも、この2012年の開始を、魔術師たちと同じように、これまでとは全く別の道を通って歩んで行くようにと招かれているのであります。このユダヤ人たちの王は、受難のときに、激しくののしられ、エルサレムの住民たちによっても、拒まれ、十字架の上にあげられるのでありますが、私たちは、このお方こそ、全人類の罪を贖い、神との関係の破れを一身に担い、神と人間との間に、和解を成し遂げてくださったお方として認め、悔い改めと永遠の命に与りながら、この一年の第一歩を踏み出して行きましょう。
祈りましょう。
天の父なる神さま。
私たちの生涯は、み前にあっては、はかなく、すぐに枯れ果ててしまう野の花にも似ています。どうか、この一年をまったく新しい一年として、希望をもって歩みださせて下さい。そして、本日の魔術師たちが、神の導きによって、あなたのみ子にまみえた時に、味わったと同じ大いなる喜びで、私たちを満たして下さい。
 昨年の東日本大震災から、今年は、復旧、復興に向けて、人と人との絆を大切にし、また、あなたとの絆を忘れることがないように、弱い私たちを引っぱり、導いてください。
 特に、この津田沼教会につながるお一人お一人の健康と家族の平安をお守りください。
これからの一年の歩みをあなたにすべてゆだねつつ、み子キリストのみ名によって祈ります。アーメン。




2012/01/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスと命名される」(ルカ2:21-24)
ルカによる福音書2:21-24、2012・01・01、主の命名日(典礼色―白―聖餐式)、民数記6:22-27、ペトロの手紙二1:1-11

ルカによる福音書2:21-24
 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。



説教「イエスと命名される」(ルカ2:21-24)
皆さん、新年おめでとうございます。本日は、主の命名日の礼拝であります。今回は、ちょうど1週間前の12月25日が降誕祭にあたり、それから8日目の割礼の日、そして、主がイエスと名付けられる命名日にあたっています。イエスとは、旧約聖書ではヨシュアであり、「ヤハウェは救い」あるいは「ヤハウェの救い」という意味であります。
 ルカ2:21は、彼に割礼をするべき8日どもが、満たされたとき、彼の名は、イエスと呼ばれた、名づけられた、その名は、胎において彼が妊娠させられる前に天使によって告げられた名である、と記しています。私たちは、本日、一年の初めを、主の命名日によって始めることができる幸いを味わっています。すんなりと、1月1日がクリスマスから8日目に当たる今年は、よりいっそう主の祝福を覚えることができるように、思います。
 私たちは、今では、主イエスのみ名によってと、しばしば、口にし、祈りもしばしばそのように、祈っていますが、これは、大変なことであります。
 私たちの主の名、イエスから、すべてが、新しく変わっていくのであります。ルカ2:21は、ルカ福音書記者にとって、すべてを語るその原点であります。天使によってあらかじめ、主がマリアの胎に宿る前から、示されていた名なのであります。
 その後の2:22-24は、律法に従って、ヨセフとマリアが、彼らの清めの期間のあと、すなわち、マリアの7日の汚れからの清めと33日の期間のあと、エルサレムに主に対して、イエスを聖別するために、ベツレヘムから連れて上って行くのであります。
 この子は、初子として、初めての胎を開いた男の子として、主に献身させられることになるのであります。
 それは、出エジプトのとき、主なる神がエジプトにおける人と動物とのすべての初子の命を奪ったことから、主なる神が、イスラエルに対して定めた律法であります。
 ヨセフとマリアは、比較的貧しい家庭として、律法に定められている通り、山鳩ひとつがいと家鳩のひな二羽をささげるのであります。
 主イエスは、こうして、生まれた時から、神のために、一生をささげるお方として、出発なさるのであります。
 こうして、主の命名日の出来事は、一切を新しくなさる主イエスにふさわしい出来事となっていくのであります。「ヤハウェは救い」というイエスのみ名の命名は、今年一年を始める私たちにとっても、すべての始まりであります。
 律法に従って、八日目に、割礼を施され、血をながされて、主イエスは、十字架での血を流される時までの生涯を始められたのであります。天使によって告げられた「ヤハウェは救い」というヨシュア、イエスのみ名によって、すべてを新しくされて、今年の一年を、ご一緒に、歩み始めたいと思います。そして、私たちの生涯も、主イエスがエルサレムで主に奉献されたように、主にすべてをささげて歩む一年でありたいと思います。困難も待ち受けていることでしょう。しかし、主イエスのみ名によって、困難も切り開いていくことが、約束されているのではないでしょうか。皆さんの上に主の平安がありますように。
                                   アーメン。
2012/01/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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