津田沼教会 牧師のメッセージ
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「この世に来られたまことの光」(ヨハネ1:1-14)
ヨハネによる福音書1:1-14、2011・12・25、降誕祭(典礼色―白―)、イザヤ書52:7-10、ヘブライ人への手紙1:1-9

ヨハネによる福音書1:1-14
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。




説教「この世に来られたまことの光」(ヨハネ1:1-14)

 皆さん、主のご降誕日おめでとうございます。昨夜は、イブ礼拝で、主イエスお誕生の最初のクリスマスの出来事について耳を傾けましたが、今朝は、ヨハネ1:1-14が福音として与えられています。
 創世記は、初めに、神は、天と地とをお造りになったとしるして、いますが、ヨハネ福音書は、初めに言葉があった。言葉は神と共にあったと始まっています。子なる主イエスは、この世の創世のときから、神と人格的に向かいあって、おられた方であります。そして、すべての被造物は、人間を含めて、主イエスによっても創造されたのであります。けれども、創世記に出て来ますように、人間は、神によって、土から造られたのであり、ふさわしい伴侶として、人間アダムのあばら骨から、エバが造られたのでありますが、神によって禁じられていたエデンの園の中央にあった善悪を知るの木から、サタン、蛇によっ て誘惑されて、エバがそれを食べ、そして、アダムにも食べさせて、死すべき者になってしまったのであります。
 それからの人類の歴史が旧約聖書に書かれているのであります。しかし、時が満ちるに及んで、主イエスがお生まれになり、彼は、光であり、命であるお方でありました。
 洗礼者ヨハネが主イエスが公生涯に現れます以前に登場しますが、彼は、光そのものではなく、光について証しをする者にすぎなかったと聖書は明言するのであります。
 しかし、聖書は、この世を支配していた闇は、来られた光に打ち勝つことは出来なかった、あるいは、光を、理解することはできなかったと記しているのであります。
 光である方は、私たち、みじめな人類の間に、宿られ、住まわれました。そして、恵みは、この方において満ち溢れていたというのであります。
 降誕祭とは、主イエスが闇に打ち勝たれる光として、この世にお出でになったできごとであります。私たちは、このお方のお言葉とみわざによってのみ、光ある人生を送ることができるように、回復されたのであります。
 洗礼者ヨハネは、光を映す存在として、しばらく、この世で輝いたのでありますが、光そのものではなく、自分の後に来られるまことの光である主イエスを預言したのであります。旧約のイザヤやすべての預言者たちも、メシア・キリストなる主イエスがお出でになることを預言したものであると新約聖書の記者たちは一致しているのであります。そのように、私たちは、主イエスを、他の人において、代えることのできない、光そのもの、創造主、命そのものであるお方として、迎える、それが、降誕祭の意味であります。
 人類史上、偉大な人物は無数に現れましたが、主イエスは、それらの主として、比較することのできない、闇ぬいおいて輝き、闇を滅ぼす唯一の神そのものであります。言葉が世に来た時、世は彼を理解せず、自分の民のところに来たのに主は、排斥されました。
 それは、今でも同じではないでしょうか。私たちは、しかし、飼い葉桶に生まれ、カルバリの十字架の上で息絶え、三日後に復活し、天の父なる神のもとに帰還され、今も、聖霊を送り、み言葉、聖書を通して働きかけておられる、このお言葉そのものである方を受け入れて、悔い改め、新しい一年を来たる一年も、精一杯の歩みをしたいものであります。
アーメン。











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2011/12/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神さまのご好意」(ルカ2:1-20)
ルカ2:1-20、2011・12・24、降誕祭前夜(典礼色―白―)、イザヤ9:1-6、テトスへの手紙2:11-14

ルカによる福音書2:1-2
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「畏れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 



説教「神さまのご好意」(ルカ2:1-20)
クリスマス、おめでとうございます。今年は、私たちにとりまして、例年にもまして多難な年でありました。3月11日(金)に日本を襲った東日本大震災はいうまでもありません。最近においては、北朝鮮の金正日総書記の死去が伝えられまして、今後どうなるのか不安であります。このように、非常に困惑させられる状況の中で、今年もクリスマスを祝うクリスマスイブの礼拝を私たちは、守っているのであります。クリスマスと言えば、皆さん、どんな思い出をお持ちでしょうか。サンタクロースが、25日の朝には、素敵なプレゼントを残して行ってくれることを、思い浮かべる人も多いでしょう。私にとってのクリスマスの思い出は、父が山間労務者で、家にいないことが多かったためでしょうか、母と小さな町のお店屋さんに行って、クリスマスケーキを、寒い中、買ってきて、それを5人の兄弟で分けて食べる習慣だったことが、なぜか、分かりませんでしたけれども、何となく嬉しさを感じさせる思い出となっています。
それでは、最初のクリスマスがどうであったのか、ルカ福音書2:1-20を思い起こしながら、振り返ってみましょう。これは、イエスの誕生そのものについて、聖書が詳述して語っている唯一の記事であります。2:1-5節が、ローマ帝国下での人口調査について、語り、2:6-7節が、主イエスの誕生そのものを記し、2:8-20節が羊飼いたちにその知らせ、啓示が与えられたことを述べています。その順序で、おおよそのことを思い起こしてみましょう。それらの日々に成ったことには、皇帝アウグスツウスから、その全住民に、租税徴収のために、登録をするようにと、命令が出て行った。これは、クリニウスがシリアの総督であったときの最初の住民登録であると、ルカは、書き始めます。当時のユダヤの王はヘロデ大王であり、その関係もあり、歴史的には、不確かな記述でありますが、主イエスが生まれた紀元前4年よりも前から、クリニウスによって、そのような人口調査が行われていた可能性は十分あると言われています。
それで、すべての人たちは、おのおの自分の町へと進んでいたのであり、ヨセフも、ダビデの家と家系の者だったので、ガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘム、パンの町という意味の町に、上った。婚約中のマリアを連れて、登録をするためでしたが、彼女は妊娠しているのでありました。ろばにでも乗せて、上って来たのでしょうか。ユダヤの国は、今の四国ほどの大きさだと聞いていますが、ナザレからベツレヘムまでは徒歩で3、4日はかかったとのことです。
ところが、マリアが、そこにいる間に、彼女が子供を産む日々が満ちて、男の子、初めての子を産み、彼女は布切れで産着としてくるみ、飼い葉桶に寝かせたのであります。聖書は、彼らには、宿屋で場所がなかったからであると伝えています。馬小屋あるいは牛舎は、簡易な宿泊場所として、即席に用意されたものであったでしょう。主イエスは、カルバリの丘で十字架に付けられましたが、生まれた時から、低い身分で、粗末な場所で産声をあげたのであります。
さて、同じ地区、羊飼いの野では、羊飼いたちが、その群れに向かって、夜の見張りの番を野宿しながら、守っていました。すると、主のみ使いがそばに立ち、主の栄光が彼らを照らしました。彼らは、大きな恐れを恐れさせられたと聖書は記しています。私たちは、津田沼のような都会に住んでいて、この時の羊飼いたちが味わったような大きな恐れを感じさせられることが、殆どなくなっているのではないでしょうか。造り主なる神への恐れを失っては、神とまともに出会うことは不可能でしょう。
天使は、「恐れるな、なぜならば、私は良い知らせを伝えるからであり、それは、今日、ダビデの町で、救い主がお生まれになった、その方こそ、メシア・キリスト、主である。これが、あなた方へのしるしである、すなわち、あなた方は飼い葉桶に産着でくるまれた赤子を見るであろう」と語りかけたのであります。そして、突然、彼と共におびただしい天の軍団、天使たちが、起こり、神をほめたたえながら、こう語って歌うのです。
「栄光が、いと高きところにおいて、神に。地上では、平和が、神さまのご好意を受ける人間どもにおいて」と。罪深い人間と聖なる神は、疎遠になっていましたが、この日、神がご好意によって人間たちにおいて、平和を、救いの手を差し伸べてくれたのであります。それは、ローマによる支配の平和、外面的ではかない平和ではなく、私たちに真の平安、喜びを神がもたらされる平和です。
 天使たちが天へと去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムまで行こうではないか、そして、それらの語られた出来事を見ようではないか」と急いで出て行って、そのマリアやそのヨセフや、その飼い葉桶における赤子を探し当てたのであります。それを見て、彼らが、自分たちに語られた出来事、あるいは、言葉を知らせると、そこにいた者は皆、ただただ驚いたのですが、マリアは、それらの語られたことどもを、あれこれと熟考しながら、心に蓄えていたのでした。羊飼いたちは、彼らにしゃべられたとおりに、聞いた、また、見たすべてのことどものうえに、神に対して栄光を帰し、ほめたたえながら、引き返したと、本日の記事は終わっているのであります。
 神さまは、その独り子を、このようにつつましく、粗末な馬小屋で生まれさせ、また、その出来事を、見捨てられた民でもあった、戸外で寝ずの番をしていた羊飼いたちに、最初に知らせました。今日、私たちは、困窮している日本の中で、また、世界の中で、2000年前の最初のクリスマスを覚えて、大きな喜びを与えられています。どのような困窮の中においても、主のご降誕の喜びは、神のご好意の人間どもに、自分の功績によって生きるのではなく、神の喜びである罪深いと痛感させられている私たちに与えられているのです。
 新しい年、2012年も、この飼い葉桶に、布切れを産着としてくるまれた赤子の主イエスが、十字架に向かいつつ、歩まれ、私たちの罪、神との破れを繕ってくださるみ子イエスに全幅の信頼を寄せて歩んでいきましょう。アーメン。
 



2011/12/24(土) 19:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「死の陰に座している者たちに光が」(ルカ1:67-79)
ルカによる福音書1:67-79、2011・12・18、待降節第4主日(典礼色―紫―)、ゼファニア書3:14-17、フィリピの信徒への手紙4:2-7、

ルカによる福音書1:67-79
 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて解放し、
我らのために救いの角を、
僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して
 語られた通りに。
それは、我らの敵、
すべて我らを憎む者の手からの救い。
主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。
これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
こうして我らは、
敵の手から救われ、
恐れなく主に仕える、
生涯、主の御前に清く正しく。
幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
 知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
 高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。」
 



説教「死の陰に座している者たちに光が」(ルカ1:67-79)

本日は、待降節第4主日を迎えました。ザカリアの賛歌、ベネディクツスが福音として与えられています。洗礼者ヨハネの命名がなされたあとに、ようやく口が開いたザカリアの預言であります。人々は、政治的、経済的な救い主を待ち望んでいましたが、メシアとして来られる主イエスは、闇と死の陰に座している者たち、すなわち、全人類である私たちのもとに輝く出でたあけぼのの光でありました。
私たちは、メシアである主イエスに頼らなければ、暗闇と死の陰に座している惨めな者にすぎません。そのことを、ザカリアは、預言しているのであります。
ヨハネの命名は重要なことでした。ユダの山里の人々は、生まれて来た子に、ザカリアという父の名を付ける者だと考えていました。しかし、エリサベトもザカリアも、この子の名はヨハネでなければならないことを、天使のみ告げにより、知らされていたのであります。それは、神は慈悲深いという名前の意味です。日本でも名は体を表わすといいますが、ユダヤの国ではそれ以上に命名は大切なことだと考えられていました。アブラハムは、多くの国民の父という意味の名前で、神によってその命名がなされましたし、モーセは、ファロの王女が、水から引き上げたところから来ています。
繰り返しますが、私たちは、このメシアなしには、闇と死の陰に座している哀れな罪人に過ぎません。そして、メシアの来られる前に、洗礼者ヨハネが現われて、主の道を整えるのであります。そのことを聖霊に満たされて歌ったのが、本日のザカリアの預言であります。洗礼者ヨハネがまず、荒れ野において現れ、主の道を整え、主の民に、罪の赦しにおける救いを知らせるというのであります。
 これらの歴史に起こった事実は、深い神の摂理のもとに起こったのであります。神は、その独り子を、私たち全人類の罪のために、深い神のご計画が実現するのであります。
そして、闇と死の陰に座していた私たちに、あけぼのの光が差し込むのであります。そして、それは、私たちの足を平和の道へと導くためのものであったのです。来週は、たまたま、主日が降誕祭に当たりますが、ヨハネ1章の書き出しを通して、「この世に来たまことの光」である主イエスのご降誕をいよいよ祝う日を迎えるのであります。罪と闇と死にまみれた私たちの現実の生活の只中に、真の光であるお方がお出でになられるのであります。
 私たちは、洗礼者ヨハネの悔い改めへの招きに、立ち返りながら、罪の身の救いをもたらされるみ子の誕生を心から喜ぶ備えを、今この時なしていきたいと思います。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2011/12/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「荒れ野の声」(ヨハネ1:19-28)内海望牧師
ヨハネによる福音書1:19-28、2011・12・11、待降節第3主日(典礼色―紫―)、イザヤ書61:1-4、テサロニケの信徒への手紙一5:16-24、

ヨハネによる福音書1:19-28
 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず「わたしはメシアではない」と言い表わした。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなやは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。



説教「荒れ野の声」(ヨハネ1:19-28)内海望牧師

 待降節(アドベント)も3週目を迎えました。未来に希望を持ちにくい現代社会にあって、救い主を待ち望みつつ日々を歩むことが出来る私たちは幸いです。しかも他ならぬ世界の救い主を待つのですから。しかしながら、クリスマスは一足飛びに来るものではありません。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことが必要なのです。そのために洗礼者ヨハネが遣わされたのです。今は主イエスをお迎えするための道筋をまっすぐに整えるための準備の時です。
 準備の時とは何を意味するのでしょうか。それは悔い改めの時です。私たちは、教会の伝統に従って、アドベントに四旬節(受難節)の時に用いる紫を典礼色として用います。また、ハレルヤ唱に変えて、これも受難節に用いる詠唱を歌います。これは、私たちを罪から救うために十字架に死んで下さったイエスさまに心を向ける時を意味します。洗礼者ヨハネが人々に勧めたように、私たちもアドベントを悔い改めの時として守っているのです。
 ところで問題は、私たちの心がこの紫の典礼色に真実に呼応しているかどうかです。主を迎えるためにしっかりと心に道筋を整えているかどうかです。心に時を刻むことは大切です。アドベントのろうそくが毎週増えて行くのを見ながら、一歩一歩、大地を踏みしめる思いで、救い主イエス・キリストの許へ悔い改めの心を持って歩んで行きたいと思います。
 福音書の日課から御言葉を聞きましょう。ヨハネは決して自分を主役にしませんでした。あくまでも指し示す指に徹していました。「私はメシアではない」と公言し、その他偉大な預言者エリヤであるかと聞かれても「違う」「そうではない」と言い続けました。これは人間にとって最も難しい態度ではないでしょうか。私たちは、どのような時でも「俺が、俺が、私が」という自分を大きくする生き方に固執します。心が自己へと傾いているのです。ヨハネはそうではありませんでした。あくまでも自分でなく救い主イエスさまを指し示す生き方を続けました。
 ヨハネは預言者イザヤの言葉を引いて、自分は「荒れ野の声」であると言っています。この声を聞くようにと言っているのです。果たして私たちにこの「声」が聞こえているでしょうか。
 私たちの社会は「音」あるいは「声」があふれていて、騒音の中に生きていると言っても過言ではないでしょう。「耳を澄ます時」より「耳をふさぐ時」の方が多いのです。聞き流す術も覚えています。
 昔の町にはどのような音があったかを調べた興味深い書物があります。日本では豆腐売りのラッパの音がよく聞こえていました。子どもたちが遊ぶ声も聞こえていました。言い換えると、他の音はなかったのです。ヨーロッパでは教会の鐘の音が大切な音、声でした。ミレーの晩鐘に描かれている夫婦で祈る姿は感動的です。教会の夕べの鐘が聞こえた時、人々は静かに祈ったのです。町は静かだったのです。しかし、大切な音は聞こえていたのです。一日の初めと終わりに心静かに祈る時を失っているのが私たちの姿ではないでしょうか。祈る時を失った分、心は自我を満たす欲望で膨れ上がって行くのです。心に「祈りの水路」を持てなくなったとしたら人間として生きて行く資格を失ったと言ってよいでしょう。私たちは、「救い主を指し示す荒れ野の声」を今日聴き取ったでしょうか。
 まだ問題があります。これが、「声」を聴き取れない本当の理由なのです。それは、私たちの心がいつも自分の利益に向かって傾いているということです。先ほど「俺が。俺が」という思いが心にいっぱいであると言いましたが、その通りなのです。この自己中心的な心がある限り、私たちは、たとえ静かな町であっても「救い主の声」を聴き取ることは出来ないでしょう。修道院の中でルターは「私は祈っている時でさえ、自分のことだけを考えている」と胸を打ちました。あの静かな修道院の祈りの場所でさえ「救い主の声」を聴き取ることが出来なかったのです。
 列王記上19章12節には次のような場面が描かれています。預言者エリアが王妃イゼベルに命を狙われ、逃げ出しますが、疲れ果てて死を願うようになった時のことです。エリアは神さまと話していながら、神さまの声を聴き取ることが出来なくなっていたのです。ところが、激しい嵐、地震、火が通り過ぎた時、エリアは落ち着いた静かな心を回復することが出来たという物語です。
 荒れ野で叫ぶヨハネの声に耳を傾けてみましょう。「主の道をまっすぐにせよ」とヨハネは勧めます。それは、先ほどにも言ったように「悔い改めよ」という意味です。紫の典礼色に呼応する心とは悔い改めの心なのです。この「悔い改めの心」というのは、詩編51編でダビデが「私を憐れんで下さい。私の咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」と祈ることです。「現代は恵みを必要としなくなった」と言われます。「憐れんで下さい」「あなたの恵みのみが頼りです」と主のみもとにひれ伏す代わりに、私たち人間は、言い訳、弁解の言葉を山と築くのです。弁解もだんだん程度が下がって行きます。「社会が悪い」というような責任転嫁から始まって、最後には「あいつよりまだましだ」というところまで落ち込んで行くのです。恐ろしいことです。
 しかし、ヨハネが指し示す方は、私たちを罰するために来られる方ではありません。16節には、次のように書かれています。ヨハネが示す方は、「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、恵みを受けた」と感謝するような方なのです。洗礼者ヨハネが「私はその方の履物のひもを解く資格もない」と指し示す方は、神さまの尊いひとり子です。この方が、罪人を救うためにすべてを捨てて、僕として、私たちの只中に来て下さったのがクリスマスなのです。しかも、泊るべき宿屋もなく、飼い葉桶での誕生という形で。ルターは次のようにその驚きを記しています。「天においてあのように輝かしく前ぶれされたこれらの出来事が、地上では何とつつましく起こったことでしょう」と。「つつましく」どころか、まさにホームレスとしての誕生でした。しかも、成人したイエスさまを待っていたのは十字架の苦難と死への道でした。私たち人間を罪から救うためには、神のひとり子という尊厳も投げ捨て、ひたすら仕える方として、罪人のひとりと数えられるのもいとわず人々と共に生きて下さったのです。「父よ、彼らを赦して下さい」という十字架上の最後の祈りを残して。この祈りによってのみ私たちは生きることが出来るのです。私たちが生きるためになくてはならぬただ一つのものはこのイエスさまの恵みなのです。私たちにはイエスさまの恵みが必要なのです。恵みによってのみ生きていけるのです。もう責任転嫁、弁解、言い訳、他者弾劾のような人生から離れて、イエスさまの恵みのみを頼りに生きて行きましょう。
 クリスマスの準備、アドベントとはこのように心を整えることです。世界のいたるところで今クリスマスを迎える準備をしています。あるドイツの神学者であり、牧師である方が説教の中でこう語りました。「アドベントを迎えて、クリスマスの飾りつけに出会う人は非常に多い。また『神の御子』という言葉に出会う人もいる。しかし、救い主ご自身に出会うことのない寂しいクリスマスを迎えることもあるのだ」と。
 初めに、心に時を刻むことをお勧めしました。これからの2週間、砕けた心を持ってイエスさまが私たちのためにして下さったことにしっかりと目を向け、恵みの大きさに感謝しクリスマスにはイエスさまとの真実の出会いを経験しましょう。

2011/12/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
説教「心を神に向けよう」(マタイ1:1-8)
マルコ1:1-8、2011・12・4、待降節第2主日(典礼色―紫―聖餐式)、イザヤ書40:1-7、ペトロの手紙 二 3:8-14

マルコによる福音書1:1-8
 神の子イエス・キリストの福音の初め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
  あなたの道を準備させよう。
  荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう述べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」



説教「心を神に向けよう」(マルコ1:1-8)

本日は、アドベント、これは、到来という意味のラテン語ですが、そのアドベントの第2主日として、マルコ1:1-が与えられています。そのことの意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 マルコには、マタイや、ルカと違って、主イエスの誕生の出来事については書かれていません。早速、公生涯における主イエスの登場が記されているのであります。
まず、出だしとして、「神の子イエス・キリストの福音の始め」と表題をマルコは記すことによって、福音書を書き始めて行きます。
 主イエスが、唯一の神の独り子であり、その彼が到来すること自体が、福音、良き知らせであると共に、主イエスがこれから語られるみ言葉こそ、またみ業こそ、福音であり、良き訪れであるというのであります。
 まず、旧約の預言から、出エジプト記やマラキ書から取り出して、それらの複数の預言とイザヤの預言を用いて、それをひっくるめて預言者イザヤに帰しています。「神である私は、その使いをあなたの先に派遣する。」人々は、エリヤがメシアの前に現われると信じていましたが、その者が洗礼者ヨハネであったのであります。彼が神の道を整え、まっすぐにするのであります。
そして、その声が、荒れ野において叫ぶのであります。「主の道をあなたは整えよ、彼の小道どもをまっすぐにせよ」と。これは、バビロンから、捕囚民であったイスラエルの人たちが帰還することを預言したものであったでしょうが、これを、解釈して主イエスが来られる前に、洗礼者ヨハネが現われて人々に道備えをしたことを示していると信じたのであります。
 彼ヨハネは、いなごと蜂蜜、野蜜を食料として、また、らくだの毛の服を着て、腰には皮の帯をつけ、預言者エリヤと同様な風貌で現われます。
 そして、人々が反響を持ってぞくぞくと集まってくるのであります。彼は、悔い改めにいたる罪の許しを得させる洗礼を説教していたのであります。
 そして、彼は、人々の心を上なる神の方向へと変えさせようとしていたのであります。悔い改めとは、メタノイア、心の向きを神の方向へと代えることであります。
 そして、私の後にもっと力ある方が現われて、私のように水での悔い改めに至らせる洗礼ではなく、聖霊によって洗礼を施すと宣言していたのであります。私たちは、再び、到来するメシア、キリストに心を向けて、待ち備えをしましょう。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方の心と思いとを守られるように。

2011/12/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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