津田沼教会 牧師のメッセージ
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「王であるキリスト」(マツコ11:1-11)
マルコ11:1-11、2011・11・27、待降節第1主日、(典礼色―紫―)、イザヤ書63:15-64:7、コリントの信徒への手紙 一 1:3-9

マルコによる福音書11:1-11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
  主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



説教「王なるキリスト」(マルコ11:1-11)

 新しい教会暦の一年が、本日の待降節第1主日から、始まります。そして、今年は、A、B、Cの3年サイクルのうちのB年であり、マルコ福音書が、主たる福音書として読み継がれていきます。
 そして、ルーテル教会では、必ず教会暦の一年の始めに、共観福音書の中の主イエスのエルサレム入城の記事が読まれます。さらに、その同じ記事が今回は来年の4月1日の枝の主日にも読まれます。そこでは、受難週が始まる日曜日として、十字架に進まれる主イエスに焦点をあてて、読まれるのであります。
 本日は、アドベント(到来という意味)として、再び来たりたもう主イエスを覚えて、本日の記事、マルコ11:1-11をしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 マルコ福音書は、紀元後60年頃に書かれたもののようで、4つの福音書の中では、最も早い時期に書かれたものであり、マタイ福音書や、ルカ福音書は、マルコ福音書と共に、共観福音書と呼ばれますが、それらは、マルコ福音書を、いわば下敷きとして書かれたものであります。
 そして、本日のエルサレム入城の記事は、4つの福音書すべてに記されており、教会にとって非常に大切な記事として、大事にされ、読み続けられてきたことが窺えます。マルコ福音書の記事に戻りましょう。それは、エルサレムに向かっての旅、十字架に向かっての旅がようやく終わろうとしている時の出来事でありました。本日の記事は次のようなものでありました。
 そして、エルサレムへと、ベトファゲへと、そして、ベタニアへと、オリーブ山に向かって、彼らが近づいたとき、主イエスは、彼の弟子たちのうちの二人を送り出そうとして言われるのであります。あなた方の向こうの村へと出て行きなさい。すると、そこに入ると直に、まだ、だれも乗せたことのない子ろばが、つないであるのを、あなた方は見出すであろう。それをほどきなさい、そして、連れてきなさい。もしだれかが、なぜ、そんなことをするのかと言ったなら。あなた方は言いなさい。彼のその主が必要を持っている。そして、彼は、すぐに、再びここに子ろばを送り返すでしょうと。マルコは、素朴に、無口気味に、本日の出来事を書き連ねていきます。マルコは、ペトロの通訳であったとの見方がありますが、ペトロの目撃証言を中核として、本日の記事を編集しているとも言えましょう。
 さて、弟子たちはその村、おそらく、エルサレムに近いほうのベトファゲであったでしょう、そこに入っていきます。そして、四差路のような外の通りの上に、戸口に向かってつながれている子ろばを見出します。彼らがその子ろばの綱をほどいていると、そこに立っていた者たちのある者たちが、なぜ、そんなことをするのかと言います。二人は、主イエスの言われたとおりに語ると、彼らは、二人を許してくれたのであります。彼らは、子ろばを主イエスのもとに、引いてきて、その上に上着をしきます。すると、主はそれにお乗りになりました。
 そして、大勢が、彼らの上着を道にしき、他の者たちは、野から葉の付いた枝を切ってきて、道にしきました。このふるまいは、王が即位したときにするものであります。しかし、主イエスは、まだだれも乗せたことのない神聖な子ろばに乗られるのであります。マルコ記者の心には、ゼカリヤ書9:9の「見よ、あなたの王が来る。・・・高ぶることなく、ろばに乗ってくる。 雌ろばの子であるろばに乗って」という預言があったことでしょうが、マルコは、それを記述してはいません。
 オリーブ山は、メシアが、終わりの日に立って現われ、ユダヤの敵どもを滅ぼす場所として、メシア的な意義を持っていました。
 さて、そのとき、前を行く者たちも、後から従う者たちも、叫んで言っていました。ホサナ、主の名において来られる方は祝福されている。私たちの父ダビデの来たるべき王国は祝福されている。いと高きところにおいて、ホサナと。
 ホサナというのは、詩編118編25、26節に出てきます。「どうか、主よ、私たちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを。祝福あれ、主のみ名によって来る人に」と。ホサナという意味は、今救ってくださいという神への願いの言葉でありましたが、ここでは、喝采、歓呼の言葉になっていたかもしれません。
 マルコは、寡黙で、詳しい説明を述べてはいません。いつしか、群衆は、消え去っています。ユダヤ当局やローマの官憲も、これに動じたという風な記述はありません。
 そして、主イエスはエルサレム神殿の境内へと入っていき、すべてのものを見回した後、既に時刻も遅くなっていたので、12人と一緒にベタニアへと出て行かれたと、唐突に、エルサレム入城の記事は終わっています。
 「お出でになる方、来られる方」というのは、メシア的な言葉です。主イエスは、王の王として、この日、馬に乗った軍人の王としてではなく、子ろばに乗る、へりくだった王として、エルサレム入城をなさったのであります。
 主イエスのご降誕が、第一のアドヴェントであり、世の終わりに王の王として来られるキリストが来られるのが、再臨であり、第二のアドヴェントであります。私たちは、心を落ち着けて、私たちの罪の危険から守ってくださる王であるキリスト、メシアを覚えて、今日から始まる教会暦の一年を、希望をもって歩んでいきましょう。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。







 




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2011/11/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「いと小さき者に仕える」(マタイ25:31-46)
マタイ25:31-46、2011・11・20、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)、エゼキエル書34:11-16、23-24、テサロニケの信徒への手紙一5:1-11

マタイによる福音書25:31-46
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」



説教「いと小さき者に仕える」(マタイ25:31-46)

本日で教会暦の最終主日を迎えます。先週は、25章1節から13節の「10人のおとめの譬え」でありましたが、本日は同じ25章の31節から46節の主がご受難に遭う前に、弟子たちに語られた譬えといいましょうか、世界審判についての説教であります。今、この時は、終末を覚える時が与えられているのであります。私たちの身の回りの出来事としましても、喪中に付き、新年のご挨拶は控えさせていただきますというハガキが届く季節となりました。一昨日のことでありますが、私も驚かされるハガキを受け取ったのであります。 
それは、高校の2年、3年を担任してもらった恩師が今年の3月に亡くなられていたという奥様からのハガキでありました。まだ67歳という、私と11歳しか違わない先生が逝去されていたのであります。2、3年前になりますか、関東在住の同窓会にも上京来ていただき、そのついでに、津田沼教会の礼拝にも出席してもらった先生でした。
人間の寿命というものは、神さまによって決められているものなのでしょう。私たちは、常に死と生と裏腹に、隣り合わせに生きているものだとつくづく思わされます。さて、本日の福音は、主が、ご自分の再臨について語られているみ言葉であります。人の子が栄光において、みつかいたちと共に来るとき、彼は王座に座る。そして、羊飼いが羊と山羊を分けるように、すべての民をその右と左に分けると言われるのであります。世界中のすべての民族、人々が、左右に分けられるのであります。そして、王は、右手の者たちに、世界の創設のときから、備えられていたみ国を、祝福された者たちよ、受けなさいと言うのであります。
なぜならば、あなた方は、私が、飢えたとき食べさせ、渇いていたときに飲ませ、裸であったときに着せ、よそ者であったときに、集まってくれ、牢に入れられていたときにやって来てくれ、病気のときに見舞ってくれたからだというのです。右側の者たちは、キリストにした事に気づかないのであります。主よ、いつ、あなたが飢え、渇き、裸であり、よそ者であり、牢に入れられ、病気のときに、そんなことをしましたかと言うのです。
それに対して王は、これらのいと小さき兄弟の一人にしてくれたのは私にしてくれたことなのだと言うのです。そして、左側の者たちに王は言います。のろわれた者たち、悪魔とその使いたちに用意されている永遠の火へと入れ。
あなた方は、私が、飢え渇いていたときに、裸であり、牢に入れられ、病気であったときに世話してくれなかったからだと言うと、彼らは、いつ、私たちは、あなたが、そんなときに世話しなかったでしょうと問います。王は、これらのいと小さき者たちにしてくれなかったのは、私にしてくれなかったのであると言われるのであります。
私たちは、日ごとの、日常の生活の中でやったことで、終わりの日に人の子、キリストの右に付くか、左に付くかが決まると言われます。
毎日のささやかな生活の中で、み言葉を聞いて行う者にならせていただきたいものであります。この1週間も、なすべきことを先延ばしにして、み前に罪を犯してきましたが、健康を与えられ、規則正しい生活をして、本日の右側の人々の場所に置いていただけるものとなりたいと思います。若くして亡くなった恩師の分まで、精一杯の生涯を送りたいと一念発起したいと思っているところであります。
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなたがたを守るように。アーメン。
2011/11/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主を迎える備え」(マタイ25:1~13)原拓也牧師
マタイ25:1-13、2011・11・13、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)、ホセア書11:1-9、テサロニケの信徒への手紙一3:7-13

マタイによる福音書25:1-13
 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が締められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」


説教「主を迎える備え」(原拓也牧師)
 教会暦は聖霊降臨後第22主日を迎えました。次週は最終主日で、教会暦の年末を迎えることになりますが、この時期の聖書日課は、私たちが主の再臨を覚え、その備えをなすように促しています。そのことを覚えながら、日課を通して主のみ教えを聞きましょう。
 本日の第一朗読は、ホセア書11:1-9であります。ホセア書の特徴は、主の圧倒的・一方的な愛にあります。ホセア書の特徴は、個人の家庭内の出来事が「預言」として用いられている点にあります。1章から10章までは、神とイスラエルの関係が、夫婦の愛の関係として語られます。11章は、神とイスラエルの関係が父の子への愛として述べられます。
 ホセア書の背景をみてみましょう。まず、個人的背景でありますが、ホセアの家庭、淫行の妻とその妻に関する主の言葉があります。姦淫を犯した妻、ゴメルとその子供を引き取れとの主の言葉があります。ホセアのもとに帰った妻は再び淫行に走りました。妻の淫行に関しては幾つかの説があります。
 一方で、そのような妻を失いたくないと願っているホセアの願望と熱情があります。
次に、政治的・宗教的背景をみましょう。政治的背景としては、ホセアが預言者として活動した当時の北王国イスラエルは、存亡の危機に面した中で、何とかして国の存続を図ろうと腐心していました。北王国イスラエルは、BC721年、アッシリヤによって滅亡します。
 宗教的背景としては、このような政治的危機の中で、外国の力に頼った結果、異教の神々への信仰・礼拝が入って来ました(4章、5章等参照)。
 ホセアの預言は、ホセアの個人的体験とイスラエル王国の政治的宗教的状況とが結び付けられ、預言として語られます。姦淫は、夫婦の契約に対する裏切りです。偶像礼拝は神、キリストとの血による契約に対する裏切りです。いずれも、契約への裏切り、背信として特徴づけられます。ルターは、「偶像とは、人が神以上に信頼するすべてのものである」と言いました。一般的に言って、偶像は常に立派なもの、人・物、行為に見えます。キリストが“富める者が神の国に入るのは難しい”(マタイ19:23他)、と言われたとき、金銭だけを指して言われたのではないと理解すべきであります。
 偶像礼拝から脱却するためには「価値観の転換・逆転」が求められます(フィリピ3:7参照)。
 ホセア時代のイスラエルにとっても、必要なものは「力」ではなく、「信仰=神への信頼」であった(1:7参照)。
 この背信のイスラエルに対する神の真情が8節に述べられます。ここに見られるのは、理性ではなく情であり、理屈ではなく愛であります。この神のイスラエルに対する愛は、そのまま神のあなたに対する、私に対する愛であり、私たちの救いはこの一方的な、そして圧倒的な神の愛と恵みによっています。
人はすべてこの姦淫の妻のように、神の前に顔を挙げることのできない存在であります。しかしそのような者を、罪も、咎も、弱さも、愚かさも、あるがままに受け入れ、なおも愛してくださる神であるからこそ、私たちは赦され、神と共に生きる者とされるのであります。
福音書は、この神を花婿として、迎える私たちを乙女たちとして描いていますマタイ福音書の迎える乙女たち、その賢愚を分けたものは何なのか、福音書から三つの点を学んでおきたいと思います。
第一は、「賢い」と言われた乙女も、「愚か」と言われた乙女も、共に眠ってしまった点であります。
信仰生活を、いつも目を覚まして、生き生きと続けることは理想かもしれないが、必ずしもそのようにできるとは限りません。彼女らも“待ちくたびれて”等しく眠ってしまいました。この点では10人ともまったく同じで“神に受け入れられる程の価値を持たない者”と言えます。
第二は、10人の乙女たちを賢者と愚者に分けた原因は、「油を用意していたか、いなかったか」「灯が明々と点いていたか、消えかけていたかという点にあります。
油は「聖霊」と普通理解されています。「灯」すなわち福音を信じて、ぶどうの枝のように主に結びついた生き方が問われています。
ちなみに、「賢い」は口語訳では「思慮深い」、「愚かな」は「思慮が浅い」となっています(マタイ7:24-26,24:45-47)。その意味は、先を見通して、そのために備えて生きる人と、それをしない人であります。
 第三に、この時「愚かな」と言われた乙女たちの手持ちの油は切れかけてはいたけれども、“まだ灯は消えていない”事に注目しておきたい。
この時、彼女たちは、友人・仲間とはいえ、油を「人に求め」、「店に行って、・・・買って来なさい」言われて買いに走った。また、「賢い」と言われた乙女たちも、「買ってきなさい」と言っています。それ故、ここでも10人に本質的な違いは見られません。
では、彼女たちはどうすべきであったのか。「花婿に」訴えるべきではなかったのか。もし、そうしていたら花婿はどう答えたであろうか。
「愚かな」と言われた乙女たちは、主に“聞く前に走り出した”。この乙女たちの先走りが、彼女たちを婚宴の席にふさわしくない者にしてしまった、と言えないでしょうか。
主は、救いと裁きを携えて必ず来ると約束されました。キリストを信じる者にとって、この時こそホセアが預言した“回復の時、救いの時”(11:9-11)であり、この主こそ「わが義人は、信仰によって生きる」(ヘブル10:38-39、口語訳)とおっしゃる方です。
そして、主は今日もあなたに、そして私に、「どんな有様でもいい、あるがままの姿で、私の福音を信じて、私を迎えるように」と、呼びかけていらっしゃるのです。
来るべき日に、主をお迎えすることができるように、備えて待ちましょう。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


2011/11/13(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスの約束」(ヨハネ16:25-33)
ヨハネ16:25-33、2011・11・06、全聖徒主日(典礼色―白―)、ヨハ書2:1-10、コリントの信徒への手紙一15:50-58

ヨハネによる福音書16:25-33
 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」




説教「主イエスの約束」(ヨハネ16:25-33)

 本日は11月1日に近い日曜日として、全聖徒主日として守られます。カトリック教会では諸聖人の日、死者の日がそれぞれ続けて別の日に、11月1日、11月2日と記念されますが、私たち、プロテスタント教会、ルーテル教会では、全聖徒の日として、11月1日にまとめて、記念されます。
ところで、「聖徒」とは、必ずしもいわゆる聖人を意味しません。自分の弱さを知り、自分が罪深いことを知らされて、信仰のみ、恵みのみ、聖書のみによって救われることを、悟って、人生の歩みを、救い主イエスにゆだねたすべての人が聖徒であります。
 本日は、この教会につながる多くの方の遺影が飾られています。中には、主イエスを自分の唯一の救い主と告白するまでには至らなかった信徒の方の親や、伴侶や兄弟姉妹もおられます。また、信仰を持ち、洗礼にも与っても、最後まで順調に信仰生活を送ることができなかった方もおられることでしょう。「人は生きてきたように、死んでいくものである」とアメリカの有名な死生学者、シュナイドマン博士は言っていますが、神は憐れみ深い方であるので、私たちは、ここに飾られている遺影の先輩方は、等しく、神の国に入れられていると信じるものであります。
 この天国に先に行かれた方々を記念すると共に、私たちは、自分の残された人生を、それが、限りあるものであることを、覚え、生と死について、本日は、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 本日与えられている福音は、ヨハネ福音書16:25-33であります。これは、14章から16章にかけての、あるいは、13章から17章にかけての主イエスが弟子たちと地上で別れることになる十字架の死の前に、主が弟子たちに語りかけられた、最後の告別説教、告別講話とも言うべき部分であります。ヨハネによる福音書は、紀元後90年から紀元後100年頃に書かれたと考えられています。ですから、他のより早く書かれた、マタイ、マルコ、ルカの福音書、共観福音書よりも、数十年後に書かれたものであり、それらとは、別の視点から、本日の主イエスの言葉、あるいは、弟子たちの言葉が記されているのであります。
 主は、言われました、「私は、これらのことを、たとえ、直訳すると『暗い言葉』で表明してきた。しかし、はっきりと、すなわち、『率直に』、『公然と』表明する時が来る、否、その時が来ている」と。
これは、同じ「たとえ」でも、共観福音書の譬え、パラボレーとは違う言葉が用いられています。主イエスのこれまで語られてきた言葉は、主イエスの十字架と高挙の後に、復活と聖霊がくだって、理解できた言葉でありました。
 しかし、告別説教の最後で、主は、本日の言葉を残されているのであります。「あなた方は、その日には、父に対して、私に要求することはないであろう。なぜなら、あなた方は、私を愛し、私が父から出てきたことを信じゆだねたからである。あなた方は、私の名において、父に要求しなさい。父なる神は、私が父から出てきたことを、あなた方が信じゆだねたので、あなた方を愛しているからである」と言われるのであります。
 弟子たちは、主に「あなたは、もはや、暗い言葉は何ら語られず、率直に語られます。それで、私たちは、あなたは何でもご存知で、だれもあなたに質問する必要がないことを知っています」と答えます。主イエスは超自然的な知識を持っておられる方であることを弟子たちは知ったのであります。
 主イエスは、「時が来る、否、既に来ている。あなた方が、追い散らされて、おのおの自分の家に帰り、私を後に残す時が来る。そしてしかも、私は独りではない。父なる神が私と共にいてくださる。私が、こう言うのは、あなた方が、私において平和を持つためである。この世界では、あなたがたは艱難を持つ。しかし、あなた方は元気を出しなさい。私は、既に、この世界に打ち勝っている」と最後に言われているのであります。
 この世界を、この世の君、サタンが覆っているのであります。しかし、既に、主はここで、私は、この世界に打ち勝っていると言われるのであります。主イエスの十字架と高挙によって、主は、神の栄光を表わしました。ヨハネ福音書記者にとって、十字架は、敗北ではなく、神の栄光を表わすものであったのです。
 他の福音書では、十字架の主は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と敗北に見えるような言葉を主は口にされますが、ヨハネ福音書では、十字架は、勝利であり、復活、高挙、聖霊とともに、神の栄光を表わすものなのであります。
 私たちは、この世での艱難を経験した信仰の先達たちとともに本日礼拝を守っています。
私たちは、聖徒たちと同様に、この世では、試練、悩みに弱り果て、力尽きる体験をします。しかし、私たちの出会うすべての苦難を、主が先に味わって下さり、勝利して下さいました。本日私たちは、この後、聖餐式を持ちますが、これは、先に天国へ帰られた方々とともにする祝宴の先取りであります。私たちは、しばしば、倒れ、敗北するように思われる体験をしますが、主イエスはそれらを、先にすべて経験してくださいました。それを信じて、先に天に帰られたすべての聖徒たちを、思い起こしながら、私たちの新たな歩みをここから、始めていきましょう。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。



ご案内
① 11月20日(日)午前10時半~11時45分、主日礼拝において、子供祝福式
保護者の同伴を歓迎します。7歳、5歳、3歳に限りません。
② 12月10日(土)午後3時開演~4時、奥貫亜矢子、メゾソプラノ、クリスマスコンサート
一般券1000円、学生券500円(小・中・高校生)、*幼児は無料です。
③ 12月17日(土)午後3時~5時、教会学校クリスマス会
保護者同伴を歓迎します!クリスマス会の中で礼拝があります。献金をお持たせ下さい。
④ 12月18日(日)午後2時開演、オカリナコンサート、オカリナ 原嶋かおり ピアノ 渡辺めぐみ 入場無料ですが、自由献金をお願いします。
⑤ 12月24日(土)午後7時~8時、クリスマスイブ燭火礼拝
  ろうそくの光でクリスマスを!
⑥ 12月25日(日)午前10時半~12時、クリスマス主日礼拝
礼拝後、楽しい祝会があります。

教会学校のご案内
  教会学校は一年中、日曜日52回、午前9時半から10時15分まで開かれています。
礼拝の中で献金があります。献金は教会学校の運営のため、また、神の国建設のために用いられます。いくらかでもお持たせください。保護者の同伴も歓迎します。


2011/11/06(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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