津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主イエスの公活動の第一歩」(ヨハネ2:13-22)
ヨハネ2:13-22、2011・10・30、宗教改革主日(典礼色―赤―)、列王記下22:8-20、ガラテヤの信徒への手紙5」1-16

ヨハネによる福音書2:13-22
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。



説教「主イエスの公活動の第一歩」(ヨハネ2:13-22)

本日は、宗教改革主日で、ヨハネ福音書2章の13節から22節までが与えられています。美しい物語であるカナの婚宴のあとの出来事で、主イエスは、過ぎ越し祭にエルサレムへと上っていかれました。
主は、牛や羊や鳩を犠牲として売っている人や、腰掛けている両替人たちを見出します。そして、ロープで鞭を作り、牛や羊を追い出し、売っていた人々を追い出し、そして、両替人の机から、小銭を撒き散らして、鳩を売る者たちに言われます。「私の父の家をマーケットの家にしてはならない」と。
旧約聖書のみ言葉でも何回か「私の家は祈りの家でなければならない」と出てきます。弟子たちは、これを見て「あなたへの熱心が私を食い尽くすであろう」という詩編の言葉を思い起こしていました。
一方、ユダヤ人たちは、これらのことをするからには、どんなしるしをあなたは見せるのかと問います。主は、この神殿を壊してみよ、私は三日間でそれを起こすであろうと言われました。
ユダヤ人たちは、答えて、この神殿は46年もかかって建てられたのに、あなたは三日で起こすのかと反問するのであります。それは、主イエスのからだという神殿を指して主は言われていたのであります。主が十字架の栄光にあげられ、三日後に復活することを指していたのであります。
弟子たちは、その言葉を主が復活された後、思い起こして、聖書と主イエスの言葉を信じたというのであります。主イエスがお出でになられたことを通して、霊と真理をもって、まことの礼拝をするときが来ると主は言われていましたが、公活動を始めるに当たっての第一歩として、主はこのように、エルサレム神殿を清められたのであります。
ユダヤ人たちには、このことは理解できず、十字架に主がかかった時にも、神殿を三日で建て直すという者よ、十字架からおりてこいとユダヤ人たちはあざ笑ったのでありますが、主は十字架の死と三日後の、ご自分のからだをもっての復活によって、救いは成就されるのであります。共観福音書においてと異なって、ヨハネによる福音書では、公活動の第一歩として、エルサレム神殿の清めが記されているのであります。
さて、本日は、宗教改革主日であります。マルチン・ルターは、1517年10月31日に、全聖徒の日の前日に、ヴィッテンベルクの城教会に95か条の提題を貼り付けました。そこには、免罪符、贖宥券とも言いますが、それによって、先祖が救われたりすることはないとして、当時のローマ・カトリック教会に対して、真っ向から戦うことになります。
ルターは、修行僧として、あらゆる修道に努めましたが、救いが見出されず、神は恐ろしい裁きの神であり、自分の力で救われることはできないでいました。それが、聖書を深く洞察する中で、ローマ1:17の「正しい者は信仰によって生きる」というみ言葉にぶつかり、信仰のみによって救われる、恵みのみによって救われる、聖書のみによって救われるということを発見したのであります。
私たちの教会は、その伝統に従って、世界中に宣教をしています。私たちは、およそ500年前のそのルターの信仰に立って宣教している教会の群れであります。私たちは、その信仰なしには生きていけないことを、自覚させられています。
生涯を、罪人にして同時に義人として、しかも、目を覚まして生活するように教えられているプロテスタントの、否、カトリックも含めての教会の群れであります。日々、悔い改めの連続ですが、洗礼と聖餐に与り、力強く歩んでいきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の思いと心とを、キリスト・イエスによって守るように。





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2011/10/30(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の招きにふさわしく歩む」(マタイ22:1~14)
マタイ22:1-14、2011・10・23、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書31:1-6、フィリピの信徒への手紙3:12-16

マタイによる福音書22:1-14
 イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いたおいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通り出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」


説教「神の招きにふさわしく歩む」(マタイ22:1-14)

私たちは、本日の主日の祈りでも「あなたは豊かな祝福を日々新たに与えてくださいます」と祈りました。1週間、1週間が、速やかに流れ去って、教会暦の一年も終わりに近づこうとしています。そして、与えられます福音も、終末に関わりを持つ記事が増えてきます。先週は、「ぶどう園と悪い農夫たち」という主イエスがなさった譬え話でありました。本日の記事も、ある王が王子のために婚宴をもうけ、招いていた人々を、奴隷たちを送って呼びに行かせるというものです。主は、譬えどもにおいて、次のように語って言われます。すなわち、天の国は、ある王がその息子のために婚宴を開くときの状態に似ていると、語り始めるのであります。ところが、彼らは招きに応じようとしないでいたのであります。王は更に、奴隷を送ってこさせようとしましたが、あるものは、畑に、あるものは、商売にと出かけ、さらには、別の者たちは、彼らをぞんざいに取り扱い、殺してしまうのであります。
王は怒って、軍隊を送り込み、その者どもを滅ぼし、その町を焼き尽くしたのであります。これは、紀元後70年のエルサレム陥落を暗示しているかもしれません。本日の話は屈折していまして、私たちを困惑させます。王は、婚宴の用意、食事の用意、ご馳走の用意ができていますからと、最初、招いていた人々を呼びにいかせたのですが、彼らはふさわしくなかった。それゆえ、あなたがたは、道の町の通りに行って、見出したものを皆、この婚宴へと招きなさいといって更に奴隷たちに命じるのです。彼らは出て行って、悪い者たちも、良い者たちも、呼んできたので、婚宴は一杯になったというのであります。ところが、婚宴の食事に来ているものたちを王が見に行ったとき、結婚式の礼服を着ていないものが一人いるのを見出します。王は、なぜ、礼服を着てこなかったのかと問いますと、その者は黙りこくっています。それで、給仕をする者たちに、命じて、手足を縛らせ、外の暗闇に放り出せ、そこには、泣き叫ぶ声や歯軋りする音があるであろうというのであります。
そして、なぜならば、招かれる者どもは多いが、選ばれる者どもは少ないと、主は本日の譬えを結ばれたのであります。この礼服とは何を表わしているでしょうか。それは、宗教改革者の時代から、信仰を意味していると考える人々が大勢いました。しかし、その礼服、良い衣服とは、良い行い、良きわざを意味していると考えることができます。マタイは、教会に所属しているから救われるとは考えず、マタイのイエスは、信仰にふさわしいふるまいを重視されます。み国での最後の祝宴において、選ばれる者になるために、信仰を与えられたものとして、ふさわしい行いをし、終末のときに、白い衣を着せられて、命の木の実と葉に与る者になるために、悔い改めにふさわしい生活の実をもたらされる者とされたいと思います。ともすれば、誘惑に負け、絶対にもう陥るまいと思った罪に陥ることがあります。
主は、しかし、み言葉の励ましによって、また、終末のときの天上での祝宴につながる者として、私たちに聖餐式を与えてくださっています。そのことを、おぼえながら、招かれた一人ひとりとして、救いに与ることができるために、目覚めて歩みたいものであります。残された聖霊降臨後の時期を、心を主イエスに向け、父なる神に向けて、新たな歩みを、この場から始めていきたいと思います。

わたしたちの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものをすべて満たしてくださいます。アーメン。




2011/10/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「それでも主は愛して下さる」(マタイ21:33-44)内海望牧師
マタイ21:33-44、2011・10・16、イザヤ書5:1-7、フィリピの信徒への手紙2:12-18、
聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書21:33-44
 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中にある搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打殺した。また、他の僕たちを前より多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、
  わたしたちの目には不思議に見える。』
 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」


説教「それでも主は愛して下さる」(マタイ21:33-44)内海望牧師
 
 先ず福音書のたとえの原形とも言える第一の日課であるイザヤ書5章を開きましょう。これは預言者イザヤに与えられた詩です。秋の収穫感謝祭の折に朗読されているのです。預言者は「神の口」と言われます。神さまの口となって、イザヤは神さまの御心を語るのです。
 先ず収穫の喜びに満ちた呼びかけから始まります。「ぶどう」はよく花嫁にたとえられます。花嫁に対するように愛の歌を歌おうとしているのです。
 神さまは人間がよい実りをもたらすぶどうのようになるように労苦を惜しまず、手塩を掛けて育てて下さいました。創造者である神さまは、私たち人間に、おきてを通して歩むべき道筋を教え、折々の預言者を通して、私たちが道を間違いないように支えて下さいました。2節を読むとその様子がよく分かります。また4節には「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあろうか」と言い切っていらっしゃいます。確かに、聖書の歴史は、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブ、更に、預言者や使徒を通して、私たち人間に語りかけ、良い実りを得るようにと仕えて下さっている歴史とも言えます。神さまが仕えて下さっているのです!
 ところが、「実ったのは酸っぱいぶどう酒であった」のです。神さまの失望落胆は大きいものでした。そこで、「君たちは不実の花嫁だ。わたしはこれを見捨てる」と宣言されるのです。当然の怒りです。主がよい実りを心待ちにして楽しんで育まれたぶどう畑が流血と阿鼻叫喚の世界となってしまったのです。ここには悔い改めの勧めはありません。事実を述べ、後はただ聴き手の手に委ねるのです。ローマ書1章に「(神さまは、人間の」するにまかせられました)という言葉があります。骨身に沁みる恐ろしい言葉です。今、同じ思いを会衆はしているでしょう。

 イザヤは紀元前8世紀の預言者です。それから700年が経過し、今日の福音書のたとえに至るのです。人間は悔い改めることなく、強情にも酸っぱいぶどうであり続けたのです。「酸っぱいぶどう」とはどのようなものでしょうか。それは自己中心的生き方です。何でも自分を中心にして考える生き方です。言い換えれば、自分を神さまのように大切にし、自分のためならば、たとえ親友でも裏切るような生き方です。これこそ人間がアダム以来引きずって来た原罪なのです。私たちは犯したもろもろの罪を懺悔します。「もう二度とすまい」と涙ながらに悔いる時もあります。それでも、私たちは決して罪から逃れることは出来ないのです。自己を神とする、という原罪から逃れることは出来ないのです。「私の体にはもう一つの法則と戦い、私を、五体のうちにある罪の法則の虜にしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」というパウロの悲痛な叫びは私たち人間全部に当てはまる共通の呻きではないでしょうか。私たちは罪のとりこなのです。
 福音書を読んでみましょう。人間の姿はイザヤ書の時と少しも変わりません。「僕たち」というのは神の口である預言者を指しているのでしょう。人々は彼らを袋叩きにし、殺害までしました。それでも、愛と忍耐の神さまは僕たちを送り続けたのです。700年間忍耐し続ける神さまの愛をここに見ます。「私は君たちを見捨てる」と宣言された神さまでしたが、神さまは耐え続けてくださいました。想像を絶する忍耐です。感謝しながらも、同時に「どうしてそこまで」と思ってしまうほどです。世界を創造し、これを聖別して下さった神さまはずっと人間を愛し続ける方でした。預言者エゼキエルは神さまの心を『(不正を行った者は死ぬ。)・・・・「どうしてお前たちは死んでよかろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って行きよ」と主なる神は言われる』と伝えています。この聖書の個所には、神さまの肉声が聞こえてくるような気がします。聖書には、時に残酷と思われるほど厳しい裁きの言葉が記されています。しかし、その激しさは、人間への愛の深さを示していると言えましょう。愛するがゆえ、その怒りも大きいのです。不実な花嫁を忍耐し続ける神さまの愛の迫力に圧倒されます。そこに神さまの痛み、正義と愛の葛藤をみます。
 今日の福音のたとえには、イザヤには出て来なかった個所があります。37節以下です。「主人は自分の息子を送った」という所です。ここにはイエスさまのご自分の決意が秘められています。今、イエスさまはまっすぐにエルサレムに向かって歩いていらっしゃいます。そこにはイエスさまご自身「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を打ち殺す者よ」と嘆き悲しんでおられるような場所です。そこには十字架が待っていることも覚悟していらっしゃるのです。イエスさまは数千年の間、決着のつかなかった人間の罪に対して決着をつける時が迫っていることをご存知でした。それは、ご自分の十字架の苦しみと死を通してのみ決着できるものでした。
 私たちは、「神は愛なり」などと安易に語ってはいけないと思います。創造者としての神さまの愛、何とか私たち人間を正しい道筋に立ち帰らせようとした神さまの忍耐、「畑のためになすべきことで何かしなかったことがあるか」とおっしゃるほどきめ細やかに人間に接し、裏切られても、忍耐に忍耐を重ねた年月を思います。そして、今、ひとり子イエスさまを送り、私たちの罪を贖うために十字架への道を歩ませていらっしゃるのです。
 確かに、「神は愛なり」と言ってよいでしょう。しかし、それは簡単に感謝できるようなものではなく、まことに高価な犠牲を伴う愛なのです。イエスさまの十字架の苦しみに、私たちの罪の恐ろしさが見えて来ます。あのむごたらしいイエスさまの十字架の苦しみとは、この私が受けるべきものであったのです。パスカルは、ゲッセマネのイエスさまを「イエスさまは、地上でただひとりである。彼の苦痛を感じ取って、分け合ってくれる者がいないどころか、それを知ってくれる者もいない。・・・イエスさまは弟子たちが眠っている間に、救いの業を行われた。・・・イエスさまは苦悶のうちに、この上ない大きい苦痛のうちにおられるのだから、さらにさらに長く祈ろう」と書いています。確かに、私たちは苦難のさなかにあるイエスさまを見捨てて眠っている弟子と同じです。本当に深くキリストの十字架と向き合っている人物の姿がここにあります。
 このキリストの十字架の愛は、私たちの心の奥底まで照らし、罪を真剣なものとします。「私はあなたに背きました。あなたの愛を乞い求める資格はございません」というような放蕩息子のセンチメンタルな悔い改めを無意味にしてしまうほど深い愛なのです。いくら強情な私たちでもこのキリストの十字架の愛に接する時、心打たれます。
 このキリストの十字架の愛は、私たちの罪を打ち砕き、古い私がキリストと共に死に、新しい私に生まれ変わらせる力なのです。復活のイエスさまは罪と死が滅び去ったしるしです。ここに於いて、神さまと人間は再びしっかりとした絆を得たのです。私たちは、罪赦された罪人としてもう一度生きることが許されたのです。神さまは見捨てられるべき私たちを御子の十字架によって赦して下さったのです。これが決着です。
 私たちは、改めてイエスさまの十字架について思いを深めました。そこには筆舌では表せないような神さまの愛が示されています。神さまの愛の圧倒的な勝利がそこにあります。一つの詩があります。
私は あなたを探しません。
私にはあなたが見つかりません。
あなたが探し 私を見つけるのです。永遠の光よ。

私たちはあなたを愛すること少なく、
あなたに仕えることがないのですが
あなたは私たちを愛して下さる。永遠の僕よ。

 今日、説教題に「それでも」という言葉をつけました。キリストの十字架の愛に心を集中する時、どうしてもつけざるを得なかったのです。「本当にそこまで私を愛して下さるのですか!」という感嘆符をつけた言葉です。私たちが、イエスさまを見失ったときでもイエスさまが私たちを見出し、私たちのために仕えて下さるのです。この「それでも」の中には私たち罪赦された者の万感の思いが込められているのです。罪赦され、新しく生きることを許された群れとして、喜びと感謝の日々を送りましょう。

 

2011/10/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「この最後の者にも」(マタイ20:1-16)
マタイ20:1-16、2011・10・09、イザヤ書55:6-9、フィリピの信徒への手紙1:12-30、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書20:1-16
 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので『あなたたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」




説教「この最後の者にも」(マタイ20:1-16)
 
「この最後の者にも」と本日の説教題を付けておきましたが、これは、昔、マハトマ・ガンジーが書いたパンフレットのような小さな本の題でもありました。内容は、忘れましたが、確かに、本日のマタイ20:1-16の主イエスがなさった天の国の譬えから来ているものでありました。20章の14節の「この最後の者にもあなたと同じように与えることを私は欲する」というみ言葉からであります。
 今日の主イエスの譬えは、「なぜならば、天の国は、次のような一家の主人である人に、似ている、同質的であるからである」と始まっています。本日の記事の直前にも、「で、多くの先の者たちが、後の者たちとなり、後の者たちが先の者たちになろう」とあります。
 ある意味で、本日の記事の前と、本日の記事は、幾分つながっており、本日の福音の記事の終わりでは、同じように、「そのように、その最後の者たちは最初の者たちとなり、その最初の者たちは、最後の者たちになるであろう」と結ばれているのであります。
 私たちは、本日の記事から、何を読み取ることができるでありましょうか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 なぜならば、天の国、神の支配は、以下の人に似ているからであると始まり、その人は一家の主人で、朝早く、市場、あるいは広場へと労働者を自分のぶどう園へと雇うために、出て行ったと始まるのであります。彼は、出て行くと、何もしないで立っている労働者を見出し、一デナリオンで一致して、彼らを自分のぶどう園に派遣したのであります。このぶどう園の譬えを聞いて、この福音書の読者たちは、この一家の主人とは、主なる神であり、ぶどう園とは、神の民、イスラエルを譬えているのだろうと、容易に想像したでありましょう。一デナリオンとは、ローマ帝国で流通していた銀貨で、当時の、たとえば、ネロ皇帝のころの労働者の平均賃金でありました。現代と同じように当時も、エルサレム神殿の建築が終わって、失業者がエルサレムには多かったのかもしれません。
 さて、この中規模経営のぶどう園の主人は、第3刻、すなわち、午前9時にも、第6刻、すなわち、正午ごろにも出かけて、やはり何もしないで立ち尽くしている労働者、日雇い労働者を見出し、彼らにも、正当な給料を払うからと言って、自分のぶどう園に送り出したのであります。さらに、第9刻、すなわち、午後3時頃にも出かけていって、同じようにしたのであります。そして、ついには、第11刻、すなわち、午後5時頃にも出かけていくと、広場には、何もしないでいる他の者たちを見出しました。ぶどう園の主人は、彼らに、「なぜ、お前たちは、何もしないで立っているのか」と言うと、彼らは、「誰も私たちを雇ってくれなかったのです」と答えます。彼は彼らに語ります。「お前たちも、かのぶどう園へと出て行きなさい」
 で、夕方になったので、ぶどう園の主人は、ぶどう園の管理人、現場監督のような人でありましょうか、その者を呼び、最後の者たちから始めて、最初の者たちまで給料を支払うように命じました。最初の者たちがやって来て、一デナリオン、おのおの受け取りました。そして、終わりの者たちはやって来ると、自分たちはもっと多くもらえるだろうと思いました。ところが、彼らも、一デナリオンずつ受け取ったのであります。彼らは、一家の主人に不平を言っていました。「私たちをも、すなわち一日の重荷と燃える太陽の下で労苦した者たちをも、たった一時間しか働かなかった者たちと同じ扱いにするとは」と。
 すると、主人は、彼らの一人に答えて語るのです。「友よ、同志よ、私は、この最後の者にも、あなた方と同じにしてやりたいのだ。私は、何も不正な扱いをあなたに対してしていない。あなたは、私と一デナリオンで一致したではないか。自分のものを受け取って出て行くがよい。それとも、私は、私のものによって欲するとおりにすることができないのか。それとも、私が良い者であるので、妬むのか」と。これは、直訳すると、「私が良いものであるので、あなたの目が邪悪になるのか」となります。
 主イエスはこのように語られ、マタイは、そのように、最後の者たちが、最初の者たちとなり、最初の者たちが最後の者になると本日のみ言葉を結んでいるのであります。
 先日、2回目のことですが、統一教会の信者の方、50前の壮年の方でしたが、話しに、というよりも相談に訪問してきました。別の教会に行ったら、牧師さんが我々とは考え方の根本が違うので、話し合えないと門前払いされて断られてしまったと言われるのです。40分ほど、何かと話して、帰っていかれました。私は、知っている限りの知識を生かして、相談に応じました。一般には異端と言われているのですが、そのような純粋な統一教会への信仰を持っている方もおられるのだと反省させられました。
 私たちは、最初に、明け方の6時頃にぶどう園へと雇われた者でしょうか。それとも、夕方近く、5時頃に、主人にあなた方も、ぶどう園へと行くようにと言われている者でしょうか。私は、訪問して来られた統一教会の方には、夫婦で20年以上もその信仰生活を続けて来られたのなら、その信仰を大事にしていかれればいいのではないですかと言って、帰しました。正統的な教会から見れば、異端の統一教会の熱心で純粋な信徒が、最後には、正統的なキリスト教に気付いて、後の者が先になるということも、神さまの導きによっては起こされうることなのではないでしょうか。
 マタイは、本日の記事を「このように、最後の者たちが最初の者たちとなり、最初の者たちが最後の者たちになろう」と結んでいます。私たちは、多くの時間、多くの人生を主のために働いたから、より多く、後の者たちより、恵み、神のご好意を獲得するわけではありません。最後の1時間を働いた者にも、神は、最初に見出された者たちと同じように、恵みを、ご好意を与えたいと望んでおられます。
 まだ、聖書を、主イエス・キリストを、罪からの贖い主にして、神との和解者として、受け入れていない人たちに対して、三位一体の神を紹介し、働きかけ続ける務めを、私たちは皆、与えられている者であります。私たちは、怠ることが多い者ですが、生きている限り、神である主イエスの恵み、ご好意を、異なる信仰を持っている方々とも対話しながら学び合い、告げ知らせると務めとともに、特権を与えられている一人ひとりなのであります。
 
私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
 




2011/10/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「無限の赦し」(マタイ18:21-35)
マタイ18:21-35、2011・10・02、創世記50:15-21、ローマの信徒への手紙14:1-18、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―聖餐式―)

マタイによる福音書18:21-35
 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」




説教「無限の赦し」(マタイ18:21-35)

罪の赦しについて、私たちは、先週から、引き続いての、み言葉、主のお言葉を与えられています。
ところで、先週は、9月26日と27日の月、火にわたって、栃木県の那須高原において、東地域、東教区の教師・牧師の退修会に出席してきました。宣教論、いかに、日本伝道を考え、取り組むべきかについて、日本ナザレン教団の石田学先生という講師を招いての二日間でした。石田先生の分析では、日本人は一貫した神観を持っていないので、キリスト教の宣教が非常に難しいのだというのです。お盆のときに、死者の霊が戻ってくる。死者の霊をなだめるために、お盆を守る。しかし、日本のこれまでのキリスト教は、祖先崇敬を怠ってきたために、宣教、伝道が進まないのであるというのです。
しかし、これからのキリスト教は、天地宇宙の神にして、万物の造り主である神を一貫して説き、宣教的礼拝を徹底させていくべきであると強調なさっておられました。私たち自身振り返ってみてどうでしょうか。
私は、牧師をしておりながら、日曜日だけ牧師というような恥ずかしい現実をしばしば持っています。なかなか、根底から清められた生活が出来ないでいます。清くなることは、私には、不可能に近いのであります。しかし、聖書のみ言葉に立って、日々を歩まない限り、魂の真の平安を得ることはできないことも、承知しています。
 さて、主は、本日のみ言葉の中で、「無限の赦し」について、語っておられます。ペトロが近づいてきて、私の兄弟、信仰の仲間が、私に罪を何回も犯すであろう場合、いったい、どこまで赦すであろうべきなのか、7回までですかと聞くのであります。私たち日本人であれば、3回まででしょうかということになりましょうか。
しかし、主は、私は7回までとは言わない。7の70倍まで赦しなさいといわれるのであります。これは、カインへの復讐が7回なら、レメクへの復讐は77倍までと、主なる神が約束したもうたことを思い起こさせます。そして、主は、天の国は、次のように、似せられる、譬えられると譬えを語られるのであります。ある王である人がいて、奴隷たち、家来たちと勘定の決済をしようとして、1万タラントンの借金、貸付金のある奴隷、あるいは、家来が連れてこられた。そして、その主人は、その奴隷に、自分も、妻も子も持ち物全部も売って、返すようにと命じたのであります。1タラントンは、6000ドラクメ、デナリオンであります。一日の労賃をデナリオンといい、かりに1万円とすると、6千億円、ある解説によると、16万年分の労賃の返済を迫られるのであります。それは、どうもがいても、返済できる金額ではありません。
その奴隷は、弱りきってひれ伏し、忍耐を持ってください、きっとお返ししますからというのであります。この王、主人である人は、その姿に、はらわたがうずく思いとなり、その借金を全部赦してやったというのであります。
その奴隷は、こうして出て行くと、奴隷仲間に出会い、100デナリオン、100万円ほどの借金を自分にしている者に会い、借金を返せと、捕まえてのどをしめるのであります。
その奴隷仲間は、ひれ伏し、嘆願して、忍耐を持ってくれ、きっと払うからと嘆願したのでありますが、彼は赦さず、刑務所に入れて労働させたというのであります。
これを見ていた奴隷仲間たちは、すこぶる悲しみ、一切を、王である主人のところに行って知らせたのであります。王は、呼び出し、怒って、邪悪な奴隷よ、お前が嘆願したから赦してやったのではないか。同じようにお前の僕仲間にも、すべきではなかったかといって、獄吏たちに引き渡したというのであります。そして、あなたがためいめいも、心からその兄弟たちを赦さなければ、私の天の父は、あなた方に、同じように、なさるであろうと、主イエスは、言われたのであります。日常の中で、私たちの信じる神は、私たちが、柔和に、兄弟を赦し、あるいは、諭すことをお命じになられる神であります。日々の中で、聖書を信じ、赦し合い、み言葉に従う弟子となりたいものであります。アーメン。

2011/10/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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