津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪を覆い隠すことを許さない愛」(マタイ18:15-20)
マタイ18:15-20、2011・09・25、エゼキエル書33:7-9、ローマの信徒への手紙12:19-13:10、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書18:15-20
 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」




説教「罪を覆い隠すことを許さない愛」(マタイ18:15-20)

私たちは、本日の福音において、教会の規律、懲戒についての主のみ言葉を与えられています。先週は終わりの部分で、迷い出た羊の譬えが言及されていましたが、本日は、それに続いて、過ちを犯した者を、どう取り扱うかが問題となっています。
もし、あなたの兄弟があなたに罪を犯したなら、あなたは、まず、彼のところに行って、彼とだけのところで、それを指摘しなさいというのであります。「彼があなたに罪を犯したなら」と私たちの新共同訳聖書は書かれていますが、「彼が罪を犯したなら」と一般的に書かれている写本もあります。ルカ福音書の記事が影響して「あなたに対して」が後代になって書き加えられたとも、考えられます。
しかし、私の兄弟・姉妹が、私に罪を犯したならばとあるほうが、より鮮明に、この事態を切実さをもって、私たちは考えさせられるでありましょう。私も牧師になって17年ほどになりますが、この人からは、逃げ出したいと思わされる兄弟にも出会ったことがあります。いろいろと連絡してきて、こちらが、迷惑する兄弟がいました。兄弟をいさめるのが殆ど不可能なような場合もあるものです。私は、交流は避けた方がよいと判断しまして、この兄弟の場合には、返事のメールも書かず、放っておいているのであります。
しかし、カール・バルトという神学者は、著書の中で、たとえどんな事情があるにしろ、どんな兄弟をも、心から赦して、愛さなければならないと書いています。これは、現実的には、実際にはそれは、不可能に近いあり方でありまして、私は先程の兄弟の場合には避けて、交際を絶っているのであります。
しかし、主イエスは、本日のみ言葉において、まず、自分に、ある兄弟が、罪を犯した場合、彼のところに行って、まず、プライベートに、その罪を指摘しなさい。そして、もし、彼が聞き入れたら、彼を獲得したことになるというのであります。これは、旧約聖書のレビ記19:17にのっとっているものであります。
すなわち「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば、彼の罪を負うことはない」と記されているのであります。本日の第一の朗読、エゼキエル書33:7-9にも同様の思想がうかがえます。他人の罪を知って、指摘もせず、見ないふりをするならば、その責任を私は、あなたに問うと主なる神は言われるのであります。
本日の説教題を「罪を覆い隠すことを許さない愛」としておきましたが、兄弟が私に対して犯した罪を覆い隠すことを許さないのが、真の愛であり、主なる神のみ心であると、主イエスは、言われるのであります。
そして、しかし、第二に、兄弟があなたのアドバイスに聞き従わなかった場合には、さらに一人ないし二人の者を連れて行って、兄弟を説得するようにと主は言われるのであります。
それでも、彼が聞かない場合には、三番目に、教会に申し出なさいと主は言われます。少し前に、主イエスは、マタイ15章で、あなたペトロという岩の上に私の教会を建てようと主はおっしゃいましたが、現実的な意味では、教会は、主イエスの復活後に誕生したものであります。ですから、本日のみ言葉は、マタイの教会が、生まれて後に、教会の信徒の規律や、懲戒が必要になっていた時代の中で、おそらく主イエスの復活後の言葉として記されていったのかもしれません。そして、主イエスは、教会に言っても、彼が聞き流すようであったなら、彼を異邦人か、徴税人のように見なしなさいと言われるのであります。 
主イエスは、信仰のある異邦人や徴税人、罪人の友として交わられましたが、一般の異邦人は、マタイの教会にあっても、主なる神を知らない者たちでしたし、一般の徴税人たちも、聖書、旧約聖書の教えからの背教の人たちでした。
主イエスは、これらの忠告に続けて、はっきり言っておくが、あなた方が地上でしばるものは、天上でも縛られているであろうし、あなた方が、地上で解くものはなんでも、天上でも解かれてあるであろうと言われます。
そして、再び、はっきり言っておくが、地上であなた方のうちの二人が求めるすべてのことについて協調するなら(シンフォニーという語源)、彼らに天におられる私の父から、そのことは、彼らに対して成るであろうと、言われ、また、なぜならば、あなた方のうちの二人か三人が私の名へと集められるところでは、そこで、彼らの真ん中に私も居るのであると言われるのであります。
私たちは、教会の中で、自分たちも罪人の集まりでありますが、罪を覆い隠すことを許さない愛を、父なる神と主イエスとともに、お互いに協調しながら、追い求めていく教会、すなわち、「外から呼び集められた会衆、群れ」として、主イエスに真ん中に立っていただきながら、すべての事柄において、愛を追い求めていく群れとされたいものであります。
アーメン。
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2011/09/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「いと小さき者」(マタイ18:1-14)
マタイ18:1-14、2011・09・18、エレミヤ書15:15-21、ローマの信徒への手紙12:9-18、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書18:1-14
 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつかずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 「これらの小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」




説教「いと小さき者」(マタイ18:1-14)
 本日の部分は、3つの部分に分かれていますが、このマタイ18:1-14を貫くテーマは、何でしょうか。説教題をつける上でも、本文を読んだだけでは、よく分かりません。3つの部分の共通項として、何とか「いと小さき者」との説教題をつけさせておいていただきました。
 始めの部分は、弟子たちが主イエスに近づいて来て、質問することから始まっています。既に、フィリポ・カイサリアでのペトロの信仰告白を終え、主御自身のエルサレムでの受難予告もなされている後の出来事であります。12弟子たちは、自分たちのうちで一番偉い弟子はだれでしょうかと主に、質問するのであります。主は、一人の子供を、彼らの真ん中に立たせて、言われるのであります。その子供は、ひょっとしたら、ペトロの子であったかもしれません。
 主は、子供のように、自分をひるがえす者にならなければ、天の国へとは決して入ることができないと言われました。子供は、現代でこそ、その美点やかわいさ、純粋さや単純性など認められるようになりましたが、主イエスの時代には、無力な者、しもべのような者、「いと小さき者」として、現代のように重視されてはいませんでした。しかし、主は、子供を指し示して、このように小さき者こそ天の国に入るのであり、人を出し抜いて、この世での栄光や評価を求めがちな私たちに対して、子供を受け入れる者こそ、私を受け入れる者でもあると言われたのであります。
 第二に、「いと小さな者」を躓かせることへの注意を喚起しています。この世は、躓き、主イエスを信じることから離れさせることが必然的に起こりがちなので、災いなるかなと言われています。そして、しかし、その人を通して躓き(転倒、スキャンダラス)が起こるその人は災いなるかな。その人は、首にろばで引き回す大きな石臼をかけられて、ガリラヤの海の深みへと沈められる方が益であるとまで言われます。それは、極悪非道な犯罪人や、政治犯などに課された極刑であったといいます。
 そして、私たちにも、私たちの片手や片足が、あるいは、片方の目が、罪を犯させるなら、それらを切り取って、投げ捨てる方が、五体満足で火の地獄に投げ込まれるよりもましであると言われるのです。
 教会にせっかく来るようになっていた信仰歴の短い人が、私たち自身が罪に陥ったりして、躓きとなるようなことに対して、私たちは余程警戒し注意を怠ってはなりません。
 そして、最後の部分で、主は、なぜならば、これらのいと小さき者たちの天使が、彼らの傍に立って、天におられる私の父を絶えず見つめているからだというのであります。マルチン・ルターも、天使の存在を堅く信じていました。小教理問答書の中においても夕べの祈りで、これから眠る間も天使が見守って平安のうちに眠れるようにしてくださいと祈るように勧めています。
 さて、主は、羊飼いが100匹の羊を持っていた場合に、1匹の羊がいなくなった場合にどう思うかと最後に弟子たちに問いかけられます。99匹を山に残し、捜しに行くのではないか。そして、見つけたなら、元気な99匹にもまして、その羊飼いは喜ぶだろう。言っておくが、天におられるあなた方の父は、これらの小さい者の一人でも滅ぶことは、神のご意志ではまったくないと言われるのであります。私たちは、いと小さき者の一人をも軽んじないように、改めて自戒したいものであります。アーメン。

2011/09/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスは主である」(マタイ16:13-20)
マタイ16:13-20、2011・09・11、出エジプト記6:2-8、ローマの信徒への手紙12:1-8、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書16:13-20
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、弟子たちに命じられた。




説教「イエスは主である」(マタイ16:13-20)

本日は、3.11から6ヶ月目の日曜日であります。この未曾有の大地震と大津波、そして、福島原子力発電所の事故をおぼえて、その収束と復旧、復興を願っての主日でもあります。そのような主日にたまたま与えられている聖霊降臨後第13主日の福音は、マタイ16:13-20であります。それをくすしき導きだと思わざるを得ません。本日の記事は、以下のように始まっています。
「主イエスがフィリポ・カイサリア地方にやって来たとき、彼は弟子たちに尋ねていた。『人々は人の子、すなわち私のことをだれであると言っているか。』」主も、多忙の中で働きをこなし、この当時は有名な人物とされていたことでしょう。「彼らは言います。洗礼者ヨハネと、ある人はエリヤだと、あるいは、エレミヤだと、あるいは、預言者たちの一人だと」。
旧約の有名な預言者である人物たちに匹敵すると人々の評価は高まっていたのであります。つづけて、主は、この風光明媚な異教の栄える水のこんこんと湧き出る地、パンの神、牧羊神の神、豊穣の神が栄える地で弟子たちに質問するのであります。「では、あなた方は、私をだれと言うのか。」ペトロが、筆頭の弟子らしく答えます。あなたは、「メシア、生ける神の子です」と。これは、イエスがこの世の人間を超えた主であるということを直観的に答えたものであります。主は、シモン・ペトロに、「このことをあなたに啓示したのは、肉や血、すなわち人間ではなく、天におられる父である」と言ってペトロを祝福し、ほめました。
ところで、ペトロは、完全無欠な弟子とは到底言えない弟子でありました。しかし、このときから、主によって選ばれて、後の教会におけるなくてはならない存在へと変えられるのであります。ペトロは、この直後にも、主の受難予告を否定しようとして、「サタン、引き下がれ」と言われて主に叱責されており、十字架のときも、主を三度知らないと言って見捨てることにもなります。しかし、主はそのような者を選ばれて、「あなたは、ペトロ、その岩(ペトラ)の上に私の教会を建てよう」と、言われ、「あなたに天の国の鍵を授けよう。あなたが地上で縛る、赦さないものは、天上でも、縛られている。あなたが、地上で、解くもの、赦すものは、天上でも赦されている」と言われました。この個所を母胎・根拠として、カトリック教会では、ペトロが最初の教皇であり、それが、継承されて今日まで来ていると考えられています。
私たち、プロテスタントの教会では、では、どう理解すべきなのでしょうか。ペトロは、カリスマ性のあった偉大な弟子でしたが、完全な弟子とは必ずしも言えませんでした。ペトロとは、主のお付けになったあだ名で、石という意味でした。悪く言えば、石頭などという頑固な欠点も備えていました。しかし、主によって、にもかかわらず、教会の礎として備えられたのです。私が、大学生になった頃、モルモン教会にしばらく通ったことがありました。その長老たちの私につけた名前はサイモンでした。それは、考えてみると、ペトロに因んでのことであったでしょう。私も、真面目でしたが、頑固な一面、ペトロのようなところがあるとモルモン教会の長老の青年二人は見ていたのでしょう。
私は、5人兄弟で、兄がおり、亡くなる前の父は、兄は格が違うと私は父に言われたことがありました。私は、悲しく思いましたが、自分が、イエスを主と知らされ、信じていることを思い起こします。パウロが言うように、教会には、必ずしも家柄のよいものや、生まれつき優れている者は少ないのであります。しかし、私たちキリスト者は、ペトロに続いて、あなた方の上に教会(外から呼ばれた者の意味)として、立てられるのであります。  
私には、大きな欠点があり、人に言えない弱さも持っていますが、むしろ、神の与えてくださった賜物に感謝するのであります。常識では考えられないような牧師先生や信徒方との出会いが与えられ、今は教会の一兵卒とされていることを、感謝せざるを得ません。
イエスこそは、私の主であるとの確信を、言わば大ペトロと同様に与えられているのが、私たちクリスチャンなのであります。そのことを覚えて、意気阻喪することなく、新たな歩みに向かいたいと思います。アーメン。

人知では到底測り知ることのできない平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって、守るように。

2011/09/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「大きな信仰」(マタイ15:21-28)
マタイ15:21-28、2011・09・04、イザヤ書56:1-8、ローマの信徒への手紙11:25-36、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―聖餐式)

マタイによる福音書15:21-28
 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。




説教「大きな信仰」(マタイ15:21-28)
 
先週は、マタイ14:22-33、イエスの水上歩行、また、ペトロの水上歩行の記事が福音として与えられていました。ペトロが、風を見て、恐ろしくなり、沈みかけた時、主は「信仰のほとんどない者よ、何へとあなたは疑ったのか」と戒められました。
次週は、マタイ16:13-20で、ペトロの信仰告白の出来事が、福音として与えられています。ペトロは、主イエスを、あなたは、メシア、生ける神の子ですと、自分の救い主であること、主であることを信仰告白するのであります。
 その間にあって、本日はマタイ15:21-28が与えられています。この部分も、マルコ7:24-30が下敷きとなって、構成されたものであります。この部分を、マルコと対比しながら、もう一度、思い起こしてみましょう。そして、彼、主イエスはそこから出て、ティロスとシドンの地域へと、退かれたと始まっています。ティロスとシドンは、地中海に面したフェニキアの町で、しばしば共に出て来ます。ゲネサレトの地から、50キロないし80キロほど北北西に位置します。
 そして、すると、見よ、カナンの女が、その地方から出て来て、こう言いながら、大声をあげていたのであります。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。私の娘が、ひどく、悪霊にとりつかれています」と。娘は今で言う心の病であったのかもしれません。さて、しかし、主は、言葉をお答えにならなかったのであります。主イエスは、いつもの憐れみ深い様子とはひどく異なるのであります。
 で、彼の弟子たちが、近づいて後、彼にこう言って懇願していたのであります。「彼女を去らせてください、なぜならば、私たちの後に、大声をあげていますから。」
 マタイは、ひょっとしたら、このティロスとシドン辺りで、この福音書を書いたのかもしれません。そして、その当時、マタイの教会は、ユダヤ人キリスト者と、異邦人キリスト者から、成っていました。不平を言うこの弟子たちは、ユダヤ人キリスト者を表わし、カナンの女は、異邦人キリスト者を表わしていたとも考えることができるでしょう。
 主イエスは、ようやく答えて言われました。「私は、イスラエルの家の失われた羊どもへと以外には、遣わされなかった」と。主は、先にも、「サマリア人の町へと行くな。イスラエルの家の失われた羊どもへと行きなさい」(10:6)と言われていました。イスラエルの民は、さ迷える羊として、主イエスの時代、失われていたのであります。
 で、女は、「主よ、私を助けてください」とひれ伏したまま、彼に語るのであります。主は、答えて言われます。「子供たちのパンを取って、小犬に投げてやるのは、有用ではない」と。ここでの子供たちは、イスラエルの民であり、小犬たちは、異邦人たちであり、救いに与るのには、順位があるのであります。
 で、彼女はこう言ったのであります。「はい、主よ、そして、なぜならば、小犬たちも、彼らの主人の食卓から落ちるパン屑を食べるのです」と。カナンの女は、主イエスをイスラエルのメシアとして信じる信仰を持ったわけではないでしょう。彼女は、異邦人として、自分は即座の助けへの権利を持たず、イスラエル人たちの次の場所を取る準備があることを、謙虚に認める忍耐強い信仰を持ち、それが、主イエスへの彼女の要求を勝ち取ることへと導いたのであります。
その時、主は、答えて、彼女に言われます。「おお、あなたの信仰は大きいなあ。あなたの願う通りにあなたに成るように。」その時から、彼女の娘は癒されたのであります。
 本日の福音も、信仰をテーマに扱っています。女は、イスラエルが、先であり、自分は順位が次であることを、主とのやり取りの中で認め、受けとめたのであります。そして、その謙遜な忍耐強い信仰を、主は見て、彼女の要求を満たされるのであります。
 そして、私たち、現在の日本のキリスト者たちもまた、この女の信仰に立つ者なのであります。謙遜な忍耐強い信仰を、主は「あなたの信仰は大きいなあ。あなたの願う通りに、あなたに成るように」と今もなお、主は、私たちをほめ、励まし、力づけてくださるのであります。
 ユダヤ人たちから、見れば、不浄であった異邦人も、この信仰によって、主イエスのパンに与ることができるのであります。そして、神のご好意は、ユダヤ人から始めて、すべての異邦人に及ぶのであります。
本日は聖餐式があります。罪の赦しのために、主イエス・キリストの与えて下さった体とその尊い血に、共に、身を低くして与り、新しい生涯へとここから、歩んでいきたいものです。
祈ります。
天の父なる神さま。本日は、カナンの女の謙遜で忍耐強い信仰を垣間見ることができました。私たちもまた、何の功もなく、あなたへの信仰に迎え入れられましたことを感謝します。どうか、私たちが、この信仰から離れず、信仰にまだ入っていない人たちをも、導くことができますように。現実には、信仰から離れやすい弱き器ですが、共にみ前に集まり、聖餐に与って、永遠の命に生きる者として下さい。キリストのみ名によって。アーメン。

平和と信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。








2011/09/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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