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津田沼教会 牧師のメッセージ
「疑わずに、従うこと」(マタイ14:22-33)
マタイ14:22-33、2011・08・28、列王記上19:1-21、ローマの信徒への手紙11:13-24、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書14:22-33
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。



説教「疑わずに、従うこと」(マタイ14:22-33)

私たちは、本日、先週の5千人の供食の奇跡の出来事に続く記事、マタイ14:22-33を与えられています。主イエスの湖上、あるいは海上歩行と共に、ペトロの湖上歩行とも言える記事であります。これは、先週の出来事同様に、私たちの理性からはとても信じられない出来事であります。しかし、ドイツの作家、ゲーテは、エッカーマンによるゲーテとの対話という本の中で、聖書の中で、これ以上に美しいエピソード、記事はないと語ったということであります。皆さんと、ご一緒に先週に引き続いての本日の記事をもう一度ご一緒に思い起こしてみましょう。
「そして、主は、直ちに、その弟子たちを、強いて舟に乗せ、彼らに自分よりも先に反対側に行くように駆り立てた、そして、ご自分は群衆どもを解散させられた」と本日の記事は始まっています。主は、ご自分はひそかに、祈るために山にお登りになるのであります。山、丘は、神と近い場所であります。そして、夕方になったとき、一人だけでそこにおられました。で、舟は、何スタディオンも、陸から離れていましたが、波どもによって、悩まされていました。
この舟は、教会を暗示しています。教会は、主から離れて、自ら、海原へと出て行かなければならないのであります。そして、現実の世界の中で、逆風のために、大きな波と戦わねばならないのであります。波によって、悩まされるのが、教会の現実であります。
しかし、第四の見張り番のとき、すなわち、午前3時から6時にかけて、世の明け方に、主イエスは、水のほうへと来られ、海の上、湖の上を歩き回りながら、彼らのほうへとやって来られるのであります。出エジプトの民が、エジプト軍に追われて、苦しめられたときも、主なる神は、明け方にその民を救われたのでありますが、主イエスも、夜の明ける頃、弟子たちの舟のほうへと歩き回ってやって来られるのであります。
これは、実は、主イエスは、浜辺近くを歩いておられ、舟が引き寄せられて、弟子たちには、海の上を歩いているように見えただけではないかと考える学者もいます。あるいは、復活後の主イエスがなされたことを、この時点に引き戻して記述しているのではないかと考えた人もいます。
しかし、私たちの合理的な考え方からは、説明の付かない超自然的な神の子の出来事が記されているのであります。
さて、それに気づいた弟子たちは、揺り動かされ、幽霊、亡霊、幻影だと思って恐怖から叫び声を上げたのであります。すると、主は、「元気を出せ。私である。恐れさせられるな」とお答えになるのであります。「私である」というのは、私は、主なる神、ありてある者だと出エジプト記でモーセに現われた神の言葉と同じであります。
そのとき、ペトロが、「主よあなたでしたら、私に命じて、水の上を歩きあなたのほうへとやって来るようにと言ってください」と言うのであります。それに対して、主は、「やって来なさい」と言われます。ヨハネによる福音書の、終わりに出てくる復活した主イエスと湖辺で再会した弟子たちの場合にも、ペトロが海に飛び込み、他の弟子たちは、舟に残りましたが、ペトロが名乗り出て、水の上を歩き回ったのは、彼が、優秀だからではなく、ただ、弟子たちを代表しているにすぎません。ペトロは、水の上を歩き、イエスに向かってやって来ます。しかし、「強い風に気づいたとき」、ペトロは、おびえ、沈められ始めるのであります。
水、大水は、旧約聖書では、恐怖、死、闇、絶望を示す存在でした。ヨナ書の2章や、詩編などに出てくるとおりであります。ペトロは、最初、主の「やって来なさい」という命令に従って、舟から下り、水の上を歩き回り、主に向かってやって来ることができました。
しかし、主とは違って、強い風に注意を奪われたときに、沈められ始めるのです。私たちも、何と簡単に、主イエスに向かって歩みだしたところから、離れて、水に沈められる体験をすることでしょうか。私たちの1週間ごとの信仰生活も、主のみ言葉から、離れて、この世の大水に呑み込まれる体験の繰り返しではないでしょうか。
仏教でも、お釈迦様の弟子が水上歩行をするエピソードが残っているそうです。それは、紀元前1、2世紀に遡るもので、本日のマタイの残している記事に影響を与えた得たかもしれません。
しかし、十字架にかかられるお方の記事として、私たちは、本日の記事を読むべきなのでしょう。ペトロは、叫びます。「主よ、私を助けてください」と。主は言われます。「殆ど信仰のない者よ、何へとあなたは疑ったのか」。私たちの信仰は、疑いと隣り合わせであります。「疑わずに、従うこと」と説教題をつけておきましたが、疑いながら、揺れ動きながら、主に従っていくというのが、私たちの現実の信仰生活であります。主はすぐに、手を伸ばし、彼をつかみ、一緒に舟へとあがられます。すると、風はやんだのであります。
船の中にいた人たちは、「本当にあなたは、神の子、神の息子である」と言って、彼にひれ伏したのであります。この言葉は、後にイエスを処刑した十字架の下にいた百人隊長によっても、言われる言葉であります。
私たちは、毎週、主の食卓に集まり、み言葉を受け、主イエスの体であるパンと、流された血であるぶどう酒に与ります。そして、「本当にあなたは神の息子です」、キリストですと告白してひれ伏し、拝む、すなわち、礼拝するのであります。
マタイは、弟子たちはひれ伏したと書かずに、「舟の中にいる人たちは」と、言っています。主の命令によって主のもとへと、水の上を歩く経験を、ペトロと同じく、舟の中にいる人たち、すなわち、教会の人々は、時を越え、時代と場所を越えて、ずっと体験してきました。そして、今もそれは続いているのです。
私たちは、主の命令に従って歩むとき、沈められはじめることは、ありません。信仰によって、死、病気、闇、絶望、罪を乗り越えることができます。にもかかわらず、現実には、信仰と疑いの織り成す中をペトロの如く歩んでいくのです。復活の主にガリラヤの山で再会した「弟子たちにも疑う者もいた」、あるいは、主にひれ伏しながら、「彼らは疑ってもいた」とも訳することができるように、信仰と疑いは隣り合わせ出存在しています。そして、強い風に翻弄され、気を奪われて、主イエスの下へと、水の上を歩き回ることを、できなくされ、大水の中に沈められはじめることは、容易に起こります。
主は、そのような弱い私たちをよくご存知です。「本当にあなたは神の子、神の息子です」といってひれ伏す礼拝を欠かしてはならない所以です。しかし、一方では主の命令に従ってこの世の荒波の中へと、ペトロのように出て行く挑戦をも忘れてはなりません。
私たちの1週間、1週間を、本日の出来事を思い起こしながら、礼拝を起点として、これから始まる収穫の秋、大事に過ごしてまいりましょう。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに越えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

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2011/08/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)