津田沼教会 牧師のメッセージ
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「疑わずに、従うこと」(マタイ14:22-33)
マタイ14:22-33、2011・08・28、列王記上19:1-21、ローマの信徒への手紙11:13-24、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書14:22-33
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。



説教「疑わずに、従うこと」(マタイ14:22-33)

私たちは、本日、先週の5千人の供食の奇跡の出来事に続く記事、マタイ14:22-33を与えられています。主イエスの湖上、あるいは海上歩行と共に、ペトロの湖上歩行とも言える記事であります。これは、先週の出来事同様に、私たちの理性からはとても信じられない出来事であります。しかし、ドイツの作家、ゲーテは、エッカーマンによるゲーテとの対話という本の中で、聖書の中で、これ以上に美しいエピソード、記事はないと語ったということであります。皆さんと、ご一緒に先週に引き続いての本日の記事をもう一度ご一緒に思い起こしてみましょう。
「そして、主は、直ちに、その弟子たちを、強いて舟に乗せ、彼らに自分よりも先に反対側に行くように駆り立てた、そして、ご自分は群衆どもを解散させられた」と本日の記事は始まっています。主は、ご自分はひそかに、祈るために山にお登りになるのであります。山、丘は、神と近い場所であります。そして、夕方になったとき、一人だけでそこにおられました。で、舟は、何スタディオンも、陸から離れていましたが、波どもによって、悩まされていました。
この舟は、教会を暗示しています。教会は、主から離れて、自ら、海原へと出て行かなければならないのであります。そして、現実の世界の中で、逆風のために、大きな波と戦わねばならないのであります。波によって、悩まされるのが、教会の現実であります。
しかし、第四の見張り番のとき、すなわち、午前3時から6時にかけて、世の明け方に、主イエスは、水のほうへと来られ、海の上、湖の上を歩き回りながら、彼らのほうへとやって来られるのであります。出エジプトの民が、エジプト軍に追われて、苦しめられたときも、主なる神は、明け方にその民を救われたのでありますが、主イエスも、夜の明ける頃、弟子たちの舟のほうへと歩き回ってやって来られるのであります。
これは、実は、主イエスは、浜辺近くを歩いておられ、舟が引き寄せられて、弟子たちには、海の上を歩いているように見えただけではないかと考える学者もいます。あるいは、復活後の主イエスがなされたことを、この時点に引き戻して記述しているのではないかと考えた人もいます。
しかし、私たちの合理的な考え方からは、説明の付かない超自然的な神の子の出来事が記されているのであります。
さて、それに気づいた弟子たちは、揺り動かされ、幽霊、亡霊、幻影だと思って恐怖から叫び声を上げたのであります。すると、主は、「元気を出せ。私である。恐れさせられるな」とお答えになるのであります。「私である」というのは、私は、主なる神、ありてある者だと出エジプト記でモーセに現われた神の言葉と同じであります。
そのとき、ペトロが、「主よあなたでしたら、私に命じて、水の上を歩きあなたのほうへとやって来るようにと言ってください」と言うのであります。それに対して、主は、「やって来なさい」と言われます。ヨハネによる福音書の、終わりに出てくる復活した主イエスと湖辺で再会した弟子たちの場合にも、ペトロが海に飛び込み、他の弟子たちは、舟に残りましたが、ペトロが名乗り出て、水の上を歩き回ったのは、彼が、優秀だからではなく、ただ、弟子たちを代表しているにすぎません。ペトロは、水の上を歩き、イエスに向かってやって来ます。しかし、「強い風に気づいたとき」、ペトロは、おびえ、沈められ始めるのであります。
水、大水は、旧約聖書では、恐怖、死、闇、絶望を示す存在でした。ヨナ書の2章や、詩編などに出てくるとおりであります。ペトロは、最初、主の「やって来なさい」という命令に従って、舟から下り、水の上を歩き回り、主に向かってやって来ることができました。
しかし、主とは違って、強い風に注意を奪われたときに、沈められ始めるのです。私たちも、何と簡単に、主イエスに向かって歩みだしたところから、離れて、水に沈められる体験をすることでしょうか。私たちの1週間ごとの信仰生活も、主のみ言葉から、離れて、この世の大水に呑み込まれる体験の繰り返しではないでしょうか。
仏教でも、お釈迦様の弟子が水上歩行をするエピソードが残っているそうです。それは、紀元前1、2世紀に遡るもので、本日のマタイの残している記事に影響を与えた得たかもしれません。
しかし、十字架にかかられるお方の記事として、私たちは、本日の記事を読むべきなのでしょう。ペトロは、叫びます。「主よ、私を助けてください」と。主は言われます。「殆ど信仰のない者よ、何へとあなたは疑ったのか」。私たちの信仰は、疑いと隣り合わせであります。「疑わずに、従うこと」と説教題をつけておきましたが、疑いながら、揺れ動きながら、主に従っていくというのが、私たちの現実の信仰生活であります。主はすぐに、手を伸ばし、彼をつかみ、一緒に舟へとあがられます。すると、風はやんだのであります。
船の中にいた人たちは、「本当にあなたは、神の子、神の息子である」と言って、彼にひれ伏したのであります。この言葉は、後にイエスを処刑した十字架の下にいた百人隊長によっても、言われる言葉であります。
私たちは、毎週、主の食卓に集まり、み言葉を受け、主イエスの体であるパンと、流された血であるぶどう酒に与ります。そして、「本当にあなたは神の息子です」、キリストですと告白してひれ伏し、拝む、すなわち、礼拝するのであります。
マタイは、弟子たちはひれ伏したと書かずに、「舟の中にいる人たちは」と、言っています。主の命令によって主のもとへと、水の上を歩く経験を、ペトロと同じく、舟の中にいる人たち、すなわち、教会の人々は、時を越え、時代と場所を越えて、ずっと体験してきました。そして、今もそれは続いているのです。
私たちは、主の命令に従って歩むとき、沈められはじめることは、ありません。信仰によって、死、病気、闇、絶望、罪を乗り越えることができます。にもかかわらず、現実には、信仰と疑いの織り成す中をペトロの如く歩んでいくのです。復活の主にガリラヤの山で再会した「弟子たちにも疑う者もいた」、あるいは、主にひれ伏しながら、「彼らは疑ってもいた」とも訳することができるように、信仰と疑いは隣り合わせ出存在しています。そして、強い風に翻弄され、気を奪われて、主イエスの下へと、水の上を歩き回ることを、できなくされ、大水の中に沈められはじめることは、容易に起こります。
主は、そのような弱い私たちをよくご存知です。「本当にあなたは神の子、神の息子です」といってひれ伏す礼拝を欠かしてはならない所以です。しかし、一方では主の命令に従ってこの世の荒波の中へと、ペトロのように出て行く挑戦をも忘れてはなりません。
私たちの1週間、1週間を、本日の出来事を思い起こしながら、礼拝を起点として、これから始まる収穫の秋、大事に過ごしてまいりましょう。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに越えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

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2011/08/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「五千人への供食」(マタイ14:13-21)
マタイ14:13-21、2011・08・21、イザヤ書55:1-5、ローマの信徒への手紙9:1-5、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書14:13-21
 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。




説教「五千人への供食」(マタイ14:13-21)

本日、与えられました福音は、マタイによる福音書14:13-21であります。いわゆる「5千人の供食」と言われる奇跡物語でありまして、共観福音書のみならず、ヨハネ福音書も記しておりまして、最も大事な奇跡物語と言えるものであります。これは、ヨハネによる福音書の2章のカナの婚宴の奇跡と共に、私たちの経験を超えた大いなる奇跡物語であります。4つの福音書が、いずれも独特の仕方で記録していますが、もとになっているのは、マルコ福音書であります。それを頭に置きながら、先ほど、読みましたマタイの記述をもう一度、思い起こしてみましょう。
マタイでは、主イエスは、これを聞くと、すなわち洗礼者ヨハネが殉教したことを聞くと、ただ一人で、あるいは、ひそかに、彼らだけで、舟に乗って寂しい所、荒涼とした地、ある意味では、荒れ野に引っ込まれる、逃れる、退却されるのであります。で、群衆は、それと知って、陸路で、町々から彼に従ったのであります。主イエスは、出て来られると、大勢の群衆どもをお認めになります、そして、彼らの上に、同情されるというのであります。これは、はらわた、とか、内臓という意味の名詞から出てきた動詞で、はらわたがねじられる思いをされたという意味であります。そして、彼らのうちの病人たちを治されたというのであります。群衆とは、12弟子のみではなくて、後の教会となる人々であります。彼らは、主イエスのところに、従ってくるのであります。
夕方になったとき、弟子たちが近づいてきて言います。「時が過ぎました。彼らを解散なさってください。そうすれば、彼らは、村々に出て行って、食物を買い入れることでしょう。」主イエスは、言われます。「彼らはその必要を持っていない。あなたがたこそが、彼らに食べることを与えなさい。」彼らは、答えて言います。「私たちは、ここに5つのパンと、2匹の魚しか持っていません。」これは、原文では、最初に「いない」、最後に~「以外には」と強調されています。パンと塩魚は当時の農夫、庶民の一般的な質素な食事の内容でありました。
主は、「あなたがたは、それらを、ここに持ってきなさい」と言われました。そして、「群衆には、草の上に座るように」命じられました。そして、「パンどもを受け取り、天を見上げて、ほめたたえ、これを裂き、弟子たちに与えられました。そして、弟子たちは群衆どもに」、とあります。
すべての者たちは食べた、そして満腹した。そして、彼らは、12かごを一杯にして、パンくずの残っているものを拾った、とあります。そして、食べている者たちは、女たちと子どもたち以外に、およそ5千人であったと結んでいるのであります。マルコに比べてより要約されており、たとえば、イエスの所作には、魚は出てこず、パンが中心になっているので、パン裂き、すなわち、主の食事、後の聖餐式が示されていると考える人たちもいます。
さて、そもそも、この5千人の供食とは、一体何だったのでありましょうか。ある人たちは、考えました。それは、主イエスの慈しみによって、あるいは、ヨハネ福音書が伝えているようにある寛大な少年がたまたま5つとパンと2匹の魚を出し惜しみしないで、出したところ、そこにいた群衆も、それなら自分たちもということで、それぞれ出し合ってみると、意外にも必要にして十分な、いや、パンくずの余りさえも、拾い集めると、旅行用の12バスケットに一杯になったのだと考えた人もいます。
しかし、この出来事は、もっと神学的な真意を持っているものでありましょう。旧約聖書の出エジプト記等に、出てきます荒れ野でのマナが降って来た出来事や、列王記下4章のエリシャが、10個のパンで、100人の食を満たし、なお、余りがあったという奇跡などが思い起こされます。
主イエスは、私たちが差し出すささげものを軽んじられません。そして、それを、豊に用いて、5千人の者たち、いや、女、子供を含めると、2万人くらいいたかもしれない者たちの肉体的、そしてまた、霊的な必要を満たすことがおできになる方です。
主イエスは、群衆、すなわち、これを読んだ教会の人たち、また、今、読んでいる現代の教会の私たちの飢えを、病気の人々を治されることと共に、満たすことがおできになります。
そして、私たちは、私たち自身の持っているものを、主イエスの御用のために差し出し、主イエスの働きに参加することが求められています。そして、神の恵み、ご好意を、少しでも無駄にすることは、主イエスのみ心ではありません。
荒れ野でのマナの体験のように、私たちは、主イエスとの質素な、しかし、満ち足りた食事の体験を、その最初の群衆たち、最初の教会から受け継ぎながら、今日も追体験することができるのです。
もう絶望かと思えるときがあります。しかし、主イエスと共に、従い歩むとき、主は、私たちを断腸の思いをもって、ごらんになり、私たちの病気を癒し、また、肉体的飢えと霊的な飢えを満たしてくださるのであります。アーメン。
2011/08/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「隠されている宝」(マタイ13:44-52)内海望牧師
マタイ13:44-52、2011・08・14、列王記上3:4-15、ローマの信徒への手紙8:31-39、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書13:44-52
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人がよい真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」




説教「隠されている宝」(マタイ13:44-52)内海望牧師

 ここで、イエスさまは宝つまり「天の国」は隠されているとおっしゃるのです。確かに、二つの意味で、私たちの目には隠されています。
 第一には、私たち人間の罪が天の国を隠れたものにしています。アダムとエバは「食べてはいけない。食べると必ず死ぬ」と神さまから言われていたのに、忠告に逆らって木の実を食べてしまいました。それは、「食べると、神のように善悪を知る者となる」という蛇の唆しに負けたからです。彼らは神さまのようになって、人々を裁くという誘惑に負けたのです。自分を神さまのように絶対化するということが原罪なのです。それ以来、人間の世界は互いに裁き合う世界になってしまったのです。悲しいことですが、私たちは、自分を正しいとし、軽蔑すべき間違った人を自分の周囲に作っているのが現実です。自分を高くし、誰かを見下して生きなければ安心できないのです。今、私たちは「地に平和を」と祈る時を過ごしているのですが、自分を神のように高くするという原罪の延長にあるのが戦争なのです。私たち人間は、「自分たちが正しい」と叫びながら、何千万の人々を殺戮して来たのです。
 このような自己絶対化、自分を神とする、という生き方をする人間にとって真の宝を見出すことは出来ません。イエスさまが、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気付かないのか」と嘆いていらっしゃるのは当然です。私たちは、いつも自分が正しいし、自分の正義をふりまわして他人を貶めているのです。このような目には、天の国は隠されてしまっているとイエスさまはおっしゃるのです。宝が隠れているのではありません。私たちの心が、宝を隠されたものにしてしまっているのです。
 イエスさまは、私たち人間の世界で罪人として裁かれている人々、軽蔑されている人々、無視されている人々と共に歩まれた方でした。徴税人や罪人と共に食卓を囲み、石打ちの刑に処せられようとしている罪の女性のために祈り、村から追い出されている重い皮膚病の人々を癒し、異邦人であるローマの百人隊長の僕を癒し、サマリアの女性と交わりを持ち、新しい心を与えられた方です。
 既に、イエスさまに救われた人々にとっては、イエスさまの生き方は福音、良い知らせなのですが、自分を神として生きている人々にとっては、恐ろしい存在です。純粋に、愛に生きる人が近くにいては迷惑なのです。そのような人は自分たちの偽善と傲慢が暴くものでした。そこで、彼らはイエスさま殺害の計画に走ったのです。12章を読むと、イエスさまが安息日に手が不自由な人を癒されたのでファリサイ派の人々が殺害計画を練り始めたと書かれています。
 ここで、私たちは「何たることか」とファリサイ派の人々に憤る前に、立ち止まって自分自身の心を見つめてみましょう。
 私たちは、聖書を通してイエスさまの生涯を知った時、そこに福音を感じ取りました。そのイエスさまの姿に惹かれて教会の門をくぐった人々も数多くいます。しかし、もしイエスさまが現実に私たちの隣人として生きておられたらどうでしょうか。すべてを与え、愛に生きる人がそばにいるのは迷惑です。そのような人はいなくなればよいと考えるのではないでしょうか。
 実は、私たちの心にも、あのファリサイ派の人々と同じ心が潜んでいるのです。「イエスさまが再びこの地上に来られても、やはり人間はイエスさまを十字架につける」という警告は真実なのです。私たちがファリサイ派なのです。アダムの罪は、私たちにもつながっているのです。アダムの罪が原罪と呼ばれる理由がここにあります。
 それにしても、イエスさまの生き方は徹底していました。「私は、仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:46)とおっしゃったイエスさまですが、文字通りそのように行きぬかれました。

 ここに、宝が隠されている第二の理由があります。
 パウロは、「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者にとっては神の力です」(コリント一1:18)と語っています。人間にはイエスさまの生き方は愚かに見えるというのです。
 イエスさまは埃にまみれ、足をすり減らして町や村を残らず回って、会堂で教え、み国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされました。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた」(マタイ9:35)のです。「憐れむ」という言葉は「はらわたが引き裂かれる思い」「断腸の思い」という意味であることは以前申し上げました。そのような切実な思いを持って、すべての人々に仕えて下さったのです。文字通り迷える羊に寄り添い、罪人を見捨てず、仕える道を歩み通されたのです。しかし、最後は十字架につけられ死んでしまわれたのです。神さまの独り子が無残にも十字架で死んでいったという出来事はまさに愚かさと弱みの極みであったと言えるでしょう。パウロが言うように十字架の言葉は愚かに見えます。
 聖金曜日を「信仰の暗闇の時」と呼んだ人がいます。天の軍勢の助けもなく、人々の嘲りの声の中で息を引き取られたイエスさまを見つめる弟子たちの心は全くの暗闇であったでしょう。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と十字架上で祈るイエスさまの姿を見る時、人々には神さまが見えない、神さまの働きが感じられなかったでしょう。そのようなつらい経験は私たちの人生にも起こり得ることです。神さまは不在なのではないか、と肩を落とすような経験です。聖金曜日に、弟子たちは、そこに天の国の断片も見出すことが出来ませんでした。天の国は全く見えませんでした。

 ところが、このイエスさまが三日目に復活されたのです。この時、隠された宝がはっきり見えて来たのです。イエスさまが息を引き取る最後の言葉が「成し遂げられた」というものであったことをヨハネ福音書は伝えてくれています。イエスさまの十字架は神さまのひとり子の無残な死で終わるのではなく、神さまの救いのみ業が成し遂げられた瞬間であったというのです。復活のイエスさまは、愚かさと、弱さの極みにある人々の重荷を負い、十字架の苦しみと死を経験された方です。そして今、罪と死に対する勝利者として復活されたのです。
 言い換えれば、罪と死に怯える私たちすべてに最後まで寄り添って下さったのです。イエスさまの復活と共に私たちも罪赦され、復活の命に与る者とされたのです。
 ここに今日の第二の日課としてローマ8章31節以下が選ばれた理由があります。「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。その御子をさえ惜しまれずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを賜らないはずがありましょうか。・・・私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力ある者も、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。」雄大な勝利の賛歌です。
 私たちが「神は死んだ。罪と死が勝利者だ」と叫んで絶望の暗闇に沈んでいる時にも、イエスさまは、その私たちの苦しみと共に苦しんで下さっていたのです。そして、救いの業を成し遂げて下さったのです。これこそ隠されていた宝なのです。これを信じる時、私たちも、今日のたとえの人にように、喜びのうちに持ち物すべてを売り払ってでもこの宝を手に入れようとするでしょう。「喜びながら帰り」という心は良く分かります。
 47節以下の世の終わりの出来事も福音として理解できます。「毒麦を今は抜くな」とおっしゃったイエスさまは、「時はある。悔い改めよ」と呼びかけて下さっているのです。終わりの日まで待っていて下さる方なのです。
 復活のイエスさまに与る者として、悔い改め、新しい命に生きる者として、パウロの賛歌を共に歌いながら日々を歩みたいと思います。アーメン。
2011/08/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「剣を打ち直して、鋤とし」(ミカ4:1-5)
ヨハネによる福音書15:9-12、ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18、2011・08・07、平和の主日(典礼色―赤―聖餐式)

ミカ書4:1-5
 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 もろもろの民は大河のようにそこに向かい
 多くの国々が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
 主は多くの民の争いを裁き
 はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。

 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
 いちじくの木の下に座り
 脅かすものは何もないと
 万軍の主の口が語られた。
 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
 我々は、とこしえに
 我らの神、主の御名によって歩む。



説教「剣を打ち直して鋤とし」(ミカ4:1-5)
先日、8月の1、2、3日と三日間にわたって、浜松市の浜名湖、湖岸にあります「かんざんじ荘」というホテルで、イエスの友会の第86回、夏期聖修会に出席してきました。イエスの友会というのは、賀川豊彦牧師を中心にその働きを支えた牧師や信徒から成る集団でありますが、高齢化が進み、40名弱ほどの出席者でありました。「敬虔、労働、純潔、奉仕、平和」という5綱領を掲げる集まりであります。昨年が賀川の献身100年ということで、それを記念していろいろな行事が行われたようであります。
今年の聖修会には、伴武澄という共同通信社に勤めた新聞記者が、講師として招かれました。二日にわたって講演されたのですが、二日目の講演は、いみじくも、「世界連邦はあり得るのか」と題したものでありました。結論的に振り返りますと、ヨーロッパのEUのような政治経済体制がアジアなどにも広がれば、あり得るというものであったと思います。
 さて、本日は、JELCでは、平和の主日であります。本日は、いつもと違って、第一の朗読、旧約聖書のミカ書4:1-5から、み言葉を聞きたいと思います。皆さん、本日の第一の朗読を聞きまして、有名なみ言葉が耳に残っていることだと思います。すなわち、「彼らは剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって、剣を上げず、彼らは、もはや戦うことを学ばない」というものであります。これは、イザヤ書の2章にも共通した表現があり、ニューヨークの国連本部の建物に、このみ言葉が記されているとのことであります。しかし、依然として世界には、今も紛争、戦争があり続け、歴史的にみても世界に戦争がなかった時代というのはないほどであります。
 ミカ書が書かれた時代、あるいは、先ほどのイザヤ書の書かれた時代も、中近東は、アッシリア帝国からバビロン帝国、そして、ペルシャ帝国と戦争に翻弄された時代でありました。そういう中にあって、本日のミカ書4:1-5が与えられているのであります。イザヤ書と比べると、ミカ書のこの記事がまとめられた時代は、より後の時代のようでありまして、イザヤ書よりも進化した文章構成になっているようであります。もう一度、ミカ書の記事を思い起こしてみましょう。
 「終わりの日に、もろもろの峰よりも、主の家の山は、高く上げられ、諸国民が大河の流れのように、この山へと流れてくる」というのであります。終わりの日に約束されていることなのであります。もろもろの国民が、まわりの峰々、たとえば、ガリラヤ湖からずっと北のヘルモン山よりも、高く上げられるシオンの山、エルサレムの山に向かって、そしてその主の家に向かって流れ来たるというのであります。そして、諸国民は、「彼、ヤコブの神、主から私たちは教えを教わり、主の道、旅路において、歩もう」「なぜならば、シオンから教えは出てくる、そして、主のみ言葉はエルサレムから出て来るからである」というのであります。
 イスラエルが戦いに明け暮れ、敗北し、政治が混迷し、宗教も堕落していたときに、3章の直後に、本日のみ言葉が、与えられるのであります。そして、「彼らは、剣を打ち延ばして、鋤、あるいは鋤の刃とし、槍も同様にして、刈り取り鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや、戦闘することを学ばない。」そして、「人はおのおの、自分の所有する土地、畑のぶどうの木、あるいはいちじくの木の下に座り、恐れることなく」、労働を楽しみ、労働に勤しむというのであります。そして、なぜならば、万軍の主の口がそう告げるからであると。
 また、少し、遡りますが、彼、主は、はるか遠くの強力な国民あるいは国家をもその法廷で評決するというのであります。小国であったイスラエルの主の家、シオン、エルサレムの山に、終わりの日に、その評決を受けるために、すべての国民が流れ来るのであります。
 そして、最後に、「なぜならば、すべての民、国民は、彼らの神の名において歩く。しかし、私たちは、私たちの神、主の名において、とこしえからとこしえまで、歩む」と結ばれているのであります。
 8月6日は、広島に、原子爆弾が投下され、8月9日には、長崎に、同様に原子爆弾が投下されました。さらに、今年は3月11日の東日本大震災と福島の原子力第1発電所の原子炉が津波によって水素爆発し、平和について考えるのにふさわしい時を迎えています。
 ミカ書の記者は、終わりの4:5節で、なぜならば、すべての民は、おのおの彼らの神の名において歩むと言っています。世界のすべての民に、イスラエルの神の名において歩むことを、前提にはしていません。他の民に改宗を強制したり、改宗すべきだと言っているわけでもありません。
 私たちも、キリスト教をすべての人に強制することは願うべきことでもありません。主イエスも、サマリアの女とのスケルの井戸での出会いで、この山、すなわちゲリジム山でも、エルサレムにおいてでもなく、霊と真理において礼拝すべきときが来ていると言われました。
 小さな弱小国であったイスラエルの預言者が、あるいは、その編集者が、本日のミカ書4:1-5を綴っているのであります。「国は国に向かって剣を上げず、人々はもはや戦うことは学ばない」とミカは言いますが、世界平和は、いまだに実現していません。それは、ミカが最初に記しているように、終わりの日、終末の時の出来事であるのかもしれません。しかし、私たちは、世界平和の日が一日も早く成りますようにと願い、努力することが、本日のみ言葉によって、求められているのであります。
 「世界連邦はあり得るのか」と講演してくださった伴武澄氏は、昔の世界は、今のように国境が定かではなかったと言います。日本は島国ですから、国境が比較的はっきりしていますが、世界は、民族が入り混じり、世界平和はなかなか実現できなかったというようなことを言っておられましたが、世界は狭くなり、もはや一国一国の国益だけで争い合う時代ではなくなってきているでありましょう。
 そして、私たちは、本日のミカ書の言葉を、まずは、身近なところから、家庭から実践していくべきでありましょう。家庭において団欒のときが、現代日本では失われてきていると言われます。身近なところでの憎しみや偏見をなくしていくこと、違いを認め合うこと、等が、やがては、世界平和へとつながっていくのではないでしょうか。
 この夏、お盆を中心に出会います家族や知人、友人たちとの間で、お互いに愛し合うことから、私たちは、小さいながらも世界平和への架け橋として歩んでいきたいものであります。
祈ります。
愛しまつる父なる神さま。
今年も、特に平和を覚える8月を迎えています。どうか、私たちが、家庭で、職場で、あるいは、教会で、互いに愛し合うことを実現させてください。人と人との憎しみが募って戦争へと拡大していきます。世界の指導者たち、政治家や、経済界の人々が、世界平和のために尽力できますように、あなたが、先頭に立ってお導きください。
私たちが、日常の中で出会いますすべての人と、できるものなら、平和に過ごせますように。たとえ右の頬を打たれても、左の頬をも向けることができますように。あなたが、私たちの罪を赦してくださったように、私たちも兄弟の私たちに対する罪を赦し得ますように。そのために、み言葉から離れることなく、常にみ言葉によって、養われていくように、私たちを憐れんでください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたを守るように。
 
2011/08/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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