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津田沼教会 牧師のメッセージ
「信仰において譲らず、愛において譲る」(ガラテヤ2:1~8)賀来周一牧師
説教「信仰において譲らず、愛において譲る」
(ガラテヤの信徒への手紙2:1-8)
賀来周一牧師
 
 大切な主日の講壇をお預かりし、ご一緒にみ言葉の分かち合いができることを心から感謝申し上げます。この日に当たり、説教の題を「信仰において譲らず、愛において譲る」としました。この言葉は宗教改革者ルターの著作「ガラテヤ書大講解」に出て来る言葉です。
 最近、東日本大震災を契機に宗教間協力が求められる風潮が生まれて来ました。仙台、あるいは東京の斎場で、神職と僧侶と牧師が呼ばれて、荼毘に付すに際し、祝詞をあげる、読経をする、祈りをささげるなどのことが行われているのです。
 私の所属するキリスト教カウンセリングセンターでも仙台キリスト教連合会と仙台仏教連合会から、斎場に詰めることや電話での相談を受けることを求められています。
 こうした風潮をめぐって、宗教間協力はいいことだという人もあれば、中に自分はキリスト教徒だから、他の宗教の人とは協力できないという人もいます。
私は牧師ですから、牧会面でそうした他宗教にかかわる慣習儀礼を巡って、さまざまな問題に遭遇してきました。卑近な例から申し上げますと、仏式の葬儀に出て焼香してよいか、悪いかと訊かれることはよくあります。自分はクリス チャンだが、先祖代々の墓はお寺さんにあるから、お寺さんの墓に入ってもいいのでしょうかという話もあります。自分はクリスチャン、でも相手はノンクリスチャン、だから結婚式は神式でしてもかまわないでしょうかということもあります。
 ある因習の強い地方に住んでおられた方があり、その方が洗礼を受けるにあたって、私に相談をされたことがありました。「自分の住んでいるところは、地縁血縁が非常に濃く、しかも神仏に関わる慣習とか儀礼がひんぱんに行われている。自分の家は村でもよく知られた家柄なので、そういう集まりに参加せざるをえないし、自分が主宰をしなければならないことも多々ある。こういう場合に、自分の信仰の筋を通し、かつ地域社会と上手に折り合いを付けるための信仰的決着の仕方はどうあればよいか」と聞かれたのです。
 そのとき、私が申し上げたのが、今日の言葉で「信仰において譲らず、愛において譲るという言葉がある。自分の信じる信仰生活とは相入れない慣習儀礼の中にあっても、そこにいる人たちは、聖書的に見ればあなたの隣人にちがいない。『隣人は愛するに最もふさわしい存在である』とルターは言う。また彼は『愛は時にはまったく平凡で、時にはまったく異常である』とも言う。言い換えれば、愛とは隣人である相手と置かれた状況によってその形が変わるという意味である。あなたが異なる宗教に基づく慣習儀礼の歯に参加することがあっても、そこにいる人たちはあなたの隣人にちがいない。愛するにふさわしい人たちがそこにいることをまず考えていただきたい」と申しました。
 加えてまた「神仏の行事に参加するとあなたの信仰はだめになるのですか。神仏の行事に参加してだめになるような信仰ならやめたらどうですか」と言ったのです。「いや、そんなことはありません」。「じゃ、洗礼を受けたらどうですか」と申し上げました。その方は「ウーン」とうなっていましたが、結局洗礼を受けて、今も熱心な信仰生活を送っておいです。
 「信仰において譲らず、愛において譲る」という言葉は、ガラテヤの信徒への手紙の第2章1節以下をルターが講解するにあたって、言っている言葉なのです。
  ガラテヤとは現在のトルコの中央部を指しますが、パウロは第二回伝道旅行のときに教会を形成致しました。この地域に住んでいる人たちは、ユダヤ人から見れば異邦人です。したがってガラテヤの信徒たちは多く異邦人でした。このガラテヤの教会にエルサレムからユダヤ的な民族主義に凝り固まった人たちがやってきて、異邦人といえども救われるためにはユダヤ人と同じようにならなければいけない。そのためには、律法に書いてあるように割礼を受けなければならないと主張したのです。ガラテヤの教会の人たちの中には、それを聞いてユダヤ人と同じように割礼を受ける人たちも出て来たのです。そうなると。 割礼をめぐる混乱が生じることになります。そこで、パウロが書いたのがガラテヤの信徒への手紙なのです。
 パウロという人は直系の使徒ではありません、このことはパウロにとっては少々難儀なことでもありましたが、ある意味ではユダヤ的な律法に縛られない自由な信仰のありかたを彼に与える土台でもありました。とくにパウロの信仰に基づく自由な考え方は異邦人伝道にあたって、しばしば問題となった割礼問題に発揮されるに至りました。その自由さは「割礼の有無は問題ではなく、大切なことは新しく創造されることです」(ガラ6章15節)という彼の主張によく表れています。
 割礼は、ユダヤ人にとっては、神との契約を表わす重要な儀式で、ユダヤ人たちにとっては洗礼とでも言うべき意味合いのものでした。したがって、ユダヤ人たちにとって極めて重要なものでしたから、律法に忠実なユダヤ人は異邦人も同じように割礼を受けるべきだと強く主張したのです。しかし、パウロはそれに囚われることなく福音に基づく信仰は自由であると主張したのです。
 彼は自己の信じる信仰にしたがって弟子のテトスには、割礼は受けなくてもいいと言って割礼を受けさせませんでした。テトスはギリシャ人だったからです。ところがテモテには、割礼を受けさせています。テモテの父親はギリシャ人ですが、母親はユダヤ人だったからです。割礼受けようが受けまいが、救いには関係ないのだというパウロの基本的な考え方をよく表す例がここにあります。この自由な考え方をガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロは主張しているのです。
 キリスト者の倫理は愛と自由だと言われます。自由というのは、自分に対して自由、他者に対しては愛、これはキリスト者の生き方の規範ですが、これをもっともよく教えるのがガラテヤの信徒への手紙なのです。
 ルターは、パウロのそのような信仰のあり方をガラテヤの信徒への手紙の中に見て、ガラテヤ書大講解(1535年)を書いたのです。
  ルターは、この箇所を解釈し、「愛はどんな小さな事であっても譲歩する」と言い、愛や信仰を擬人化し、「愛は『私はすべてを忍び、すべてのものに譲歩します』と言う。しかし、信仰は『私はだれにも譲歩しません。すべての者、地上の人たち、国民、王、君候、裁判官が私に譲歩するのです』と言う。」と書いています。
 これを更に彼は強く言います。「キリスト者は信仰に関する限り、最も誇り高く最もかたくなで髪の毛一本たりとも譲らない。」これが信仰者だというのです。その上「人は信仰によって神となる」とまで言い切ります。彼はこれをペトロの第二の手紙の1章4節「神の本性にあずかる」から引いていて「神は不変不動であって変わらない。何事も譲らず誰にも譲ることがない。愛によってキリスト者はすべてを譲り、すべてを与える。その点ではキリスト者は人だからである。」と言います。信仰によって神となるとまで言い切っていながら、愛においてはそうではないのです。愛において信仰者は人なのです。人である限り隣人に対しては愛によってすべてを譲り、すべてを耐える。そういう生き方をするのだと言っているのです。このことが「信仰において譲らず、愛において譲る」という言葉に表れているのです。
 我が国のような非キリスト教圏では、異なる宗教の慣例習俗が地域社会の中に根強く入り込んでいます。信仰者として生きるためには、信仰において譲らず愛において譲る生き方はとても大切であると私は思っているのです。
 二人の方の話をしたいと思います。ある大きな半官半民の機関で関東地方の局長がおいででした。この方は大変熱心なクリスチャンでした。その方の事業所では工事用の車両が多数あって、正月になると神式で交通安全祈願祭行うのが恒例になっていました。ご本人はクリスチャンなので違和感を感じられたのでしょう。赴任後しばらくはその集まりに参列されなかったようです。すると部下たちから局長が出ないと示しがつかないので出て下さいと要請があったとのことで、私のところに相談にこられました。「こういう場合どうしたらよいか」と言われるので「出席されたらどうですか」と申しました。「出席して、神主さんのお祓いを受けられて、 聖書の話などなさったらどうですか」。「それはいいですな」と言われまして、その次の年から神主さんのお祓いを受けて、聖書の話をなさったようです。すると運転手さんたちが今まで聞いたことがないと言って喜んだそうです。隣人を愛するという気持ちがそこに広がっていくときには、愛はこれまでのかたちとはちがったあり方を教えます。でも信仰において譲らない、だから聖書の話を出て来るのです。
 もう一人の方のことをお話ししたいと思います。元海軍中将の方であります。終戦後まもない頃、たまたまその方も住まいの裏に宣教師が越して来ました。この宣教師の熱心な伝道の結果、洗礼を受けるに至られました。この方は一族の本家筋に属しておいででしたから、受洗に際し、家族、親類縁者に巻紙に筆で認めた回状を出されたのです。そこには自分が何故洗礼を受けるに至ったかが丁寧に認めてありました。かつ家族を大事に思い、親族を大事に思う気持がそこに溢れていました。その上で家にあった仏壇と神棚を庭で燃して洗礼を受けられたのです。この一族からはクリスチャンがたくさん出ました。牧師もその家族の中から生まれました。
 この二人の方の生き方はまったく正反対のようです。一方の方は神主さんからお祓いを受け、その上で運転手さんたちに聖書の話をされた。もう一人の方は仏壇や神棚を燃された。でも回状を親族一統に回して、温かい気持ちのこもった手紙を書かれた。行為においてはまったく正反対のようですが、よく考えれば「信仰において譲らず、愛において譲る」、その思いのこもったあり方としては共通のものがあります。
 私たちクリスチャンは、日本の社会の中で信仰生活を送ろうとすると目に見えない壁を感じることがあります。日常生活を送る上で、時には自分が偏狭な潔癖主義に思えたり、時にはいいかげんな妥協主義者のように感じたりたりすることもありましょう。とくに異なる宗教地盤に基づく慣習儀礼を持つ地域社会との円滑な関わりを持つためには、自己の信じる信仰を譲ることなく、地域社会の隣人を愛することが重要なあり方となりましょう。それがなければ地域社会に対する証が成立しません。引いては、日本という社会での宣教の証となりません。そのことを考えるとき、「信仰において譲らず、愛において譲る」というルターの言葉にはこれからの日本という社会における宣教のための重要な関わり方を含んでいると思わざるを得ません。
 父なる神さま。私どもが生きている、この社会において、キリスト者としてどのように生きるか、いかに証しを立てるかをみ言葉を通して、あなたは私どもに示してくださいました。どうか、この世に対する証し人としての豊かな生き方ができますように導いてください。主のみ名によってお祈りいたします。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
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2011/07/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)