津田沼教会 牧師のメッセージ
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「憐れみを望む神」(マタイ9:9-13)
マタイ9:9-13、ホセア書5:15-6:6、ローマの信徒への手紙5:6-11、2011・06・26、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―)

マタイによる福音書9:9-13
 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人たちも大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」






説教「憐れみを望む神」(マタイ9:9-13)

 本日から、聖壇やストールの色も、緑色となり、主イエスのお言葉と、み業が、教会暦の後半の時期として、今年は、マタイによる福音書を主たる福音として、与えられていきます。
偶然でしょうが、聖霊降臨後第2主日の福音は、マタイという徴税人を主イエスが弟子にするという出来事と主イエスのお言葉が選ばれています。マタイが、どういう弟子となったかは定かではありませんが、他の福音書が、レビと呼んでいるところを、マタイ福音書記者はマタイという人とわざわざ書き加えています。
徴税人として、マタイは、家計的には、豊かな人であったでしょう。しかし、徴税人は、不正直な場合もよくあり、あるいは、異邦人たちと接触し、特に律法の規則を守れない者として、ことにファリサイ派からは、疎んじられていたのであります。
主イエスは、ある場所、カファルナウムの町を出て、集税所がある町の郊外へと立ち去られる時に、このマタイを目にとめ、私に従って来なさいと呼びかけられるのであります。 
すると、集税所に座って仕事をしていたであろうマタイは、彼について行くのであります。すなわち、弟子として選ばれたのであります。
そして、第2場面で、起こったことには、「その家で」、多分マタイの家で、主イエスは食事のために身を横たえていたのであります。そして、大勢の徴税人や罪人たち、アム・ハー・アレツ、すなわち「地の民」として、さげすまれていた者たちも、主イエスや弟子たちと共に、身を横たえていたのであります。
これを見た、ファリサイ派たちは、主の弟子たちに、あなた方の先生はなぜ、罪人たちと共に親しい食卓の交わりをするのかといぶかったのであります。
これを耳にした、主イエスは言われます。力を持っている者たちには医者はいらない、そうではなくて、悪く持っている者、病人たちが、医者を必要とするのであると答えられました。罪人と呼ばれていた人々は病人であると主イエスによって指摘されるのであります。
そして、主は言われます。あなた方は出て行って、次の聖書の言葉を学びなさい。すなわち、「私が望むのは、憐れみ、あるいは、愛であって、いけにえではない」とあることをと。そして、私が来たのは、正しい者たちを呼ぶためではなく、罪人たちを呼ぶためである、と答えられたのであります。
ファリサイ派たちは、自分たちの作った多くの規則を守られないでいるマタイのような徴税人や罪人たちを、さげすみ、非難していました。神は、いけにえよりも、慈しみ、慈悲を望むと、ホセア書6:6にあります。それを体現して知らすために、主イエスはお出でになられたのであります。
マタイは、主イエスに弟子となるべく呼ばれ、招かれたことを終生忘れることはなかったでありましょう。
浄土真宗の祖、親鸞聖人のなくなった後、異説を唱える者たちが、少なくないのを嘆いて、唯円が書いた書物に嘆異抄があります。その中の有名な言葉に「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉があります。
どんな悪人も、どんな悪行をも悔い改めて、念仏、南無阿弥陀仏を唱えれば、浄土に生まれることができるというのであります。
主イエスも、いけにえをささげるよりも、神の望まれるのは、憐れみ、愛であると、と引用され、正しい人を招くのが、自分の使命ではなく、罪人を招くためにこそ、自分は来たのであると、権威をもって答えられました。
私たちは、才能や知恵のあるなしに関わらず、信じて主イエスについて行く者は、全て永遠の命へと招かれており、そしてまた、私たちは彼の弟子となるように呼びかけられた者であります。
1週間の間にも色々なことが起こり、私たちは言葉と思いと行いによって罪を犯しますが主によって罪赦されていることを、思い起こし、感謝しながら、新しい1週間への歩みをこの時から、始めて行きましょう。

 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりするすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
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2011/06/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「祝福された群れ」(マタイ28:16-20)内海望牧師
マタイ28:16-20、イザヤ書6:1-8、コリントの信徒への手紙二13:11-13、2011・06・19、三位一体主日(典礼色―白―)

マタイによる福音書28:16-20
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」




説教「祝福された群れ」(マタイ28:16-20)内海望牧師

 今朝は、先ず第一の朗読であるイザヤ書6章1節以下を考えたいと思います。
 ここには、イザヤが神さまの前に立った時の様子が描かれています。恐るべき光景です。神殿のみ座に神さまが座し、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」と天使が呼び交わし、唱えた時、イザヤは、荘厳な聖なるものに触れた恐ろしさのあまり、思わず「災いだ。私は滅ぼされる」と叫びました。文語文では「禍なるかな、我ほろびなん」と訳されています。文語文の方が一層イザヤの緊張感を深く感じさせるように思います。一度覚えたら忘れられない言葉です。まさに地の基いが揺り動かされるような衝撃でした。イザヤは神さまの尊厳の前に立ち尽くしたのです。
 私たちは、人情としてどうしても優しい神さまを求めますが、聖なる神さまの前に立つということは恐ろしいことなのです。シナイ山で十戒を受け取る時、モーセは神さまの後ろ姿しか見ることを許されませんでした。神さまが「あなたはわたしの顔を見ることは出来ない。人はわたしを見て、なお生きていることは出来ないからである」と言われたからです(出エジプト33:20)。私たちが洗礼を受けるときに学ぶルターの小教理問答書の一番最初に、「われわれは、何ものにもまして、神を畏れ、愛し、信頼すべきです」と記しています。それほど圧倒的な迫力を持って聖なる神さまは私たちの前に立たれるのです。
 イザヤは「私は汚れた唇の者だ。しかも、私の目は主なる万軍の主を仰ぎ見た」と続けます。神さまの前に立つということは、自分が罪人であることを自覚する時なのです。どんな言い訳も許されない所に立つということです。このようなことは出来れば避けたいと思うのが人情でしょう。私たち人間は誰でも、「出来るなら、隠しておきたい、あるいは、隠れていたい」という気持ちを心の奥底に持って生きています。私たち人間は、お互いそのことを知っているので、お互いを疑心暗鬼の目で見ているのです。互いに疑い、恐れているのです。隠しているものが明るみに出ることが怖いのです。ですから、神さまの前に出ることがいやなのです。
 しかし、神さまはただ怒りにまかせて人間を苦しめる方ではありません。聖なるものは、人間の心に恐れと同時に、もっと深い畏怖の念を起こさせるものなのです。この神さまの尊厳を前にしての畏怖の念が、イザヤをして「私は汚れた唇の者」という告白をさせ、潔白になりたいという思いを抱かせているのです。悔い改めさせる力となるのです。この聖なるものに触れるときの畏怖の念、心震えるような感覚を取り戻したいと思います。これは人間にとって大切な、失ってはいけない感覚です。
 イザヤには勇気がありました。イザヤは、神さまの目をうかがいながら、隠れて、おどおどと生きるよりは、敢然と神さまの前に立つことを選びました。
 ところが、打ちのめされたその瞬間、「セラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た」のをイザヤは見るのです。「飛び降りて来た」と訳している人もあります。「大急ぎで」という気持ちが表わされています。セラフィムは祭壇から火鋏で取った炭火を持ち、その火をイザヤの口に触れさせたのです。これによって、イザヤの罪を焼き尽くしたのです。それにしても、燃える炭火を唇に。思わず息をのむような場面です。しかし、私たちの罪はなまじっかなことでは消え去るものではありません。燃える炭火で焼きつくす他はないのです。しかし、この事実によって神さまのみ心が明らかになります。神さまは人間を裁き、追い詰めることを目的とされるのではなく、新しい命を与えることに、目的はあったのです。
 罪赦されたイザヤは、神さまの言葉を伝える預言者となりました。自ら志願したのですが、神さまに用いられる喜びでいっぱいだったでしょう。しかし、これは、困難な仕事でした。何故なら、神さまの言葉を伝えることは人間を聖なる神さまの前に立たせることだからです。それは決して、聞く者の耳に心地よいものではありません。真実を語ることは、必ず反感を呼び起こすのです。そこで、安易な赦しを語る偽預者が現れるのです。預言者エレミヤは偽預言者に最も苦しめられた人物でした。エレミヤの嘆きの言葉があります。「偽預言者は、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う。」(エレミヤ6:14)
 本当は深くメスを入れ、切開手術をしなければならないのに、絆創膏を貼ってごまかすようなものです。耳に心地よい言葉を人々に語ります。人々がそのような預言者の方へひかれて行くのは当然の結果でした。
 聖なるものに触れたイザヤは、決してそのようなごまかしをしません。どんなに人々の耳に痛くても罪人の真実の姿を語り続けました。現代社会に必要なのは、このような預言者ではないでしょうか。
 しかし、誰もイザヤの言葉に耳を傾けなかったようです。イザヤは失意のうちに生涯を終わったと伝えられます。エレミヤもそうでした。「私は孤独です」と神さまに訴え続けたエレミヤですが、神さまの真実と民の反抗の板挟みに落ち込んで失意のうちの生涯を終わりました。これはまた、預言者の限界だということも言えるでしょう。
 さて、ここで、今日の福音に目を向けて見ましょう。復活されたイエスさまは地上での最後の言葉を弟子たちにお与えになりました。ところが、ここに至ってもなお弟子たちの中には疑う者もいたのです。預言者の時代と少しも変わりません。不信仰な弟子たちを前にして、イエスさまの心は預言者イザヤやエレミヤ以上に苦しかったと思います。しかし、そのような弟子たちの不信仰を乗り越えて、イエスさまは「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という愛の約束を与えて下さっているのです。
 イエスさまは、私たち人間が支払うべき罪の報酬を、ご自分の十字架の苦しみと死によって支払い、罪と死の力に対して勝利をおさめた方です。だからこそ、弟子たちの罪を赦し、愛の約束を与えて下さっているのです。イザヤもエレミヤも神さまと人間の間に立って苦しみました。しかし、民は預言者に耳を傾けることをしなかったのです。このままでは民には滅びしかありません。そこで、神さまは、非常手段として、ひとり子イエス・キリストをこの地にお遣わしになり、その十字架の血によりわたしたちの罪を贖って下さったのです。それほど神さまは人間を愛してくださっているのです。イエスさまの十字架の苦しみに比べたら、イザヤの唇に触れた炭火も小さい出来事に思われます。何にも比較できないほどの大きな犠牲を払って、イエスさまは私たちに赦しを与えて下さったのです。それだけに留まりません。イエスさまは弟子たちを用いようとしていらっしゃるのです。君たちが必要なのだと半信半疑の弟子たちに呼びかけて下さっているのです。
 私たちは、先週、聖霊降臨(ペンテコステ)の喜びに与りました。最後の最後まで、疑い続けた弟子たちですが、彼らに聖霊が注がれた時はじめて、本当の悔い改めと復活を経験したのです。イエスさまを捨てて逃げた罪の重さをかみしめていたのが弟子たちでした。立ち上がる気力を失ってひたすら赦しを求めて祈っていた弟子たち。しかし、その罪人をなおも赦し、新しい命に生きるようにと聖霊の命を与えて下さったイエスさまを通して与えられた神さまの愛が、弟子たちに真実の悔い改めと、新しく生きる喜びと勇気、希望を与えたのです。
 主を裏切り、罪人の群れとなってしまっていた弟子たちの集団でしたが、聖霊の力によって祝福された群れとして再び立ち上がったのです。これが教会です。ルターが「何ものにもまして、神を畏れる」と言うだけでなく、更に言葉を継いで「愛し、信頼すべきです」と語る通りです。聖霊の力は、私たちに、主イエス・キリストにおける神さまの愛を経験させてくれるのです。
 真実をもって、神さまの前に立った人は、一度は打ち砕かれますが、同時に、キリストの愛による復活を経験することができるのです。私たち津田沼教会の群れも、あの弟子たちと変わらない不信仰な罪人の群れであり、一度は打ち砕かれなければならない群れですが、同時にイエス・キリストの十字架の贖いによって祝福された群れとされたのです。これほどの喜びがあるでしょうか。ルターは洗礼の水と共に古い自分、罪人が溺れ死ぬと書きました。洗礼は「与えられた恵み」なのです。
 ここで、イザヤ書6章と、ヨハネ黙示録を比べてみます。イザヤ書では天使だけが歌います。イザヤは立ちつくしています。しかし、黙示録では、私たちをその血によって贖ってくださった小羊であるイエスさまに導かれつつ、教会の群れは天使の合唱に合わせて賛美の歌を歌いながら神さまの祝宴をめざして歩んでいます。そして、私たちもまた、この歌いつつ歩む巡礼の列に加えられているのです。このように「父と、子と、聖霊」が一つの力となって、私たちを生かし、支え、導いて下さるのです。まさに、三位一体です。
 今日の第二の朗読は祝福の言葉です。今、私たちに祝福が与えられているのです。イエスさまの十字架の愛に示された神さまの愛を喜びつつ、与えられた新しい道筋を感謝の内に歩み続けましょう。アーメン。
2011/06/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の力を受けて」(使徒言行録2:1~21)
ヨハネ7:37-39、ヨエル書3:1-5、使徒言行録2:1-21、2011・06・12、聖霊降臨祭(典礼色―赤―聖餐式)

使徒言行録2:1-21
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 『神は言われる。
  終わりの時に、
  わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
  若者は幻を見、老人は夢を見る。
  わたしの僕やはしためにも、
  そのときには、わたしの霊を注ぐ。
  すると、彼らは預言する。
  上では、天に不思議な業を、
  下では、地に徴を示そう。
  血と火と立ちこめる煙が、それだ。
  主の偉大な輝かしい日が来る前に、
  太陽は暗くなり、
  月は血のように赤くなる。
  主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」




説教「神の力を受けて」(使徒言行録2:1-21)

本日は、聖霊降臨祭、ペンテコステの日曜日であります。私たちは、今年は4月24日(日)に復活祭を祝い、先週は、昇天主日を祝いました。そして、本日は、復活日から、50日め、すなわち、ペンテコステの日曜日を祝っています。
本日は、福音書からではなく、使徒言行録2:1-21から、学びたいと思います。また、本日は、昨年からのことでありますが、召天者記念礼拝としても、礼拝を守っています。 
私たちの教会の先に召された先達のお一人お一人のことを覚えると共に、東日本大震災で、亡くなられた方たち、また、その遺族の方々のことも覚えながら、聖霊降臨の日のことをご一緒に考えましょう。今日の使徒言行録の記事は、毎年、聖霊降臨祭に読まれるお馴染みの出来事であります。
五旬祭の日が成ったときに、弟子たちは、一同で、同じ場所に共にいました。この家に、使徒たちと、主の母マリアたちがいたのか、あるいは、もっと多くの120人ほどが集まっていたのか定かではありませんが、その家全体に、激しい風が吹いて来て、大きな音をたて、五旬祭のために、当時の地中海を中心とする世界のあらゆる国々から、三大祭りのためにエルサレムに滞在していた信心深いユダヤ人たちやユダヤ教に改宗した人々がいましたが、その物音に、驚いて、集まって来たのであります。
そして、天から、炎のような舌の形をしたものが、弟子たちの一人一人の頭の上の方にくだっていたのであります。風、炎、舌のようなくだってきたものは、聖霊を表わしています。
創世記の初めに、主なる神は、天と地とをお造りになったことが出て来ますが、その神は、塵から、自分の形に似せて人を造り、その鼻に息を吹き込むと、それは生きた人間になったと記されていますが、息というのは、風をも意味し、霊をも意味する言葉であります。それと同じように、本日、父なる神と子なる主イエスは、天から聖霊をくだらせて、弟子たちを新しい人間に造り変えたのであります。
そして、彼らは、無学なガリラヤ人たちでありましたが、世界中からエルサレムに滞在していたユダヤ人たちに、その生まれ故郷の言葉で、神の大いなる業を預言していたのであります。そして、この日から、教会が誕生したのであります。民衆の大勢は、驚き、主イエスの弟子たちが、神のみ業を語っているのに、困惑し、これはどうしたことだ、彼らが、私たちの自分たちの国の言語で、はっきりと預言するとはと驚いていたのであります。 
しかし、別の者たちは、彼らは、新しい甘いぶどう酒に酔っ払っているのにすぎないと嘲笑っている者もいました。私たちの時代においても、聖書をときあかすとき、信じる者と、嘲笑う者とに分かれるのであります。そのとき、あの主イエスが捕らえられたときに、その人のことは私は知らないと否定して、逃げまどったペトロが、11人と共に立ち上がって言うのであります。
私の語る言葉に耳を傾けてください。今は朝の9時ですから、彼らは酔っ払っているのではありません。今や、預言者ヨエルが預言した言葉が、ヨエル書3:1-5の言葉が実現したのですと、物おじしないで、はっきりと、ペトロは引用して語るのです。神は語られる。終わりの日々に、私は、私の霊から、すべての人に霊を、すなわち、聖霊を注ぐ。すると、あなた方の息子や娘は預言し、若者は、幻を見、老人は夢を見、あなたがたの男奴隷も女奴隷も、預言する。そのとき上には天に異変が起こり、太陽は闇となり、月は血のように赤くなる。下では、地上に、異変があり、血と火と煙の蒸気などの徴を、私は与えよう。かの偉大な、輝かしい主の日が来る前にと。そして、主の名を叫ぶすべての人は救われるであろう、とペトロはヨエル書の預言が実現したことを、大胆に、説教するのであります。
私たちは、本日、教会が生まれた日のことを覚えていますが、この教会につながる先に召されたお一人お一人のことを覚え、また、大震災で亡くなられた人々のことも覚えながら、本日のペトロのように、大胆に主の日、終末の時がはじまったことを、宣べ伝えながら、神の力を受けて、与えられている命を、主の救いを宣べ伝えつつ、新しい日々を歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。




2011/06/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「御独り子の執り成し」(ルカ24:44-53)
ルカ24:44-53、2011・06・05、昇天主日(典礼色―白―聖餐式)使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙1:15-23、

ルカによる福音書24:44-53
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



  説教「御独り子の執り成し」(ルカ24:44-53)
 
昇天主日を迎えました。昇天にふさわしい記事として、ルカ24:44-53が与えられています。本日は、復活後第6主日にも当たりますが、やはり、復活された主の昇天という出来事を、共に考えることが大事であるように思いまして、昇天主日の日課を、そして、その福音を選ばせていただきました。同じこの日の第1朗読では、使徒言行録の1:1-11が与えられていまして、そこでは、復活の主は、弟子たちと共に40日間、地上におられて、神の国について話されたとなっていますが、ルカ福音書は、復活の日の一日の出来事として、記しているのであります。著者は、両方とも、ルカでありますが、こうしたことを矛盾だとは、ルカは考えていないようであります。
 さて、本日の記事の前段では、主の別れに際しての、教えが記されています。ルカ24:44-49が前段であり、50-53が後段であります。主は、前段で、彼らに向かって、改めて教えるのであります。「モーセの律法において、また、預言者たちにおいて、また、詩編において、私について書かれていることどもは、満たされねばならないことになっていると、私があなた方とまだ一緒にいたときに語った私の言葉を思い起こしなさい」と主は、弟子たちに語るのであります。
 厳密な意味で、旧約聖書は、主イエス自身のことを書いているとは、弟子たちは、最初からは分からなかったでありましょう。ホセア書の6章の2節にこうあります。「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。」これは、主イエスが三日目に復活させられることそのものを言ったものではないでしょう。しかし、全体としての聖書を、イエス・キリストのことを預言したものとして読むことが大切なのであります。
 主は、旧約聖書を洞察するべく、彼らの心を開いたとあります。新共同訳聖書は、分かりやすくするために、彼らの心の目を開かれたと訳しています。ご復活の主が、弟子たちの理解力、洞察する心を開かれるのであります。そして、こう言われるのです。「こう書かれている。すなわち、キリストは、苦しみを受け、三日目に死人の中から起き上がらされる、そして、彼の名の上に、すべての国民へと罪どもの赦しに至る悔い改め、メタノイア、すなわち、心の変換が告げ広められる。エルサレムから始まって、あなた方はそのことの証人たちになる」、というのであります。
 これも、文字通り、そのような言葉が、旧約聖書のどこかに記載されているわけではありません。しかし、そのような信仰の目をもって、旧約聖書を読み、キリストの出来事、受難と死と復活を読み取っていくことが必要なのであります。弟子たちは、それを示され、エルサレムから始まって、そのことの証人になっていくと、復活の主によって教えられるのであります。
 そして、最後に、主は、見よ、私は、あなた方に向かって私の父の約束したものを送ると言われるのであります。それは、聖霊を指しているでありましょう。そして、主は、高い所から、力を身に帯びないうちは、この都に座していなさいと教えられたのであります。
 静まって、慌てずに、一つどころに、待機して、聖霊がくだるのを弟子たちは待つようにと促されたのであります。聖霊、神の力、そして、み言葉を受けないと、我々は弱い者であります。
 それから、後段に移ります。いよいよ、昇天の場面に入るのであります。それは、長い長い一日のこととして記述されています。もう夜に入っていたことでしょう。主は、彼らを外に連れ出して、ベタニアの辺りまで来られます。そして、彼の両手をあげて、彼らを祝福されます。そして、起こったことには、彼が彼らを祝福するうちに、彼らから離れました、そして、主は天へとあげられつつあったのであります。
 現代では、天へと、ロケットで、打ち上げられても、そこは、広い宇宙空間のある場所にすぎないでしょう。しかし、当時の弟子たちにとっては、天とは、父なる神のみもとにあげられていくことでありました。最後の教えをなさった主は、父の右の座に今もついておられるのであります。
 彼らは、ひれ伏して彼を拝んだ後、大きな喜びと共にエルサレムへと、引き返したのであります。普通ならば、主と離別し、別れるということは、悲しみであったでしょう。しかし、弟子たちは、復活の主によって、教えられ、父のみもとから、主イエスも、父と共に、約束されたもの、聖霊をくだされることを信じ、それを通して、自分たちが主の復活の証人となり、旧約聖書で約束されていた救いを、すべての民に知らしめ、主の受難と死、そして、復活を宣べ伝える者とされたことを、心から喜んだのであります。
 そして、絶えず、すなわち原文では、「すべてのことを通して」、神殿の境内において、御神をほめたたえ、激賞していたという言葉で、ルカ福音書は終わっているのであります。
 そして、来週の聖霊降臨祭において、使徒言行録2章の1節から21節が日課として与えられ、神の力によって、まったく新たにされたペトロを始め、弟子たちが生まれ、教会が誕生するという出来事が起こされるのであります。
 本日の主の最後の教えと昇天の出来事は、東日本大震災の余波を受けている私たちにとりましても、大きな慰めと希望の出来事ではないでしょうか。新聞やテレビで、なお続く被災者の人たち、また、亡くなられた方たちの報道を聞くたびに、また、政治家たちの混迷を伝えられるときに、虚しさと、重たい気分にうちひしがられそうになりますが、すべての民、すなわち、私たちの罪の赦しと、悔い改め、心の転換をもたらされた主、父なる神と子なる主イエスの出来事は、私たちをきっとこの試練からも乗り越えさせてくださるでしょう。私たちは、「あらゆることを通して」、神をほめたたえまつる民とされているのであります。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。 私たちを、この日も、み前に集めて下さいましたことを、心から感謝します。この時も、困難と試練のなかで苦しんでいる被災者たちのことを特に覚えます。どうか、彼らに希望と力が、あなたの独り子の執り成しによって与えられますように。私たちは、遠くにあって、殆ど祈ることしかできませんが、主イエスが、あなたの右の座に座して、あなたと共に聖霊を送って下さっていることをすべての人に思い起こさせ、永遠の命を生きる者とならせて下さい。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。



2011/06/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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