津田沼教会 牧師のメッセージ
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「別の助け主の約束」(ヨハネ14:15-21)
ヨハネ14:15-21、2011・05・29、使徒言行録17:22-34、ペトロの手紙一3:8-17、復活後第5主日(典礼色―白―)

ヨハネによる福音書14:15-21
 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を表わす。」

「別の助け主の約束」(ヨハネ14:15-21)

本日の復活節の記事も、ヨハネ14:15-21が先週の文の続きとして与えられていますが、本日で主日の福音としては復活節の最後の記事となり、来週は、主の昇天主日となります。主は、「私をあなた方が愛するならば、私の命令どもを守るであろう」と言われます。主の命令とは、主イエスに従順に従い、また、互いに愛し合うということであります。そして、主は、「私も父にお願いして別の弁護者、助け主、慰め主を父から送ってもらうようにしよう、そうすれば、それは、永遠にあなた方とおられることになろう」とおっしゃいます。 
主イエスが弁護者と言われている個所もヨハネの手紙一にはありますが、ここでは、「別の弁護者が与えられる」というのであります。これは、「パラクレートス」と言います。「助け主」、あるいは、「慰め主」とも言われるのであります。パラクレートスというのは、そばで、叫ぶ者、弁護のために声を張り上げて守ってくださる弁護士のようは働きをされるのであります。弟子たちは、しかし、イエスご自身でなく、別の弁護者が与えられると聞いて、不安を持ったことでありましょう。主は、それで、「私はあなたがたをみなしごにはしておかない、また再びあなた方のところにやって来る」と言われました。これは、十字架の死の後に、復活して、弟子たちに現れることを意味していました。そして、主イエスは、復活の命を生き、弟子たちも新しい命を生きるであろうと約束されたのであります。この弁護者は、真理の霊とも言われています。それを世界は受け入れることができないと主は言われます。自然の人間は、霊的なことを受け入れることができないのであります。
聖霊は、真理の霊でもあり、生前の主の言葉を明らかにし、また、主のみわざをも思い起こさせるのであります。そして、主は「あなた方はその霊を知っている、なぜならば、それは、あなたがたのところにとどまるし、あなた方の内にあるであろうから」と言われるのであります。もう少しすると、世界は私を見なくなるであろうと、主は言われます。「しかし、あなたがたは、私を分かる、なぜならば、私は生き、あなた方は、常に私においているであろうからである」と言われるのであります。
「かの日には、あなた方は知るであろう、私が、父におり、あなた方は、私の内におり、私もあなた方の内にいることを」、と言われます。
そして、「私の命令を、持っている者は、そして、それらを守る者は、彼は私の愛する者である。で、私を愛する者は、私の父によって愛されるであろう。そして、私も彼を愛し、彼にわたし自身を表わすであろう」と言われるのであります。
聖霊とは、以上のようなお方として、父により、また、子によって与えられるものであります。私たちと共に世の終わりまで、聖霊は、弁護者として、助け主として、私たちを支え、よき生き方を主イエスの言葉によって導いて下さるお方なのであります。絶望しないで、聖霊、神の息吹を受けて生きていきたいものであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。


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2011/05/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「唯一の救いへの道」(ヨハネ14:1-14)
ヨハネ14:1-14、2011・05・22、使徒言行録17:1-15、ペトロの手紙一2:4-10、復活後第4主日(典礼色―白―)

ヨハネによる福音書14:1-14
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」





説教「唯一の救いへの道」(ヨハネ14:1-14)

復活節もあと2回ほどになりました。6月5日(日)が昇天主日、6月12日(日)がペンテコ
ステ、6月19日(日)が三位一体主日となります。本日は、先週のヨハネ10:1-16の良い羊飼いのたとえに続き、ヨハネ14:1-14が与えられており、来週がヨハネ14:15-21が与えられています。本日の個所と来週の個所は、主が弟子たちと共に過ごした、最後の教え、告別説教、離別に際しての講話であります。
「あなた方の心を、あなた方は騒がすな」、心を騒がす、これは、コップの中の水をかき回すといった意味の言葉であります。主は、弟子たちが、この後受ける打撃に対して、前もって、準備、備えの言葉を、弟子たちに与えたものであります。主の十字架の死によって、弟子たちは大きな挫折を一度は経験せざるを得なかったのであります。
ところで、ヨハネ14章から17章は告別説教と言われる部分ですが、この順序の通りに、私たちは、記者ヨハネが書き残してくれたものを受け取っていいのであります。いろいろと口頭伝承などがあったために、繰り返しの言葉や、一見矛盾すると思われるお言葉も含まれているのであります。主は、「あなた方は御神へと信じゆだねなさい、そして、私へと信じゆだねなさい」と言われます。そして、「父の家には住みかが多い、もしそうでなかったならば、私が行って、場所を用意して再びやって来ると言っただろうか」と言われます。 
「父のもとにあなた方のために場所を用意しに行く」と、主は言われます。そして、「あなた方は、私が行く所、その道を知っている」と言われました。
ここで、あの疑い深い、そして少し鈍感であるが、信じればどこまでも忠実であるトマスが、言います。「主よ、私たちはあなたがどこへ行くのか分かりません。私たちはどうして、それを知ることができましょうか」と問うのです。主は、「私は、道であり、真理であり、命である」と言われ、「私を通してしか、だれも父のもとへはやっていかない」と言われます。
主イエスは父のもとにいたる唯一の救いの道であり、その父は、真実と、命とに満ちておられる方であります。今度は、フィリポが、「主よ、父を私たちに見せてください」と言います。主は、「フィリポよ、こんなに長い間、私と一緒にいるのに、なぜ、分からないのか。私を見た者は、父を見たのである」と言われます。そして、「どうして、私に父を見せてくれと言うのか」と言われます。そして、「あなたは、私が父においてあり、また、父が私においておられることをあなたは信じゆだねないのか」と言われます。
そして、「私が語る言葉を、私は私自身から話しているのではなく、父が私においてとどまられ、その業どもをなさっておられる。そして、私にあなた方は信じゆだねなさい、すなわち、私が父におり、父が私においておられることを。で、もしそうでないならば、まさにその業ども自体を通して、信じゆだねなさい」というのであります。そして、「まことにまことに、私はあなた方に言っておくが、私を信じゆだねる者は、私が行う業どもを、彼もまた行い、さらには、それらよりももっと大きなことどもを彼は行うであろう。なぜなら、私が父に向かって行くからである」と言われるのです。
私たちは、主の弟子として、主が行われた以上に、世界に、父と子の働き、み業を告げ広める栄誉を与えられているのであります。そして、主は、「私の名においてあなた方が要求することを何でも私がするであろう。その結果、父は息子において栄光をお受けになる」と言われ、「もし何かを私の名においてあなた方が私に要求するならば、私が行うであろう」と言われるのであります。
弟子たちは、これらの言葉を、主の十字架と復活後において悟るのであります。主は、父の家のもとに、私たちの場所を用意しに帰られ、また、私たちのもとに、聖霊を通してお戻りになられるのであります。こうして、父の御意志のままに、主はみ業を果たし、父のもとに帰られ、また、やって来られるのであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2011/05/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主に従う群れの幸よ」(ヨハネ10:1-16)
ヨハネ10:1-16、使徒言行録6:1-10、ペトロの手紙一2:19-25、復活後第3主日(典礼色―白―)

ヨハネによる福音書10:1-16
 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために他ならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。


説教「主に従う群れの幸よ」(ヨハネ10:1-16)

 復活後第3主日の福音は、ヨハネ10:1-16が与えられています。本日の福音も、来週の復活後第4主日の福音ヨハネ14:1-14も、それ自体としては、復活の記事そのものであるとはいえませんが、深い所で、主の御復活と関連があるのでありましょう。これらは、それぞれローマ・カトリック教会の同じ主日の福音記事でもあります。
いろいろなたとえ、格言とも言える表現を主イエスは、本日の記事でのべておられます。よくよく、あなた方に言っておくと主は語り出します。9章の盲人の癒しに続く10章なので、あなた方とは、ユダヤ人たち、ことに、ファリサイ派の人たちのことであります。彼らは、主イエスをメシアと認めようとしないのであります。それで、主は、本日のたとえ、ことわざをお語りになります。羊の囲い、檻の戸口からやって来ず、囲いを這い上がって、やって来る者は、盗人であり、強盗である。羊たちは、羊飼いの声を知っていて、羊飼いにはついて行くが、知らない人、その他の人たちにはついていかない、羊たちは、彼らの声を知らないからであると言われます。
このたとえを聞いて、ユダヤ人たち、特に、ファリサイ派の人たちは、何のことなのか分からなかったというのであります。羊であるのは、私たち、キリストに従う信者のことであり、羊飼いとは、私たちを導く主イエスのことであります。現在、プロテスタント教会では、神父様とは言わず、牧師と言いますが、牧師とは、羊を飼う者、羊飼いのことを指しています。そして、羊の大牧者が、主イエスなのであります。
さて、主は、さらに、たとえて、言われます。私は、羊の門である。羊たちの戸口であると言われるのであります。私たちは、主イエスを通して、天への、あるいは、神の国への、あるいは命への戸口を入るのであります。主は、まことの良い羊飼いであり、それと共に、御自分を門であると言い、御自分の門、戸口を羊たちは出入りし、牧草、救い、命に与ると言われるのであります。私たちは、日本ではあまり羊を見ませんが、主イエスの国、ユダヤでは、このたとえを聞いている人々は、その情景がよく分ったことでしょう。 
そして、主イエスは、私は、良い羊飼いであり、羊のために命を差し出すと言われるのであります。主は羊のために、御自分の命を与え、それを、父なる神によって、差し出し、また、復活の命も与えられると言うのであります。羊の門を通らず、別の囲いを通って入る者は、盗人であり、強盗であると、主は言われ、また、自分より先に来た羊飼いたちも、そうであると言われます。
旧約聖書で約束されていたメシアは、御自分であり、それ以前に現れていた偽メシアは、同じように、盗人であり、強盗と言われるのであります。狼がやって来るときには、偽メシアは逃げ出し、雇い人も逃げ出し、狼は、羊たちをひったくり、追い散らすというのであります。
私たちは、主イエスの声を聞いて、聞き分けることができます。偽物のキリストを主イエスのたとえや、言葉を通して、見抜くことができます。それらしきものは、今も絶えず信仰宗教として、私こそ、再来のキリストであると名乗る偽メシアが現れます。しかし、良い羊飼い、私たちのために命を差し出されたお方は、主イエスの他にはおられないのです。主は、私には、この囲いの外にも、導くことになっている群れがいる。そして、彼らは、一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろうと、本日のみ言葉を終えています。私たちは、主イエスによって言われた囲いの外にいた異邦人であった群れであります。そして、まだまだ、その囲いの中に入る群れが待っています。いまだに、教会の外にいる同じ羊の群れがあり、主は、私たちを用いてその羊たちをも呼び入れることになっていると私たちへ託されているのであります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2011/05/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「見ないでも信じる信仰」(ヨハネ20:24-29)
ヨハネ20:24-29、使徒言行録2:36-47、ペトロの手紙一1:17-21、復活後第2主日(典礼色―白―)

ヨハネによる福音書20:24-29
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じるのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」




説教「見ないでも信じる信仰」(ヨハネ20:24-29)

本日は先週に続くヨハネ福音書の記事が与えられています。安息日からの一日目、すなわち、週の初めの日、日曜日、主の復活の日、主日に、ユダヤ人たちを恐れて、戸に皆鍵をしていた弟子たちのもとに、復活の主はそれを潜り越えて、やって来られ、その真中にお立ちになって「シャローム」、平和があなた方にあるようにと仰って下さったのです。
私たちは主を見たと弟子たちが言ったとき、ディドモと言われるトマスは、私は、彼の両手を見、その釘跡に指を入れ、彼の脇の傷跡に手を投じなければ、決して信じないだろうと言い張りました。
そして、八日後のこと、弟子たちは、まだ、戸にすべて鍵をかけて、中に集まっていました。そして、今度はトマスも一緒でした。すると、主がやって来られ、戸を通り越して、真ん中にお立ちになり、平和があなた方にあるようにと、再び仰いました。当時のヨハネ福音書記者の時代には、主日ごとに集まって聖餐をいただくパン裂きが守られていたようです。礼拝に集まる会衆である私たちも、様々な不安や葛藤を経て、週ごとに集まってきます。そして、主によって「平和があなた方にあるように」と繰り返し言ってもらう必要があります。
さて、主イエスは、トマスに言われます。あなたの指を私の手の釘跡に入れなさい、そしてよく見なさい。そしてあなたの手を私の脇に投じなさい。そして信じない者にではなく信じる者になりなさいと言われました。ディドモと言われるトマスは、他の個所でも2回ほど出て来ますが、二重性の性格を持っていたらしく、頑固で、鈍いが、一旦信じたら、とことん忠実に信じ続けるといった性格の者であったようです。
トマスは、わが主、わが神と信仰告白をしました。実際に手でそのとき、触れたかどうかは記されていません。そこに、福音書記者の関心はなかったのです。主は言われます。私を見たから信じたのか。見ないで、信じる者は幸いである、祝福されていると。私たちは、週ごとに、主日に集まることに専念しましょう。
日曜日は、仕事があって礼拝に出席できないという方々も少なくないことでしょう。あるいは、介護についていて、あるいは高齢で礼拝にも行けない方もいるでしょう。そんな場合には、聖書を学び祈る会に出たり、礼拝テープを聞くことも有益ではないでしょうか。
私たちは、今では主の最初の弟子たちと違って、復活の体の主にもはや直接出会うことは不可能です。しかし、復活の主に、本日の記事のように、み言葉を通して、出会い、主から、平和があなた方にと言っていただくことができるのです。
昔、私は、司法試験を目指していましたが、勉強と、礼拝出席を両立させることはできませんでした。今、仕事でめいっぱいという方々はそれに専念すべきでしょうが、時が来たら、礼拝出席を第一とし、復活の主によって、平和があなた方にとあるようにと、週ごとに言っていただく生活を目指してほしいものであります。主は、今も、天の父の右に座して、聖霊を送ってくださり、私たちを教会に導こうとしておられます。トマスは、復活の体の主イエスを見て、わが主、わが神といって、主イエスこそ、人間になられたが、同時に神であられたことを信仰告白しました。そして、主は、私を見たので信じたのか。見ないで、信じゆだねた人たちは幸いであるとおっしゃいます。復活の体の主を、もはや、現代の私たちは、この目で見ることはできません。けれども、信仰の目を通して見、信じることはできるのです。アーメン。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。





2011/05/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主、弟子たちに現れる」(ヨハネ20:19-23)
ヨハネ20:19-23、使徒言行録2:22-32、ペトロの手紙一1:3-9、復活後第1主日(典礼色―白―聖餐式)

ヨハネによる福音書20:19-23
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


説教「主、弟子たちに現れる」(ヨハネ20:19-23)
 
本日の福音は、ヨハネ20:19-23と短い個所ですが、19-20節と21-23節に分けられます。先週の福音20:1-18に続く記事で、弟子たちは、主がマグダラのマリアと出会われたことを知らされているはずですが、ユダヤ人たちを恐れて、戸は皆、鍵をかけていたのであります。それは、安息日から一日目、すなわち、週の初めの夕方遅くなってのことでありました。彼らは、主イエスを十字架にかけたユダヤ当局の者たちを恐れていたのでありましょうが、このヨハネ福音書が書かれた紀元1世紀ころのユダヤ教からの厳しい迫害にあっていたキリスト者たちをも、表わしているでありましょう。
 彼らが、いずれの戸口も鍵をかけてあったにもかかわらず、主がやって来られます。そして、彼らの真ん中に立ち、「平和があなた方に」とおっしゃられるのであります。これは、普段の挨拶として、「こんにちわ」、とか、「おはよう」「さようなら」といった便利な言葉で、ヘブライ語では「シャローム」という言葉であります。しかし、もっと深い意味を表わす場合もあり、ここでは、「主が与えて下さる平和」、あるいは、さらには、「福祉」とか「健康」とかを意味する言葉であります。主は、弟子たちと別れる前に、「あなた方は、泣き悲しむが、それは、喜びへと変わる。」あるいは、「私が与える平和は、世が与えるような平和ではなく、変わることのない完全な平和である」とおっしゃっていました。
主は、両手の傷跡と、槍で突かれたわき腹を示して、再び「平和があなた方に」と祝福なさるのであります。彼らは、主を見て、喜んだとあります。主イエスは、弟子たちに、息を吹きかけられて、「あなた方は聖霊を受けなさい」と言われます。創世記に、主なる神は、土、アダマから人を造り、その鼻の中へと息を吹き入れると人間、アダムになったとあります。主イエスも同じように弟子たちに、息を吹きかけて、主を見捨てて逃げ去った弱い人間であったものから、新しい人間、被造物になさるのであります。この弟子たちとは、12使徒だけではなかったでありましょう。そして、主は言われるのです。「父が私を遣わしたように、私もあなた方を送る」と。そして、聖霊を受けるとは、やがて、洗礼を受けることにつながったでありましょう。父なる神が、み子を遣わしたように、今度はみ子によって、弟子たちが送り出されるのであります。そして、主は、本日の最後の節20:23において、不思議な言葉をはかれます。「あなた方が、だれだれの罪どもを赦すならば、その罪どもは、彼らに対して赦されているが、あなた方が、だれだれの罪どもを握るならば、その罪どもは、握られている」、と言われているのであります。この復活の主の言葉は、難解で、人の罪を赦したり、握って赦さないということは、罪の告解を受けたりする聖職者たちだけにかぎられているのではないかと考えられたりしました。しかし、ここでは、弟子たち一般が罪を赦し、あるいは、赦さない権能を付与されて、この世界へと送り出されて行くのであります。それは道徳的な罪や行動上の罪というよりも、キリストを信じない罪を弟子たちは裁く権能も与えられるということであります。
主イエスの御復活によって、弟子たちは、まったく新しい人間に造り変えられ、聖霊を受けて、新しい人間として、復活の主から委託を受けて、この世界へと遣わされていくのであります。次週の本日の記事に続く福音20:24-29では、弟子たちは、再び、戸をすべて鍵をかけて、集まっていました。トマスも今度は一緒にいました。しかし、彼らは、そこでも、自分の心の戸をも閉じていたのでしょう。八日後、1週間ぶりの主日に、そこに、主は再び入って来られるのであります。私たちの津田沼教会に属する人たちも、毎週、主日すなわち、主の復活された日に、主に出会うために、聖卓のまわりに、集まり、本日は聖餐式もあります。私たちの心の戸を閉じているような場合にも、主は、そこを通過して、私たちと一つとなるために、やって来てくださいます。
 私たちは、なるべく、体の許す限り、聖卓のまわりに、集まり、聖餐にあずかり、主と出会っていこうではありませんか。マルチン・ルターも、聖餐には、自分はとても与りがたいと思われる時こそ、努めて、聖餐を受けなさいと忠告しています。
 主の御復活のこの日に、弟子たちのもとに「平和があなたがたに」あるようにと、仰って、鍵のかかった戸を通り越してやって来てくださいました。私たちも、主の体と尊い血に与って、新しい人間として、ここから、派遣されて行きましょう。
 
望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
 
2011/05/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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