津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ご復活の主は生きていたもう」(ヨハネ20:1-18)
ヨハネ20:1-18、使徒言行録10:39-43、コロサイの信徒への手紙3:1-4、復活祭(典礼色―白―聖餐式)

ヨハネによる福音書20:1-18
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石がとりのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方がペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所に置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。



説教「ご復活の主は生きていたもう」(ヨハネ20:1-18)

今年の復活祭は、忘れがたい復活祭となっています。それは、未曾有のと言ってもいい東日本大震災を経ての復活祭であるからであります。まだ、新聞などでは、大震災の報道が、小見出しでピックアップされて続いています。一昨日でありましたか、新聞に、宮城県の石巻市の大川小学校を今年6年生で卒業する女子生徒がいまだに行方不明であるが、その弟の子が6歳で、つい先だって別の小学校を借りて、大川小入学式が遅ればせながら行われたことが出ていました。お姉さんは、ランドセルだけが泥まみれで発見され、一番下の妹の2歳の女の子は、この春から保育所に入学で、3人とも「新入学」を迎えるはずでありました。中学校の先生をしているお父さんは、入学式に司会進行を務め、同じ年の女子生徒を見るとやはり目が赤くなるのをどうしようもなかったと言います。お母さんは、男の子の晴れの入学式で、泣くまいと思っていたけれど、小晴さんも歌った校歌を聞くと涙が出て止まらなかったとのことであります。よく気が利いてよいお姉さんだったのに、「私はよく怒って、だから、出て来ないのかしら」と悔やなだと書かれてありました。震災後に、遅くなっていただいた小学校の卒業アルバムの娘を見て、両親は、用意してあった中学の学生服を使って合成写真を写真館で作ってもらったそうです。このような痛増しい出来事がたくさんおこったことでしょう。
昨日も、夜7時のニュースを、ちょっと見たのですが、ローマ法王が、日本の被災地の女の子とテレビを通して、やりとりしている一場面を見ました。女の子は、「どうしてこんなに悲しい出来事が起こるのですか」と法王に質問していました。ローマ法王は、「私にも分かりません。ただ、私たちはお助けできることを精一杯努力してやりたいと思います」というふうなお答えをしていました。
さて、このような長く、辛い四旬節でありましたが、本日は、主のご復活を祝う復活祭であります。本日、与えられました福音、良き知らせは、ヨハネ20:1-18であります。これは、前段の20:1-10と後段の20:11-18から成っています。本来は、別々の伝承であったものをヨハネ福音記者がひとつにまとめたものと考えられます。
まず、前段では、マグダラのマリアが、週の初めの日、すなわち、日曜日の朝まだ暗いうちに、墓にやって来ます。ところが、墓を閉ざしていた大きな石が、既に動かしてあったのであります。マリアは、それで、ペトロともう一人の弟子のところに走ってやって来るのであります。そして、「人々が主を取り去りました。主がどこに置かれているのか、私たちには分かりません」と言いますと、ペトロともう一人の弟子、主が特に愛しておられた弟子が墓へと走ってやって来ます。もう一人の弟子の方がペトロより先になり、早く墓へ着きました。そして、中を覗き込むと亜麻布が置いてあるのを見ましたが、中へは入りませんでした。続いて、ペトロが着き、中へ入って、亜麻布が置いてあり、顔覆いが離れたところにたたんであるのを見ます。そして、もう一人の弟子も入り、それらを見て、主が復活なさったことを信じたのであります。この弟子が主の復活を最初に信じたのであります。
彼らは、旧約聖書が、主イエスが死から復活することになっていると預言してあるのをまだ、理解していなかったからであると、ヨハネ福音書記者は記しています。そして、彼らは、彼らの方へと立ち去ったのであります。
 続いて、20:11-18の文となります。マグダラのマリアは、また、ペトロたちを追って引き返していたのでありましょう。彼女は、墓のそばで、泣いておりました。そして、墓の中へと体を傾けて覗き込むと、主イエスの遺体の置いてあった、その頭の方と、足の方に、二人の天使が、腰かけているのが見えました。彼らは、「御婦人よ、どうして泣いているのか」と聞きます。マリアは「彼らが主を取り去りました。そして、どこに、彼らが彼を置いたのか、私には、分かりません」と答えたのであります。そして、人の気配を感じたのか、振り返りますと、主イエスが立っておられました。しかし、主だとは彼女は分かりませんでした。主は、「御婦人よ、どうして泣いているのか、だれを捜しているのか」と尋ねられました。彼女は、園丁だと思って、言います。「旦那さん、あなたが運び去ったのなら、どこにあの方を置いたか、言ってください」と言います。すると、主は「マリアよ」と言います。マリアは、その声によって分かって「ラブーニ」と言います。それは「先生!」、と話したのでありました。すると、主は、「私に触れ続けるのはやめなさい。私は、まだ、父に向かって上っていないのだから」と言われます。マリアは、あの十字架にかかられた先生である過去の主イエスを握ろうとし、肉体的な生前のイエスに固執するのであります。
主は言われました。「あなたは、行って、こう私の兄弟たちに伝えなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は上る』と。」
主イエスは、神の独り子でありました。その父のもとから、来て、その父のもとへ帰らなければならないのです。彼は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。しかし、彼を信じる者には、だれでも神の子となる資格を与えられるのであります。復活された主は、父のもとへ昇天することが肝心なのであります。
マリアは弟子たちのところへやって来て、こう告げます。「私は、主を見ました」と。そして、彼が彼女に言われたそのことどもを、伝えたのであります。
この大震災の困難と悲しみにうちひしがれている人々と共に、主は、今も生きていたまいます。私たちの罪のために、十字架に付けられ、復活させられた主は、今後も、この地上の私たちの生の終わりの時まで、また、この世の終わりまで、私たちと共にいてくださいます。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。





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2011/04/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「僕として歩む主イエス」(マタイ21:1-11)内海望牧師
マタイ21:1-11、2011・04・17、枝の主日(典礼色―紫―)、ゼカリア書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

マタイによる福音書21:1-11
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
  柔和な方で、ろばに乗り、
  荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ダビデの子にホサナ。
  主の名によって来られる方に、祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。



説教「僕として歩む主イエス」(マタイ21:1-11)内海望牧師
 今日は「枝の主日」と呼ばれる特別な主日です。エルサレムの群衆が、木の枝を切って道に敷いてイエスさまをお迎えしたという出来事にちなんでいます。この日の日課は必ずイエスさまのエルサレム入城の記事になります。また、この個所は待降節(アドベント)第一主日にも読まれます。
 今日の説教題は矛盾しています。聖書で「主」という言葉はヘンデルがメサイアで用いた「王の王、主の主」と同じ意味です。王さまの中の王さま、つまり最も権威と栄光に満ちた方に与えられる尊称です。一方「僕」という言葉は、聖書では単なる召使でなく、「奴隷」と訳すべき言葉です。この世で最も低い身分の人と見られていた人々の更に下に位置付けられていたのです。「王の王」と「僕」という呼び名が同一の人物につけられるのは矛盾です。
 しかし、これはイエスさまの生き方そのものなのです。イエスさまは神さまのひとり子ですから「王の王、主の主」と呼ばれるにふさわしい方です。堂々と威風あたりを払う姿で轡を並べて入城すべき方です。しかし、イエスさまは今、ゼカリヤによって預言されたように柔和なろばに、鞍ではなく服を敷き、荷を負う子ろばを伴ってエルサレムに入城されたのです。そこには人の目を奪う凱旋将軍の輝きはなく、町々村々を埃にまみれながら、神の国の福音を伝え、病をいやし、悪霊を追い出し、死人を蘇らせるイエスさまの姿しかありませんでした。事実、イエスさまのなさったことはそれだけでした。しかし、それで十分でした。この時の群衆の歓呼の声は本音でした。そのようなイエスさまを心から喜んでお迎えしたのです。
 ただ私たちの心には疑問が残ります。今年はマタイの福音書によってイエスさまの足跡を辿って来ましたが、ガリラヤ地方において働いておられたイエスさまが、ある時から顔をしっかりとエルサレムに向けて歩み始められたことを知っています。その姿があまりにも決然としていたので、その緊張感が弟子たちを脅かしたほどでした。マルコ福音書には、「イエスは先頭に立って進んで行かれたので、弟子たちは驚き、従う者は恐れた」と書かれています。しかも「私はエルサレムで十字架につけられる」とまでおっしゃっているのです。それに比べると、今日のエルサレム入城の光景はあまりにも牧歌的です。
 しかし、イエスさまはこの祝福された時が、まさに十字架の苦難の道へと続いていることをはっきり自覚されていました。イエスさまはここで立ち止まらず、更に十字架へと歩
を進められるのです。
 今週は受難週です。先週に続き、この週も私たちは日々イエスさまの十字架への道筋を聖書日課によって辿ることになります。その時、私たちはイエスさまが何故十字架への道を歩まれたかをはっきりと知らされるのです。
 群衆は今、イエスさまを心から祝福しお迎えしています。弟子たちも同じ気持ちであったでしょう。この方に忠実に従って行こうと改めて決心したことでしょう。ラザロの死後、ディディモと呼ばれるトマスは率先して他の弟子たちを励まし、「私たちも行って一緒に死のうではないか」と語りました。彼は本気で言ったのでしょう。あるいは、ペトロは、最後の晩餐のおり、イエスさまから「君たちはつまづく」と言われた時、「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまづきません」と断言し、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」とまで言っているのです。「弟子たちは皆、同じように言った」と聖書は記しています。しかし、私たちは、あのトマスがイエスさまの復活を信じることが出来ず、「疑い深いトマス」と言われた人物であることを知ることになります。また、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという弟子たちの筆頭に属する弟子たちがゲッセマネの園で、眠りこけてイエスさまを孤独の底に落としたことを知っています。ペトロに至っては、イエスさまなどという人は知らないと三度まで否定するのです。また、イエスさまが捕えられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と報告されています。イスカリオテのユダのみが裏切り者ではなかったのです。
 弟子たちだけではありません。今日イエスさまを歓迎し、喜び迎えた群衆は、ピラトのイエスさまをどうしたいか」という問いに答え、「十字架につけろ」と叫び続け、ついには暴動にまで発展しそうになったと書かれています。そこで、ついにピラトはイエスさまを十字架に渡してしまうのです。ろばに乗っての入城という牧歌的な、平和な暖かい場面で始まった受難週でしたが、イエスさまはすべての人々に見捨てられ、全くの孤独のうちに十字架へ向かって歩み続けられるのです。
 人間には、数多くの素晴らしい面があります。震災の中でも、自分も苦しんでいるのに何とか他人を助けようとする人々、文字通り命をとして隣人を守った方々、「神にかたどって造られた」という言葉を思い出させます。今日のイエスさまのエルサレム入城の際の人々の姿は確かに牧歌的と言ってよい風景を私たちに見せてくれます。イエスさまも喜ばれたことでしょう。トマスも、ペトロも、他の弟子たちもみな本気でイエスさまと共にいることの喜びを表現したと信じます。
 しかし、その同じ人間の心に、ルターが「悪魔の仕業」としか思えないと語るような恐ろしい思いがうごめいているのです。ルターの、「これは悪魔の仕業だ!」この言葉は、自分の力ではどうすることも出来ない力が自分を罪の中に引きずり込むという叫びです。ルターは、まっすぐに歩もうとしても、どうしても自己中心というか自己絶対化へと曲がってしまう自分の心に出会い、絶望しました。どうしても、それを引きとめられないのです。パウロは、「行いたいと思う善は行わず、望んでいない悪を行っている」とその内奥の苦しみを告白しています。これは「移り気な心」などという表現で、簡単に語ることの出来ない心の呻きと言えます。「助け合う心」を持つ、その同じ人間の心に「悪魔の仕業」としか思えないような邪悪な思いが湧き起って来るのです。これが人間の真相なのです。
 イエスさまにとって弟子たちの裏切り、群衆の「十字架につけよ」という叫びは決して「降りかかった災難」ではありませんでした。実は、イエスさまはそのような人間の姿をご存知でした。それだからこそ、イエスさまは十字架の苦しみへ向かって敢然と歩まれたのです。
 どうしてイエスさまは十字架への道を歩まれたのでしょうか。ガリラヤの湖畔で、神の国の福音を宣べ伝え、病める者をいやし、悪霊を追い出し、死人を蘇らせ、人々に暖かい心を注ぎ込むだけで十分ではなかったでしょうか。尊敬され、愛される教師として生きるだけで十分ではなかったでしょうか。
 イエスさまの目的はただ一つ、この罪人を救うためにエルサレムへの道をまっすぐに歩み通されたのです。言い換えれば、一人の罪人も滅びないで永遠の命を得るために歩み続けられたのです。まさに、人間に仕える僕として歩むイエスさまの姿がここにあります。イエスさまにとって、十字架の苦しみと死は、イエスさまにとって「降りかかった災難」ではなく「罪人を救うために歩まねばならない道」であったのです。この愛の決意の重さが、弟子たちを恐れさせたのです。裏切り、逃げ去った弟子たち、「十字架につけよ」と叫ぶ群衆を愛し続け、自分の命を贖いとし、死と罪に打ち勝つ道はここにしかないと見定められて、今エルサレムへと入城されたのです。
 今日の第二の日課であるフィリピ2章6―11節をお開き下さい。イエスさまは全くの上から、王の王、主の主のもとから自分を無にしてこの世界に来られたのです。王の王が僕となり、私たちを救うために、私たちに仕え、命を与えて下さったのです。イエスさまの愛が、イエスさまの他は誰にも出来ない救いの業を完成させて下さったのです。
 ここにおいて、私たちは教会がずっとアドベント第一主日と、枝の主日に同じ聖書の個所を置き、典礼色も同じ紫にしていたか、その意味を知ることが出来ます。紫は「王の尊厳」を表わす色であると言われます。イエスさまはまさに「王の王、主の主」である方でした。その方が「布にくるまった飼い葉おけ」にお生まれになったのです(アドベント)。生まれたばかりの乳飲み子は全く無防備です。しかも安住する場所もなく「飼い葉おけ」でお生まれになったのです!一番弱い存在と言えましょう。そこまで下って下さったのです。これが十字架へと通じる道であったのです。「飼い葉おけ」と「十字架」は一つの道の上にあったのです。この道をイエスさまが歩み通されることによって私たちは罪赦され、生きる道を与えられたのです。このイエスさまが「私は、いつもあなたがたといる」と約束して下さったのです。紫の色は「悔い改めの色」とも言われます。受難週は悔い改めの時でもあります。「信仰無き私を救いたまえ」と告白する時、私たちは僕として下から私を支え、新しい命へと導いて下さるイエスさまの愛を知ることが出来ます。これは確かなことです。次週のイースターには悔い改め、罪赦された罪人として新しい命に復活する喜びを共に分かち合いたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2011/04/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「十字架につながる奇跡」(ヨハネ11:17-53)
ヨハネ11:17-53、2011・04・10、四旬節第5主日(典礼色―紫―)、エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5

ヨハネによる福音書11:17-53
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。




説教「十字架につながる奇跡」(ヨハネ11:17-53)

いよいよ、四旬節、受難節も、残すところ2週間となりました。今年の受難節は、偶然ではありましょうが、東日本を襲った大震災と重なるようにして過ぎてきました。福島原子力第1発電所の事故は、まだまだ収束の見通しがたっていませんが、私たちは、今回の災害を機会に、生活様式の転換、より質素な生活、また、人と人とのつながり、絆を深めて行くことようにと示されているように思います。
さて、来週は、受難週に入る前の枝の主日として礼拝が守られ、マタイによる福音書に帰りますが、本日は先週に引き続いてヨハネ福音書から福音の記事が与えられ、11:17-53といつになく長いペリコペー、記事が与えられています。いわゆるラザロの復活にちなんでの記事でありますが、復活と言うよりも、ラザロの「起き上がり」死人の中からの生き返りといった実情ではないかと思います。なぜなら、このラザロも、死から命へと戻されたのではありますが、やがて寿命が尽きて、私たちと同じように死んだであろうことは、確かだからであります。
ラザロは、重い病気を患い、危篤となったので、ベタニアの姉妹たち、マルタとマリアは、主イエスに癒してもらおうと主のもとに使いを出したのでありますが、主は、すぐには戻ろうとなさらなかったのであります。それは、ラザロの死を通して、神の業、神の栄光が表わされるためでありました。それから、何日かたって、主は、ベタニアに戻ろうと、言われるのでありますが、弟子たちはあなたを殺そうとしたその場所に再び帰られるのですかと言いますと、ラザロが眠っているので起こしに帰ろうと言われるのであります。
眠っているのなら、目覚めるでしょうと言いますと、主は、ラザロは死んだのだ。私が、そこにいなかったことは、あなた方にとってはよかったと言われます。
ベタニアは、エルサレムから3キロもないほどのいわば、エルサレムの郊外でありました。近くまで一行が来て、ラザロの姉妹たちに来たことを伝えさせますと、マルタは立ち上がって急いで、主のもとに出て行ったのであります。そして、村はずれの場所で主を迎えたのであります。
主よ、あなたがもしここにいてくださいましたなら、私の兄弟は死ななかったでしょうと言い、マルタは、でも、私は今でもあなたが父なる神にお願いするなら、神は何でもあなたにお与えすることは知っていますと言います。ここの個所は、葬儀でしばしば用いられる記事であります。主イエスは、あなたの兄弟は復活すると言われるのであります。マルタは、終わりの日の復活において、彼も復活することは知っていますと言います。当時のユダヤ教、特にファリサイ派は、サドカイ派と違って、死後に、この世の終わりの日に人間は復活するという信仰が一般的になっていました。
主は、私は復活であり、命である。私へと信じる者はたとえ死んでも生きる。私へと信じる者は決して死ぬことがない、あなたは、そのことを信じるかと聞くのであります。
すると、意外なことには、マルタは、はい、私は信じました。あなたは、メシア、キリスト、神の子、この世へとお出でになられたことを信じましたと答えるのであります。今、ここで、主イエスこそ、待たれたメシア、キリストであることを、マルタは表明したのであります。今、私たち、日本人は未曾有の大地震、災害や事故に直面していますが、私は、復活であり、命であると言われる方に、信仰をかけてみるべき機会、絶好のチャンスにさしあたっているとも言えましょう。私たちの自然的な命は朽ち果てても、主イエスをメシアと信じる者には、滅びることのない命が主によって約束されているのであります。
さて、マルタは、そう言ってから、家に帰り、マリアに主がお出でになられていることを伝えます。すると、座って黙想していたであろうマリアはすぐに立って、イエスのもとに急ぐのであります。そして、彼女たちを慰めに来ていた喪中のエルサレムから来た人たちは、彼女が墓に泣きに行くのだろうと思って、マリアを追います。
マリアは、ひれ伏して、主よ、あなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうと、言います。主は、わっと泣かれました。人々は、何とラザロを、イエスは愛していたことだろうかと言います。主はどこに、彼を置いたのだ、葬ったのかと聞くと、人々は、こちらです、御覧くださいと言います。それは、洞窟のような墓でその入り口を石で覆っていました。人々は、盲人の目を開けたこの方でも、ラザロを死なさないようにはできなかったのかと言いました。すると、主は、霊において憤りを覚え、心が揺さぶられました。人々の不信仰に憤りを覚えたのであります。石を持ちあげよと言いますと、マルタが、主よ、もう四日たっていて臭いますと言います。主は、信じるならあなたは栄光を見るであろうと言っておいたではないかと言います。そして、大声で、ラザロよ、出て来なさいと叫ぶと、死人は、手足に包帯を巻いたまま、顔には覆いをかぶったまま出て来ます。そして、彼をほどいてやって、行かせなさいと主は言われたのであります。
このしるし、奇跡を見た多くのユダヤ人たちは主を信じました。しかし、中には、エルサレムに行って、ファリサイ派や祭司長たちに告げる者たちもいました。
サンヘドリン、最高法院を召集して、彼らはこのままだとこの場所、神殿も、国民もローマ人たちによって取り去られるだろうと困惑していました。
すると、カイアファがその記念すべき年の大祭司であったので、言いました。一人の人が死んで、この国民が助かる方がずっとよいことを知らないのかと。これは、彼がその年の大祭司であったので神が彼の口を通して預言させたのでありました。
そして、この日から、彼ら、ユダヤ当局のものたちは、主イエスを殺すことをねがったというのであります。主イエスは、民の罪の身代わりとして、死ぬことになり、また、それを通して、散らばっている神の民を一つどころに呼び集めることになるのであります。
私たちは、まもなく、来週、マタイ福音書を通して、主のエルサレムへの入城を通して主の受難、十字架にお向かいになる記事を読むことになりますが、ヨハネ福音書記者は、ラザロの復活の奇跡が、十字架につながった出来事を、本日の個所において、注目しているのであります。私たちも主のみ後に従って、主の十字架を見上げながら歩んでまいりましょう。

人知では到底、測り知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。アーメン。

2011/04/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「今は見えるということ」(ヨハネ9:13-25)
ヨハネ9:13-25、2011・04・03、四旬節第4主日(典礼色―紫―聖餐式)、イザヤ書42:14-21、エフェソの信徒への手紙5:8-14

ヨハネによる福音書9:13-25
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間がこんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの人は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったのかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表わす者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

説教『今は見えるということ』(ヨハネ9:13-25)
 本日の主日の祈りには「恵み溢れる神さま。癒しと赦しのみ力によって、私たちをすべての罪から清め、強くしてください」とあります。四旬節も第4主日を迎え、主の十字架への道行きも深まってきましたが、私たちはここのところ、ヨハネ福音書から、福音の記事を与えられています。先週は、4章のサマリアの女との主の対話、そして、本日は9章の生まれつき目が見えなかった人の目を主が開いたことに関わる記事、そして、来週の主日は、11章のラザロの復活についての長い記事が与えられています。本日の記事も、恵みの神が「癒しと赦しのみ力によって私たちをすべての罪から清め、強くしてくださる」事柄に関わる記事であります。
 さて、本日の部分においては、まず人々が、彼をファリサイ派の人たちのところに連れて来ます。ファリサイ派は最高法院を構成するメンバーでありました。
 再び、そのとき、彼に、かのファリサイ派の者たちも、どのようにして、彼が見えるようになったのかを質問していました。で、彼は、彼らに言います。「その方が泥をこねて、私の両目に向かってあてがいました、そして、私は顔を洗いました、そして、私は見えるようになったのです。」
 ファリサイ派のある者たちは、主イエスが、その盲人であった人を癒したのが、安息日であったので、「イエスは、安息日を守っていないから、神からの者ではない」と言い、一方、別の者たちは、「罪ある人間なら、このようなしるしどもをなすことはできない」と言っていました。そして、そこに意見の食い違い、対立、分裂があったと記されています。
 そこで、彼らは、その盲人であった人に、「彼、イエスについて、あなたは何であると語るのか」と問います。その人は、「彼は預言者です」と答えます。主は預言者以上の方でありますが、この人は、少しずつ少しずつ、イエスがどういうお方であるかを、知らされていくのであります。
 しかし、ユダヤ人たちは、それでも、彼が盲人であったこと、イエスが彼の目を開かれたことを信じゆだねなかったのであり、ついには、その人の両親を呼び出して、その人が彼らの息子であり、生まれつき目が見えなかったかを問うのであります。彼の両親は、「あれは、自分たちの息子であり、生まれつき目が見えなかったことは私たちは承知しています」と答えるのでありますが、「しかし彼の目がどうして開いたのか、だれが、開いてくれたのかは、私たちは知りません」と答えるのであります。
 それは、イエスをメシア、キリストだと告白する者がいれば、だれでもその者は、会堂追放されるとユダヤ人たちは決定していたからであると記されています。彼の両親は会堂追放を恐れて、主イエスについて、信仰告白することをしませんでした。そして、「息子は十分成熟した年齢であり、法的にも成人だから、彼に聞いてください」と言って、主を告白することを恐れて避けたのであります。
 このことの背景には、キリスト者たちが、ユダヤ教の会堂から、排除されている時代背景、ヨハネ福音書記者が直面していた時代の会堂追放という厳しい迫害と困難があったのかもしれません。両親は、ユダヤ当局への恐れのゆえに主イエスへの信仰告白にはついに至らなかったのであります。
 そこで、もう一度、盲人で生まれた人を、彼ら、ユダヤ人たち、当局は、権威をもって、呼び出し、「あなたは、神に栄光を与えよ」、すなわち神の前で正直に答えよと言い、「私たちは、彼が罪人であることを知っている」と言ったのであります。それに対して、彼は、答えて言うのであります。「私は、彼が罪人であるかどうかは知りません。私は、一つのことを知っています。それは、私は盲人であったが、今は見えるということです」と答えたのであります。
 この生まれつき目が見えなかった人は、今までは、物乞いをしながら、苦しい生涯をたどって来たことでしょう。物も見えず、道端に座って、希望もなく生きて来たことでしょう。主イエスは、この盲人で生まれついた人について、それは、両親の罪によるものでもなく、自分が罪を犯したからでもなく、ただ神の栄光を表すためであると9章の始めで言われていました。そして、次第次第に、御自分が何者であるかを、すなわち、メシアであることを、この人に知らしめていかれるのであります。
 そして、新たに、「今は見えるということ」をただ一つ知っていると、ユダヤ教の当局に対して、ユダヤ人のその権威にも、おじけずに、真っ向から証言していくのであります。
 この四旬節も深まる中、この度は、東日本大震災によって、私たちの心は打ちのめされそうにもなります。しかし、主が私たち人類の罪のために、十字架への道を先に歩んで下さっています。私たちは、本日の盲人であった人と共に、「私は盲人であったが、ただ一つ知っていることは、今は見えるということです」と告白し、癒しと赦しの御力によって、私たちをすべての罪から清め、強くしてくださいと恵み溢れる神に祈ろうではありませんか。

天の父なる神さま。
私たちは今、東日本大震災という戦後未曽有の危機と困難の中に置かれています。物に満ち足りていた今までの生活から、根本的に一人一人が生き方を変えて、生活を立て直す必要に差し迫られています。人と人との絆が薄くなっていた生活から、これからは助け合いと思いやりに満ちた生活、社会に向かわなければなりません。
 主の十字架への道行きに、私たちも、従っていくことを得させてください。亡くなられた多くの方々の上に、あなたの顧みが豊かにありますように。特に、この時期、政治と宗教の働きが、あなたによって、力強く導かれますように。一人一人の祈りに合わせ、キリストのみ名によって祈ります。アーメン。




2011/04/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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