津田沼教会 牧師のメッセージ
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「霊とまことにおける礼拝」(ヨハネ4:5-26)
ヨハネ4:5-26、2011・03・27、四旬節第3主日(典礼色―紫―)、出エジプト記17:1-7、ローマの信徒への手紙4:17b-25

ヨハネによる福音書4:5-26
 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


説教「霊とまことにおける礼拝」(ヨハネ4:5-26)
 私たちは、今、戦後未曽有の災害の中で礼拝をしています。しかも、時は、主が十字架に向かわれる受難節の時であります。今朝は、四旬節第3主日として、福音、喜びの知らせとして、ヨハネ福音書4:5-26が与えられています。主は難を避けるためであったでしょうか。サマリアの中を通って、ガリラヤに戻ろうとされていました。そして、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くのシカルという町にやって来られました。
 そこに、ヤコブの井戸があって、主は、旅の疲れから、無造作にその井戸の上に腰かけておられました。ヨハネ福音書では、神の子イエスという側面が強いのですが、ここでは、人間としての弱さ、疲れと渇きを覚える主イエスの姿があります。時は、ちょうど昼の12時頃でありました。暑い盛りのこの時刻には、女たちは、普通、水をくみに来ない時間帯であります。それなのに、そこに一人のサマリアの女の人が水を汲みにやって来たのであります。
 私も、神学生となって一年目の春、もう23年も前になります今頃の時期でしたけれども、生まれて初めての海外旅行、「出エジプトの旅」と題する聖地旅行に参加しましたが、バスで、終わり近くなって、ゴラン高原を通って、ガリラヤに入り、そこから、エルサレムに向かう途中、このヤコブの井戸と言われる場所に、バスから降りて見学に行きました。直径2メートルほどの井戸があり、深さは30メートルほどもあるとの説明でした。
 このサマリアの女性は、人目に付かない時刻を見計らって、バケツと、降ろし綱のようなものを持って、やって来たことでしょうか。
 主イエスは、この女性に、「私に水を飲むことを与えてください」と声をかけられるのであります。女性は、驚いて言います。「ユダヤ人であるあなたが、サマリアの女である私に、水を飲ませてくださいと言うのですか」と。それは、ユダヤ人たちは、サマリア人たちと親しくは交際しないからであると理由づけられています。サマリア、北イスラエルは、紀元前700年頃、アッシリア軍によって征服され、捕虜として連れて行かれた人々がいたのと共に、外地から、いろいろな神々を崇拝する民族が植民してきて、サマリア人たちと混血し、主なる神ヤハウェと共に、異なる様々な神々をも拝み、南ユダの人たちや、ユダヤ人たちからは、軽蔑されていて、お互いに交際しない関係となっていたのであります。しかも、見知らぬサマリアの女性に、主は出会って、自ら語りかけられたのであります。
 主は、言われます。「もし、あなたが、神の賜物、贈り物を知っており、水を飲ませてくれと要求した者が誰であるか知っていたならば、自分の方から、願って、彼は、あなたに命の水、生きている水を与えたことであろう」と。女は言います。「主よ、この井戸は深いし、あなたは、バケツも持っておられません。どうやって、水を与えるのですか。」
主は、答えられます。「この水からのむ者は再び、渇くであろう。しかし、私が与える水は、その人の内において泉となり、そこからは永遠の命に至る水が湧き上がるであろう」と。女は、「主よ、私が渇いて、またここに、くみに来なくていいように、その水を私にください」と。
主は、その時、話を転回して、「あなたは行って、あなたの夫を連れて来なさい」と言われます。すると、女は、「私には夫はいません」と答えます。主は、「あなたは見事に答えた、あなたには、5人の夫がいたが、今一緒にいるのは、夫ではない」と、見抜いて言われたのであります。
 この女性は、どうにもならない過去の渇きを持った女性でありました。それを、全知全能の神の子である主イエスは充分知っておられたのであります。この女性は、「私はあなたを預言者であると見ます」と答えました。そして、しかし、「私たちは、あの丘、ゲリジム山で、礼拝していますが、あなた方は、礼拝すべき場所は、エルサレムにおいてであると言っています」と語り出すのであります。
 主イエスは、「あなた方は、知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。なぜなら、救いはユダヤ人から来るからだ」と言われます。救い主は、ユダヤ人から起こることになっていると主は、明言なさるのであります。そして、「この山でも、エルサレムでもなく、父を霊と真理、まことにおいて礼拝する時が来る、今がその時である」と言われ、神は霊であられるから、誠実に礼拝する者は霊とまことにおいて礼拝しなければならないし、父は、そのように真実に礼拝する者たちを求めておられる」と言われるのであります。今や、礼拝する神殿とか場所が問題ではなく、霊とまことにおいて、礼拝することを神は望んでおられる時であると主は示されたのであります。
 その女の人は、「私たちは、キリストと呼ばれるメシアがお出でになることは存じています、その時にすべてのことを開示してくださるでしょう」と言いました。すると、主は、「私である、あなたと話している者である」と御自分がメシアであることを、このサマリアの女性に啓示されたのであります。
 私たちは、この時から、ゲリジム山でもエルサレムでもない所で、世界中のいたるところで、主なるイエスの体と血において父なる神を礼拝することになることを、本日の記事を通して知らされるのであります。
 今は、主の十字架への道行きを覚える時でありますけれども、主イエスの十字架において裂かれたからだと、流された尊い血を通して、霊とまことにおいて、父を礼拝することが父なる神のご意志であることを、本日の記事を通して知らされるのであります。
 そして、このお方、主イエスは、私たちの心の渇きを十分に御存知であります。私たちは、今、大地震を通して未曾有の危機を生きていますが、家庭の身近なところから、私たちの不満や無関心を癒し、なだめられる主イエスの与えてくださる永遠の命に至る生きた水を与えてくださるようにと求め、そして、主日には、主のみ言葉と出来事を通して、霊であられる父なる神に対して、霊と真理、まことにおいて礼拝することを、神は望んでおられることを、思い起こし、私たちの前に立ちはだかる今日の危機を乗り越えていきたいものだと思います。
一言祈ります。
 父なる神さま。あなたは、本日の主イエスのみ言葉を通して、霊とまことにおいて礼拝すること、また、あなたが、私たちに、礼拝を通して仕えてくださることを、知らされ、感謝いたします。今回の大地震、大津波を通して、私たち日本は、未曾有の困難に直面していますが、あなたへの信頼をなくすることがありませんように。被災者の方々が一日も早く復旧され、一人一人の生活が守られますように。また、私たちの日常の家庭を顧みてください。主イエスの尊い体と血によって、私たちの渇きが癒されますように。キリストによって祈ります。アーメン。
                                  アーメン。
 
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2011/03/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私たちのために命を献げてくださった方」(マタイ20:17-28)
マタイ20:17-28、2011・03・20、四旬節第2主日(典礼色―紫―)、創世記12:1-8、ローマの信徒への手紙4:1-12

マタイによる福音書20:17-28
 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何か望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたち者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」




説教「私たちのために命を献げてくださった方」(マタイ20:17-28)

主の十字架を覚える四旬節、レントの期間にも、私たちは、主日には主として福音を聞くために、それにふさわしい福音書の記事が与えられています。本日は、マタイ20:17-28が与えられています。
第三回目の受難予告と、その直後、その時に起こったエピソードが与えられています。一読しただけですと、どうして、ここが、四旬節としてふさわしいのだろうか、よく分りません。しかし、注解書などを使って読み込んでいきますと、少しずつ、なぜ、この四旬節第2主日に、ここが与えられているのかが分かって来るのであります。今は、東日本での先日の大地震、また、津波による非常な被災という困難な中での主日礼拝が守られています。
 さて、本日は、まず、最後の受難予告の記事が、まず、記されています。「そして、主イエスはエルサレムへと上って行かれる時、12弟子たちをも伴った、そして、彼らだけを自分のもとに呼び寄せて、語られる」のであります。「見よ、私たちはエルサレムへ上って行く、そして人の子は、祭司長たちや律法学者に渡されるであろう、そして彼らは彼に死刑の有罪判決を出すであろう。そして、彼らは異邦人に彼を渡すであろう、そして異邦人たちはあざけり、鞭打ち、十字架につける、そして、彼は三日目に起き上がらされるであろう」と、記されています。第3の受難予告として、主がどのような苦しみを経て、十字架につけられ、復活することになっているかを明瞭に弟子たちに伝えています。弟子たちの反応は書かれていません。
「その時、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が、やって来てひれ伏し、何かを要求する」のであります。主は、「あなたは何を求めているのか」、と聞くと、その母親は、「あなたのみ国において、私の二人の息子をあなたの右と左に座れると言ってください」、というのです。それに対して主は、「あなた方は何を求めているのか分かっていない。私が飲もうとしている杯をあなた方は飲むことができるか」、と問われるのであります。二人は「出来ます」と答えます。
主は、エルサレムに上って、苦しみを受け、十字架の死を遂げる、主の飲もうとしている杯とは、エルサレムで受ける苦難、試練の杯であります。私たちは、主のそのあとのご復活を喜びあうのでありますが、その前に受ける苦しみと、主の死を忘れがちであり、死というものを直視しない傾向があります。そして、主に従う私たちも、苦難を避けて通れるものならそうしたいと考えがちです。
大地震で無数の人が、あるいは亡くなり、あるいは被災者として避難生活を送っていますが、私たちは、それらの困難に遭わなければよいと思っています。
しかし、クリスチャンは復活の喜びと共に、主の十字架に従って、それぞれの十字架を担って、日々を歩まねばならないのであります。さて、この二人の出しぬきの、先駆けの功名、栄誉を手にしようとしたことを、聞いた残りの10人はそのことで怒ります。
すると、主は、彼らにお語りになります。「異邦人たち、ローマ人たちは、その長が彼らの上に支配をし、大きい者たち、偉い者たちは、彼らに圧政を強いている。しかし、あなた方においてはそのようであってはならない、そのようではないだろう。あなたがたにおいては、大きい者になりたい人は、あなた方のディアコノス、奉仕者になるであろうし、第一でありたい者は、あなた方の奴隷になるであろう」、と言われます。そして、「ちょうど、人の子、私が、やって来たのは仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの者のために、その罪から解放する身代金として、私の命を与えるためであるのと同じである」と言われるのです。
私たちのために、罪の代価としての身代金として、主イエスは、その命をささげてくださるのです。主イエスのほかに、私たち全人類のために、命をささげてくださる方は、聖書によれば他に誰もいないのです。この日本での今回の大きな災害の中で、私たちは、信仰を失わず、道において迷わずに、主が示して下さる道を、またここから、力を合わせて、歩み出して行きましょう。

天の父なる神さま。
 私たちをして、この混乱の時、一つとなって、被災者のためにできることを、こなしていくことを得させたまえ。新聞記者や、報道機関などの職についている方々を特にお導きください。現場で、災害の復旧に携わっている人々をもあなたがお守りください。キリストのみ名によって祈ります。 


2011/03/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の言葉で対抗する主イエス」(マタイ4:1-11)
マタイ4:1-11、2011・03・13、四旬節第1主日(典礼色―紫―)、創世記2:15-17、3:1-7、ローマの信徒への手紙3:21-31

マタイによる福音書4:1-11
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることがないように、
 天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。





説教「神の言葉で対抗する主イエス」(マタイ4:1-11)

一言、祈ります。天の父なる神さま。今日は、一昨日の東北大地震後の礼拝です。大地震は、大津波をもたらし、未曾有の被害を生み出しています。私たちが、脆い裸の存在で生まれ、また、塵に返るべき弱い存在であることを思い知らされています。どうか、被災地の救援が速やかになされ、一人でも多くの方が救い出されますように、政治の力や宗教の力が精一杯、発揮されますように、主のみ名によって祈ります。
 
本日は、四旬節第1主日であり、マタイ4:1-11が与えられています。これは、明瞭で、簡潔な文を構成しています。初めに、主イエスの洗礼の時に主の上にくだった聖霊が、天から、「あなたは、私の子である」との声と共に与えらえましたが、その時、その霊が、主イエスを荒れ野へと導き上り、それは、彼、み子を誘惑するためであったのであります。
40日40夜、主は断食なさり、その後空腹となられます。これは、モーセが十戒をシナイ山で授かるときにした断食と同じものであり、また、エリヤが力尽きて倒れていた時に、み使いたちが食物を与え、ホレブ山に向かって、40日40夜、歩き続けたのと同じ時間であります。
その時、試みる者がやって来て言います。「あなたは神の子なら、この石どもに命じて、パンになるように言いなさい」と。主は、「人はパンのみで生きないであろう、そうではなく、神の口から出るあらゆる言葉の上に生きる」と申命記の言葉を引用して、第1の誘惑を退けたのであります。これは、イスラエルの出エジプトの民が40年の荒れ野での旅において主によって与えられた言葉であります。
古いイスラエルは、神に最後まで従順であることはできなくて、失敗したのでありますが、メシア、神の子として来られた主イエスは、申命記の言葉に頼って、第1の誘惑に打ち勝たれたのであります。
第2の誘惑は、神の都へと、悪魔、ディアボロスは彼を導き、神殿の端、塔の先端に立たせて、今度は、悪魔も、詩編の言葉を持ち出して、言うのであります。「あなたが、神の子なら、下へと身を投じなさい。主が天使たちに命じて彼らの手で彼らはあなたを持ちあげ、あなたがあなたの足を石に打ちつけることがないように守られると書いてある」というのです。
主は、「あなたの神を試してはならないと書いてある」と、申命記の言葉で対抗します。イスラエルの民が、主を試したのに対して、主イエスは、み言葉によって、神にあくまでも従順を貫きます。
第3の誘惑では、悪魔は、彼を非常に高い山に連れて行き、全世界の王国とそれらの栄光を見せた後、「あなたが、ひれ伏し拝むなら、これらすべてをあなたに与えよう」と言ってきます。
主は、「退け、サタン、神にのみ仕え、ただ神だけを礼拝せよと書いてある」と、ここでも申命記の言葉を引用して対抗します。その時、悪魔は、離れ去り、天使たちが来て、仕えていた、給仕していた、と結ばれています。
主は、受難節の始めに当たって、真のメシアは、主なる神、父なる神にあくまでも従順に従い、そして、苦難のメシア、神のみ心にあくまでもしたがうメシアであることを示されました。
私たち、人間は、罪を犯しやすい存在です。ルターは、主イエス以外には、絶対にどんな教父であれ、聖人であれ、全幅の信頼を寄せてはならないと戒めています。私たち人間は、アダムとエヴァの堕罪以降、主イエスを除くすべての人が、罪を犯しうる弱さを持った存在であることを強調しています。
主イエスがこの世の荒れ野で、悪魔と戦い、打ち勝って下さったことを思い起こしながら、東北大地震の災害が起こった、この時期を、主イエスの従順と、十字架に向かう姿勢を思い起こしながら、四旬節のこの期間、より慎ましやかに、神の言葉に頼りながら、歩んでまいりましょう。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方と共にあるように。アーメン。


2011/03/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「信仰の神秘」(マタイ17:1-9)
マタイ17:1-9、2011・03・06、変容主日(典礼色―白―聖餐式)、出エジプト記34:29-35、ペトロの手紙二1:16-19

マタイ17:1-9
 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。



説教「信仰の神秘」(マタイ17:1-9)

今日は変容の主日であり、顕現節の最終主日でもありますが、聖壇で用いられます色は先週までの緑から白に変わっています。これは、神、ないしは神の顕現を表す色であります。
私たちのこの世の中は、先日もスーパーで小さな女の子が一人でトイレに行っている間に、命を奪われるといった悲惨な出来事が一方で、起こり、また、世界中で人間の命がたくさん奪われる紛争や内紛が続いています。このような理不尽が昔から続いて来ているのでありますが、私たちは、このような暗い世界、暗闇の社会において、信仰の神秘を本日は知らされるのであります。
主イエスは、6日の後、すなわち、ペトロの信仰告白と、主の受難予告の後に、ペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られます。これは、伝統的にはタボル山と考えられてきましたが、フィリポ・カイザリアからの地理を考えますとヘルモン山であったかもしれません。そこで、主の表情は変わり、太陽のように輝き、その服は、光のように燦然ときらめいたのであります。そして、彼らに、モーセとエリヤと共に話しておられる主イエスが認められたのであります。この出来事は、難解な出来事であり、昔から、復活後の出来事を、この時点にさかのぼらせて、マタイがここに入れたのではないかと考える人もいました。
しかし、その言葉などの分析をすると、復活後の記事とは異なるということであります。さて、ペトロは、「私たちがここにいることは、好ましい、素晴らしいことです、主よ、あなたがお望みならば、3つの仮小屋を私は作りましょう、一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」と、何と言っていいかわからずに、答えたのでありました。モーセは律法を代表し、エリヤは預言者を代表していますし、彼らは二人とも天に上げられたと考えられていまして、主イエスも天的人物であることを示しています。 
しかし、輝く雲が彼らを覆います。そして、雲の中から、「これは、私の息子、愛する者、彼において私は喜んでいる。あなた方は彼に聞くように」との声が成ったのであります。
私たちは、聖人たちや他の誰でもない主イエスに聞き従うことが父なる神によって、求められているのであります。私たちは、キリストを信じていますけれども、他の価値観や他宗教にも、尊敬の念を持って耳を傾け、共に理解しながら生きて行くこともしなければなりません。
しかし、本日、示されました雲の中からの声、主イエスの洗礼の時と同じ啓示の言葉を根本に持たなければなりません。そして、主イエスに聞き従うということは、主のみ教えと共に、主イエスが受難に向かうメシアであるということを何よりも信じるということであります。
改革派の神学者にカール・バルトという人がいました。彼の神学は危機神学と言われ、キリスト教は一方的な、超越的は啓示の宗教であると、第一次世界大戦や第二次世界大戦などの危機を通して主張したのであります。それは、マルチン・ルターの十字架の神学にも通じるものでありましょう。
私たちは、十字架とか苦難とかを避けようとする傾向があります。しかし、復活の栄光に主が与る前に、主イエスは、本日の出来事から、さらに、エルサレムへと十字架に向かって進んで行かれるのであります。
今週の水曜日、3月9日から、灰の水曜日礼拝を経て、日曜日を除く40日間の四旬節に入ります。そして、今年の復活祭は、4月24日となります。
私たちは、本日の主の変容の出来事を信仰の神秘として受け入れ、栄光のみ国の世継ぎとされて、毎日を喜び生きる者とされたいものであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。アーメン。



2011/03/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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