津田沼教会 牧師のメッセージ
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「驚くべき言葉」(マタイ7:15-29)
マタイ7:15-29、2011・02・27、顕現節第9主日(典礼色―緑―)、申命記11:18-28、ローマの信徒への手紙1:8-17

マタイ7:15-29
 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。



説教「驚くべき言葉」(マタイ7:15-29)

本日のみ言葉は、まず、私たちを戸惑わせ、たじろがせます。マタイ福音書は、特に教会向けの福音書だと言えます。主はまず「あなた方は、偽預言者から気をつけなさい。彼らは羊の皮、服において来るが、中身は、貪欲な狼である」と言われています。これは、主イエスというよりは、後のマタイの福音書の記者が、この出だしの文を付け加えたとも考えられます。これは、ファリサイ派とか、ユダヤ教の者たちではなく、キリスト教が出来ていく中で教会で起こっていた出来事が、背景にあるのでしょう。しかし、主のお言葉は、「いばらからブドウは取れないし、あざみから、いちじくは取れない。良い木は良い実をもたらし、悪い木、腐った木は、悪い実をもたらす。良い木が悪い実をもたらすことはできないし、悪い木が良い実をもたらすこともできない。そして、彼らの実から、彼らをあなた方は認識するであろう」、とあります。
私たちは良い木を見定め、良い預言者について行かなければならないのであります。そして、「よい実をもたらさない木は、すべて、切り取られ、火の中へと投げ込まれると」主は、ここで、洗礼者ヨハネと同じ、終末における主の裁きについて語っておられるのであります。その次には、「主よ、主よと言う者がすべて天の国に入れるわけではなく、天におられる父の御意志を行う者だけが入れるのである」と言われます。
しかしながら、私たちは、自分が天の父の御意志を行っていると、一体だれが自信を持って言えるでありましょうか。私どもの1週間を振り返りましても、怠りや心の中での暗い思い、言葉と思いと行いによって、罪を犯さざるを得ない弱い存在ではないでしょうか。
「あなた方は、しかし、主よ、あなたの名において、私たちは預言しましたし、悪霊を追い出しましたし、多くの奇跡、力あるわざを行ったではありませんかと、かの日において言うであろう。しかし、私は、あなた方を知らない、不法を働く者どもよ、私の前から立ち去れと言うであろう」と主は語っておられます。熱狂的に、主の名によって顕著なことを行ったとしても、天の父の御意志を行う者でなければ、天の国へと入ることはできない、と主は、終末の裁き、最後の審判において、言われるのであります。
しかし、それに続けて、心が和む言葉を主は譬えで語っておられます。「私の言葉を聞いて行う者は、以下の者になぞらえることができようと。すなわち、岩に向かって土台を立て、そこに基礎を置いた賢い人に」と。「雨が降り、川がやって来て、風がうちつけたが、彼の家は倒れなかった、岩を土台としていたからである」と。また、「私の言葉を聞いて、行わない人は次の愚かな人にたとえられよう。すなわち、彼は、砂に向かって彼の家を建てた。そして、雨が降り、川がやって来て、風がたたきつけた。すると、その家は倒れた。そしてその崩壊ぶりは大きかったのである」と、語られているのであります。
「私の言葉を聞いて、行う人になりなさい」と、主は勧めておられます。私たちが良い結果を生み、良い業績を残すことが求められているのではありません。私たちの置かれた平凡な、身近な生活の中で、主のみ言葉に従うことが求められているのであります。今年も早いものでもう2月も終わろうとしています。教会に取りましても、それぞれ個人にとりましても、もう6分の1が終わろうとしているのであります。しかし、私たちにとって大事なことは、主イエスのみ言葉を生活の土台として位置付けることであります。
 「そして、成ったことには、かのイエスが語ることをそれらの言葉を終えられた、そして、群衆は彼の教えの上に驚かされていた。なぜならば、彼らの律法学者のようにではなく、権威を持っている者のように彼らに対して教えておられたからである」、と山上の説教は、結びを迎えるのであります。驚かされる言葉どもを、主イエスはお語りになったのであります。1週間の内に、天の父の御意志に適わない時間がどれほどあったことでありましょうか。しかし、「私の言葉を聞いて行う者は、岩の上に家を建てた賢い人にたとえられる」と、主は約束なさっておられるのであります。
この1年間も、津田沼教会の前途にも数多くの困難が待っていることでありましょう。しかし、私たちは、できるかぎり、主のみ言葉を土台として、神を愛し、隣人を愛し、地の塩としての歩みを続ければ、道はきっと開かれるのであります。
 
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方を守るように。アーメン。









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2011/02/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「恵みに目を向けよう」(マタイ6:24-34)内海望先生
マタイ6:24-34、2011・02・20、顕現節第8主日(典礼色―緑―)イザヤ書49:13-18、コリントの信徒への手紙一4:1-13

マタイ6:24-34
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


説教「恵みに目を向けよう」(マタイ6:24-34)内海望牧師
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方に合うように。

 今日の聖書日課は、私たちの心をなごませます。「あなたがたの天の父は、あなたがたに必要なものを御存知である。だから、思い悩むな。すべてを神さまに委ねよ。」とイエスさまは命じておられます。何か心が軽くなるような気持ちがします。しかし、ここで私たちはイエスさまから問いかけられてもいるのです。「聖書を読む」ということは、聖書から問われるということでもあります。
 「思い悩むな」ということは命令ですから、「守れ」とおっしゃっているのです。また、このイエスさまの命令は極めて当然です。私たちが思い悩むのは自分の命を守るためなのです。しかし、27節で語られている通り、私たちがいくら思い悩んでも寿命をわずかでも延ばすことは出来ません。それどころか、そもそも私たちは命が与えられる時である誕生そのものも自分の力ではどうにもなりません。つまり、人生そのものが初めから終わりまで与えられたものであり、人間の力ではどうすることも出来ないのです。すべては、神さまのみ心にあるのです。
 それでも、私たちは明日のことを思い悩み、奪い合い、口角泡を飛ばして人と争っているのです。キェルケゴールは、「小鳥は、湖面にすっと舞い下り、必要なだけの水でのどを潤すと、さっと飛び去る。しかし、人間は湖の岸に座って水を飲みほそうとしている」と人間の貪欲さをシニカルに描写しています。ここには貪欲のため、人間関係を壊し、心に憎しみさえも抱く私たち人間のみじめな重苦しい心が映し出されます。
 このような私たちの姿は、イエスさまの「思い悩むな」という慰めにみちた命令を無視していると言えないでしょうか。言い換えれば、私たちは神さまの約束を心の奥底では信頼していないのです。ですから、神さまの力が十分でないかのように、安心して生きていけるよう貪欲に奪い合っているのです。そして、「いざという時は何とか助けて下さい。」と神さまを都合よく利用しようとしているのではないでしょうか。
 私たちは山上の説教をここ数週間読んでいますが、本当に真剣にイエスさまのみ言葉に信頼し、応答しているでしょうか。イエスさまは、私たちに真剣に語りかけて下さっているのです。ところが、私たちは聖書を道徳の教科書のように読んでいるのではないでしょうか。そして、イエスさまのことばを、自分の努力目標のように内容を薄めてしまっているのです。しかし、イエスさまは、全身全霊をもって、私たちに語って下さっているのです。これはもう対話というよいり、真剣な一対一の対決です。
 間違ってはいけません。イエスさまが、「敵を愛せよ」とおっしゃったら、その通りしなければいけないのです。「体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちないほうがましである。」とおっしゃったら、これもその通りなすべきなのです。たとえではありません。
 このようなイエスさまの語りかけに真正面から答えようとした人々がいます。その一人がルターでした。彼はイエスさまの命令を忠実に守ろうと自分の未来の栄光をみな捨ててしまって、修道院に飛び込み、努力を重ねたのです。その熱心さは同僚の修道士を驚かせるほどであったと伝えられています。しかし、ルターが最終的に、神さまの前で見出したのは「罪を犯している私」ではなく「全く罪人である私」でした。たとえば、祈っている時でさえ自分のことを考えている自分を見出して、絶望しました。もうあれこれの小さな過ちのことではなく、心の底まで罪人である自分の発見でした。罪の底知れない深さに震えあがったのです。ルターは、本日の第二の日課に書かれているように「闇の中に隠されている人の企てを明らかにされる神さま」の前では逃げ隠れ出来ない罪人である自分を発見しました。
 これに反し、私たちは、自分で何とか言い逃れが出来る範囲に罪を小さくしてしまおうとしています。自分で償える程度に罪を小さく縮めてしまっているのです。そして、小さな懺悔でごまかそうとしているのです。
 ところが、そのような不誠実な罪人である私たちを救うためにイエスさまは命を捨てて下さったのです。パウロはこう言います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思われず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2章)。イエスさまは神の子という栄光を投げ捨て、私たちに仕える僕となり、私たちを救うために十字架に死んで下さったのです。
 イエスさまは、罪人であり絶望のどん底に落ちているルターのために死んで下さった方です。そして私たち一人一人のためにも。ルターは、これを信じた時、天国の門が眼前に開かれたような思いだったと語っています。イエスさまは僕として私たちを支えて下さっているのです。そして、十字架の血によって私たちの罪を贖って下さったのです。私たちが、罪を小さくし、あれこれとぐずぐず言い抜けようとしている間は、この大きな恵みが見えません。小さな罪には小さな恵みしか見えないのです。私たちは、あたかもイエスさまの十字架の死など必要ないかのように生きてはいないでしょうか。小さな懺悔ばかり繰り返しても、決して喜びは得られません。しかし、「罪人である私を救って下さい!」とみ前にひれ伏す時、私たちには新しい天と新しい地を見るような喜びが沸き起こって来るのです。
 ルターは盟友のシュパラティンという人物が、牧師として誤った判断をしてその罪に苦しんでいると聞いて、次のような手紙を書きました。「確かに、あなたは罪を犯しました。しかし、あなたが悩んでいる姿は、あなたのことを思いやることのできる方をもはやひとりも持たなくなった最初の人のようです。どうぞ、私ども、とんでもない罪人たち、頑迷固陋な罪人の仲間入りをして下さい。そのようにして、キリストを、絵空事の、子どもっぽい罪からしか救えないような小さな、頼りない存在にしてしまわないようにして下さい。」と。
 「絵空事」、まさにそうではないでしょうか。絵にかいたような罪人になりたがっている、だから絵にかいたような恵みしか得られないのではないでしょうか。
 ほんものの罪人だけが、本物の恵みを喜ぶことが出来るのです。私たちは罪人ごっこをしているのではありません。正真正銘「死すべき罪人」です。その私を救うためにイエス・キリストは十字架に死んで下さったのです。この十字架の愛を信じて本物の恵みの喜びにあずかりましょう。
 聖書を読んでいつも心打たれる個所の一つは、中風を患って床から一歩も離れることが出来ない人のことです。友人たちが、彼を担架に乗せて運んできます。イエスさまは、「あなたの罪は赦された。起き上がり、床をかついで家に帰りなさい。」とおっしゃいます。「その人はすぐさま起き上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら帰って行った」と聖書は、その時の様子を伝えてくれます(ルカ5章)。彼は、イエスさまのもとに来た時は苦しみに縛り付けられていました。しかし、イエスさまから赦しを受けて、今まで自分を縛りつけていたベッドを肩に、軽やかな足取りで帰って行く姿は感動的です。重荷が重荷でなくなったのです。
 今日は、私たちは絵空事でなく、本物の恵みを頂き、感謝し、喜んで家路につきたいと思います。すべての罪、思い悩みはもはや私を苦しめません。イエス・キリストの十字架の愛を信じることによって軽やかな足取りが与えられるのです。
 「すべてを神さまに委ねる」、これは決して無責任な生き方ではありません。罪を赦して頂いたその時、私たちは気付くのです。「信仰とは、生き生きとして、絶えず善いことをせざるを得ない喜びを与えてくれる」ということを。私たちの心は、自我から離れて他者に向かうようになるのです。イエスさまから頂いた赦しの恵みは必ず実りを生み出すのです。私たちは祝福を持ち運ぶ者に変えられるのです。
 まさに人知では測り知ることのできない平安が、私たち一人一人に与えられるのです。
アーメン。
2011/02/20(日) 10:30:05| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主と共にあって全き者に」(マタイ5:38-48)
マタイ5:38-48、2011・02・13、顕現節第7主日(典礼色―緑―)、レビ記19:17-18、コリントの信徒への手紙一3:10-23

マタイ5:38-48
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」



説教「主と共にあって、全き者に」(マタイ5:38-48)

本日の福音、マタイ5:38-48は、反対命題と呼ばれるものの最後を形成しています。そして、マタイ5:38-42は、復讐しないように、という内容であり、5:43-48は敵を愛しなさいというものであります。私たちの生まれつきの性質からはとてもできない二つのことを扱っています。
最初の部分から、見ていきましょう。主は言われます。あなた方は目には目を、歯には歯をと言われていることを聞いている。しかし、私は言う。悪人に手向かうな。もしも、だれかが、あなたの右のあご骨を打つなら、他方をも向けなさいと、主は言われます。「目には目を」「歯には歯を」というのは、はるか昔、紀元前1800年ほども前のハンムラビ法典に出てくるものであります。これは、血による一族への報復を禁じるものであり、同害報復と言われるものであって、復讐を制限する趣旨の法典でありました。旧約聖書もそれにのっとっているのであります。目には目を、歯には歯を、あるいは、やけどには、やけどを、などと出て来ます。
 しかし、これでは、十分な、徹底した解決にはならないのであります。記憶に新しいアメリカで起きた同時テロに対して、アメリカは、テロ集団に対して報復の戦争を始め、その結果は今も、自爆テロなどによって、戦争はやむことなく続いているのであります。
 主イエスは、右のあごを打つ者には、左のあごをも向けよと言われます。右のあごを打つということは、その相手が右手の甲で通常打つことになり、それは、非常な侮辱を与えることを意味しています。しかし、主は、侮辱されても仕返しをせず、他の頬をも向けよというのであります。
 この復讐するなという教えは、3つほどの例が挙げられています。いずれも、法廷での訴訟や、法律に関わる事柄が前提とされています。もし、相手が訴えて、下着を要求するなら、上着をも与えなさい、と主は言われます。肌着は何枚か、当時の人々も持っていたでしょう。それを訴訟で求める者には、上着をも差し出せと言われるのです。上着は、旧約の律法では、寝具として、夕方までには、質に取っていても返さなければならないと定められていました。しかし、主は、それをも、相手方に与えるがいいと言われるのです。
 「権利のための闘争」という本を大学時代に手にしたことがあります。権利を守るためには、徹底して戦わねば、正義や人権が保てないといった趣旨であったと思います。しかし、主は、訴訟で、下着を訴える者には、上着をも与えなさいというのです。
 また、だれかが、1ミリオン、1.5キロメートルほど強制したならば、彼と共に2ミリオン、出て行くがよいと言われます。当時のローマ軍の兵隊の所持品を、市民は運ぶように徴用されることが一般に行われていました。主は、それに対しても、一般に課せられていた1ミリオンにとどまらず、2ミリオン、一緒に行きなさいと命ずるのです。また、あなたに、借りることを求める者には、返してもらうことを期待せず、与えなさいとまで言われ、あなたから、借りようとする者には、顔をそむけないようにとお命じになるのです。報復は、神のすることであるとローマの信徒への手紙でパウロも言っています。悪人に手向かわず、報復を徹底して退ける生き方を、主は勧めておられるのです。主日の祈りにありましたように、神に、「私たちの願いに心を傾けて、私たちがなすべきことを悟り、喜んで行う力を与えてくださるように」私たちは願い求める時、祝福される生き方を知るのではないでしょうか。
 次に、後段の5:43-48であります。あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎むようにと、言われていることをあなた方は聞いていると、最後の反対命題を、主は言われます。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよと、本日の旧約聖書の日課、レビ記19:18には出ていましたが、あなたの敵を憎めとは、旧約聖書の中には、直接は出て来ないのであります。クムラン教団の信徒たちには、自分たちを世から選ばれた光の子として、愛し合い、他の者たちを闇の子として分別するようにという訓練の手引にはありましたが、いずれにしろ、主イエスは、しかし、私は言う、あなたがたの敵どもを愛しなさい、また、あなた方を迫害する者たちのために祈りなさい、というのです。そのようにして、あなた方は天におられるあなたがたの父の子らになると、言われ、なぜならば、父は、悪人どもにも善人どもにも、彼の太陽を昇らせ、正しい人たちに向かっても、不正な人たちに向かっても、雨を降らせるからである、と言われます。私たちの天におられる父は、そのように寛大で憐れみに富みたもうお方であります。
 そして、主は言われます。あなた方を愛する人たちを愛したとて、どんな報いがあろうか、徴税人たちも、自分たちを愛する者たちに同じことをしているではないかと。徴税人たちは、強欲で、また、ローマ人たちと触れ合う者たちとして、汚れているとして差別されていました。
 また、主は、自分たちに挨拶してくれる人たちとだけ挨拶したところで、どんな顕著なことをしていることになろうか、それなら、異邦人たちも同じことをしていると、言われました。この挨拶というのは、単なる挨拶ではなく、挨拶する相手の平和と福祉を心から願ってあげることを意味しています。
 主は、それゆえ、あなた方の天の父が完全であるように、あなた方も完全な者になりなさいと結ばれています。性格や性質において、父なる神のように完全な者に成ることは私たちにはできません。私たちは、身近なところで、たとえば、家庭において、ひどい言葉を使ったり、相手を傷つけるようなことをも、しがちな者であります。
 しかし、主と共にあって、和解と愛において主イエスと結ばれるときに、私たちの天にいます父と同じようにまったき存在になるであろうと、主は約束なさるのであります。
 昔、もう20年近くなるでしょうか、アメリカからJ3として日本の熊本に派遣されて九州学院でありましたか、英語の奉仕などをしていたロバートという青年がいました。ところが、天草のあたりでしたか、J3の皆とサイクリングをしていて、確か、居眠り運転の主婦に引かれてなくなりました。
 その両親は悲しんだことでしょうが、アメリカから訪れて、損害賠償などはしないで、その主婦のことを赦してあげました。そして、その主婦も、ルーテル教会にも訪れたりしたということです。
今日の福音の個所は、復讐するなという教えと、敵を愛せよ、そして、あなた方の天の父の子らになるのだから、父のように完全な者になりなさい、なるであろうという命令と共に約束の言葉でありました。
 私たちも、日常生活の身近なところから、本日の主イエスの言葉を、具体的に実行する者になることができます。私たちは、主イエスの言葉に従っていく時、主イエスと共にあって、全き者になることができると、主御自身によって招かれています。復讐せず、敵をも愛し、私たちのなすべきことを、悟り、喜んで行う力を受けていきたいものであります。
一言祈ります。
父なる神さま。私たちは、性格において欠け多く、非常に弱い者でございます。しかし、主イエスの言葉に従っていく時、私たちの父なる神であるあなたのようにすべての人に憐れみ深く、全き者へとあなたは、私たちを成長させてくださいます。反対命題のいくつかの主の言葉を聞いて来ましたが、私たちが主の言葉と共にあって、それらを実行していく者と成らせて下さい。
 そして、地の塩、世の光として歩み、人々が天にいますあなたをあがめるように、私たちの光を人々の前に、輝かすことができますように。キリスト・イエスによってお祈り致します。アーメン。

2011/02/13(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「祝福される生き方」(マタイ5:21-37)
マタイ5:21-37、2011・02・06、顕現節第6主日(典礼色―緑―)申命記30:15-20、コリントの信徒への手紙2:6-13

マタイ5:21--37
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこからでることはできない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまづかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」


説教「祝福される生き方」(マタイ5:21-37)
本日は、いわゆる山上の説教に入っていまして、マタイ5:21-37が与えられています。群衆を見ながら、山に登り、そこで、主が弟子たちに語られたお言葉から、成っています。殺すことについて、姦淫について、離婚について、そして、誓いについての主のお言葉であります。
これらの言葉を、もっともっと人生の早い時期に知っていたならばと、重ねて思わされるお言葉ばかりであります。主は、「昔の人にこう言われたことをあなた方は聞いている」と、語り始め、殺してはならない、あるいは、姦淫してはならない、偽って誓ってはならないなどというモーセに与えられた律法に対する反対命題を述べられるのであります。
まず、「あなたは、殺してはならないと言われているのをあなた方は聞いた、あるいは聞いている」と語り始めます。「しかし、」と訳されていますが、もともとは、「で、」あるいは、「さて」という言葉で御自分の教えを弟子たちに語られるのであります。
「で、私は、言うが、兄弟に対して怒ってはならない、その者は、裁きの責めを負うであろう」と言うのです。私たちは、兄弟、夫婦、家庭の中においてすら、怒りやすい者であります。そして、殺すということも怒りから来るのであります。さらに、「あなたの兄弟に対して、馬鹿と言う者は、最高法院における責めを負う、また、脳足らずと言う者は、火のゲーナの責めを負う」と言うのです。また、「神殿にささげ物をするときに、自分に対して、何か根を持っている兄弟を思い起こしたなら、まず、神殿の祭壇の前に、そのささげ物、贈り物を前において、その兄弟のところに行って、仲直りし、和解したうえで、赦してもらった上で、戻って来てささげ物をするがよい。」
「また、訴訟の敵対者、相手方と訴訟に、道において行くときには、速く彼と折り合いをつけるがよい。そうしないと、判事はあなたを下役に渡し、下役は獄にあなたを投げ込む。言っておくが、最後の1クァドランス、最後の一銭まで支払うまで出てくることはできない」と言われるのです。
次に、姦淫についてであります。「あなたは、姦淫をしてはならないと、あなた方は聞いているが、私は言う、他人の妻に対して、性的欲望をもって見る者は、既に、心の中で彼女に対して姦淫したのである」と厳しいことを言われます。そして、「もしあなたの右目が、あなたがつまずかせるなら、えぐり出しなさい。体の一部を失っても、あなたの体全体が、ゲーナ、地獄に投げられない方があなたに益である」と言われます。さらに、「あなたの右手が罪を犯すなら、切り取って捨ててしまいなさい。全身を持ってゲーナへ出て行くよりも、体を一部失って、からだを地獄に出て行かせない方があなたに益である」と言われるです。
それから、離縁、離婚について言われます。「離婚する場合には、離婚証明書を与えさせよと言われているが、不法な結婚でもないのに、姦淫などでないのに離婚するのは、その女を姦通させることであり、その女をめとる者も、姦通の罪を犯すことになる」と言われます。結婚は聖なるものであり、一定の場合にモーセが離縁状を出すのを認めたのは、人々が、すなわちあなた方民が心がかたくななためであると言われ、結婚の神聖を二人は守るべきだと言うのであります。
最後に、誓いについてであります。「偽って誓うなと昔の人に言われているのをあなた方は聞いているが、また、誓いを忠実に果たせと言われているが、天において、地において誓うな、それは神の玉座であり、足台である。エルサレムへと誓うな、それは大王、神の都だからだ、あなたの頭において誓うな、あなたは、あなたの髪の毛を1本でも白くも黒くも出来ないからだ。あなた方の言葉は、はい、はい、いや、いやであれ。それ以上に出るのは、悪からあるいは、悪魔から来るのである」と、主は、律法を成就するために来られた方であることを、示されたのであります。私たちの生活と行いが、十分に真実であるならば、誓う必要もなくなるのであります。
 私たちは、このような主の言葉に従うとき、真に祝福された生き方ができるようになるのであります。祈りましょう。
 天の父なる神さま。今日は、主の山上の説教の一部を与えられ、ありがとうございます。心から、怒りを取り除き、夫婦は、結婚生活を大切にし、また、私たちの生活と言動とが食い違わないとき、あえて、誓いの必要はなくなります。私たちの生活を真実な、誠実なものと、み言葉によって成らせて下さい。教会に集う一人一人が家庭生活を大事にし、また、社会生活においても、真実な言葉を語り、祝福された人生を歩むことができますように。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。








2011/02/06(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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