津田沼教会 牧師のメッセージ
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「地の塩となる」(マタイ5:13-16)
マタイ5:13-16、2011・01・30、顕現節第5主日(典礼色―緑―)イザヤ書58:1-10、コリントの信徒への手紙2:1-5

マタイ5:13-16
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をといもして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」



説教「地の塩となる」(マタイ5:13-16)
 
本日は、顕現節第5主日でありますが、津田沼教会では、いみじくも、総会の日に当たっています。そして、2011年の津田沼教会の主題は「地の塩となる」であり、主題聖句は、本日の福音の冒頭マタイ5:13であります。これは、まったく偶然のことではありますが、私はここに深い主の導きを感じています。
 今日の福音マタイ5:13-16は、いわゆる山上の説教の始めのほうにあります。先週マタイ4:18-25が与えられていました。大勢の群衆が方々から、主イエスのもとに集まり、主は教え、神の福音を宣言し、あらゆる種類の病人を癒しておられたのであります。
 そして、5章に入りまして、主は、群衆を見ながら、弟子たちを連れて山に登られたのであります。そして、主として弟子たちに教え始められたのが、山上の説教であります。群衆を見ながらとありますので、群衆もまた、主イエスの弟子たち、すなわち、教会につながる可能性を十分に秘めているのでありますが、本日の福音は、その前の八福の終りに出て来ます「あなた方、今迫害を受けている者たち、しかも私のゆえに、迫害を受けている者たちは幸いだ。人々は昔の預言者たちにも同じようにしたのである」というお言葉に続いての主イエスの言葉、説教になっています。
 主は、まず、「あなた方は、地の塩である」とはっきりと語り始められます。「地の塩となれ」とか「地の塩にあなた方はなるであろう」というのではなくて、「既に、あなたがたは、地の塩である」と宣言なさるのであります。こんな私が、地の塩であると主は言ってくださるのかと不本意に感じられます。今は冬の寒さに負け、惰眠を貪り、怠けるだけ怠けてしまう自分が恥ずかしくなります。しかし、主は、あなたは、私に従って来るならば、あなたのありのままで、地の塩であると言われるのです。
 塩とは、どんな働きをし、どんな存在でありましょうか。塩は、いうまでもなく、調味料として、食物に味をつける働きをします。その塩は、自分を媒介として、投じて、食材に溶け込み、風味をつけ、塩味をつけるのであります。また、味のある言葉を語れと別の個所で言われていますが、それは、人々と、平和に暮らし、機知にとんだ、メリハリのある言葉を語ることでもありましょう。
 また、塩は、防腐剤として、また、いろいろなものを保存する働きがあります。さらに、塩は、旧約聖書の時代以来、犠牲の動物にふりかけたり、ささげ物の穀物などに、ふりかけられました。ものを清め、浄化する働きを担っていましたし、塩の契約というと、その契約を忠実に守る忠誠心をあらわすものでした。塩は、そのような数々の働きをするのですが、「あなた方は地の塩である」という場合には、この地球の上の人類の塩であると、いうのです。
塩が、人間の生存にとって不可欠のものであるように、地の塩とは、人類にとってなくてはならない存在であるということです。
 しかし、その塩が、塩味を失ったなら、何によって再び塩気が取り戻せようか、それはもはや、何の力も持たず、外に投げられて、かの人間どもによって踏みつぶされる他には、仕方がないとも、警告されているのであります。塩が塩気を失うとは、愚かな、奇怪なことであり、本来、不自然なことであると主は言われるのです。
 私たちは、この社会の中で、塩である使命を本質的に与えられている者であり、教会も中にとじこもってばかりいてはならないことが、示されているのであります。
 タイガーマスク現象というのが、最近日本では注目されていますが、教会も、社会に存在するものとして、奉仕する存在へと招かれているのではないでしょうか。本日の主日の祈りに、ありましたように、「私たちにみ霊を注いで、あなたの愛の器とし、辛苦の道を歩むすべての人に、よき隣人として仕えさせてください」と改めて祈りたい者であります。
 さて、「あなた方は地の塩である」に対応して、5:14-16では、「あなた方は世の光である」とも明言されています。
 主は、山の上に立てられている町は、隠されていることができない、と言われ、また、人々は、ランプを付けて、枡の下には置かない、そうでなく、ランプスタンドの上に置く。そうすれば、家の中のすべてのものを、それは照らすのであると言われ、あなた方の光を、人間どもの前に、光らせなさいと、言われています。私たちは、人類の光として、隠されていることはできないし、そうすべきでもないのであります。地の塩、世の光であることを、堂々と人々、人間どもの前に指し示すならば、人々は、あなた方の見事な行いを見て、天にいますあなた方の父を称賛し、賛美することになると、主は約束されているのであります。
 偽善的に人々に見せるためではなく、公の競技場で正々堂々と麗しい行いをなし、プライベートに隠しておくのではなく、天にいます父があがめられるように、私たちは、行動すべきであります。
地の塩、世の光として、この2011年度の一年間を、ご一緒に走り抜こうではありませんか。私たち一人一人は、欠けも多く、脆く弱い土の器にすぎませんが、主イエスのお言葉に従い、一致して精一杯、働くことにより、私たちを通して、裏では悪口を言われていても、天にいます私たちの父を人々は崇めざるをえなくなると、主は約束して下さっているのであります。この一年のために、総会では、振り返りと共に、いろいろな提案や提言が挙げられます。それらをすべてこなすことはできませんが、一つずつ、やれるところから、一体となって、改善していきましょう。
祈りましょう。
天の父なる神さま。
2011年度の総会が、この後、開かれようとしています。津田沼教会の未来を築くために、みんなで総意を合わせて、力を奮うことができますように導いてください。毎週の一年間52回の礼拝が、充実したものとなるように、自覚させてください。
また、礼拝にとどまらず、いろいろな企画、バザーや特伝、小集会の営みが、充実したものとなりますように。
日本の社会、また、世界は、日に日に変化していきます。正しい目を持って、社会を見つめ、社会のためにも奉仕する教会となりますように。いろいろな事情で津田沼教会を離れている方々をも導いてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメ
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2011/01/30(日) 10:30:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスのみわざ」(マタイ4:18-25)
マタイ4:18-25、2011・01・23、顕現節第4主日(典礼色―緑―)、イザヤ書43:10-13、コリントの信徒への手紙一1:26-31

マタイによる福音書4:18-25
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟
ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。



説教「主イエスのみわざ」(マタイ4:18-25)
 
顕現節第4主日を迎えました。本日、与えられています福音は、先週に続くマタイ4:18-25であります。先週は、ヨハネが渡された後、ガリラヤのカファルナウムに主は落ち着かれて、第一声をあげ、宣教をお始めになったという記事でありました。本日は、それに続く記事であります。本日の記事は、マタイ4:18-22と4:23-25に分けられます。
 まず、前段から見ていきましょう。主は、ガリラヤの海に沿って歩きまわっておられました。そして、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンと彼の兄弟アンデレが投げ網を打っているのを目にとめられました。なぜならば、彼らは漁師であったからであります。で、主イエスは、語られます。「さあ、私の後について来なさい、そうすれば、私はあなた方を人間どもの漁師にしよう。」
で、彼らは、網をそのまま、捨てて、すぐに、主イエスに従ったのであります。
ルカによる福音書や、ヨハネによる福音書では、彼らが、主イエスの弟子になる前に、何がしかの触れ合いがあり、顔見知りであったように書かれていますが、マタイ、また、マルコでは、主の言葉かけだけで、彼らは、すぐに、従ったとあるのであります。
私たちの場合は、どうであったでありましょうか。自分はどうだったかと聞かれれば、私はすぐには、従った訳ではなく、内心忸怩たるものがありますが、それぞれどのような経緯があったにしろ、私たちもまた、主イエスの呼びかけ、召しに応えて、今はこうして教会につながっている同じ弟子たちなのであります。そして、主は、私に従って来なさいと私たちの生涯にわたって、今も語りかけておられるのであります。
 そしてまた、今日の第2の朗読、コリントの信徒への手紙一で、パウロが記しているように、神は、私たちがだれも自分を誇らないようにと、世の無に等しい者たちを選んで、私たちを弟子となさったのであります。人間的資質によって選ばれたのではないのであります。欠点があり、弱さを持った私たちを、主は喜んで用いてくださるのであります。
 さて、そして、そこから、進んで行かれたとき、もう二人の兄弟たち、ゼベダイの子らであるヤコブとその兄弟ヨハネが、舟において父と共に、網を修復しているのを、主は目にとめられたのであります。そして、彼らをお呼びになりました。すると、彼らも、すぐに、舟と父とをあとに残して従ったのであります。主イエスに従って弟子となるということは、まずもって、天の父に従うことであり、今までの生き方との離別を意味するものであり、この地上の父、肉親との訣別をもたらすことをも厭ってはならないのであります。網を繕う、手入れをする、あるいは網を修復していたというのは、やがて、後の教会が次第に完成されていくということをも暗示している言葉でありましょう。
 さて、当時のラビたちの学生は、自分たちで先生を選び、今の大学の聴講生のようにして、師の教えを学んだのでありますが、主イエスの弟子たちは、それとは違って、主イエスが一方的に主導権をもって、弟子たちを呼び出し、召命し、主イエスの言葉だけによって、弟子とされるのみならず、人間をとる漁師という専門職を主イエスと共に協力して務めるという使命が、主イエスの弟子たち、私たちには、最初から同時に与えられているのであります。
 次に、後段4:23-25は、主イエスの教えられる、マタイ5章から7章のみ言葉と8章から9章の癒しのみわざへの橋渡し、要約、あるいは総括・表題のようなものであります。
 主は、全ガリラヤにおいて行き巡っておられた、彼らの諸会堂で教えられながら、み国の福音を宣言しながら、そして、民におけるすべての病気と弱さを癒されながら、と後段は始まっています。
そして、彼の良き聞こえが、全シリアへと出て行った。そして、人々は、すべての病人を彼のもとに連れて来ていた、すべての種類の病気や苦しみに捕らわれている者たちを、悪霊に取りつかれている者たちを、癲癇の者たちを、そして、中風の者、麻痺している者たちを。そして、彼は彼らを癒された。そして、大勢の群衆が、ガリラヤから、デカポリスから、エルサレムから、ユダヤから、そして、ヨルダンの向こう側から、彼に従ったと本日の後段は結ばれているのであります。
 ガリラヤも、デカポリスも、当時はユダヤ人と異邦人が混合する住民から成っていました。それらから成る大勢の群衆が、主イエスに従ったのであります。イドマヤやフェニキアは含まれていません。マタイ福音書記者は、あるいは、シリアの出身だったのかもしれません。
 そして、マタイ5章から始まる山上の説教は、弟子たちを連れて、彼らに語ったのみならず、群衆を見ながら、主は山に登られたと、始まっています。ガリラヤ周辺の方々からから集まって来た大勢の群衆もまた、マタイは、教会を構成するメンバーになりうる存在であることを、考えているのでありましょう。
 主イエスは、教えつつ、み国の福音、神支配の近さを宣言しながら、そのしるしとして、あらゆる種類の病気や苦しみに捕らわれている者たちを、悪霊つきや、癲癇や中風の者たちを癒されました。
 主イエスの時代には、病気は、罪の結果であるという考え方が一般的であり、病気の苦しみは、いわば自業自得だと考えられていました。しかし、主は、そうではなく、あらゆる種類の病気や苦しみを癒すことをなさるのであります。
 それは、主イエスが、苦難のしもべとして、私たちの罪をあがなうお方として、また、私たちの病を担う方として、お出でになられたことを、暗示しているのでありましょう。
 私たちは、様々な病気や苦しみの束縛から解かれたら、どんなにか幸いなのにと思います。主イエスは、み国、神支配の近さという福音を宣べ伝えながら、その福音のしるしとして、連れて来られたあらゆる種類の病人たちを癒されるのであります。
 私たちもまた、あらゆる病気から解き放たれ、また、罪から赦されて、新しく生きることが、本日の主イエスのみわざによって、可能とされているのであります。私たちは、主イエスによって選ばれた弟子として、また、主によって病気、また、魂をも癒される教会の一員として、新たな歩みを、今週もここから、始めていきたいものであります。
一言祈ります。

 天の父なる神さま。
私たちは、来週に迫りました津田沼教会の総会によって、新しい一年を始めようとしています。過ぎました一年間の振り返りと共に、来るべき一年が、平安の内に順調に過ごせますように、み子イエスが先頭に立って総会を導いてくださいますように。昨年は、受洗者が出る等喜ばしいことと共に、悲しい出来事も少なからずありました。本日の福音において、ガリラヤに現れました主イエスのくすしきみ業によって、私たちを正し、また、私たちに癒しのみ手を差し伸べてください。私たちが、常にみ言葉に立ち帰って、お互いに支え合い、一体となって教会を形作っていくことができますように。キリストによって祈ります、アーメン。

2011/01/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神さまの主権の到来」(マタイ4:12-17)
マタイ4:12-17、2011・01・19、顕現節第3主日(典礼色―緑―)、アモス書3:1-8、コリントの信徒への手紙一1:10-17
 
マタイによる福音書4:12-17
 イエスは、ヨハネが捕えられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 「ゼブルンの地とナフタリの地、
  湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
   異邦人のガリラヤ、
  暗闇に住む民は大きな光を見、
  死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。



説教「神さまの主権の接近」(マタイ4:12-17)

本日は、顕現節の第3主日であります。主イエスが、宣教を開始なさるという場面が本日の福音、マタイ4:12-17であります。「主は、ヨハネが渡されたことを、聞いた時、ガリラヤへと引っ込まれた」と本日の記事は始まっています。ガリラヤという地名は、周辺とか、辺境という意味があります。そして、主は、故郷のナザレを後にして、カファルナウム、湖沿いの町、ゼブルンとナフタリの境界線におけるその町ににやって来て、そこに落ち着かれるのであります。
当時のユダヤ教の指導者たちは、ガリラヤからは、メシアは現れないと信じていたようであります。ましてや、旧約聖書に一度も出て来ないナザレから、メシアが現れることはないと信じていたのであります。
しかし、マタイは、主イエスこそが、約束されていたメシアであることを記すのであります。すなわち、カファルナウムに住むことによって、イザヤが語っている言葉が、達成されたというのです。
それは、イザヤ書の8:23-9:1に出て来ます。「ゼブルンの地、ナフタリの地、海の道、ヨルダン川の向こう側、異邦人のガリラヤ、薄暗がりにおいて座り込んでいる民は大きな光を見た、死の陰の地に座している、しゃがみこんでいる者たち、彼らに光が現れ出た」とマタイは、旧約聖書から引用し、主イエスこそが、その約束されていた光であり、メシアであることを明らかにするのであります。
そして、その時から、主イエスは、使信を告げ、語ることをお始めになります。「あなた方は、悔い改めなさい。なぜならば、天の国が近づいたからである」と。
天の国、神の支配、そして、神さまの主権が近づいているのであります。時間的にも、空間的にも、あるいは、性質においても、神の支配が主イエスと共にそこまで近づいている、あるいは、既に主イエスにおいて到来しているのであります。
私たちは、主の到来から2000年ほど経ちましても、神さまなしでは、暗闇のなかに、うずくまり、死の陰の地にしゃがみこんでいる哀れな存在であります。しかし、主イエスの到来によって、大きな光を見、私たちに光が輝き出たのを知らされているのであります。
主イエスが、ガリラヤで宣教を始められたときから、私たちは、もう暗闇の中に座すものではなく、罪に打ちひしがれる者ではなく、悔い改めにより、新しい道を歩むことができる者にされているのであります。
そして、本日の主日の祈りにもありましたように、神さまは、み子によって多くの人々を信仰に導き、栄光を顕わされたのであります。神さまの主権が、ガリラヤに主イエスが現れたことにより、接近しているのであります。私たちは、現代世界を見ますに、依然として、いや、ますます闇の中に生活しているようにも思いますが、主イエスの到来とその宣教によって、既に光がうずくまっている私たちに射し込んでいるのであります。
2011年が始まりました。ガリラヤに現れ出た主イエスに従ってこの一年を、人々を信仰に導くことができるように、信仰の賜物を与えてくださるように、父なる神に願っていきたいものであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。





2011/01/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストも洗礼を受けられた」(マタイ3:13-17)
マタイ3:13-17、2011・01・09、主の洗礼日(典礼色―白―)、イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38
 
マタイによる福音書3:13-17
 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

説教「キリストも洗礼を受けられた」(マタイ3:13-17)
 
本日は、「主の洗礼日」の礼拝です。「主イエスは、その時、ガリラヤから、ヨハネに向かって、ヨルダン川へと、洗礼を受けるために、到着なさる」と本日の記事は始まっています。その場所や日時については、詳しくは書かれていません。しかし、マタイは、その時の洗礼者ヨハネのためらいを記しています。「彼は何とかそれを回避しようとしていた」とあり、彼は語るのです。「私こそ、あなたから洗礼を受ける必要を持っています、そして、あなたが私に向かってお出でになられるのですか。」
 主イエスは、「今はあなたは認めていただきたい。こうして、私たちでもって、すべての義を満たすことは、適切なことです」と答えて言われたのであります。「すべての義を満たす」とはどういうことでありましょうか。「私たち」とは、主イエスと洗礼者ヨハネのことでありましょうか。それとも、この記事を読んでいる者たち、今の私たちをも、含めて言っておられるのでありましょうか。
 この記事を読んでいる私たちをも含んでいるとすれば、どうなるのでありましょうか。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは、私たちにとっても、神との関係がまっすぐな、正しいものになることでありましょう。主は、後に、「あなた方の義が律法学者たちやファリサイ派の人々の義に勝ったものでなければ、あなた方は天の国へは入れない、救われない」と言われました。キリストが洗礼を受けられることは、すべての義を満たすことになる、そして、私たちの生活の義が満たされ、まっとうされることになるのであります。
 続いて「その時、彼は彼にそうさせる」とマタイは記しています。そして、洗礼者ヨハネの出る幕はそこで終わっているのであります。そして「水から主イエスは直ちに上がられたとき、天どもが、彼でもって、開かれた」とあります。これは、エゼキエル書1:1に同様な記述が見られます。黙示文学的な啓示の表現であります。
 「そして、見よ、彼は、神の霊が鳩のように降って来るのを、そして、彼の方へとやって来るのをお認めになった」とあります。神の霊、すなわち、聖霊がくだり、鳩のようにくだってくるのみならず、御自分の方へとやって来るのに気付かれたのであります。
これは、神の霊が、主イエスの方へと、油注がれ、メシアとしてのイエスを表しているのであります。
 さらに、続きます。「そして、見よ、天からの声が。すなわち、『彼は、私の愛する息子、
彼において、私は喜んだ』と」とあるのであります。
 だれに向かって、この天からの声は、成ったのでありましょうか。それは、天の法廷における者たちに向かって、成り、彼らが聞いたのであり、主イエスはそれを耳にするという特権を与えられていたと考えることもできます。
 「彼は、私の息子」というのは、詩編2:7からのものであり、主イエスが神の子であることを表明しています。そこでは、「あなたは、私の子、今日、私はあなたを生んだ」とあります。マタイは、「彼は私の子」というふうに、記し、より客観的に、洗礼を受けた主イエスを神の子として、表明しているのであります。
 さらに、彼は「愛する者」と言われています。これは、イザヤ書42:1から来ています。「愛する者」というのは「選ばれた者」「愛する一人子イサク」のような表現とつながっています。
「私の心に適う者」というのは、直訳すると「彼において、私は喜んだ」であります。これも、イザヤ書42:1から来ています。すなわち、彼、主イエスが主の苦難のしもべであることが、予表されているのであります。
 洗礼者ヨハネによる主イエスの洗礼は、主の宣教の準備であります。そして、この直後に、主は40日間の荒れ野の試みに遭われます。
 本日の主日の祈りに「私たちにも、キリストの洗礼を通して、永遠の命を与えてください」というふうな文句がありました。
 私たちのうちの信徒は、み名による洗礼を受けています。私たちは、本日の主イエスが、メシアとして、苦難のしもべとして、また、神の子として、洗礼をお受けになり、それを通して、私たちもまた、すべての義の生活を満たすことができることを知らされています。
 しかし、1週間の間にも、サタンの試み、誘惑、思い煩い、主のみ前に罪を犯さざるをえない弱い自分をも私たちは改めて知らされます。
 私たちが救われる方法は、本日の洗礼をお受けになった主イエスを唯一の救い主として受け入れ、日々新たに罪に死に、キリストの洗礼を思い起こすことによってしか、救われる見込みはありません。
 2011年の始まりにあたって、主イエスの洗礼の時の出来事を、今再び、新たに思い起こしながら、一人一人の歩みが、また、津田沼教会の歩みが、み言葉に立って、順調でありますようにと願います。
祈りましょう。
天の父なる神さま。
私たちは、キリストの洗礼の折の出来事を再び知らされました。罪多き者でありますが、本日知らされました主イエスの栄光を、私たちも輝かすことができますように。世の中は、先行きが不透明で見通せず、闇がおおっているようにも思えますが、特に政治家や経済界の人々、また、新聞記者や報道に携わる人々を、上よりの力でもって導いてください。私たちの家庭に平安をお与えください。そして、世界が平和になりますように、導いてください。キリスト・イエスによって祈ります。
 


2011/01/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の星に導かれて」(マタイ2:1-12)
マタイ2:1-12、顕現主日、イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12、2011・01・02(典礼色―白―聖餐式)
 
マタイによる福音書2:1-12
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
  お前はユダの指導者たちの中で
  決していちばん小さいものではない。
  お前から指導者が現れ、
  わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



説教「主の星に導かれて」(マタイ2:1-12)
 
2011年の最初の主日であります本日は顕現主日であります。顕現主日には、毎年マタイ2:1-12が与えられています。ルカ福音書2:1-21には、詳しく、ベツレヘムにおける誕生の次第が書かれていますが、マタイは、生まれた事実だけを記すにとどめています。そして、育っている家においては、本日の部分では夫のヨセフも触れられてはいません。今から始まります一年間の歩みは、今年は、マタイが中心に読まれますが、本日はくしくも、顕現主日から始まり、マタイから福音を聞いていくようにと、私たちは招かれているのであります。本日の個所を見ていきましょう。
 ヘロデ王の日々において、主イエスは、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった、そして、見よ、東方から、占星術の学者たちが、エルサレムへと到着したと本日の記事は始まっています。占星術の学者たちとありますが、バビロニアあたりの祭司たちであったかもしれません。原文では、マゴスといい、マギたちと、そのまま訳されて、使われることも少なくありません。彼らは、後には、王たちであったのではないかとも考えられたりしましたが、それは、本日の第1朗読のイザヤ書60:1-6や詩編などで王たちが貢ぎ物をもって、エルサレムへとやって来るなどという旧約聖書の記事があったためでしょう。
三人の博士たちというのも、正しいとは必ずしも言えません。それは、三つの贈り物をささげたことから来ているのであります。
 彼らは、そして、言うのであります。ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにいますか。私たちは、東方で彼の星が昇るのを見たので、彼を拝みに、すなわち礼拝しに来たのですと。その時、ヘロデ王は、心がかき乱された、また、全エルサレムも同様であったと記されています。ヘロデ王は晩年猜疑心が強くなり、身内の者まで殺したりしていますが、自分とは別の王、メシアとしてお生まれになった王がいると知って、心がかき乱されるのであります。
 そして、意外にも全エルサレムもそうであったと記されています。メシア、救い主としての十字架につく王が来たことを知らされても、全員が喜ぶわけではないのであります。
2000年ほどたちました今日においても、主イエスが、全人類の救い主であり、唯一の、人間の罪をとりのぞくメシア王であることを、受け入れない人々はむしろ多数なのであります。
 私たちも、このお正月に身内や友人たちと親しく交わることが多く、痛感されることでしょうけれども、すべての人々が、主イエスを受け入れるわけではないのであります。私たちは、そのことを十分に覚悟したうえで、一人一人を罪を赦すためにお出でになられた、まことの王を告げ知らし、また、毎日の生活を通しても証ししていくことが必要なのであります。
 さて、マギたちの語ることを知ったヘロデは、レーマンである長老たち以外のサンヘドリンを構成していた民の祭司長たちや律法学者たちを呼び寄せ、キリストがどこに生まれているのか、正確に調べていたのであります。
 彼らは答えていいます。ユダのベツレヘムです。なぜならば、預言者を通してこう書かれています。ユダのベツレヘムよ、お前は諸侯たちのうちで最も小さな者ではない、なぜならば、お前から導く者が出てくるからであり、彼が、イスラエルの民を治めるであろうからであると書かれているからであります。これは、旧約聖書のミカ書とサムエル記にある言葉を修正し、結びつけたものであります。
 次に、ヘロデは、今度は、マギたちを呼んで、その星、彼の星がいつ輝き始めたかを問いただすのであります。このような天界における異変がいつ起こったのかは、長らく議論されてきました。ケプラーという人は、それは、紀元前7年に現れた彗星であろうと計算しています。
 このような異変は、偉大な人物が生まれるときに、例えば、皇帝アウグスツスが生まれる時にもあったそうであります。また、後の伝説では、モーセが生まれたときにも、その家を照らす星が輝き、あるいは、太陽や月が照り渡ったというような伝承もあります。主イエスは、新しいモーセ、はるかにより偉大なモーセとして、星が輝き、異邦人であるマギたちが東方から導かれて、わざわざ礼拝するためにやって来たのであります。
 先だっても、はやぶさが、7年もかけて、イトカワから、微粒子を採取して奇跡の帰還をはたしたことが、感動を呼び起こしていますが、星の働きとは不思議なものであります。
 さて、ヘロデに、ベツレヘムに行くように言われたマギたちは、出ていくと、それまで見えなくなっていた主の星が再び現れて、彼らを先導し、幼子のいる真上まできて、そこで止まったというのであります。そして、彼らは、すこぶる大きな喜びに喜ばされたと、記されています。そして、家の中に入ると、その子がその母と共におられた、彼らは、ひれ伏して礼拝をささげ、宝箱から、黄金、乳香、没薬を差し出したというのであります。
 これらは、いずれもアラビアの原産だと言われていますが、とにかく東方での貴重なささげ物として用いられたものであります。
 後代の教父たちは、黄金は、王であることを、乳香は、神であることを、没薬は、彼の受難を示すものだと考えました。いずれにしろ、マタイによれば、まず、異邦人であったマギたちに、主イエスの降誕は、知らされたのであり、キリスト教がユダヤ人を越えて、異邦人の世界にも伝えられ、広がることを、本日の出来事は示しているのであります。
 私たちは、2011年の年の始めに、異邦人であった我々のところにも、主イエスのご降誕が示されたことに思いをはせたいと思います。
 この一年がどうなるのか、私たちは、教会も、世界も、先行き不透明な時代に生きています。しかし、本日のマギたちのように、私たちは、み言葉に導かれながら、共に祈りつつ、一年を歩んでまいりましょう。
一言お祈り致します。
 天の父なる神さま。
 今年も、一年の初めての主日に、マタイ2:1-12の記事を与えられましたことを心より感謝いたします。日本も世界も、行き詰っているように思われる昨今ですけれども、聖書にしるされているみ言葉を頼りに、主の星に導かれながら歩む1年でありますように。
 私たちの健康と安全をお守りください。そして、常に、主イエスを礼拝しながら歩む一年とさせてください。キリスト・イエスによって祈ります。アーメン。
2011/01/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「悔い改めの時に」(ルカ13:6-9)
ルカ13:6-9、新年礼拝、エレミヤ書24:1-7、ペトロの手紙一1:22-25、2011・01・01(典礼色―赤―聖餐式)
 
ルカによる福音書13:6-9

 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


説教「悔い改めの時」(ルカ13:6-9)
 皆さん、新年明けましておめでとうございます。どのような気持ちをもって、今朝を起きられたことでしょうか。2010年は、はやぶさのイトカワからの7年ぶりの奇跡的帰還や、チリでしたか、35人ほどでしたか、地下から救出されるといった出来事もありましたが、概して言えば、政治も、経済も日本の内外を含めて先行き不安な一年ではなかったかと思います。
 2011年は、果たしてどんな年になるでしょうか。私たちは、激動する社会の中に生きていますが、信仰者として、あくまでもみ言葉を頼りに、歩んでいくことが、安全であり、また、不可欠なことではないかと思います。本日は、主がお生まれになって八日目に名前を付けたという主の命名日でもありますが、そのことも頭に置きながら、新年礼拝のペリコペーを選ばせていただきました。
 今年一年の礼拝の最初に与えられました福音は、ルカ13:6-9の短いくだりであります。この部分は、13:1-5とも密接に関係しています。ルカは、9:51節から、エルサレムへの旅の途上で起こった出来事や主の語られた譬え話などから構成されているのでありますが、13:1-9は、まだ、ガリラヤにいたときに起こったエピソード二つと、それに続く主の語られた譬え話であったかもしれません。13:1-5の出来事とは、ガリラヤ人たちが神殿にいたときに、ピラトによって虐殺され、いけにえの血と彼らの血がまじりあわされたという悲劇でありました。また、もう一つの出来事は、エルサレムの塔が倒壊して、その下敷きになって、多くの人が命を失ったというものでした。それを、聞かれたイエスは、「あなた方に言っておくが、その人々が、他の人以上に罪深かったために、そうなったのだと思うのか。そうではない、あなたがたも、悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われるのであります。
 世の中には、いろいろな人格の優れた人や才能に恵まれた人々がいるものです。昨日も、新聞を見ていましたら、2010年に亡くなった大勢の業績をあげた人々の一覧が出ていました。また、そういう特別な人だけではなく、私たちの周りには、羨ましくなるような人格を持っている人や、才能に恵まれた人がいるものです。
 そういう人たちと比較するとき、自分の才能や人格が見劣りして、ついつい絶望しそうになります。しかし、主は、この前段の出来事を通して、この世に生を受けた人は皆、悔い改めなければ滅びるとまで、明確に言っておられるのであります。私が人格の劣った者であり、弱さと欠点を抱えているということは、より完全である人よりも、むしろ悔い改めやすいのではないでしょうか。「善人なおもて、往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」であります。 
 主イエスは、この世に生を受けた人間はすべて、一人残らず悔い改めなければ、滅びる、救われないと明言され、アダムの堕罪以降の人類のすべてに罪が普遍的に優勢であることを示しておられるのであります。私たちは、私たちのままで、悔い改めへと導かれているのであります。
 さて、本日のみ言葉、13:6-9は、主イエスが、このときになさった譬え話であります。「ある人が、いちじくの木を植えているぶどう園を持っていた」と主は語り始められます。ぶどう園とは、イスラエルを表すのによく用いられました。いちじくの木やオリーブの木もそうであります。この人が、やって来て、いちじくの木に実がなっているかどうか、探しに来たが、いつも、それを見いだせないでいたのであります。それで、園丁、ぶどう園の園芸家に向かって言うのであります。「私は、いちじくの木に実がなっているかどうか、3年間も、探しに来たが見出さなかった。なぜ、その木でもって、ぶどう園の土地を無駄遣いさせておくのか、あなたは切り倒してしまいなさい」と。この園丁は答えて言うのであります。「御主人様、もう一年、来年までこのままにしておいて、ください。周りを掘り、堆肥を投じてみますから。それで、実がなれば、結構なことですし、それでもだめなら、あなたが切り倒して下さい」と。
 このぶどう園の主人とは、父なる神であり、園丁とは子である主イエス御自身であります。父なる神は3年も実を見いだすためにやって来られたけれども、イスラエルの民は、実をもたらすことができませんでした。しかし、主イエスはその間に立って、もう一年、お待ちになってくださいと、とりなして下さるのであります。
 これは、主イエスがやって来られた、イスラエルの民だけのことではありません。私たち、全人類のために、主は今も、「もう一年、来年まで待って下さい。それで、実を結べば結構なことですし、それでもだめなら、あなたが切り倒して下さい」と私たちのために、世話をしながら見守っていてくれるのです。
 私たちが、悔い改めの実をむすぶためには、主イエスの執り成しと、み言葉による生活が是非とも必要です。これからの一年、不安と希望とで満ちあふれていますけれども、主は、必要な備えをしてくださりながら、私たちを導いて下さいます。
 主は、聖書のみ言葉を通して、危険と困難から、私たちを守ろうと言われます。通常なら、3年間も、実を結ばなかったならば、お見捨てになってもおかしくありません。
 しかし、主は、今年のあなた方の歩みに賭けると、奮起を促してくれています。皆さん、人には言われないような重い課題をそれぞれ抱えておられることでしょう。それを、主イエスにすっかり打ち明けて、悔い改めにふさわしい実を結ぶ者となりましょう。
一言祈ります。
 天の父なる神さま。2010年が去って、今朝から2011年が始まりました。世界には、闇が覆っているようにも思えますが、どうか、指導者たちを強め、励まして下さい。私たちも置かれた場所、家庭や、職場や学校で、悔い改めにふさわしい実をもたらす者とならせて下さい。日々、変化していく世界を、より正しい目で見つめ、報道していく新聞記者や報道関係者をも、あなたが上よりの力を持って導いてください。
 この一年が、津田沼教会にとっても新しい道を切り開いて行く年となりますように、特に一人一人の健康と家庭をお守りください。地の塩として、一人一人が精いっぱいのキリスト者としての証し、働きをなしていくことができますように。すべてのことを、あなたのみ手におゆだねしつつ、キリスト・イエスの名によってお祈り致します。アーメン。

2011/01/01(土) 11:00:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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