津田沼教会 牧師のメッセージ
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「聖家族のエジプト避難」(マタイ2:13-23)
マタイ2:13-23、イザヤ書63:7-9、ガラテヤの信徒への手紙4:4-7、2010・12・26、降誕後主日(典礼色―白―)
 
マタイによる福音書2:13-23

 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残さず殺された。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
 「ラマで声が聞こえた。
  激しく嘆き悲しむ声だ。
  ラケルは子供たちのことで泣き、
  慰めてもらおうともしない、
  子供たちがもういないから。」

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


説教「聖家族のエジプト避難」(マタイ2:13-23)

本日は、降誕後主日であり、聖家族のエジプト避難、そして、ガリラヤのナザレへの定住を記したマタイ2:13-23が福音として、与えられています。このクリスマスの喜びであるはずの主日に、本日のような不条理な出来事、記事が与えられているのはなぜでありましょうか。マタイは、これらの出来事が、旧約聖書に書かれているメシアに関する記事の成就であるとみなしているのであります。
今日の個所は、小見出しで与えられているとおり3つの部分に分けられます。2:13-15、2:16-18、2:19-23であります。まず、第一の段落で、さて、彼ら、占星術の学者たちが、去った時、ヨセフに夢で主の天使が知らせるのであります。「あなたは、起きて、その子と彼の母を連れてエジプトにのがれなさい。ヘロデがその子の命を狙っているからであると。」
ヨセフは、従順に、主の天使の告げてくれたとおり、起きて、ベツレヘムから、エジプトに逃れるのであります。それは、旧約の預言を通して言われていた言葉が満たされるためでありました。「私は、私の子をエジプトから呼び出した」との。
第2の段落、2:16-18は、ヘロデ大王による嬰児虐殺の出来事であります。マギたちにだまされたと知ったヘロデは大いに怒り、マギたちから確かめていた時間に従って、ベツレヘムとその周辺全体の2歳以下の男の子を、兵を遣わして殺してしまうのであります。これによって、エレミヤによって預言されていた言葉が成就するのであります。エレミヤ書では、ヤコブの妻が、その子たちがもういないので嘆き、泣きわめくとあるのでありますが、そこでは、バビロン捕囚の者たちが、やがて帰って来る喜びを預言するのであります。
しかし、マタイは、この預言が、主イエスの誕生とエジプト脱出により、大量の幼児虐殺が起こったことによって満たされたと解釈するのであります。どうして、喜びであるはずの主イエスの誕生の時に、このような不条理な、何の罪もない幼児たちが殺されなければならなかったのでしょうか。ひょっとしたら、この出来事を後年の成長した主イエスにマリアは語ったのではないでしょうか。そして、それは、主が十字架につくことになる予表であったのではないでしょうか。幼児たちの命を奪われる悲惨な出来事が、主なる神の人類が新しく生きることができるようになるために、大きな代償として必要とされたのではないでしょうか。主が十字架につくことになる予表として、この私たちの理性では理解することのできない出来事が起こったのであります。私たちが、真に罪を赦され、新しい命をもって歩むために、この出来事が起こらなければなかったのであります。
第3の段落では、主の天使が夢に現れて、「あなたの子の命を狙っていた者たちは死んでしまった。イスラエルの地に帰りなさい」とお告げがあったのであります。これは、モーセがその命を狙っていた者たちは死んでしまったと告げられ、妻と子を連れてエジプトに帰って行ったのと並行しています。
主は新しい救い手として、新しいモーセとしてイスラエルの地に、母と共にヨセフによって連れて帰られるのであります。ところが、ヘロデに代わって息子のアルケラオが支配していたのでユダの地に行くことを恐れ、ガリラヤの地方のナザレという町に行って住み、「彼はナザレ人と呼ばれる」という預言者たちによって言われていた言葉が満たされたのであります。
それは、旧約によるナジル人として預言されていたのでしょうか。旧約聖書では出て来ない、旧約では知られない町ナザレで主イエスが成長することとなったのであります。私たちも、ナザレのイエスによって、救い主が与えられ、新しいモーセとして、主が成長していったことを信じるように招かれているのであります。
 聖家族のヨセフとマリアとその子イエスは、現代の私たちの家族にとっても、主の天使のみ告げに従順に従っていったモデルとして、このクリスマスの時に思い巡らすのにふさわしい家族であります。多事多難な現代の日本の家族である私たちもそれぞれ、主によって示されるところに従順に従っていきたいものであります。アーメン。
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2010/12/26(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私の魂は主をあがめ」(ルカ1:46-55)
ルカ1:46-55、サムエル記上2:1-10、ローマの信徒への手紙2:17-29、2010・12・19、待降節第4主日(典礼色―紫―聖餐式)

ルカによる福音書1:46-55
 そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
 目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
 わたしを幸いな者と言うでしょう、 
力ある方が、
 わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」



説教「私の魂は、主をあがめ」(ルカ1:46-55)

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。本日は、正確には、アドベント第4主日でありますが、次週になりますと、12月26日になりますので、少し早めて、主イエスのお誕生を祝うのであります。
 本日の記事ルカ1:46-55は、マグニフィカートとして、有名なものであり、この後にはベネディクトスと言われますザカリアの賛歌がありますが、ルカ福音書における最初の賛歌、賛美歌として位置しているものであります。
 これは、ユダの山里へのマリアのエリサベト訪問の後に位置しています。エリサベトが、マリアを歓迎して、語っていますので、それに引き続く本日の記事も、エリサベトが歌ったものではないかという説もありますが、内容からしても、やはり、マリアが歌ったもの に違いないのであります。
 マリアは、エリサベトの挨拶につづいて、この賛歌を歌い始めます。前半は、マリア自身に関する個人的な思いを語ったものであり、後半は、政治的な、あるいは、社会的なテーマを歌ったものであります。マリアが、ここに記されているとおりに、始めから終りまで、一気に歌い上げたかどうかは、よく分かりませんが、ルカが、伝えられて来た伝承を、現在の形に整えていくらか編集を加えたものでありましょう。
 本日の第1の朗読に、サムエル記上の2:1-10が読まれましたけれども、これも、マリアの賛歌に、影響を与えているものと思われます。
 マリアは、エリサベトの挨拶に対して、こう語り始めるのであります。「私の魂は主をあがめます。」これは、わたしの魂は主を拡大するというのが、もとの意味です。そして、「私の霊は、御神、私の救い主の上に大喜びした」と続いていますが、この後も過去形で読み取れますが、それは、現在形の意味にとっても間違いではありません。私たちの新共同訳の聖書は、この後も、多くは、現在形で訳されています。
 そして、「なぜならば、彼、神のはしための低い状態、不面目の方へと彼は凝視して下さったからである」と言います。きっと貧しい名も知られぬおとめとして、マリアは歩んで来ていたのでしょう。しかし、神は、そんな彼女を選び、お求めになったと、マリアは、畏れを持ちながらも、神に感謝しているのであります。
 そして、「なぜならば、見よ、この今から、すべての世々の人たちは、私を祝福されたものと呼ぶでしょうから」、と言うのです。マリアは、受胎している主イエスが、どのような体験をし、成長し、そして、どんな死に方をするかは、この時にはまだ知らなかったでありましょう。
 マリアは続けます。「なぜならば、私に、力ある方が、大きなことどもをなさったからである」と歌います。神さまが、私を選んで、救いを成し遂げる者としてくださったと、賛美するのであります。そして、「彼の名は、尊く、聖なる方であり、そして、彼の憐れみは、世々、彼を畏れる者たちにある」と述べるのであります。
 そして、1:51から、政治的な、あるいは社会的な側面から、神についてほめ歌うのであります。「彼の腕において、力ある業を彼はなさる、彼らの心の性質に従って、おごっている者たちを、彼は散らされる」というのであります。政治的な圧政者を神は裁かれるのであります。マリアの信じる神は、エジプトの圧政のもとから、奴隷となっていたイスラエルの民を導き、救った神であります。
 「王座から支配者たちを、彼は引きづり落とされる、そして、低い者たちを、彼は上げられる」のであります。低くされている者たちを神は引き上げられるのであります。
 そして、経済的にも、空腹である者たちを、彼は、良いもので満足させられます。そして、裕福になっている者たちを、空しい手にして、彼は送り出す、追い払われるのであります。神は救いと共に、裁きをもたらすお方であります。
 そして、「神は、彼の僕イスラエルを助け、憐れみを思い出される」のであります。「ちょうど、私たちの父祖に向かって彼が語られたように、アブラハムに、そして彼の子孫に、永遠に」、と言うのであります。それは、永遠にアブラハムのすえを、神は思い出されるという意味であります。
 マリアは、一ユダヤ人として、ユダヤ人の中の、アブラハムの霊的な子孫が、神の憐れみと助けを受けると信じていたでありましょう。後に、使徒たちが全世界に教会を広めていった事実は、マリアの思いを超えていたことでありましょう。アブラハムの真実な、霊的な子孫が、神の憐れみを受けるのだと、当時の敬虔なユダヤ人たちと同じ思いでこの歌を歌ったことでしょう。
 私たちは、今、正式な意味でのクリスマスを目前にしています。本日の高らかなマリアの歌を私たちも、同じ思いで高らかに歌いたいものであります。
 ユダヤのナザレの貧しいおとめ、マリアの歌った賛歌は、私たちクリスチャンも、同じ思いで歌い上げることが許されていますし、歌うように招かれています。
 アドベントの最後の主日が来ました。クリスマス、おめでとうという喜びの挨拶を、本日のマリアの賛歌と共に、心から歌い上げ、新しい一年を、罪から自由とされて、歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2010/12/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ヨセフの神信頼」(マタイ1:18-23)内海望牧師
マタイ1:18-23、2010・12・12、待降節第3主日(典礼色―紫―)イザヤ書7:10-14、ローマの信徒への手紙1:1-7

マタイによる福音書1:18-25
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。


説教「ヨセフの神信頼」(マタイ1:18-23)内海望牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 私たちは、教会暦によってアドベントの後にクリスマスが来ることを知っています。ですから、当然のようにクリスマスの準備を始めています。しかし、イエスさまがこの地に来られるまでには様々な困難がありました。「主イエスの降誕」という出来事は簡単ではなかったのです。今日の聖書日課は、その一つを、ヨセフという人物を通して伝えてくれます。
 マリアと同じように、ヨセフも救い主が自分の家で成長するなどとは全く考えていませんでした。婚約者マリアに聖霊によって救い主がみごもるというようなことは晴天に霹靂の出来事でした。ヨセフの驚きはマリアと同じでした。
 ところで、19節は、長い間、私にとってはわだかまりのある個所でした。一読すると「正しい人」と形容されているヨセフが今起こった事柄を隠してしまおうとしているように感じられたからです。文語訳も口語訳も、新共同訳も、ヨセフの態度を「表ざたにしないように」とだけ記しているからです。「マリアが間違ったことをした。だから隠しておこう。」と読めるのです。悪意を持って考えるならば、ヨセフは自分が正しい人であり続けるためにマリアを離縁しようとしていると読める文章です。しかし、それにしては、天使の言葉を聞いた後のヨセフの行動を考えるとつじつまが合いません。ヨセフは、本当に素直に、しかも命をかけて幼児イエスさまを守り抜いた人物です。2章13節以下を読むと分かります。ヘロデがイエスさまを殺そうとしているとの情報を主の天使から聞いた時、夜中にもかかわらず、飛び起きてマリアと幼児イエスさまを連れて、遠いエジプトまで旅した人物です。竹下節子さんの手を借りると、次のような情景になります。「ヘロデ王が子どもを殺そうとしていると天使に告げられると、神の加護を祈るでもなく、仕事の始末をするでもなく、飛び起きて、夜逃げ同然に幼子とその母を連れてはるか、エジプトまで亡命した。驢馬の背に母子を乗せ、自分はその驢馬を引いて、二本の脚でひたすら荒野を歩いたのだ。」と。乳飲み子とその母を抱えながらの旅の困難さは想像を絶します。難民の苦しみであったでしょう。
 このようなヨセフが、どうしてマリアに冷たい仕打ちが出来るのでしょうか。しかし、私のわだかまりはルター訳のドイツ語聖書によって解決しました。ルターは、「ヨセフはマリアが恥辱を受けないように」、あるいは、「貶められないように」と訳しているのです。つまり、何とかマリアを救いたい、彼女の名誉を守りたいと願って「ひそかに離縁しようとした」と訳したのです。現在でも、ドイツ語の注釈書は、私の知る限り、このルター訳を用いています。ルターは、決して重箱の隅をつつくような聖書学者ではありませんでした。一つの文章にこだわるのではなく、聖書全体から考えていこうとする人でした。そこで、ルターはヨセフの生き方全体から考えて正しく意味をつかんだのだと思います。私は、これが聖書の正しい読み方であると信じています。
 ここで、私たちはもう一つのことを教えられます。それは、「正義」と「愛」の関係です。「正義」という言葉は危険です。何故なら、「正しさの主張」は、往々にして愛を失います。しかし、いくら正しいことを主張していても、愛がなければ、それはただ人を抑圧するだけの結果になってしまいます。正しくない人を再び新しく生かすことは出来ないのです。もちろん、反対に「正しさが失われた愛」も間違っています。それは、単なる「甘やかし」になってしまうからです。「正義と愛」は表裏一体なのです。
 正しい人ヨセフは、目の前の出来事に苦しんだと思います。正しさを貫きたい、同時にマリアを救いたいという矛盾です。しかし、彼は、その「愛と正義」の葛藤を越えてマリアを助けようとしたのです。
 更に、重大なことがあります。もし、これが表ざたになったならば、マリアは石打ちの刑に処せられる可能性もあったのです。死ぬまで石を投げ続けるという、今日の私たちから見れば、真に残酷な刑罰です。ヨセフの愛の行いによって、マリアは死をまねかれたと言っても過言ではないでしょう。
 しかし、それでも、この時点ではヨセフはまだ主の天使の声は聞いていません。
 ヨセフという名前はマリアと共によく知られていますが、私たちの印象では、また教会の歴史でも、なぜか背景の人物です。しかし、今日の日課を読む時、私たちは、彼がイエスさまの来臨(クリスマス)になくてはならない人物であったことが知らされます。彼は、マリアと幼子イエスさまを救ったのです。クリスマスの喜びは地上にもたらされたのです。
 ところが、2章以下ではヨセフは忽然と消えてしまいます。ここでも2章どまりです。マリアは十字架のイエスさまを見届けているのに。
 ヨセフがその後どんな人生を送ったのか、私たちは何も知らされません。私たちの前には、マリアを愛し、石打ちの刑から救い、マリアと幼子イエスさまを驢馬に乗せてひたすらエジプトの地に向かって二本の脚で歩き続けたヨセフの姿だけが残されているのです。
 しかし、ヨセフは天使が告げた喜びのメッセージ、すなわちこの幼子が民を罪から救うために、この世に来られたこと、このことによって、この世界に光が来たこと、インマヌエル(神は我々と共にいる)が実現したことを堅く信じていました。その喜びで、ヨセフは一生を生きるに充分な力を与えられたのです。
 この一事を信じ、黙々と与えられた責任を果たし、静かに歴史の表舞台から消えていったのです。彼は、その人生において自分の才能を花咲かせようとか、自分の有用性をしっかりと打ちたてようとかしませんでした。イエスさまの十字架の死も知らなかったかもしれません。それでも、神さまから与えられた一つの役割を、実直に、同時に暖かい心で、果たしたのです。知らずして、救い主の降誕になくてはならぬ者として用いられていたのです。このことを、ヨセフは頭では理解できなかったでしょう。しかし、これが彼の人生であり、彼にとっては充分生きた人生でした。
 振り返って、私たちの人生を考えてみましょう。私たちは、「クリスチャンらしく生きよう」とか、「また罪を犯してしまった」とか右往左往しながら、生きています。このような生き方は謙遜な生き方のようで、実は自分の力で聖人になろうとする思い上がりかもしれません。私たちは、どうあがいても罪の力には勝てない罪人なのです。だからこそ、神さまの独り子であるイエスさまが、私たちを罪から救うためにこの世界に来られたのです。それほど、罪は深く私たちの心をむしばんでいるのです。イエスさまは、そのような私たちの罪を贖い、「私は世の終わりまで君たちと共にいる」と約束して下さったのです。イエスさまの十字架による赦し以外に私たちを救う手だてはないのです。
 これほどの高価な恵みがあるでしょうか。ですから、罪を隠しながらでなく、大胆に本物の罪人になりましょう。そして、もっと大胆にイエス・キリストの十字架の赦しを信じましょう。そして、罪を大胆に悔い改め、救いの恵みに感謝して、与えられた人生を、素直な心で、実直に歩みましょう。ヨセフのように。
 以前、ルターの「主が、あなたを用いて大きなことをなさろうとしているという信仰を失ってはいけない」という言葉を紹介しました。これを改めて思い返し、心に留めていただきたいと思います。
 私が何をしたか、何をしなかったかはもはや問題ではありません。主が用いてくださるのです。私たちの祈りは、「私の人生を用いて下さって感謝します」の一言に尽きます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。
2010/12/12(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「心の向きを変えよ」(マタイ3:1~12)
マタイ3:1-12、2010・12・05、待望節第2主日(典礼色―紫―聖餐式)
イザヤ書11:1-10、ローマの信徒への手紙15:4-13

マタイによる福音書3:1-12
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻をきえることのない火で焼き払われる。」


説教「心の向きを変えよ」(マタイ3:1-12)
 アドベントの第2主日を迎えました。本日のマタイ3:1-12は、洗礼者ヨハネの説教と洗礼、そして、ヨハネによってなされた来るべきお方の到来の預言の言葉から成っています。私たちは、主のご降誕の喜びを迎える前に、慎ましやかに、心静かに、主イエスの来臨を待つように、今日の日課、特に福音の日課が与えられています。
 マタイでは、主イエスのご降誕の出来事が、1、2章で述べられた後、突如として、本日の洗礼者ヨハネの到来の出来事が記されています。
「それらの日々において、洗礼者ヨハネが荒れ野にやって来る。そして彼は、こう語りつつ。『あなた方は悔い改めなさい、なぜならば、天の国が近づいたから』と。」
悔い改めるという言葉、悔い改めという言葉は、メタノイアという言葉であり、メタというのは変えるという意味であり、ノイアというのは、心という意味であります。心を入れ替える、どういうふうにかというと、神に心を向ける、神の方に立ち帰るということであり、悔い改めるというと、日本語の語感では後悔するというニュアンスがありますが、洗礼者ヨハネが叫んだ悔い改めよというのは、私たちの生活前部を神さまにゆだねるようにして、生き方をすっかり変えるという積極的な意味であります。
 洗礼者ヨハネは、マタイでは、この3章の始めに突然やって来るのであります。しかも、それは、荒れ野においてであり、ヨルダン川の岸辺でありました。荒れ野は、人も住めないような場所でありました。しかし、そのような索莫とした、石だけがごろごろしているような場所は、かえって、私たちに神を思い起こさせる場所であります。イスラエルの民が40年間も荒れ野を旅して、彼らは、彼らを導かれる神と対坐することができたのであります。
 私も、今から22年ほど前に、「出エジプトの旅」と題して、神学生の1年がたった時、春休みに15日間の聖地旅行、生まれて初めての海外旅行に参加しました。死海を下にするエン・ゲディというところに1泊したときのこと、私は死海のほうへと一人で夕方、もう夜に入っていましたが、降りて行きました。月が何と大きく見えたことでしょうか。私は、野獣などの出る恐れもあるということで、不安もありましたが、岩だらけの荒れ野に一人になって、何よりも、神さまと対坐しているという実感に圧倒されました。シナイ山にも上ましたが、出エジプトの民が神と対坐したことがうなづかれました。
 そのような場所に、洗礼者ヨハネも到来なさるのであります。彼は、昔の預言者エリヤのようにらくだの毛からできた服を着、腰に革の帯をしめていました。当時、人々は、メシア、救い主の来られる前に、エリヤが再来すると信じていました。ヨハネが自分を、再来のエリヤだと自任していたかどうかは、分かりませんが、彼は、いなごと野の蜂蜜を食物として、禁欲的な生活をしていました。
 そして、「彼に向かって、エルサレム、全ユダヤ、そして、ヨルダン川周辺の一帯が、罪を告白しながらやって来て、彼から悔い改めの洗礼を受けつつあった」のであります。
 彼は、預言者イザヤによって、こう言われているその人でありました。「荒れ野で呼ばわる声。主の道を整えよ、彼の小道をまっすぐにせよ」と。
 そして、一方でファリサイ派とサドカイ派の大勢が洗礼を受けにやって来るのを見て、「蝮の子らよ、神の怒りから逃れられるとだれが示したのか、私たちは父アブラハムを持っていると自分たち自身に言おうと考えるな。神は、この石ころからからでも、アブラハムの子たちを起こすことができるのだ」と宣言しました。そして、「既に斧が、木の根元に置かれている。悔い改めにふさわしい実をもたらさない木は切り倒され、火の中へ投げ込まれる」と言うのであります。
 私たちもまた、このアドベントの時、「私たちは救い主キリストを持っている」と、油断しないようにしたいものであります。
 心の向きを神に向け、生活全体を神に向けるようにと、この時、主のご降誕の前に、私たちもまた、洗礼者の言葉を通して警告されているのであります。
 ヨハネは、続けました。「私の後に、私よりも力あるお方がお出でになる。私はその方のサンダルを脱がすのにも、価しない者である。そして、私は、水において、悔い改めへと洗礼をあなた方に授けているが、その方は、聖霊と火において洗礼をお授けになる。そして、手にショベルをもって穀物等をふるい分け、穀物は倉へ、殻は、燃え尽きない火で燃やすであろう」と語ったのであります。
 私たちは、生前に行った行いに応じて、良いものと、悪いものとのいずれかを神の御楓受けることになるというのであります。
 私たちの毎日の信仰の旅路は多難な困難に満ちています。私は、家庭生活においても、育児や妻との関係や、いずれも危機に満ちていることを痛感させられます。
しかし、このような私たちの偽らざる生活の只中に、メシアが切迫してお出でになると洗礼者ヨハネは今も叫んでおられるのであります。
来るべきクリスマスには、心から主の御降誕を祝うことができるように、生活全体を改めて神の方へと心を向けて、今日から再び歩み出したいと思います。

人知ではとうてい測り知ることができない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなた方の心と思いとを守るように。アーメン。
 




2010/12/05(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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