津田沼教会 牧師のメッセージ
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「あなたの王が来られる」(マタイ21:1-11)
マタイ21:1-11、イザヤ書2:1-5、ローマの信徒への手紙13:11-14、2010・11・28、待降節第1主日(典礼色―紫―)

マタイによる福音書21:1-11
 一行がエルサレムに近づいてオリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところへ引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
  柔和な方で、ろばに乗り、
  荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ダビデの子にホサナ。
  主の名によって来られる方に、祝福があるように。
  いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


説教「あなたの王が来られる」(マタイ21:1-11)

今日からアドベント、待降節に入りました。緑の色で表わされてきた聖霊降臨後の一年の終りの時期を終えまして、王であるキリストの来臨を待つ一年の初めの色は紫で示されます。
本日からA年、マタイ福音書が主たる福音書となります。そして、ルーテル教会では、アドベントの第1主日と、受難週の始まります枝の主日に、本日と同じマタイ21:1-11が読まれます。ルーテル教会が最も大切にしている福音記事と言っても過言ではないでしょう。
今日の主日の祈りには、「キリストよ、力を奮って来てください。そして、罪の危険から私たちを守ってくださいと」の祈りがありました。私たちは、毎週、毎週、罪の危険に直面し、しばしば、罪に陥り、罪に負けてしまう存在であります。そのような私たちのところに、主キリストがお出でになられた、また、終末の時、再臨の時にお出でになられる、その予表と言いましょうか、それを実現された記事が本日の福音の記事であります。アドベントは、主の御降誕に備える時期ですが、クリスマスにおける主の御降誕は第1のアドベントであり、それに対して、再臨の主は第2のアドベントと言えるのであります。
私たちは、紫色であらわされますこの時期を、つつましく過ごすことが望まれるのであります。さて、マタイ21:1-11は、4つの福音書に同じように出てくる主イエスのエルサレム入城の出来事であります。
主は、エルサレムに近づかれたとき、ベトファゲの近くに来たときに、二人の弟子を遣わして言われます。向こうの村、多分、ベトファゲでありましょう、そこに行って、雌ろばとその子ろばを連れて来るように言われます。もしだれかが、何か言ったら、彼らの主が必要を持っていると言いなさい。そうすれば、その通りに行かせてくれると。そして、二人は出かけていき、その通りになり、主イエスのもとに、2匹のろばを連れて来て、上着をそれらの上にかけると、主はその2匹にまたがるようにして、乗られ、ある者たちは、上着を主イエスの進まれる前に敷き、別の者たちは、野から枝を切って来て、その行かれる前に敷きつめていたのであります。
これは、ゼカリヤ書に出てくる、シオンの娘よ、大いに喜べ、あなたの王がお出でになる。雌ろばの子、子ろばに乗って、という記事を主が成就させたのであります。
主は通常の王が乗る馬ではなく、ろばに乗って、柔和なお方として、お出でになられる。マタイは、しかも、あなたの王があなたのもとにお出でになると書いたのであります。
私たちの現実のありのままの生活のただ中に、脆くて、常に、罪に陥りやすい危険から守るまことの王として、やって来られるのであります。
前を行く群衆も、後に続く群衆も、エルサレム巡礼の主としてガリラヤからの群衆が中心だったでありましょう。彼らはこう叫びながら言うのであります。
ダビデの子にホサナ、主のみ名によって来られる方が祝福されますように。いと高きところに、ホサナ。ホサナとは、良く分からない言葉なのですが、主よ救ってください、あるいは、主に祝福が、または栄光がありますようにという巡礼のおりの詩編の叫び声であったでしょう。そして、主が、オリーブ山から、エルサレムの町に入ると都中の者が、この方はいったいどういうお方だと動揺させられるのであります。
昔、モーセが、ろばにのって妻子と共に、エジプトへと帰って行きました。人々、ガリラヤからの群衆は、この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスであると答えました。
主は、新しいモーセとして、お出でになられた、預言者であり、王であられるお方として、エルサレムに、そして、この世界に再び、お出でになられるのであります。モーセ以上に力ある預言者として、待たれていた新しいモーセとしてお出でになられたし、再臨の時にもこのような形でお出でになられるのであります。
私たちは、これから教会の暦の上での一年間を、罪の危険から守られ、主キリストが力を奮って、死を覚悟してエルサレムに、柔和な王としてお出でになられたことを、思い起こしながら、主を仰ぎ望みつつ歩んでまいりたいものであります。
一言祈ります。
父なる神さま。すぎた1年間、さまざまなことがありましたが、私たちを守り導いて下さったことを感謝します。新しく始まった1年も、あらゆる罪の危険から守り導いてください。2000年たった現在も、人類は闇の中を同じように歩んでいます。私たちは、本日エルサレムに入られた主イエスが、柔和な、モーセにはるかにまさる預言者、そして、まことの王として、力を奮って来てくださることを信じています。欠け多く、多くの罪にまみれている私たちを、み子の来臨において、助け、新しい一年間を無事に歩むことができますように。多くの過ちをあなたが赦し、み子の到来によって、新しい生涯を送らせてください。キリストによって祈ります。アーメン。
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2010/11/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「終りの日に備えて生きる」(ルカ21:5-19)
ルカ21:5-19、イザヤ書52:1-6、Ⅰコリント15:54-58、2010・11・21、聖霊降臨後最終主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書21:5-19
 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしはあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本もなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


説教「終わりの日に備えて生きる」(ルカ21:5-19)

本日は、聖霊降臨後最終主日となりました。ルカと共に、エルサレムへの旅と共に過ごしてきましたが、一応、いよいよ、ルカ福音書とは、本日でお別れであり、次週からは、三年サイクルのA年として、マタイが主として読まれます。
さて、教会歴での最終主日は、王であるキリストを覚える日曜日として守られてきました。本日の個所は、主が神殿の崩壊を預言する記事が含まれていますが、王なるキリストが、紀元後70年頃のローマ帝国による神殿崩壊、そして、エルサレムの滅亡を予告する記事につながっています。主は、全能のお方として、エルサレムで十字架につく前に、本日のお言葉を述べたものと、素直に受け取ってもいいのではないでしょうか。
本日の個所を、見てみますと、前段は、神殿崩壊にさきがけての予兆、前兆、しるしについて、21:5-11で主は語っておられます。そして、後段の21:12-19で、その前に起こること、迫害などについて、語っておられます。
 前段は、このようであります。神殿の見事な石どもや、奉献された装飾品で飾られた神殿についてある人たちが語っていた時、主は、あなた方が見ているこれらのものは、石の上に石が一つも残らないようにされる日々が来るであろうと。人々は、先生、それはいつ起こり、どのようなしるしが、あるのでしょうかと尋ねます。
主は、あなた方は、迷わされないように気をつけなさい、私がそれであるとか、時が近づいたと言う者があっても、その後について行ってはならない。国が国に、王国が王国に対して起き上がり、戦争や暴動について、あなた方は聞くであろう。そして、ある所では飢饉や、地震や疫病が起こるであろう。まず、それらが第一に起こるが、すぐには、終わりの日は来ないであろうと、前段では、主は語られているのであります。
そして、後段では、それらのことの起こる前に、人々は私の名のゆえに、あなた方に手を置き、迫害し、会堂から追い出し、獄に引き渡すであろう。あなたの両親や、兄弟や、身内や、友人たちがあなた方を引き渡し、裏切るであろう。そしてそれは、あなた方を証しへと導くであろう。あなた方は、前もって、何と答えるか、心において実践しておかないように。なぜならば、私が、敵対する者たちが反論も反駁もできない知恵と口を与えるであろうから、と言われます。そして、私の名のために、あらゆる人にあなた方は憎まれる者となるであろうと言われます。主イエスは、別の個所で、あなた方は、自分の命をも憎む者でなければ、私の弟子であることはできないとも言われています。
私たちは、自分を善い人間だと思い込み、信じがちでありますけれども、主は、その主の名のゆえに、あなた方はすべての人に憎まれる者となるであろうと予告されています。
しかし、主は迫害や逆境とぶつかるとともに、神の御加護も保証しておられます。主は言われます。そして、あなた方の頭の髪の毛1本も、失われることはないと言われているのであります。そして、あなた方の忍耐によって、あなた方はあなた方の命、魂を獲得するようにと鼓舞されるのであります。
この主の預言は、その弟子たち、特に、パウロを含めて、使徒言行録において、成就して行くのであります。しかし、これを語られた主イエスは、この後、十字架にかかり、弟子たちの裏切りにあい、この上もない苦しみを味わわれるのであります。使徒言行録では、ペトロも、パウロも、殉教の死を遂げたことが暗示されていますが、弟子たちのあらゆる受けた迫害も苦しみも、主イエスの味わわれた苦しみには及ばないのであります。
私たちは、主がこの預言をしてから、2000年近く立っていますが、本日の主の語られたお言葉は、依然として効力を持っているのではないでしょうか。私たちは、今も、迫害こそ、受けていませんが、主イエスによる罪の贖い、主こそこの世の救いの唯一の主であることを、証ししていくとき、有形、無形のさまざまな誤解や圧迫、迫害ともいえる事態に直面することを、本日の主の言葉を通して、改めて自覚させられるのではないでしょうか。
私たちもまた、親から、実際的には、両親、兄弟、あるいは、身内たち、友人たちから、裏切られるとも言える体験をするのではないでしょうか。しかし、ひるむ必要はない、主が敵対者が反論も反対もできない知恵と口を与えるであろうと約束されているのであります。
私たちは、王であるキリストの言われる言葉として、一年の最終主日に、主の預言して下さったお言葉を、心におさめて、新しい一年、来週から始まる待降節を歩んでいきましょう。
父なる神さま。
私どもは、1週間、1週間が、主日を始まりとして与えられていますが、その1週、1週のうちにも、弱りこんだり、怠ったりして、十分な主の証しをなすことが難しゅうございます。どうか、この1年を終わるにあたって、王なるキリストを今一度覚える者となさせてください。津田沼教会も、いろいろな出来事がありましたが、あなたにつながるこの小さな群れをも、きたる年導いてください。私たちの弱さをあなたが赦し、助けてください。
キリストによって祈ります。アーメン。
2010/11/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「次の世の復活にふさわしい者たち」
ルカ20:27-40、マラキ3:19-20、ルカ20:27-40、2010・11・14、聖霊降臨後第25主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書20:27-40
 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することはモーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。





説教「次の世の復活にふさわしい者たち」(ルカ20:27-40)

 先週は、全聖徒主日を守り、本日は、聖霊降臨後第25主日であり、来週で聖霊降臨後最終主日を迎えて、今年度の教会歴の一年が終わります。今の時期、11月は伝統的に死者を覚える時期として、教会では守られてきました。私たちは、この一年をルカ福音書を中心として学び、それは、エルサレムへの旅の途上の出来事として大半が語られてきましたが、本日の記事ルカ20:27-40は、気付いてみますと既に、エルサレムに入られてから、主イエスがお語りになったエピソードであります。
 ルカ福音書、本日の出来事を思い起こしてみますと、次のようなものでありました。サドカイ派のある者たちがやって来て、彼らは、復活は存在しないと反対して語る者たちでしたが、主イエスに質問したのであります。先生よ、モーセは、もし、だれかが、女を受け取って、子がないまま、死んだなら、その兄弟が、その女を受け取って、種を起こすようにと。ところで、ここに7人の兄弟がいました。その第一の者は女と結婚し、子がなくして、死に、第二の者も、第三の者も、子がないままにしに、第7の者まで同じようにして死にました。最後に、その妻も、死にました。復活の時、その女は、それでは、誰の妻に成るのですかと。一妻多夫制を認めているようでありますけれども、実はこれは、レビラート婚として、ある人の財産を跡継ぎに継承させるために、モーセ五書の創世記やルツ記などで認められているものでした。
 サドカイ派は、復活も、霊も、天使も存在していないと考えていました。それに対して、ファリサイ派はそのいずれもが存在すると考えるようになっていました。主イエスは、どちらかと言えば、この点ではファリサイ派に近かったのであります。
 主は、同じモーセ五書から取って、モーセも柴の書において、すなわち、出エジプト記の最初のほうで、復活を啓示していたではないかと言われます。すなわち、モーセが、主なる神を父アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と語っている通りであると。
 モーセが主なる神に出会ったときには、父祖たちは、肉体上は、既に過去の人であり、死んでいた人たちであります。しかし、モーセは、今も彼らの神であると語っているのであります。アブラハムたち、父祖たちを守り導いた主なる神は、生前と同じように、死の棘からも彼らを守り導き、彼らは、死をも超克して生きており、そして、その子孫たちも、今も神は、死からも死人からの復活へと守り導いてくださっていると言われるのであります。
 そして主イエスは、この世の子らは、結婚したり、とついだりしているが、次の世を得るのに、ふさわしく、また、死人からの復活に、ふさわしいとされた者たちは、天使たちのようになり、もはや、死ぬことはできないし、結婚したり、嫁いだりすることもないと言われます。そして、なぜならば、神は、死んだ者たちのかみではなく、生きている者たちの神であり、なぜならば、全ての者たちは、彼でもって、すなわち、神に対して生きているからであるとお語りになられるのであります。
 私たちは、死によってすべてが終わるのではありません。そして、それは、霊肉二元論でもありません。すなわち、肉体は滅んでも、霊魂は不滅であるというのではありません。死人からの復活があると言われるのであります。
 この後、主イエスは、十字架で死を遂げ、三日後に復活させられます。そして、私たちも、復活の子として、神の子になるのであります。
 ルカのイエスは、すべての人が復活するとは言いません。次の世を得るのにふさわしい者たち、死人からの復活にふさわしい者たちが復活するというのです。
 私たちは、このところ、津田沼教会では兄弟姉妹がたを天に送るという経験に遭遇しています。骨壷におさめられる遺骨をみて、生前の故人をしのび、いたたまれない気持ちになります。
 しかし、主が、その十字架の死を通して、本日のお言葉の通り、死で終わりではなく、死人からの復活、新たな生命があることを教えて下さっています。
 私たちは、絶望しないで、主の約束、主のお言葉に信頼していきましょう。
 祈ります。
天の父なる神よ。
 あなたは、私たちに生命を与え、また、平等に、死をも与えられました。しかし、私たちは、地上の生命で終わりではなく、次の世での生命を、主ご自身が語ってくださったお言葉を通して約束なさいました。私たちは、御前に罪を犯しやすい存在ですが、お言葉にすがって、次の世を得るのにふさわしい、また、死人からの復活にふさわしい神の子らとして守り導いてください。私たちはそれぞれに多くの弱さをも抱えていますが、どうか、1週間1週間を、主のお言葉に頼って歩む民としてください。キリストによって祈ります。
アーメン。



2010/11/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「この世の苦難と主にある平和」(ヨハネ16:25-33)
ヨナ書2:1-10、コリントのの信徒への手紙一15:50-58、ヨハネによる福音書16:25-33、2010・11・7、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式)

ヨハネによる福音書16:25-33
 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」





「この世の苦難と主にある平和」(ヨハネ16:25-33)
本日は、全聖徒主日であります。主を信じ、自分の弱さを認め、罪を告白して生きた人、生きている人は皆聖徒であります。本日、主にあって亡くなられた故人たちを偲んで礼拝を持っています。中には、主を救い主として告白せずに亡くなられた方もおられます。また、信じた人も、その生涯において信仰生活においても非常な浮き沈みがあった方もおられることでしょう。
それは、私たちも同じであります。全能の主、キリストは、そして、父である全能の神は、私たち一人一人を憐れんで、天において恵みへと招いて下さっていることでありましょう。
本日の福音としてヨハネ16:25-33が与えられています。主イエスが、十字架に上げられ、天の父のもとに進まれるその生の終りに弟子たちに語られた告別説教の最後の部分であります。主は、これらのことを、「たとえ」で、これは、もとの言葉では、「暗い言葉どもで」語って来たと言われます。しかし、暗い言葉どもではなくて、率直な言葉ではっきりと私が語るであろう時が来る、いや、既に来ていると言われました。その日には、私の名において、あなた方は要求するであろう、そして私が、父に対してお願いするとは、私はあなた方に語らない。なぜなら、父があなた方を愛しておられ、あなた方が私を愛したからであり、私が神から出て来たことをあなた方は信じゆだねたからである。父から、私は出て来た、そして、この世界へとやって来た、再び私は、この世界を後にして、父に向かって進んでいく。
弟子たちは言います。見よ、今は、暗い言葉において何一つ語らず、率直さにおいて、公然とあなたは語られます。今私たちは知っています、すべてのことどもをあなたは知っておられ、誰もあなたにお願いする必要をあなたは持っていないことを私たちは知っています。このことにおいて、神からあなたが出て来られたことを信じゆだねますと。
彼らに向かってイエスはお語りになります。今、あなた方は信じゆだねるのか。見よ、こういう時がやって来る、そして既にやって来ている。すなわち、各々、自分のところにあなた方はちりぢりばらばらにされて帰っていく時が来ていると。
そして、私ただ一人をあなたがたは後に残すことになる。しかし、私は一人ではない、なぜなら、父が私と共におられるからである。これらのことどもを、私はあなた方に語った、それは私において、あなた方が平和を持つためである。この世界においては苦難をあなた方は持つ。しかし、あなた方は元気を出せ、私は、この世界に対して既に打ち勝っていると主は言われるのであります。
故人となった聖徒たち一人一人もこの世で、12使徒たちと同じように、大きな苦難、悩み、困窮を経験したことでありましょう。そして、それは、今を生きている私たちも同じであります。私たちは、先に天に召された聖徒たちと共に、これから、聖餐に与ります。
これは、終わりの日に神とみ子、キリストを囲んで与る祝宴の先取りであります。
主イエスは、この世界は悪であるが、それを、私は打ち破った、そして御自分においてそれを克服していると言われます。この世の君は、悪魔なのであります。しかし、主は、聖徒たち、信じゆだねる者たちにご自分は、この世の悪と対決し、既に打ち勝っていると明言なさっておられるのであります。私たちの、この世の残されている期間を、この主イエスに従って歩んでいきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。


2010/11/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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