津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪に仕える奴隷か、神に仕える奴隷か」(ヨハネ8:31-36)
エレミヤ書31:31-34、ローマの信徒への手紙3:19-28、ヨハネによる福音書8:31-36、2010・10・31、宗教改革記念日(典礼色―赤―聖餐式)

ヨハネによる福音書8:31~36
 イエスは御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」


説教「罪に仕える奴隷か、神に仕える奴隷か」(ヨハネ8:31-36)
本日は、宗教改革記念日であります。1517年10月31日、すなわち、11月1日、全聖徒の日の前の日に、ヴィッテンベルクの城教会の門扉に、アウグスチヌス修道会の修道僧であったマルチン・ルターが95カ条の提題を貼ったと言われています。そして、その時から、ルターも期せずして、本格的な宗教改革の火ぶたが切って落とされたのであります。 
本日の与えられている福音は、ヨハネ福音書8:31-36であります。主イエスは、主イエスの言葉を聞いて信じた多くのユダヤ人たちにこう言われるのであります。「あなたがたが、私の言葉にとどまるならば、あなたがたは、本当に私の弟子である。」
私たちは、主イエスの言葉にとどまり続けることが大事なのであります。主は続けます。「そして、あなた方は真理を知るであろう、そして、真理はあなた方を自由にする」と。この真理とは、人間的な、学問やら科学によって知る真理とは違うのであります。主イエスの言葉を通して、知ることができる神的な真理、主の十字架の死と復活を通して与えられる真理であります。その真理、真実が、あなたがたを自由にセットすると言われるのであります。
すると、彼らは主に向かって答えるのであります。「私たちはアブラハムの子孫であって誰にも、また、一度も奴隷となったことはない」と。そして、「どうして、あなたは、私たちが自由な者たちになるであろうと語るのですか」と。主は答えて言われます。
「よくよく、あなた方に言っておくが、すべて罪を行う者は、罪の奴隷である。で、奴隷は、家に永遠にはとどまらないで、息子が永遠にとどまるのである」と。奴隷は、パレスチナのユダヤ人の間では、その当時7年でその家から解き放たれるということがありました。そして、主は最後に言われています。
「もし、かの息子があなた方を自由にするならば、本当に自由な者たちにあなた方はなるであろう」と。
ユダヤ人たちは、自分たちが、アブラハムの子孫であることで誇りを持ち、自己満足にしばしば陥りがちでありました。私たちは、罪に仕える奴隷であるか、神の息子の言葉にとどまり、神に仕える奴隷であるか、そのいずれかなのであります。
マルチン・ルターは、私たちは、悪魔が御するか、み子イエスが御するかそのいずれかの馬車のようなものであると言っています。ルターは、驚くべき著作をなし、み言葉を説き証ししながら、宗教改革を進めていきました。人間は、行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされるのだとして、パウロの再発見をしました。
1483年に生まれ、1546年に生まれ故郷のアイスレーベンでなくなりました。なくなる前にも、ルターは、私は、あわれな神の言葉を乞う乞食にすぎないと言いました。私は、基礎ラジオ講座を今でも時々聞きますが、その講師は、東西ドイツ統一20年にあたって、ドイツで今一番の功労者、再評価されている人物は、マルチン・ルターであると評されていますと言っていました。
また、私はドイツ旅行に11日間、3年ほど前に行きましたが、買い求めたドイツの旅行案内には、ルターは、「思想家」であると書かれてあり、驚いたことでありました。非常に幅広い評価がなされているのであります。
ルターの始めた宗教改革1517年から、あと、7年ほどで宗教改革500年記念に当たることになります。私たちは、人間に信頼するのではなく、神の子イエスの言葉にとどまり、さらには、全聖書のみ言葉にとどまり続け、罪に仕えるのではなく神に仕える奴隷として、罪と死から解き放たれ、真の自由を獲得して、全ての人に仕えていく者になりたいものであります。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
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2010/10/31(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「憐れみを乞う祈り」(ルカ18:9~14)
申命記10:12-22、テモテへの手紙二4:6-18、ルカによる福音書18:9-14、2010・10・24、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書18:9-14
 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」




説教「憐れみを乞う祈り」(ルカ18:9~14)
先週は、「やもめと裁判官」の譬えを通して、気落ちせず絶えず神に祈り続けよとの主イエスの弟子たちに語られたお言葉でした。本日は、それに続く主のなさった譬えで神に「憐れみを乞う祈り」と題を付けておきました。
さて、私はその日の日課・福音のテーマが分かりにくいとき、「主日の祈り」を取り出してみることにしています。本日の主日の祈りは、「主よ、み民の罪を赦してください。私たちが弱く、悪へと誘われるとき、闇の支配をみ力で砕いてください」というものです。
本日は、「自分自身に信頼を置いて、自分は正しい、そして他の残りの者たちを軽蔑する者たちに向かっても、主イエスは譬えをおっしゃられた」と、もとの文は始まっています。 
「二人の人が祈るために神殿に上った、一人は、ファリサイ派、もう一人は徴税人であった」と主は語り始めます。ルカによる福音書は、15章の「放蕩息子の譬え」でも分かりますように、落ちぶれた者、罪に迷い込んだ者に対して、神がそれを拾い上げられる、憐れまれるという特徴が顕著であります。
徴税人は当時、罪人の代表のように言われていました。それに対して本日のファリサイ派は、神殿に立った後、自分自身に向かってこう祈るのであります。
「神よ、私はあなたに感謝します、私が他の者たちすべての者たちのように奪い取る者、不正をなす者、姦淫を行う者、また、この徴税人のような者でないことを」と。十戒に反することを自分はしていないと自慢するのであります。さらに、彼は続けます。「私は、週に二度断食し、すべての得るものの十分の一を献げています」と。
それは、彼の得るものの十分の一であって、彼の資本そのもののではないのであります。しかし、断食も、本来は一年に大贖罪日に一度守るべきことが旧約聖書・モーセ五書では決まっていました。しかし、その後、ユダヤ民族への災難などを覚えて、後には断食日が更に生まれるようになっていきました。個人としては、月曜日と木曜日に断食が守られるようになっていましたが、それを守ることは、本来の義務以上のことを守っているので、神からご好意をうけるのは当然とばかり祈ったのであります。
特に午前9時と午後3時に祈りの時間が示されていましたので、その時刻に二人は、あたかも示し合わせたように神殿に上っていったのかもしれません。とにかく、このファリサイ派は律法が要求している以上に義務をはるかに超えて行っていると神に感謝するのでありますが、それによって、神さまに義とされることを要求しているかのようであります。 
ところが、もう一方の徴税人はといえば、彼は両眼を天へ上げようともせず、うつむいて、手もあげず、胸を打ちたたきながら祈るのであります。
「神よ、罪人である私を憐れんで下さい」と。この「憐れむ」と訳されている言葉は、新約聖書に二個所しか出てこない言葉で、「罪を取り消して下さい」というふうな強い意味であります。「キリエ、エレーソン」、「主よ、憐れんでください」と我々が式文で祈る以上の強い意味の言葉が使われています。
この徴税人は、「私の罪を赦して下さい」と、肩を落として、半ば絶望的に祈るのであります。ところが、主イエスは言われます。「あなた方に私は語る、義とされてその家に帰ったのは、この者であって、あの者に対してではない」と。
自分の功績や人格を誇る者が神の目に正しいとされるのではありません。この徴税人は、自分の罪が赦されて、神に義とされて、帰って行ったことを、自らは知らなかったかもしれません。私たちの礼拝も、この徴税人の祈りのようにして、守られるべきものであります。
そして、主は「なぜなら、すべて自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高められるであろうから」と神による逆転を警告されるのです。私たちも、礼拝に来て懺悔をして、義とされて、新しい1週間に帰っていく、そのような一人一人でありたいものです。
 
私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように。アーメン。



2010/10/24(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「粘り強い祈り」(ルカ18:1~8)内海望牧師
創世記32:23-31、テモテへの手紙二3:14-4:5、ルカによる福音書18:1-8、2010・10・17、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書18:1-8
 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守って下さい』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」



説教「粘り強い祈り」(ルカ18:1-8)内海望牧師

 イエスさまのたとえの中には、近隣で起こった出来事を題材にしたものがあります。今日の個所も、おそらくその一つでしょう。この悪名高い裁判官とやもめのやりとりは近隣の話題になっていたと考えられます。
 このたとえを通して、イエスさまは祈ることの大切さと、祈ることの意味をお話になっているのです。具体的には、「気を落とさずに絶えず祈ること」をお話になっているのです。
 まず何よりも大切なことは、イエスさまは、マタイによると、「こう祈りなさい」と祈ることを命じていらっしゃるということです。確かに、ルカ福音書では、人々が「どう祈るか教えてください」とイエスさまにお願いしたことになっていますが、イエスさまが「祈れ」と命じられたことは間違いありません。祈りたい時に祈るということではないのです。人は「絶えず」、常に祈る必要があるとおっしゃるのです。
 このたとえに出てくるやもめが何を願ったか具体的には書かれておりません。しかし、「やもめ」という彼女の境遇から考えれば「生活を守ってください」という意味でしょう。財産のことかもしれません。自分の人生を左右する事柄がかかってくるので、こんなに懸命に訴えたのです。 
 このようなとき、私たちも熱心に祈ることでしょう。空腹のとき、病に苦しんでいるとき、私たちは一所懸命祈ります。しかし、私たちは、なんとか自分で生きていけるときには祈りを忘れます。神さまなしにでも生きていけると思うのです。「霊的な飢餓感」というものは気付かずに過ごすことができるのです。そのような時こそ、人間の生き方として最も危険な時なのです。ですから、「祈れ」とイエスさまは命じられるのです。「君は祈る必要がある」とおっしゃるのです。確かに、私たちは自分たちの心に、日々新鮮な空気を送り込む必要があります。神さまから離れると、私たちは簡単に利己的な生き方、自己中心的な生き方に陥り、罪に汚染された心になってしまうのです。祈りは、信仰者にとって、新しい命の空気を心いっぱいに吸い込む「深呼吸」なのです。「原罪は、ひげのように毎日伸びてくるから、毎日剃り落とさなければならない」とルターは言いました。確かにそうです。その意味で、「絶えず」祈る必要があります。そして、祈りの最初に必ず「悔い改め」が来ます。そして「赦し」の喜びの中で、新しくされるのです。

 ところで、そもそも「祈る」とはどういうことでしょうか。それは「神さまとの対話」です。単なる祈願ではありません。祈願というものは、自分にとって益となるものを神さまにぶっつけるだけです。「当たるも八卦」といういい加減さがあります。そこには「信頼」がありません。神さまと話し合う姿勢には、信頼が必要です。対話とは、そのような姿勢です。「神さまは私の祈りを必ず聞き届けてくださる」という信頼のうちに神さまと話し合うのです。もちろん、「聞き届けてくださる」ということは、必ずしも「願いを叶えてくださる」ということとは限りません。私たちもただ自分の利益のみを求める祈りをすることがあります。しかし、心から信頼する神さまとの対話の中で、自分の祈りが訂正されることもよくあるのです。「必ず聞き届けてくださる」という信頼は、必ず私たちの心を和らげます。決して気を落とすこと、絶望することはありません。まさに「心の深呼吸」です。
 しかし、どうしても神さまのみ心がわからない時もあるのです。そのとき、今日のたとえのやもめ、あるいは、創世記のヤコブの姿勢が大切になります。「粘り強い祈り」と説教題をつけましたが、これは、「格闘的な祈り」と言い換えてもよいでしょう。
 私たちは、このやもめの裁判官にうるさがれても、執拗に願い続けました、この姿勢を学ばなければなりません。ヤコブは一晩中、神さまと格闘しました。ヤコブは「祝福して下さるまでは離しません」と言って必死にしがみ続けたのです。祈りには、穏やかな喜びの対話もありますが、このような格闘的な対話もあるのです。イエスさまのゲッセマネの祈りは、最も痛ましい格闘的な祈りだと言うことができます。「アッバ、父よ、この杯を私から取りのけてください」というイエスさまの祈りには心打たれます。
 愛する者の死ほど辛い経験はありません。あるいは、無垢の子どもの死はどうしても理解できません。私たちの心には、解決されない痛みが数多くあります。簡単に「これが主のみ心です」と言ってしまうのは、痛みを負う人々への裏切りであり、精神的怠惰です。実は、この「粘り強い祈り」「格闘的な祈り」が少なくなっているのが心配です。物分かりがよいようで、結局は「神さまへの本当の信頼」が欠けているのではないでしょうか。解決できないままで、しかし、ヤコブのように「離しません」と神さまと取っ組み合いながら祈り続けるという姿勢が大切です。
 イエスさまは、このたとえの裁判官ややもめをほめていらっしゃるわけではありません。
しかし、粘り強く祈る姿勢は学ぶべきだとおっしゃっているのです。
 ところで、今日の日課には、見逃すことのできない一節があります。それは、8節です。イエスさまは「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とおっしゃいました。イエスさまは、この直前に「終わりの時」について語っておられます。「人の子が来るとき」というのは、終末の時を指します。ところが、「その時、地上に信仰を見ることができるだろうか」とため息をついていらっしゃるのです。ここに、すべての町々、村々を廻り、はらわたがちぎれるほどの思いをもって、福音を語り、病や患いを癒して歩かれたイエスさまですが、今、人々の無理解に心痛めていらっしゃるのです。「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」という言葉には、深い悲しみがこめられています。
 私たちの信仰も、このイエスさまが出会った群衆と変わりません。自分の都合で祈り、ある時は神さまからも離れて平気な私たちです。罪人としか言えない私たちなのです。祈る資格など全くありません。イエスさまを悲しませている一人なのです。それでも、そのような私たちに、イエスさまは「祈れ」と命じてくださっているのです。祈ることを許してくださっているのです。これは何を意味するのでしょうか。
 イエスさまは今、顔をしっかりとエルサレムに向けて歩んでいらっしゃいます。十字架への道を歩んでいらっしゃるのです。このイエスさまの十字架によって、この世界に大いなる転換が起こっているのです。この世では、「罪と罰」、因果応報というのが当然の筋道です。祈らない者、罪人には罰です。しかし、イエスさまの愛は罪人にまで注がれているのです。「一人も滅びない」ことこそ、イエスさまの祈りなのです。そのために、イエスさまは、ゲッセマネの園で「この杯を取りのけてください」というあの血のにじむような祈りに続けて、「み心が行われますように」と祈ってくださったのです。このイエスさまの祈りに支えられて、私たちは罪人であるのに、祈ることを許されているのです。イエスさまの十字架によって神さまと私たち罪人の間に橋がかけられたのです。ですから、私たちは「イエス・キリストの御名によって、」祈るのです。ルターは、「神さまは罪人の敵ではなく、不信仰者の敵である」と語りました。罪人であることにひるんで祈らないのでなく、イエス・キリストの十字架の愛に信頼して、大胆に、主を信頼し、喜びと感謝をもって絶え間なく、粘り強く祈り続ける者になりましょう。
 祈りは深呼吸です。神さまと話し合えるということは信仰者に与えられ、何にも代えがたい大きな恵みです。しっかりと主の愛を心いっぱい吸い込んで日々新しく生きていきましょう。アーメン。

「信仰の生む実」(ルカ17:11~19)
列王記下5:1-14、テモテへの手紙二2:8-13、ルカによる福音書17:11-19、2010・10・10、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書17:11-19
 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」



説教「信仰の生む実」(ルカ17:11-19)
 
十字架に向かうエルサレムに向けての主イエスの旅もだいぶ終りに近づいてきました。本日の個所ルカ17:11-19は、「エルサレムに向かって進むにおいて、起こったことには、主イエスはサマリアとガリラヤの真ん中を通っていた」と始まります。ルカは、エルサレムから見てその近い順、サマリア、ガリラヤと考えて書いたのでしょうか。その途上で、主のことを伝え聞いていたであろう重い皮膚病の男たち10人がやって来て、遠くから、叫ぶのであります。「イエスよ、先生、私たちを憐れんで下さい。」
この病気は、らい病であったかもしれません。人々から疎外されて、隔絶された社会の外に、彼らは置かれていたのであります。病気は、何であれ、苦しいものでありますが、当時は不治の病と思われたものであり、それを彼らは、「憐れんで下さい」と、遠くから大きな声を上げたのであります。難病はつらいものであります。
私たちは、ともすると、風邪をひいた位でも弱気になり、時として相当こたえるものでありますが、彼ら10人のそれまでの苦しみはいかばかりであったことでしょうか。
しかし、この「主よ、私たちを憐れんで下さい」(キリエ・エレーソン)と言う彼らの叫び声はまた、私たちが、毎週礼拝に来る上での叫び声でもあります。
さて、主は、それに対して、彼らに、「行って、祭司たちに自分の体を見せなさい」と言われます。すると彼らは、歩み出します。彼らは皆、主イエスに対して、信仰を持つという第一段階のテストには合格した者たちであります。そして、歩む間に彼らは、皆、「清められた」のであります。そして、自分が「癒された」ことを知った一人は、大声を上げ神をあがめ、すぐに引き返して来て、主の足もとに顔をつけ、感謝を示したのであります。 
主は、「清められたのは10人であったのではないか。他の9人はどこに」、と尋ねられます。そして、「神に栄光を与えるために、引き返してきたのは、この外国人以外には見いだされなかったのか」と問われます。
そして、「あなたの信仰があなたを救ったのだ。起き上がって進んで行きなさい」と彼を励まし、行かせるのであります。「体が清められると」いうことと、救いに与るということは、また、別問題であります。体が清められ、病気が治るということは、だれしもが望むことでありますが、その人が、真の意味で癒されて、神の救いに与り、永遠の命を与えられるということは、それとは比べものにならないはるかに大きな神の恵みであります。
私たちの功績、人格や業績によって救われるのではなく、神の救いという恵みに応答して、感謝を表した本日のサマリア人は、私たち信仰者のモデル、模範であります。そして、主は、残りの9人も真の救いに与ることを今もお待ちになっておられる方であります。
私たちは、どんなに剛健だった人も、やがては、体も衰え、病弱となって地上の生涯を終えて行くのが普通であります。しかし、そのような私たちの現実を主イエスと父なる神は、よくご存じであります。私たちは、主が与えてくださる真の癒しに対して、本日のサマリア人のように、与えられた信仰の実として、喜びを主のもとに引き返して、感謝を主に申し上げる生涯を送りたいものであります。
私たち人間の一生は、例えば、毎日、一円ずつ貯めても、現在日本では特に長寿社会になってきたとはいうものの、神の目から見れば束の間で、生涯で計算しても三万円にも届かないような、はかない短いものであります。
本日の記事を読みますと、私は牧師になる前の数カ月の間、経験した東村山市にあります全生園でのらいの患者さんたちのもとに、3名ほどで週に1回ずつ通った臨床牧会訓練のことを思い出します。当時850人ほどいた患者さんたちの中には青年の方もおられました。その青年は、もう壮年という年齢だったでしょうか、今から、牧師として社会に出て行く私たちに、「娑婆に出て今から活躍できるあなた方がうらやましいです。私の分まで頑張って下さい」と私たちを逆に激励してくれました。もう15年以上もあれから経ちます。
私たちは、本日の主のもとにただ一人、戻って来たサマリア人のように、主の奇跡・救いに対して、無感覚になるのではなく、絶えず応答していく一生でありたいものであります。地味でもいいから、主から、「あなたの信仰があなたを救った」と言われる信仰の実を生む生活を1週間1週間歩んでいきたい者であります。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせてくださるように。アーメン。
2010/10/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「仕える喜び」(ルカ17:1~10)
ハバクク書2:1-4、テモテへの手紙二1:3-14、ルカによる福音書17:1-10
2010・10・03、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書17:1-10
 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」




説教「仕える喜び」(ルカ17:1~10)
本日与えられている福音、ルカ17:1-10は、一読すると、4つの部分に分けられるようです。
まず、17:1-2節です。そして、第2の部分は17:3-4です。第3の部分は、17:5-6です。そして第4の部分は残りの17:7-10です。
 第1の部分では、「躓き、すなわち、背教、棄教の誘惑がやって来ないことは、不可能である」、と主は弟子たちに語り始めます。「しかし、その者を通して、躓きがやって来るその者は災いであるよ」と言われるのです。これは、裏切り者のイスカリオテのユダをも暗示していたかもしれません。主は、「その者にとって利点があるのは、首のまわりに、石臼をかけられて、海へと投げられることである。」これらの小さな者の一人が躓き、せっかく、主イエスに対して信仰を持っていたのに、それを捨てることになるよりは、と言われるのです。そして、本日の部分は、単なる主イエスの関連のない語られた教えを寄せ集めたのに過ぎないということではないのです。
 これは、弟子たちに、また、使徒たちに、総じて、教会のリーダーたちに向けて語られたお言葉を、訓戒の意味で、ここに、おそらく、ルカによって、まとめられている言葉なのです。
 第2の部分では、赦しの問題が取り上げられています。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を非難しなさいとあります。彼が悔い改めたなら、あなたは、彼を赦すであろう。また、一日に七回あなたに対して罪を犯し、七回あなたに向かってこう言って帰ってきたら、すなわち、私は悔い改めます、心を入れ替えますと言ってきたら、あなたは赦し、罪を帳消しにするであろう」、と主は徹底的な罪の赦しの必要を指摘なさっています。
 しかし、限りなく、私たちに罪を犯す者を、私たちは限りなく赦すことは不可能に近いでしょう。
それで、第3に、使徒たちは、「主よ、私たちに信仰を増し加えてください」とお願いせざるを得ないのです。
 主は、「あなたがたが、芥子の粒ほどの信仰を持っていたら、桑の木に、あるいは、いちじく桑の木に、お前は、根元から引き抜かれて、海に植られよと言ったならば、それは、あなたに聞き従うであろう」、と言われるのであります。
 信仰は、神さまからの贈り物であります。神は無償で、信仰を私たちに与えてくださるのであります。そのとき、神の力によって、ようやく、私たちに犯す兄弟の罪を限りなく赦すことが可能になるのであります。神からの贈り物によって初めて私たちは、兄弟の罪をどこまでも赦すことが可能となる奇跡が起こるのであります。
 第4の部分17:7-10は、神と私たちの関係をたとえたものであります。「もし、あなた方のうちに畑で耕す、あるいは、野で羊を飼う僕がいたなら、野から帰って来た時、主人は、あなたは、行って横になり食事をするように言うだろうか。そうではなく、まず、私が食べる者を用意して、腰に帯をしめ、私が飲み食いする間、給仕をしてくれ。その後で、あなたは、飲み食いするであろうと言うのではないか。あなた方も同じであり、あなた方に命じられていることを行ったとき、私たちは、ふつつかな僕です、なすべく義務があることを私たちは、やったにすぎませんとあなた方は言いなさい」と、主は、特に、教会のリーダーとなるべき人々に、本日のお言葉を語られたのであります。
 私たちは、神さまによって選ばれて、教会につながっている者たちであります。どこまでも、神さまに仕え、また、信仰の浅い人、小さい信仰の人にも、仕え、それを喜びとする者になりたいと思います。
 神さまが、み子を通して、私たちを主イエスの弟子として、また、父なる神の僕として、選んでくださって、私たちは今日あるを得ているのであります。私たちに罪を犯す兄弟に対しても、どこまでも赦し、神さまの全能の力によって、恵みと憐れみのうちに、やがて、天の栄光に与る者とされたいものであります。

 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
 

2010/10/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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