津田沼教会 牧師のメッセージ
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「慰めの場所か、苦痛の場所か」(ルカ16:19~31)
アモス書6:1-7、テモテへの手紙一6:2C-19、ルカによる福音書16:19-31
2010・09・26、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書16:19-31
 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」




説教「慰めの場所か、苦痛の場所か」(ルカ16:19-31)

今年の教会歴に従った福音、ルカによる福音書も、次第に大きな山場へと進んでいきます。
さて、今日の福音、16:19-31は、前半16:19-26、と16:27-31に分けることができます。主イエスが、死後の世界について語っている個所は、一人の同じ女性が、が7人もの兄弟と結婚して子をもうけなかったときは、天国では、だれがその女性の夫になるのかといったエピソードもありますが、本日の個所は、その意味でも興味深いものであります。私たちは、死んだらどうなるのかについて、そのことについて、主イエスご自身が譬えを語っておられるからであります。
前半16:19-26では、生前から死後にかけてのことが書かれています。ある金持ちは、紫の衣や麻布の衣を装って、豪華に楽しく遊び暮らしていたのであります。一方、彼の門前には、ラザロ、「神は慈しむ」と言う意味の名前の物乞いがいて、金持ちの家の門にできものだらけになって、放り投げられていたとも訳せます。彼はせめて、机から落ちるパンくずででも、腹を満たしたいと思っていたが、だれもそうしてくれず、この金持ちも心を配ることなどは考えていなかったのであります。
 彼ラザロの生前の悲惨さは、犬どももやってきて、彼の傷口をなめていたという実態によって、露わにされています。そして、やがて、寿命が来て、ラザロは、天使たちによって、アブラハムの懐へと迎え入れられたのであります。人は死ぬと天使たちのようになると、主は7人の兄弟を夫に持った婦人の譬えの個所で言われていますが、ラザロは、天使たちによって神の国の宴席の場におけるアブラハムのもとに迎え入れられたのであります。
ところが、やがて、金持ちも死に、埋葬されます。この金持ちは、陰府に落とされ、苦しみの炎の中から眼を見上げると、アブラハムのもとに憩っているラザロが遠くに見えます。金持ちは、大声で、父アブラハムよ、ラザロをよこして、指に水をつけ私の舌を冷やすようにしてくださいと頼むのでありますが、アブラハムは、あなたは生前、よいものをもらって、今は悪いものをもらっている。ラザロは、生前悪いものを受け、今はよいものを、慰めを受けているというのであります。
 しかも、二つの場所の間には、隔たりがあって、そちらから、こちらへ来ることも、こちらから、そちらへいくことも、だれも出来ないと語るというのです。それから、金持ちは次善の策を申し出ます。16:27-31であります。では、と、金持ちは言います。私には、5人の兄弟がいます。ラザロを父の家に送って、彼らまで、こんな苦痛の場所へと来ないで済むように忠告させてくださいと。
すると、アブラハムは語るのであります。お前たち、彼らには、モーセと預言者がいる。彼らに聞くがよいと。金持ちは、いいえ、父よ、だれかが死人の中から生き返って言ったならば、悔い改める、メタノイアという言葉から来ていますが、彼らは心を変えるでしょうと。
しかし、アブラハムは言うのです。モーセと預言者、すなわち、旧約聖書を彼らが信じないならば、たとえある者、すなわち、主イエス御自身が復活しても、彼らは信じゆだねさせられはしないであろうと、アブラハムは語ったのであります。
私たちもいずれは、天に召されます。先に送った父、母、あるいは、伴侶のことを思い出す人も少なくないでしょう。私たちは、生前の行い、生き方によって、慰めの場所へいくか、それとも、陰府の苦痛の場所へと行くかが決まるのであります。そして、聖書は慰めか、苦痛か、報いか裁きかのいずれかの場所へと私たちが行くことになることを明らかにし、私たちが、生前の日々の悔い改めの生活によって、慰めの場所へ行く者となるように警告を発しているのであります。私たちは、66巻、旧約聖書、新約聖書のすべてを通して、このことを銘記したい者であります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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2010/09/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「富の真の用い方」(ルカ16:1~13)
コヘレトの言葉8:10-17、テモテへの手紙一2:1-7、ルカによる福音書16:1-13、
2010・09・19、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書16:1-13
 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」




説教「富の真の用い方」(ルカ16:1~13)渡辺賢次牧師

先週は、福音の記事はルカ15:1-10で、なぜ、主イエスは、徴税人や罪人と一緒に食事を取ったりするのかというファリサイ派や律法学者たちのつぶやきに対して、主が語られた二つの譬え話でありました。それに続く本日の福音、ルカによる福音書16:1-13節は、今度は弟子たちに対しての譬え話、お言葉であります。「主は弟子たちにもお話になった」と本日の記事は始まっています。何度も、繰り返し言いますように、これらの譬えも、主が十字架の時が近づいたことを重々、ご承知でエルサレムに顔を向けられるルカ9:51以下の旅の途上での教えとして、この個所に据えられています。
主は語られます。「ある主人に管理人がいて、彼が、主人の持ち物を散らばらせているという告発が主人にもたらされた。そこで、主人は、彼を呼び出し、『私が聞いていることは何なのか、もはや、お前は管理人の仕事をさせておくわけにはいかない。計算書、勘定書を出しなさい』と言ったのである。それで、管理人・家令は、心のうちで言う。『どうしようか、主人は、私の管理人としての仕事をやめさせようとしている。私は他のことはできないし、物乞いになるのは私は恥ずかしい。そうだ、私がどうしたらいいのか、私は分かった、私がこの仕事をやめさせられるときに、私を家へと迎え入れてくれる友達を作っておけばいいのだ。』
そう言って、彼は、おのおのの債務者を呼び出して、聞く。『あなたは、主人にどれくらい多くの借りがあるのか』その者は答えて言う。『オリーブ油100バトスを』と。すると管理人は、『座って急いで、50と書き直しなさい』と言います。また、別の債務者を呼んで『あなたは、私の主人にどれくらい多く借りがあるのか』と聞きます。彼は、『小麦100コロスを』と答えます。管理人は、言います。『あなたは急いで、座ってそれを80と書き変えなさい』と。
ところが、この主人は、この管理人のしたことをほめた。この世の子らは、この時代に対して光の子らよりも、鋭く、俊敏であるからである」とあります。しかし、この文は、「主イエスはこの管理人のしたことをほめた」とも解することができる文章であります。両者を曖昧に表現しているのかもしれません。ルカ福音書は、イエスか、神に対してこの主という表現をたくさん使っているからです。
さて、ここまで、ルカ16:1-8が「不正な管理人の譬え」と言われている部分ですが、この管理人は、その時代の平均よりもより悪くもなく、より良くもないふるまいをしているとも言えましょう。
その後の、16:9-13までは、ルカが、あるいは、ルカが拠った資料がここに付加している主の言葉集であります。主は、「小さな事に忠実である者は大きな事においても忠実である」と、言われ、「小さな事に不忠実である、不義である者は、大きな事にも不忠実、不義である」と言われます。そして、「他人の物に不忠実である者に、だれが、あなたの物をまかせられようか」と、少し難解な文章、言葉を言われています。
 この世の富、マモンは、不義、邪悪であると、主は言われ、この時代は、来るべきメシアの時代に対して、そもそも不義なのであると言われます。私たちの生きているこの時代は不義な、邪悪な時代であると主は言われます。そして、そのこの世の不正な富、マモンをも用いて、金がなくなったときに、これは、彼が死んだときにとも訳せるのでありますが、友達を作っておき、彼らがあなたを永遠の住まい、幕屋、住みかに迎え入れてくれるように、不義な富をも用いなさいと言われるのです。
そして、「しもべは、だれも二人の主人に仕えることはできない。一方を愛し、一方を憎むからであり、一方の主人にしがみつき、もう一方の主人を見下すからである」と言われ、最後に、「あなた方は、神と富、マモンに兼ね仕えることはできない」と、言われているのであります。
私たちのこの地上の幕屋、肉体は、どんなに剛健だった人も、やがては、衰え、天の幕屋、永遠の住まいへと移されていくものであります。ですから、私たちは、この時代、それを主イエスは不義の時代だとお考えなのですが、その中にあって富、マモンも不義なのであるが、それを来るべきメシアの時代のためにこそ、用いるがいいと弟子たちに警告なさっているのであります。
お金を軽蔑すればいいと、主は言っておられるのではなく、特にルカの描くイエスは、この時代の物質を重視し、永遠の住まいに神によって迎え入れられるようにこそ、物質、財貨を役立たせよと言われるのであります。
私たちは、経済生活の面で非常に苦労しています。津田沼教会もそうであります。これから、バザーの準備が始まりますが、その純益を、社会、たとえば、社会福祉協議会に一部でもささげて、日頃お世話になっているこの地域に還元したいのは山々なのですが、建築の返済に追われて、これからも10年ほどは、そのために用いざるを得ないのです。
しかし、主は、私たちが、この不義の時代の中で、終わりのメシアの時代を見据えて、この世の子らより、鋭く、不義のマモン、富を本日の管理人のように、賢明に用いるように警告なさっておられます。そして、あくまでも、神こそが、私たちの仕えるべき唯一の主人であって、富、マモンの奴隷になることを戒めておられるのであります。
私たちは、神に、そして、十字架にこれからおかかりになる主イエスに従う僕、そして弟子であります。昨日も教会を訪ねた、かなり年配の御夫婦がありました。御主人は、「私は宗教には入らないが、靖国に年に2回は行っている。しかし、宗教では、家内がキリスト教を信じるのを妨げようとは思わない。花見川地区の改革派の教会に妻は行っているが足も弱って来ているから、この教会を訪ねてきた。弱い人には宗教は必要、有益であり、宗教の中ではキリスト教が一番だと思っている」と、ご主人は言っておられました。
この人は日本人の一般的な男の人の考え方で生きている方であろうかとも思いますが、本日の主日の祈りにもありましたように、「神なしには私たちは存在することができない」のであり、聖書に従って私たちは、「み心に従って生きる力」が与えられる者であります。私たちは、確かに弱く、もろい存在ですが、主なる神、主イエス・キリストに従って生きる時にこそ、クリスチャンとして、人間らしく、まともに、そして強く生きていける者だと信ずる者であります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2010/09/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「かけがえのない一人一人」(ルカ15:1~10)徳善義和牧師
出エジプト記32:7-14、テモテヘ手紙1:12-17、ルカによる福音書15:1-10、2010・09・12、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書15:1-10
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」



説教「かけがえのない一人一人」(ルカ15:1~10)徳善義和牧師
 
 この譬え話を聞いたあの時代の人たちは、羊のどういう姿を思い浮かべただろう。なかなかこれは私たちに身に付かない。皆さん方も山羊と羊の区別が分かりますか。山羊は1匹でいる。群生しない。羊は群生で群れで生活する。これはやはり羊の性質を表わしている。私は、「ルターとバッハを訪ねる旅」をし、ドイツに旅行をしました。先生、もう一遍連れて行って下さいと。私はもう目が見えない。先生は見えなくてもいいと。先生は着いたところで、一言講釈してくださればいい。くどきおとされて、人を集めて出かけて行ったのですが、旅行している間に気がついたことがある。ドイツ語で通訳してくださいと。
 しかるべきところに行った時に、講釈する。私が人から遅れて迷子にならないためにしていたことは、前の人の靴を見落とさないようにして、歩いていくこと。ふと、気がついた。これが羊だ。羊はど近眼で、前の羊のかかとしか見えない。それを見失うと、迷子になる。聞き手の人たちはみんな、この事を知って、この話を聞いたことだろう。
言わば、羊の能力の中で、そうなることがある。そういう迷子の羊、という体験を、人々は皆知っていたはずです。その話を、イエスさまはここでしているのだ。
 私は、今日の体験、羊の体験、この旅行の体験で、前の人のかかとしか見えない。イエスさまのかかと、弟子たちのかかと、だけを見ながらでもあとをついていくものになりたいなあとそう思ったのですと、夜のスピーチで語りました。
 これが、ひとつ、わざとでなくても、こういう羊はできて来る。故意でなくても、銀貨一枚どこかに入り込むことは起こる。そういうことがここで、話題になっている。
 もうひとつ、頭に入れておきたいことは、イエスご自身がある。宣教を始めたとき、そして、次に9章の51節、エルサレムに行く決心をしたというところ、エルサレムに行くべく顔を向けた。これは、イエスの決心、覚悟をあらわす。お餞別、はなむけというのは、もともとは鼻を向けるのです。馬の鼻むけ、をして、旅に出る。
 今、旅行、海外旅行もそんなことはない。私は、初めてドイツの留学に出た。100人見送りに来る。お前は帰ってくる必要はないと、旅だった。もう水杯です。イエスさまは、エルサレムに行ってどういうことが待っているか、深い覚悟をもって旅だった。
 留学、死に物狂いでする。わきめもふらず。イエスはエルサレムに顔を向けた。わき目もふらず、旅の記録を19:27節まで、克明に、豊かに記録してくれた。
 しかし、その途上で、あの人に手を伸ばし、弟子たちにはのるかそるか、わからない。ぎりぎりのところで、わたしたちを必要としている人たちには全力で当たれ。時間を惜しまず、向き合って、この人々に顔を向けて、イエスさまは、一時を100パーセント投げ出して当たった。
 私たちに残された時間があるときはどうするか。最後の途上でだれとあるいているか。徴税人と罪人と過ごしている。つまはじきされている人、悪人、私たちはだれでも悪人になりうる。ここの人たちは、世の中まともに歩いているとは言えない人と共にいる。
 ファリサイ派や律法学者たち、分離派、そういう生活をしている。律法の規定に従って、税金を納め、毎日、律法、詩編を読んで悪いことをしない。イエスに批判を向ける。迷子の羊のさがから、迷子になるのは、悪い羊か。残りの群れは、ヒツジの番をする犬に見張らせていれば、99匹は何とか残って行く。1匹を連れ戻すのは、羊飼いの使命だ。
 主は私の羊飼い、そういう旧約の伝統にまでつながっている。見つけたらば大いに喜ぶ。迷子の羊を悪いと言っていない。人間もそうだ。罪人もたまたまそうなっている。残りの99人は正しい羊なのか。残った99匹は、野の一角に、かたまって一時をすごすものだ。いい奴と悪い奴を分けることはできない。クリスチャンはいい奴とは言えない。パウロは、罪人の頭だという。こういう様子が見えてくる。
 人間一人ひとりをも、かけがえのない人々だ。地を這いつくばっている人がだめなのではなく、そういう一人一人を見つけて帰って来るならば、本当に喜んでくださる。99匹も明日にも迷子になりうる。そういう一人一人をかけがえのない者だと思っている。
 ファリサイ派もまた、かけがえのない人。それぞれの道を歩いて、みんな迷っている。神さまの恵みをないがしろにするからやはり、迷っているのではないか。反対に、ファリサイ派自身が迷い出ている人ではないのか。その一人一人をも私は探し求めて行くのだ。ニコデモとか、パウロ自身が、律法学者、神に探し求められた人だと気付いた。悪そうな人もいるが、私たちみんな、迷子になって行く存在。そのために、イエスさまが私たちを探し出して、神のみ手のなかに入れられている。
 これからの人生、前の羊のかかとを見つめて歩む羊のように、イエスさまのかかと、弟子たちのかかとを見つけながら、歩いて行く。前のかかとを見つめて歩んでいく私でありたい。これが、アーメンと言わしめるところ。神の恵みの中に生きる命の日々のことを悟らせてくださいます。
 
天の神さま。あなたは今日も私たちにみ言葉を与えて下さいました。私たちがあなたに造られた一人の人間としてそれぞれ歩んでおりますが、その人間が歩むその歩み方もあなたに知らされた思いがします。それにもまして、このような私たち一人一人のために、これをかけがえもない者と思って、恵みと慈しみの注目を、続けてくださる神さまの憐れみが豊かにありますことも知らされて感謝をいたします。あなたのみ心に従って、み言葉に従って、歩みます私たちの人生の歩みを日々顧み、祝福し、導いて下さいますようにお願いをいたします。主のみ名によって祈ります。アーメン。
2010/09/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「四分の三の弟子ではなく」(ルカ14:25~33)
申命記29:1-8、フィレモンへの手紙1-25、ルカによる福音書14:25-33、2010・09・05、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―聖餐式)

ルカによる福音書14:25-33
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」



説教「四分の三の弟子ではなく」(ルカ14:25-33)

先週の食事の席での譬え話から、進んで、本日は、再び、大勢の群衆が彼と共に進んでいたという、十字架へのエルサレムへの旅の途上での、主イエスの語られた非常に厳しい言葉であります。
主イエスは、群衆の方を振り向かれて語られるのであります。「もし誰かが私の後に来るのならば、彼のその父、母、妻、子たち、兄弟たち、姉妹たち、更には彼のその命・魂をも忌み嫌うのでなければ、私の弟子であることはできない」と主は言われています。
更に、「私の後について来て、彼の十字架を担う者でなければ、私の弟子であることはできない」と、続けられ、二つの譬えを語られた後、最後の節では、「それゆえ、このように、彼に属するすべてのものを放棄する者でなければ、あなた方のうち、すべての者は、私の弟子であることはできない」と、弟子としての3つの厳しい条件を言われているのであります。
最初の二つの弟子の条件を言われた後、主は、「なぜならば、だれかが、塔を建てる場合、まず座って、完成まで、もっていけるかどうか、費用を計算するのではないか。そうでないと、人々が、彼は、建て始めたが、基礎を造っただけで、完成までは持っていけなかったと言って嘲笑い始めるであろう」、というのであります。
また、「ある王が進んでいき、自分の1万人の兵隊で、やって来る別の王の2万人の兵隊たちと戦うことができるかどうか、座って、慎重に審議しないだろうか。そしてもしだめなら、まだ、敵が遠く離れている時に、彼は平和に向かってのことども、和議を申し出、あるいは、降伏するのではないか」、と面白い譬えを語っているのであります。
私たちは、軽々しく、キリストの弟子になることは、やめておいたほうがよいのであります。まずは、座って、すべてのものを、自分の持ち物も、資産も脇において、すべてを放棄して、主イエスの弟子として、最後までもちこたえることができるかどうかを、真剣に問うべきであります。
しかし、私たちは、なかなかいちずになることはできません。四分の三だけの弟子として、いい加減に、生ぬるい弟子としての悲しい姿を露呈してしまいがちであります。しかし、それでは、塔をむやみやたらに建てて、嘲笑われることになり、また、2万の大軍の前に無残な敗戦と、降伏にたどり着くしかないのであります。
かつて、隅谷三喜男というクリスチャンがいましたが、彼は、多くのクリスチャンは、2階だけのクリスチャンであり、あるいは日曜日以外はクリスチャンではない生活を送っていると厳しい批判をされたことがあります。
私たちも、四分の三だけのクリスチャン、あるいは弟子であるのではなく、1週間を元気に、むらなく歩み通して、主イエスの弟子となることが求められているのであります。それは十字架へのエルサレムへの道を歩まれる主イエスに従順に従ってこそ可能となる弟子の道であります。主日に集い、聖餐に与り、日々、十分の十字架を背負って、元気に、毎週を送る者でありたいと願います。
人知では到底測り知ることができない神の平安があなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。





2010/09/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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