津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神の前のへりくだり」(ルカ14:7~14)
エレミヤ書9:22-23、ヘブライ人への手紙13:1-8、ルカによる福音書14:7-14、2010・08・29、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書14:7-14
 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲って下さい』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んで下さい』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、むしろ貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」





説教「神の前のへりくだり」(ルカ14:7~14)

本日の福音の記事ルカ14:7-14は、内容からも、また、付けられている新共同訳聖書の小見出しからもわかるように、14:7-11と14:12-14から成ります。この記事は、ひょっとしたら、14:1にありますように、ある安息日のファリサイ派のある議員の家に食事に招かれた一日の間に起こった出来事であった、そして、あるいは、それは、エルサレムにおいての出来事であったのかもしれません。
しかし、ルカは、地理的な場所も書かず、9:51から始まるエルサレムへの十字架につく旅、そして、天に上げられる旅の途上の出来事として、記しているのであります。本日の記事は、「で、彼は、呼ばれた者たちに、譬えを語っておられた、いかに、人々がその正餐における名誉、栄光の場所を選び取ろうとしているかに気づきながら、語りながら」と始まっています。そして、彼は語られるのであります。「ある人によって結婚式に呼ばれたなら、名誉の場所へと横にならないようにしなさい、ひょっとしたら、あなたよりも、著名な人がいて、彼によって呼ばれているかもしれない。そして、遅れて来て、そのもてなし手、あなたと彼を呼んだ人がやって来て、『この人に場所を与えて下さい』と言うであろう。そうするとあなたは、恥と共に、終わりの場所を取り始めるであろう。むしろ、あなたが呼ばれたときには、終わりの場所に横になりなさい。そうすると、彼がやって来て、『友よ、もっと上にお上がりください』と言うであろう。その時、あなたに、すべての呼ばれた者たちの前で栄光があるであろう、なぜならば、すべて、自分を高くする人は低くされ、自分を低くする人は高くされるであろうからである」と、主はこの譬えを語られたのであります。
 二つ目の語りは、主イエスをこの宴会に呼んだ人に、向かって言われたものであります。「あなたが、朝食や正餐を持つ場合には、あなたの友人や兄弟たちや、身内の人達や、近所の金持ちを呼ばないようにしなさい。そうでないと、ひょっとしたら、彼らも、あなたを、お返しに呼ぶであろう、そしてそれは、あなたに対して支払いと成るであろう。むしろ、あなたがレセプションをするときには、貧乏な者たちや、体の不自由な者たち、足の不自由な人たち、目の不自由な人たちを呼びなさい。そうすれば、あなたは祝福されるであろう、なぜならば、彼らはあなたに支払いの方法を持たないからであり、なぜならば、正しい者たちの復活においてあなたにそれは、支払われるであろうから」と語られたのであります。
これら二つの譬えは、世の中を生きていく上での知恵を、聞いている人たちに教えたものではありません。終わりの時に、花婿主イエスによってもてなされる宴会において、私たちがその祝宴に与るためであります。
私が牧師になったのは1994年でありますが、その頃亡くなったJOCSの医師にネパールのオカルドゥンガに夫婦ともに医師として派遣された伊藤邦幸という先生がおられます。奥さん、聡美さんも台湾出身の方でしたが産婦人科医でありました。伊藤先生は無教会派に属するクリスチャンでしたが聡美夫人は50歳前に、ネパールに再度赴くために、富士山に訓練のため登山をしているときに山頂付近から滑落して、不慮の事故で亡くなられ、邦幸先生も62歳の若さでハーバード大学で一時研修中に倒れられ、日本に戻ってきましたが、半年ほどしたのですが、結局脳梗塞で亡くなられました。
伊藤先生ご夫妻は、ネパールの一角の山村で医療に従事されましたが、それは、栄光、名誉の場所を求めず、貧しい山村の人たちに仕える尊い人生であられました。私たちは、伊藤先生ご夫妻のような壮絶な人生を遂げることはなかなかできないことでしょう。
しかし、私たちも、栄誉、名声、地位、権力、幸運の場所を求めるのではなく、自分に与えられた家庭、職業やそれぞれの置かれた状況ののなかで、神の前にへりくだる人生を歩んでいくことはできると思うのであります。これから、始まる1週間を、主のみ言葉と共に歩んでいきましょう。

わたしたちの内に働くみ力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

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2010/08/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「戸を叩かれるイエスさま」(ルカ13:22~30)内海望牧師
イザヤ書66:18-23、ヘブライ人への手紙12:18-29、ルカによる福音書13:22-30、2010・08・22、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書13:22-30
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」


説教「戸を叩くイエスさま」(ルカ13:22~30)内海望牧師

イエスさまは、私たちの「安心」を打ち砕く方です。今日の日課も典型的な一つです。
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とある人が質問しました。この人は、自分の救いについて確信を持っている人物です。「安心」しているのです。何故なら、救いに値する業を立派に行っていると思っているからです。
 私たちは、ここで「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」の姿を思い出します。ルカ18:9.ここで、イエスさまはたとえを用いて話されます。そして「『神さま。わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者でなく・・・でなく、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」と祈る人の信仰的な傲慢を打ち砕かれます。
 イエスさまは、自分の行った業で救われると確信している人を断固として退けられるのです。何故なら、それは必ず他者を貶める生き方になるからです。信仰的傲慢ほど恐ろしいものはありません。
 「少ないですか」という質問に対して、イエスさまはたとえでお答えになりました。このたとえの中の主人は一見、非常に無情な人間のように感じられます。しかし、詳しく読んでみるといろいろなことが分かります。たとえば、「入ろうとしても、入れない人が多い。家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってからでは」という言葉は、神の国の宴会は神さまが招いて下さるのであって、そこに列席する権利を主張するなど全く出来ないことが分かります。当然です。
 「神の国に入りたい」という願いを持つことは大切です。しかし、問題は自分の行いを見せびらかしながら、扉をこじ開けようとすることです。26節をご覧ください。戸を叩いて「開けて下さい」と嘆願している人々は、みな権利を主張しているのです。「ご一緒に食事をしました。あなたの教えを受けました」という言葉一つ一つに、あのファリサイ派の人の「週に二度断食し、献金をしました」という言葉が響いて来るのです。「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」という言葉は非情、残酷に聞こえます。しかし、「この徴税人のような者でないことを感謝します」という言葉の恐ろしさを考える時、主人が怒るのも無理はないと思います。そこには、思い上がった心しかなく、自分の不義に気づかず、悔い改めの心など微塵もない人間の姿が浮き彫りにされます。
 8月は「戦争と平和」について考える時です。私たちは、この戦争は「正義の戦い」であり、「聖戦」であると教えられてきました。悔い改めのない「正義の戦い」がどれほど残酷に人々を殺戮して来たかを考える時、宗教的確信の恐ろしさを感じます。
 イエスさまは、私たちの安心を打ち砕く方である、と述べましたが、「自分は天国に相応しい」と思い上がった信仰的確信はどうしても打ち砕かなければならないのです。これは、決して、見逃してはならない信仰の落とし穴であると言えましょう。
 私たちには、必ず天国に入れると安心できる「安全地帯」はないのです。
 それでは、一体だれが救われるのでしょうか。誰もいないのではないかという疑問がわきます。
今日の日課では「開けて下さい」と戸を叩く人々のことが述べられていますが、反対に「戸を叩くイエスさま」の姿がヨハネの黙示録に書かれています。5章3節です。ヨハネの黙示録は7つの教会に宛てられた手紙ですが、7つの教会のうち5つまでが激しく非難されています。最後のラオデキアの教会に至っては、神さまから「あなたを口から吐き出そうとしている」とまで言われています。しかし、その同じ手紙の終りに、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に座らせよう。」と小羊イエスさまがおっしゃっているのです。イエスさまの戸を叩かれる音に気付く時、私たちはイエスさまと食卓を共にすることが出来るのです。
 イエスさまは、決して私たちを閉めだそうとしているのではなく、私たちを救おうとしていらっしゃるのです。今日の日課の最初にも「(イエスさまは)エルサレムへ向かって進んでおられた」と書かれています。イエスさまは、私たちの罪を贖うための十字架への道をまっすぐに歩み続けて下さっているのです。正直に言って、わたしたちは、イエスさまの前では、自分がファリサイ派の人々であることを告白しなければなりません。しかし、そのようなわたしたち罪人が一人も滅びないようにとイエスさまは十字架に死んで下さったのです。私たちは、ともすると自分で天国の戸をこじ開けようとして、イエスさまが戸を叩いてくださる音を聞き逃してしまっているかも知れません。
 ルターは、「自分の力で救われようと懸命に努力し、失敗し、自分が灰や塵であり、哀れな捨てられた罪人にほかならないと分かった時、神の助けが来る」と語っています。修道院で必死の努力をし、自分の力で何とか神の国へ入ろうとしていた時には、差し出された恵みに気づかなかったのです。しかし、自分が死すべき罪人に他ならないことを知り、心から悔い改めた時、イエスさまの十字架の愛に出会うことが出来たのです。天国を追い求めるということは大切です。しかし、そのために必要なのは、心から「信仰なきわたしを救ってください」という悔い改めの祈りなのです。18章の徴税人は、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神さま、罪人のわたしを憐れんで下さい」と。そこでこそ憐れみが見出されるのです。戸を叩いて下さる、共に食事をしようとして下さるイエスさまがいらっしゃることに気づくのです。
 そのような真実の悔い改めがなされるとき、あのラオデキアの教会も吹き出されることはないのです。初代教会といえども理想的な姿ではありませんでした。しかし、ヨハネは、これらの教会を「7つの金の燭台が見えた」と言っています。私たちの教会もそうです。私たちも、また私たちの教会も決して輝く金の燭台などではありません。しかし、イエスさまの愛が豊かに注がれることによってやはり金の燭台としてヨハネに紹介される群れなのです。
 今日の日課の終り、29節は雄大な絵画を見るような風景です。「人々が、東から西から、また南から北から来て、神の国の宴席に着く。」と描かれています。もはやユダヤ人、異邦人という区別もなくなり、全世界の人々が神の国の宴席へと招かれているのです。そのなかに、私たちの行いによってでもなく、ただイエスさまの十字架による招きにより、私たちもこの巡礼の群れに加わる喜びが与えられるのです。自分の行った良い業にではなく、イエスさまが戸を叩かれる音に耳をすませましょう。そして、罪人を招いて下さるイエスさまの恵みに信頼して、喜びの人生を、確かな足取りで歩みましょう。アーメン。
2010/08/22(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「平和への道」(ルカ12:49~53)原拓也牧師
エレミヤ書23:23-29、ヘブライ人への手紙12:1-13、ルカによる福音書12:49-53、2010・08・15、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書12:49~53
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」



説教「平和への道」(ルカ12:49~53)原拓也牧師
 
先日、7月11日の日課で、私たちはキリストが「天に上げられる時期が近づ」いたのを知って、「エルサレムへ向かう決意を固められた」ことを聞いたが、ある注解者はこの時、ルカ9:51以来、主の教えと働きの目的が「弟子たちの育成に向けられるようになった」と言っています。そういう視点でみると、この時以降主の教えに厳しい面が多く現れるようになってきているのを見ることができます。
今日の福音書のみ言葉は、信仰者にとって極めて厳しい教えであるが、主の昇天後、福音宣教の担い手となるべき弟子たちに、弟子としての心構えと姿勢を説いているものとして、聞くべき教えであります。
日課は、1、分裂をもたらす主のみ業、12:49~51節、2、分裂後の具体的な例示、12:52~53節と見ることができます。
今日は、12:49~51節から主の教えを聞きます。
この個所は、聖書の中でも理解するのが難しい個所の一つと言われている部分で、特に49節と50節以下をどのように結びつけて理解するのかによって、解釈が変わってくる所でありますが、今日は、50節の「しかし」という言葉から主の教えに入ってゆきたいのであります。その理由は、この小さな語がこの二つの部分を結び付けていると考えられるからであります。ちなみに、この語を抜いてこの個所を読んでみると、どうなるでしょうか。
50節の「しかし」の語は、どういう意味で49節と50節以下を結んでいるのか。いくつかの可能性を考えることが出来ますが、“時間的な意味=前後関係”と考えてみると、その意味は次のようになります。
 「・・・(あなたがたの中に)その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、(その前に)私には受けねばならない洗礼があります。・・・」
主には(これから)受けねばならない大きな苦しみと、洗礼がある。では、「洗礼」はどのように解釈できるでしょうか。主はすでに「罪の悔い改めのバプテスマ」をヨハネから受けておられる。また、「罪の赦しの洗礼」は、キリストによるものであるからまだ存在していません。
したがって、この「大きな苦しみ」はゲッセマネと、そこに至るまでの苦しみであり、「洗礼」は十字架、と解釈するのが普通であります。(ヨハネ福音書18:11、マタイ20:22~13、参照)
このように、キリストは弟子たちに、これから赴こうとしておられるエルサレムでの苦しみと死を語っていらっしゃいます。
「十字架」。それはそれを仰ぎ、それに触れる者に決断を促す神のみ業であります。百卒長は、「本当にこの人は神の子であった」と告白しました(マルコ15章)。十字架の罪人は、「あなたが神の国へ行かれたとき、わたしを思い出してください」と訴えました(ルカ23章)。
そして、主は今日、私たちに言われます。「あなたがたは、私を何者と言うのか」(ルカ9:20)と。これは、「あなたはわたしを誰と言うのか」という信仰告白への問いかけであります。
さて、12:51節ですが、人がこの決断(信仰告白)をなす時、そこに起きて来るのが分裂・争いであります。「平和・・・ではない・・・分裂だ」。
「平和」は、多くのところで、「神の平和・平和の神・キリストの平和」として、用いられている語であります。それに対して「分裂」は、「切り離す・切り分ける」の意でありますが、ここでは、「~の結果として分裂する、必然的にもたらされる分裂」という語が用いられていて、キリストに対する告白は、その必然的な結果として「すべての人を二つに、即ち、信仰を持つ人と持たない人に切り離す」事が言われています。
例えば、十字架上の二人の罪人、キリストの右と左に置かれているこの二人は、キリストを救い主と告白する者と、告白しない者として、全人類を代表しています。
この二人は、キリストとの関わりを別にすれば、まったく同じ罪人であります。ただ、キリストとどう関わるのかによって、その現在と未来のすべてが変わってきます。
さて、12:49節との関係ですが、この断絶・分裂が、人々のうちに火を燃え立たせます。「火」は、焚火の火や、わらを燃やす火などが普通の意味であります。さらに、清める火、さばきの火、地獄の永遠の火、滅びの火などの意味があります。ここでは、後者の象徴的意味で用いられています。
この炎は、信仰を告白していない人のうちにも、告白した人のうちにも燃える火でありますが、まず、信仰を告白しない人々のうちに燃える憎しみの炎は、「迫害・殺戮」という形で現れ、それに対して熱心が、信仰告白する人々のうちには愛の火が注がれて、「救霊の働き・人々の益のための 活動」という形で現れて来ます。主が今日の日課で語っておられるのは、この二番目の炎であります。
平和の主は今、裏切りと敵意と殺意に満ちたエルサレム(「平和の礎」の意味)へ、そして十字架へと向かっておられます。それは、十字架の死と復活の命によって、神と罪人との間に真の平和を回復し、人々の間に真の和解を実現するためであります。
そして、その事を通して、主はわたしたちの中にも「霊の火」すなわち、神の業への熱い心と人々の救いへの熱心が燃え上がるのを期待していらっしゃいます。
本日の旧約の日課、エレミヤ書23章にも警告されているように、「真の平和」は、耳触りのよい言葉やまやかしの教え、或いは自分を偽って生きる人々によってもたらされるものではなく、キリストが「平和を造り出す人は幸いである。その人は神の子と呼ばれる」と教えておられるように、罪の痛みや人間関係の重荷を担って生きてゆく、悩む神の子たちの日々の歩みの中から造り出されてくるものであります。
ルターが「神の戒めは、私たちを、私たちの隣人におもむかせ、・・・私たちをただ隣人の救いにのみ役立つものとならせる」と「善きわざについて」で言っているとおりであります。
「平和への道」。今日、8月15日は、65年前の敗戦の日であり、世界の平和を祈念する日です。今日、この日に、痛む心、熱い思いを抱きながら、“神との平和、人々との平和の道”を主と共に、そして主にある友と共に歩むものでありたいと願います。
ヘブライ人への手紙12:1~3をお読みして、終わりとしたいと思います。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」
アーメン。


2010/08/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「愚かな金持ちの譬え話」(ルカ12:13~21)
コヘレトの言葉2:18-26、コロサイの信徒への手紙3:5-17、ルカによる福音書12:13-21、
聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)

ルカによる福音書12:13-21
 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」




説教「愚かな金持ちの譬え話」(ルカ12:13~21)

聖霊降臨後第11主日に与えられている福音は、ルカ12:13-21であります。群衆の中からある者が彼にこう言ったのであります。「先生、私の兄弟に相続分から私にも分け合うように言ってやってください。」
すると、主は、彼に言われたのであります。「だれが、私をあなた方に向かって判事や仲裁人に指名したのか。」で、彼は、彼らに向かって言われました。「あらゆるより多くを求める欲望、強欲から、あなた方は自分を守りなさい、またそれを避けなさい。なぜならば、彼のその命は、彼のその財産によっては、どれほど物を持っていようと、どうにもならないからである」と。そして、彼は、彼らに向かってこう語りつつ、譬えを話されたのであります。「ある金持ちの人の農場が多くの収穫をもたらした。」それで、彼は、自分自身の中で、こう言って思案していたのであります。「私はどうしようか。これらの私の果実、収穫を集める場所を私は持っていない。」そして、言ったのであります。「このことを私はしよう。この倉どもを取り壊して、もっと大きなのを建てよう。そしてそこにあらゆる私の小麦と財貨を集めよう。そして私の魂に私はこう言おう。『魂よ、お前は、多くの年へと蓄えられた多くの財貨を持っている。お前は休め、食べよ、飲め、宴会をして楽しめ』と。」
で、彼に御神は言われたのであります。「無知な者よ、今夜、あなたのその魂を彼ら、死の天使たちはあなたから要求する。で、あなたの用意した物どもは、だれのものになるであろうか。」
そして、この譬え話の最後に、主イエスは言われるのであります。「このように、自分のために蓄える者、そして神へと神の目において価値あるものに豊かでない者は存在しているのだ」と。
本日の主日の祈りにもありましたように、私たちに与えられているものは、命でも、財貨でもすべては神から預かっているものであります。本日の愚かな金持ちは、強欲な、自己中心にしか考えられない人物でありました。「私の財貨」とか、「私はどうしようか」とか、自分のことしか頭にないのであります。
そしてしかし、切迫した死の前にはどのように有り余る財産でもなすすべはないのであります。ルカは物質のこと、お金のことを軽視しているのではありません。ルカのイエスは、この世の財貨をいかに懸命に使い、役立てるかを教えようとしているのでありま
 私は、神学校に入るために上京して来て2年目は、武蔵野教会で教会生活を送りました。もう20年以上も前のことであります。そして武蔵野教会には、田坂さんというご夫婦がいらっしゃいました。その時は、その奥様とねんごろに話したことはありませんでしたが、後に、奥様は胃がんにかかって、それも体中にがんが転移していてもう余命1年と持たないことが明らかになりました。
奥さんは、病院の孤独には耐えきれず、在宅のホスピスを、ご主人も一番いいと判断して、川越厚という医師に相談して往診してもらい、看護師も、家政婦さんも頼んで、6週間でしたか、7週間でしたか、最後の時を過ごされたのであります。長男さんや二人の娘さんもいらして、最期が近い時期になっても奥さんの気力がしっかりしていて、やがて近く亡くなるということは考えられないほどの時もありました。
しかし、病状は、確実に死へと向かっていたのであります。川越医師は、家族に死の準備の必要を知らせ、奥様とご主人、子供さん3人のご家族は、迫って来たこの最期の時期を最も願っていた家族らしい結束の内にを過ごし、49歳の若さで天に召される時まで、貴重な最晩年の時を生きることができたのであります。
私たちも、本日の福音の記事を通して、平凡でもいいから、家族が和合し、支え合い、細やかでもいいから幸福な家庭生活を送りたいと改めて願うものであります。アーメン。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
2010/08/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「剣を打ち直して鋤とし、」(ミカ書4:1~5)
ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18、ヨハネによる福音書15:9-12、2010・08・01、平和の主日(典礼色―赤―聖餐式)

ミカ書4:1~5
 
 終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。







説教「剣を打ち直して鋤とし、」(ミカ4:1~5)

本日は、特別に平和の主日としての礼拝を守ります。ミカ書4:1-5から学びましょう。「そして、終わりの日々に主の家・神殿の山は、山々の頭において堅く立てられる。そして、それは、丘どもから高く聳え立つ、そしてそれの上に民どもは流れて来る、そして、多くの国民が行き、そして言う。『私たちは主の山にむかって行こう、そして上ろう、そして、ヤコブの神の家に向かって。そして、彼は彼の行いを私たちに教える。私たちは、彼の道において行こう。』なぜなら、シオンから教えは出てくる、そして、主の言葉はエルサレムからであるから」と本日のミカ書は始まっています。
エルサレムの丘、シオンは、海抜700~800メートルほどの丘であります。それが、周りの高い山々よりも一段と高くそびえるようになり、主の教えを聞くために、諸国民が大河のように流れてやって来ると言います。当時のエルサレムは、アッシリア軍によって攻撃に遭い、内政的にも堕落し、政治家や祭司どもへの賄賂がさかんになり、悲惨な状況にありました。しかし、ミカは、エルサレムが素晴らしい役割を果たす時が来ると、絶望的な状況の中で託宣を述べるのであります。
そして、「彼らは、剣を打ち直して、鋤あるいは、鍬とし、槍を打ち延ばして刈り入れ鎌に矯め直す。そして、彼らはもう国が国に向かって戦うことを学ばない」と言います。そして「人々は、それぞれ彼のぶどうの木の下にすわり、いちじくの木の下に座る。そしておびやかすものがない。なぜならば、万軍の主の口がそう語るからである」と言います。「なぜならば、すべての民どもは、各々彼の神の名において歩む、そしてしかし、私たちは、私たちの神、主の名において、永遠から永遠まで歩むからである」と、ミカは語っているのであります。
人間の力だけによる平和の実現は不可能なのであります。国際連盟だ第一次世界大戦後できましたが、ヒトラーの躍進を食い止めることはできませんでした。私たち、日本も第二次世界大戦に突入し、1945年の8月15日に、二つの原子爆弾の投下を通して、全面降伏したのでありました。
ミカ書の時代から、2000数百年経ちますが、いまだに人類は世界平和を実現できず、更にもっと強力な軍事力を多くの国々が所有しています。野蛮な戦争をいまだに繰り返しているのであります。
私たちは、政治家たちのためにも祈らなければなりません。しかし、ミカが託宣で述べているように、神の力による平和しか、絶対的な平和は来ないのであります。戦争の原因には、複雑な経済関係なども考えられますが、もとをたどれば、家庭での平和の喪失のような、身近なところでの争いや憎しみから戦争も起こるのであります。ミカは、そのような戦争がなくなり、武器は矯め直されて、農機具になり、脅かすものはなくなり、たくましい農夫は、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座ってしばし安らぐ。なぜなら、万軍の主の口がそう語るからであるといいます。そして、諸々の民はその神の名において歩み、私たちは、私たちの神、主の名において永遠から永遠に歩むと述べています。当時はアッシリアの軍事力が強く、更にもろもろの国民は、その神々を信じていました。エルサレムは国が荒れ、政治家が堕落し、祭司が物欲に走るなかで、本日の来るべき日々におけるエルサレムとその神殿、神の家が、平和をもたらす上で大きな役割を演じると、希望を捨てず、万軍の主の口が語る約束を、ユダの人たちにミカは指示したのであります。戦争は、人類を滅ぼしてしまいます。私たちは、旧約聖書にしるされたシオンの家の神の名において永遠に歩む者であります。私たちが常に本日の託宣、預言の言葉に身を置いて歩むことができますように。アーメン。
2010/08/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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