津田沼教会 牧師のメッセージ
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「なくてはならないもの」(ルカ10:38~42)
ルカ10:38-42、2010・07・25、聖霊降臨日第9主日(典礼色―緑―)
創世記18:1-14、コロサイの信徒への手紙1:21-29

ルカによる福音書10:38~42
 
 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」




説教「なくてはならないもの」(ルカ10:38~42)
 
本日は、聖霊降臨後第9主日であります。私たちは、聖霊降臨後第7主日の時から、エルサレムに顔を固くして進んで行かれる、主の十字架に向かっての旅の記事を与えられています。私たちは、それから、毎週、その途上における主の言われたお言葉とか、出来事を、この緑の教会暦の時期、学んでいくのであります。
 先週は、よきサマリア人の譬えの記事10:25-37が与えられていました。律法の専門家がやって来て、主イエスを試し、「永遠の命を得るためには、私は何をすればいいのですか」と質問したのでありました。主が、「律法にはどう書いてあるか」と聞くと、その学者は、「全身全霊をもって、主なる神を愛し、また、隣人を自分のように愛しなさい」とありますと答えたのであります。主が「あなたは正しく答えた、それを実行しなさい」と言われると、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と質問しました。それに対して、語ったのが、先週の良いサマリア人の譬えでありました。
 その物語を語った直後に、本日のエピソードと言いましょうか、警句、格言といいましょうか、あるいは物語が続くのであります。永遠の命を得るために、隣人を自分のように愛する教えが、先週あったとすれば、本日の記事は、主なる神を全身全霊で愛するという教訓を暗示しているのでありましょうか。
 本日の短い出来事は、次のように記されて始まっています。「彼らが進んで行くことにおいて、彼はある村に入られた。そして、マルタという女の人が彼をもてなした」と。ルカは、それがベタニアであることを知らなかったのでしょうか。むしろ、十字架への旅が始まったばかりであるので、エルサレム近郊のベタニアという村の名を出すことを控えたのでありましょう。ヨハネによる福音書でも、11章、12章で、ベタニアのマルタ、マリア、ラザロが出てきます。性格的にも本日の記事のマルタ、マリアは、ヨハネ福音書のマルタ、マリアと一致しています。
 さて、このマルタ、女主人という意味でありますが、彼女は、奉仕、給仕、すなわち、ディアコニアの周りに、気を散らされ、気をそらされていました。彼女には、マリアという姉妹がいましたが、彼女はといえば、主の足もとに向かって、場所を取って座り、主の言葉を聞いていたのであります。ユダヤ教のラビたちは、女性が教えを学ぶのを禁じてはいませんでしたが、マリアのように、熱心な弟子として場所を取るのを、主イエスは認め、さらに勇気づけ、鼓舞されたのであります。
 マルタは、そばに立って、主に言うのであります。「主よ、私の姉妹が、私だけを後に残して、もてなしをさせたのを、あなたは何とも思われないのですか。それゆえ、言ってやってください、彼女が私を助けるようにと。」すると、主は答えて言われるのであります。
 「マルタ、マルタ、あなたは、多くのことについて、思い煩い、手数をかけている、で、一つのことが必要なのである。なぜならば、彼女は良い分を選んだからである、それは、彼女から取り去られないであろう。」このマリアが選んだ良い分というのは、料理の分け前とか、あるいは、「主こそ私の分」といった表現があるように、マリアが選んだ神の祝福といった意味があります。
 以前の口語訳では、「なくてはならぬものは、多くはない、いや、一つである」となっていました。いろいろな写本があってどれが正しいかを決めるのは困難なのですが、「多くのこと」に対してはやはり「一つのこと」が必要であるという新共同訳の拠っている記事がより聖書的でありましょう。
 毎週、私たちは、主日礼拝から派遣されて、この世の生活をします。1週間の間には、悪魔の誘惑や試練と神の言葉、主イエスの言葉との葛藤があります。マルタが、主の一行をもてなし、給仕したことが非難されているわけではもちろんありません。本日の第一の朗読にありましたように、アブラハムは、主のみ使いたちとは知らずに、旅人を自分の家に招き入れ、もてなして、主の祝福に与ったのであります。
 本日の記事で言われている一番大切なことは、主のみ言葉に聞くということを最優先するということであります。適度なもてなし、ディアコニアは、主に対して称賛されるべきことでしょう。しかし、過度な奉仕は、心を乱し、騒ぎだっては、ひたすら主に仕えるということを不可能にしてしまいます。二心では、主に仕えることは、困難です。
 そのような私たちに、毎週の主日礼拝が与えられています。一年間52回の主日礼拝が、私たちのルーテル教会では、三年サイクルの日課で、繰り返し繰り返し、同じ福音が、また、旧約聖書や使徒書の日課が与えられていきます。そして、礼拝とは、ドイツ語では、ゴッテス・ディーンストと言われますが、それは、神奉仕を意味し、神が私たちに奉仕してくださるのです。
 私たちは、本日のマリアのように、ひたすら、主の足もとに座って、主の言葉、キリストの教え、神の言葉、神の支配の祝福を学ぶ幸いを選択しようではありませんか。私たちは、あれもこれも手に入れたいと思いがちですが、あれか、これかしかないのです。主の言葉に聞き入ることを優先して、心を一つにしたうえで、主に仕えるディアコニアの精神を喜んで活かしていく者となりたいものです。
祈りましょう。
天の父ある神さま。また、暑い暑い夏が訪れてきました。体調を壊したり、持病や諸事情によって、礼拝から遠のいておられる多くの兄弟姉妹のことを思い起こします。どうか、あなたの憐れみによって、そのようなお一人お一人の上にも恵みと祝福をお与えください。
 また、いろいろな意味で非常に過酷な生活をなさっておられる少なからざる人々がいます。あなたのみ言葉と聖霊の導きによって、彼らを守って下さい。これから始まる厳しい暑さの夏を、津田沼教会につながるお一人お一人が、無事に過ごし、秋の収穫の時を喜びをもって迎えることができるように助けてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
 

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2010/07/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「隣人とはだれか」(ルカ10:25~37)内海望牧師
ルカ10:25-37、2010・07・18、聖霊降臨日第8主日(典礼色―緑―)
申命記30:1-14、コロサイの信徒への手紙1:1-14

ルカによる福音書10:25-37
 
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


説教「隣人とはだれか」(ルカ10:25~37)内海望牧師
 
「善いサマリア人」という小見出しは一つの重要な視点ですが、今朝は違った観点から福音を聴き取りたいと思います。
 この律法の専門家のイエスさまへの質問は利己的です。何故なら、彼にとって「全身全霊を持って神さまを愛すること」も、「隣人を自分のように愛すること」も、結局は、自分が永遠の命を受け継ぐために行うという自分の利益につながっているからです。たとえ、どんなに努力しようとも、この律法学者にとって、その善い行いは、自分の利益のための取引材料に過ぎないのです。
 しかし、私たちはこの律法学者を笑うことは出来ません。私たちもイエスさまに同じ質問をするかもしれないからです。実は、この「行いによって義とされる」という「行為義認主義」ほど合理的で分かりやすい考え方はありません。「因果応報」という言葉があります。「悪いことをしたら悪い報いが返って来る」し、「善いことをしたら、善いことが返って来る」のです。「因果応報」とは、出来るだけ善いことをして、良い報いを得ようという考えです。
 このような律法学者の質問に対してイエスさまはたとえを持ってお答えになりました。 祭司とレビ人が強盗に襲われ、半死半生で横たわっているユダヤ人のそばを通ります。彼らは二人ともエルサレムの神殿に仕える信仰深い人たちでした。注意したいのは、彼らはこの強盗に襲われた人物を「見ている」のです。しかし、道の向こう側を通って行ってしまったのです。これに関してはいろいろな解説がなされます。しかし、ここで重要なのは、この二人が「見た」けれど、「旅人の苦しみが見えなかった」という事実です。故意に避けて通ったように書かれていますが、いくら何でも半死半生の旅人にぶつかったら手を貸すでしょう。そうしなかったのは、彼らには、この旅人の危急が見えなかったのです。どうしてでしょう。彼らも律法学者と同じ所に立っているのです。自分の救いのためにならないならば、点数に入らないならば、苦しんでいる人は目に入らないのです。
  私たち人間の心は、いつも自己中心であり、自分のことでいっぱいですから、自分に利益がないと目が行きません。自分自身が自己に縛り付けられているのです。心に自由がないのです。私たちの周囲には、大勢の「目に見えない人々」がいるのです。恐ろしいことです。

  聖書全体に流れるキーワード、あるいは通奏低音のようなものがいくつかあります。その一つは、「それは、あなただ。」という言葉です。あのダビデ王が、自分の横恋慕を通すために忠実な部下を戦場に追いやって殺してしまった時のことです。ダビデは自分が罪を犯したとは思っていませんでした。自分の念願がかなった喜びで、頭がいっぱいのダビデは、その行いの罪深さに気づいていませんでした。ですから、預言者ナタンが「たとえ」でダビデの行ったような罪を犯した人物について語ると、ダビデは「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と激怒します。その時、ナタンは「その男はあなただ。」と真っ向から指摘するのです(列王記下12章)。ダビデは肺腑をえぐられた思いでした。彼は自分の罪に愕然とし、心から悔い改めます。その時の悔い改めの言葉が詩編51編と言われます。この「その男はあなただ」という言葉は、ずっと聖書全体を通して響いているのです。私たちは、罪の女を見つけたら、真っ先に石を投げつけようとした群衆の一人かも知れません。あるいは、貧しい人を見下げて祈るファリサイ人と同じ態度を取っているかもしれません。私たちは、自分自身をあの祭司、レビ人であるとは思ってもみません。しかし、どうでしょうか。私たちの心を究められる神さまの前では、私たちが祭司であり、レビ人であること、石を投げるものであること、他人を見下げて暗い喜びに浸るファリサイ人であることが明らかにされるのではないでしょうか。
  バッハがマタイ受難曲で、イエスを裏切る者、「それは私だ!」とコラールで歌わせた罪認識を思い出します。
 サマリア人は自己から自由な人物でした。彼は、今そこで苦しんでいる人物が、自分たちサマリア人を軽蔑しているユダヤ人だとかどうかなど全然気にしていません。33節以下のサマリア人の行動が全く流れるようにスムースであることに気づかされます。時間を惜しむこともしませんし、自分も強盗に襲われる心配もしていません。そこに助けを必要としている人がいるからなすべき事柄(傷の手当て、ろばに乗せる、宿屋に連れて行き泊まり賃を支払う)を淡々と行っているだけです。その行動には、大きな自己否定あるいは沢山の金銭を置いて行くとかいう自己犠牲、大げさな所作もありません。例えば、「敵を愛せよ」という看板を掲げているわけではありません。
  しかし、彼は祭司やレビ人が見えなかった人が見えたのです。彼は、敵対するユダヤ人とサマリア人という図式から自由であったし、善いことをして永遠の命を得ようとかいう取引からも自由でした。
  では、このサマリア人とは誰のことを指すのでしょうか。驚くべきことに、ルターは「サマリア人はイエス・キリストだ」と言います。そして、旅人は「私」なのです。
  私たちは、イエスさまがこのたとえをなさっていることに目を向けなければなりません。先週、私たちは、イエスさまが改めて断固たる決意を持ってエルサレムに向かわれた姿を読みました。罪人を救うために十字架への道を一歩一歩んでいらっしゃるのです。
  その歩みは、イエスさまが私たち罪人の隣人になって下さるための道筋であったのです。
 「裏切る者、それは私だ」と言われなければならないような私。罪の赦しを必要としている私こそ助けを必要としている旅人なのです。この罪人である私を救うために、イエスさまはいま、エルサレムへの道、すなわち十字架への道を歩んで下さっているのです。パウロは「私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」と断言して憚りません。パウロは、自分は罪人の頭のような人間です、と告白しています。しかし、イエスさまが自分の隣人となって下さったことを断固として信じていました。更に「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」と高らかに勝利の歌をうたっているのです。私たちも、このパウロの讃美歌に声を合わせましょう。
  私たちは紛れもない罪人です。しかし、その罪人である私のためにまで命を捨てて下さるのがイエスさまの愛なのです。私たちが苦しみに打ちひしがれる時、屈みこんで、私の傷に油を注ぎ、包帯をし、いやして下さる方です。私たちが罪の深淵に落ち込み、自分勝手に生きている時でさえも、「父よ、彼らを赦して下さい」と祈り続けて下さる方なのです。イエス・キリストの十字架こそ救いの確かさのしるしなのです。大胆に罪を告白し、もっと大胆に罪人を愛して下さるキリストの愛を信じましょう。

  さて、ルターは続けます。「すべての人に対して憐れみ深いサマリア人イエスによって目を開かれ、自分自身に縛り付けられていた状態から解放され、心を解き放たれる人々がいる」と。イエスさまが、罪人である私のために隣人になって下さった、私のために命を捨てて下さった、このことを知った時、私たちには、今まで見えなかった人々が見えて来ます。痛みを負う隣人が目の前にいることに気づかされるのです。イエスさまが、私たちの隣人になって下さったことを知ることによって、私たちは生まれ変わることができるのです。愛の心が与えられるのです。
  パウロと共に、イエス・キリストにおける神さまの愛に生かされていることを喜び、新しい歩調で生きて行きましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2010/07/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「エルサレムへの旅立ち」(ルカ9:51~62)
ルカ9:51-62、2010・07・11、聖霊降臨日第7主日(典礼色―緑―)
ヨナ書4:1-11、ガラテヤの信徒への手紙5:2-26


ルカによる福音書9:51~62
 
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。




説教「エルサレムへの旅立ち」(ルカ9:51~62)渡辺賢次牧師

 本日の福音、ルカ9:51-62は、新共同訳聖書の小見出しにある通り、前半の9:51-56と後半の9:57-62に分けられます。そしてまた、本日の部分は、ルカ福音書の大きな転換点であります。日本人の書いた福音書シリーズの注解書にルカ福音書の副題として、「旅空を歩むイエス」と題されたものがありますが、その著者は、9:51からルカ福音書は大きな分岐点に立ち、いよいよ、エルサレムで待つ苦難と十字架に向かって、また、復活し、エルサレムから昇天して、父のもとにお帰りになる道筋を立てて、特に本日の9:51から、文字通りエルサレムに向かっての「旅空を歩むイエス」の御言葉や出来事が記されているとしています。
前半の9:51-56は、主イエスがエルサレムで受ける苦難と十字架の前触れであるような出来事であります。最初の言葉は、「で、成ったことには、彼のその上昇の日々が満たされることにおいて、彼はその顔をエルサレムへと進むべく固く固定した」と直訳できます。 
この9:51は、主イエスの固い決意、悲壮な決意がとてもよく表わされています。顔という言葉が、原文では3回使われていて、「自分の顔の前に、使いの者たちを送った」、また、サマリア人たちが主イエスを受け入れなかったのは、「彼の顔がエルサレムへと向かっていたからである」、と出てきます。
当時、ユダヤ人たちとサマリア人たちは、敵対関係にありました。主イエスは、ユダヤ人のメシアとして来られたと考えたサマリア人たちは、イエスの一行、弟子たちを歓迎し、もてなすことを拒んだのであります。
それを見た弟子たち、ヤコブとヨハネは、言いました。「主よ、あなたは、私たちが命じて天から火をくだし、彼らを焼き滅ぼすことをお望みですか」と聞きます。昔、エリヤは、偶像崇拝の預言者たちと戦って彼らを焼き滅ぼしたことがありました。しかし、主は、振り返えられて、そのように言う弟子たちを叱ったのであります。そして、彼らは別の村へと進んで行ったのであります。主は父の御心に9:51、エルサレムへの旅の始めから、最後まで従順に従われるのであります。
 さて、後半9:57-62に移ります。3人との出会いがあります。まず、そして、彼らがその道、その旅において進んでいた時ある人が彼に向かって言うのであります。「あなたが行く所にはどこでも私はあなたに従っていきます。」すると、主イエスは彼に言われたのであります。「狐どもには巣穴があり、空の鳥どもには、住むべき場所、とまり木や雛を育てる巣があるが、人の子には、頭を横にする場所もない」と。この第1の人は主に従って行ったのでしょうか。それとも、ふるんで、立ち去ったのでありましょうか。そのことは、記されていません。主イエスと出会っている私たち、一人一人に、主は今も改めて問いかけておられるのでありましょう。
確かに、主は生前、マリアやマルタの家のあったベタニアで受けたもてなしとか、ファリサイ派の家に食事のもてなしを受けるとかいうことはありましたけれども、主は、「自分にはこの地上には安住の地はない」と語られるのであります。そして、彼に従って来る弟子たちもその同じ覚悟がいることを主はその人に知らしめたのであります。
第2の出会いの人には、主が自ら招かれます。「私に従ってきなさい」と。すると、その人は言うのであります。「主よ、まず、父を葬りに行くことを認めてください。」すると、主は、「死人どもに、彼らの死人どもを任せなさい。そして、あなたは出て行って神の国、神の支配を広く遠く宣言しなさい」と言われるのであります。
神の国が近づいていること、やって来ていることを告げ知らせることが、主の弟子として何よりも、優先されなければならないのであります。
そして、第3の出会いの人は、言うのであります。「あなたに従いましょう、主よ、で、主よ、まず私の家の者たちに別れのあいさつに私が出て行くことをお認めください。」すると、主は、「鋤に片手を置いてから、後ろを見る者は、神の国、神の支配にふさわしくない、神の支配が切迫している中で、後ろを振り返り、先を見ない者は、神の国に使用できない、使い物にならない」と、主は、十字架を目指すこのときに、弟子であることの義務と特権を改めて自覚させるのであります。
主イエスが、すべての人のために苦難の道を歩まれたように、私たちもみ子の従順に従い、与えられた道を戒めに従って、謙虚に歩む力を、本日のみ言葉から与えられていきたいものであります。

天の父なる神さま。
 1週間を振り返りまして、怠慢と愚痴と不平を抱き、言葉と思いと行いによって、多くの罪を犯しましたことを懺悔します。
本日は参議院選挙の日でもありますが、私たちが良き市民として、よき公僕、政治家を選び、この社会が少しでも、不正からまぬかれ、正義と良心が国民の間にゆきわたりますように、お導きください。体の弱っている人、病床にある人、また、いろいろな事情で毎週の教会生活を守れない人を覚えます。どうぞ、聖霊によって、この教会につながるすべての人が、み言葉に従って歩むことができるように、助けてください。1週間の歩みを感謝しつつ、キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

2010/07/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「苦しむメシア(キリスト)」(ルカ9:18~26)
ルカ9:18-26、2010・07・04、聖霊降臨日第6主日(典礼色―緑―)
ゼカリヤ書12:7-10、ガラテヤの信徒への手紙3:23-29

ルカによる福音書9:18~26
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちも共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに、『エリヤだ』という人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。



説教「苦しむメシア(キリスト)」(ルカ9:18~26)

本日の主日の祈りには、私たち全世界から、あなたの民として、召し集められた者たちが「キリストこそ、私たちの主」と告白して、真にあなたの民に加えられるように導いてくださいというふうな祈りが載っていました。
 さて、ルカ福音書では、5千人への給食の出来事のすぐあとに、本日の記事が与えられています。私たちを、まことの糧で、満たしてくださるお方が、どのようなお方なのか、本日の記事は、記しているのであります。
今日の記事は、「そして、起こったことには、彼が独りで祈るということが、そして、弟子たちも一緒であった」と始まります。ルカのイエスは、祈るイエスを大事な場面でしばしば記しています。
主は、それから、弟子たちに、「群衆は私のことを誰だと言っているか」と聞きます。弟子たちは答えます。「洗礼者のヨハネ、あるいは、エリヤ、また、ある者たちは、古い時代の預言者たちの一人が起き上がったのだ」と言っています。
それで、主は「では、あなたがたは、私をだれだと言うのか」と問われます。ペトロが答えて、「神のメシアです」と述べます。神から大権を与えられ信任を受けたメシア、ギリシャ語ではキリストですと答えるのであります。主は、真剣に語られ、そのことを誰にも言わないようにとお命じになります。
それから、続いて、主は、「人の子、私は、多くの苦しみを受け、長老や祭司長、律法学者によって拒まれ、殺され、三日目に起き上がらされることになっている」と言われました。
生前のイエスがはたして、そこまで予期できただろうかと疑う学者もいるようです。しかし、聖書、福音書はいずれも、主は、事の起こる前から、御自分が受難に遭い、多くの苦しみを受け、殺され、しかし、復活するということを一致して記しているのであります。 
苦しむメシア・キリストという考え方は、その当時、人気はなく、一般的ではありませんでした。主イエス、お一人が、知っておられたということでありましょうか。
主は、それに続けて、弟子たちの歩むべき道を教えられるのであります。「自分の命・魂を救おうとする者は、それを失い、逆に、私のために、その命を失うものは、それを救うであろう」と言われ、「私に従ってきたい者は、日々、その十字架を背負って、私についてきなさい」と言うのでありあす。
当時、ルカがこの福音を書いた時代には、迫害が激しく、殉教する者も少なくなかったでありましょう。しかし、主は、私についてきたい者は、自分を否定し、自分中心の生き方を根本から改めて非利己的な生き方になって、私の後についてきなさいと励まされるのであります。
そして、「もし、だれかが、全世界を獲得しても、自分の命を失ったら、何の利点があろうか」と言われます。そして、「私と私の言葉どもを恥じる者には、人の子もその人を、自分と、父と聖なる天使たちの栄光において来るときに、その者を恥じるであろう」と明言しておられるのであります。
私たちは、日々、言葉と行いと思いを持って、罪を犯さざるを得ない弱い者ではありますが、主イエスの御言葉によって、まったく新しくされて生きていくことができるように、主の民に加えられた者であります。主を、すべての罪を赦し、新しく生きていくことができるメシア、キリストとして証ししながら、毎日のささやかな日常生活の中で、それぞれに負わされた十字架を背負って、欲や汚れた思いを清められながら、裁きの日にも、お出でになられる主イエスによって恥じられることのない者として歩んでまいりましょう。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。



2010/07/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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