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津田沼教会 牧師のメッセージ
「神の恵みの訪れ」(ルカ7:11~17)
ルカ7:11-17、2010・06・20、聖霊降臨日第4主日(典礼色―緑―)
列王記上17:17-24、ガラテヤの信徒への手紙1:11-24

ルカによる福音書7:11~17
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止った。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。





説教「神の恵みの訪れ」(ルカ7:11~17)渡辺賢次牧師

「そして、続きにおいて、成ったことには、彼はナインという町にお進みになった、そして彼の弟子たちも一緒に進んでいた、また多くの群衆も」というふうに、本日の福音の
ルカ7:11は始まっています。
 ルカ福音書は、9:51節から、主イエスがエルサレムに顔を向けて進まれるエルサレムへの旅行記として記されていますので、本日の記事、ルカ7:11-17節は、まだ「ガリラヤの春」と呼ばれる、言わば、主の宣教の順調な時期に起こった出来事であります。しかし、そうは言いましても、本日の記事の出来事は、それ自体としては、非常に厳粛な悲しい場面で始まっています。すなわち、ある未亡人の一人息子の死とその葬列との遭遇で始まっているのであります。死は、私たち人間にとって避けられない現実であります。人間は、だれしも、死と隣り合わせに生きていることを思い起こさせられます。
 私事で恐縮ですが、私も、今年の2月に、1年半ほど前に母と共に松山に移って、療養生活をしていました父親を83歳で天に送りました。
 今まで、牧師として少なからざる人々の葬儀を司式したり、また、近しい人たちの死に際し、葬儀に出席してきましたが、親との死別がこれほど大きな心の傷を残すものだとは知りませんでした。
 私は、現在55歳ですから、津田沼教会の信徒、求道者の中にありましては、いまだなお、若い方に属するでしょう。ですから、会衆の皆さんの多くの方々は、身近な肉親、親や伴侶との地上での別れを体験し、今なお、心に傷を残しておられる方が少なからずおられることでしょう。
 さて、本日のナインの町の門の近くで、一人の未亡人、やもめが、亡くなった一人息子の喪主として泣きながら、その町、その村の大勢の群衆の先頭に立って進んでいたことでしょう。その一行と、主イエスの一行が次第に接近してくるのであります。物事の成り行きを悟られた主は、彼女の上にはらわたがねじれる思いになったと、記されています。私たちの新共同訳聖書では、「彼女を見て憐れに思った」というふうな訳になっていますが、原文の意味は、もっと切実なものであり、スブラングフニゾマイという動詞で、内臓、はらわたという名詞から来ている言葉で、日本語にすれば、「断腸の思い」になられたというふうな訳がふさわしいと思います。
 私たちは、親しい肉親を失うことにおいて、心に大きな傷を負いますが、それを、本人と同じ思いにおいて、共感し同情してくださるお方は、主イエスの他にはこの地上ではだれもいないのではないでしょうか。そして、この神から遣わされた神の独り子であるお方は、この後、自ら十字架にかかって、私たち人類の罪と死を克服するために、エルサレムを目指して進まれるのであります。
 主は、その母親を見て、「もう泣くな」と言われます。そして、担架のような棺で運ばれていた、その息子の棺に手を触れられます。民数記などでは、死体に触れた人は7日間汚れると記されていますが、メシアとしてお出でになられた主イエスは、旧約聖書のそのような定めをも凌駕して、私たちの死をも治めておられる方であります。主が棺に手を触れたそのとき、葬列の一行は、ぴたりと止まります。
 そして、主は、言葉のみでこう言われるのであります。「若者よ、私はあなたに言う、起き上がりなさい」と。すると、その息子は、上半身を起き上がらせ、ものを言いだし、主は彼をその母親にお与えになったのであります。本日、第一の朗読で読まれました列王記上では、エリヤは、サレプタのやもめの息子が死んだとき、主なる神に祈り、体と体を合わせるなどのしぐさをし、息子を生き返らせ、母親に彼をお与えになったと出てくるのでありますが、主イエスは、直接に、言葉による命令だけで、若者を起き上がらせるのであります。しかし主イエスはご自身、私たちの命も死をも、治めるお方として、この地上にお出でになられたお方なのであります。
 この出来事を見たすべての者たちは、恐怖に捕えられます。そして、そのあと、神をあがめて、すなわち、神を拡大させて、言うのであります。「我々の中に、大預言者が起こされた」と。また、「神はその民を心にかけてくださった」と。この後半は、「神はその民を訪れてくださった」とも訳せるのであります。神の一方的な御慈悲、恵みによって、その民イスラエルを訪れられるという旧約聖書の時代から待たれていた出来事が成就したのであります。
 そして、彼、主イエスについてのこの言葉は、全ユダヤにおいて、またその全近隣の地方において、出て行ったと本日の出来事は終わりに記しているのであります。
 本日の記事においては、この未亡人の信仰については何も語られていません。困窮と悲しみの極みにあるこの女性を、主は御覧になって、断腸の思いを抱かれ、一人息子を死から生き返らせたのであります。
 死は恐ろしいものであります。あの世からこの世に帰って来た人は一人もいないのであります。しかし、主イエスは、不思議なことに「死人を生き返らせる」奇跡を行ったことが記されているのであります。このお方こそは、私たちの命も死も、神として、そのご支配のもとにおいておられる方であります。
 現実には、死から生き返らされたこの若者も、私たちと同じように、再び、寿命を全うして地上の生涯を終えたことでありましょう。聖書には、他にも、使徒たちが死人を生き返らせたというような奇跡の記事が残されています。
 それは、私たちの生も死をも、主イエスは、つかさどっておられることを、聖書は明言しているからであります。私たちは、かような主によってもたらされた奇跡の出来事を知らされておりながらも、日常生活においてしばしば、罪に陥り、また、死といってもいいような闇と罪に陥りやすい弱い存在であります。しかし、主は、私たちのあらゆる弱さを、ご自分は罪を犯されなかったけれども、共に担ってくださるお方であります。
 神の言葉、聖書から、ともすると離れやすい私たちでありますが、主はすべてをご存じで、私たちを憐れんでくださり、人間と同じ低さにまでおりてくださり、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順なお方でありました。私たちの生も死も一切は、主イエスが治めていてくださいます。私たちの側の功績や人格や行いのゆえに、主が私たちを訪れてくださったのではなく、ただ一方的な、神の御慈悲、ご好意、恵みによって、独り子を私たちのもとに送ってくださったのであります。私たちは残念ながら、日常生活、毎週の普段の生活の中でも、しばしば、死と闇と言ってもよい状態にまで落ちてしまう弱い存在ではありますが、主イエスは一切をご存じで、私たちを死から命へ、闇から光へと導いてくださるお方であることを信じて、絶望しないで生きていきたいものであります。アーメン。

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2010/06/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)