津田沼教会 牧師のメッセージ
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「多くの罪をゆるされた者」(ルカ7:36~50)
ルカ7:36-50、2010・06・27、聖霊降臨日第5主日(典礼色―緑―)
サムエル記下11:26-12:13、ガラテヤの信徒への手紙2:11-21

ルカによる福音書7:36-50
 さて、ファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。





説教「多くの罪をゆるされた者」(ルカ7:36~50)
 先週は、ナインという町で一人息子の死んだ命を生き返させていただいたやもめの記事が与えられていました。そして、来週は、ペトロの信仰告白と主の受難予告に入り、その次の主日からは、ルカ福音書9:51節に入り、主がエルサレムに十字架につくために、顔を固めて向けて進んで行かれる記事が与えられ、それからは、エルサレムに向う旅の途上での主のなさったみ業と語られたみ言葉が聖霊降臨後の主日に読まれていくことになります。
その意味では、本日の個所は、主日に与えられている福音の記事としては、「ある町」での出来事とされていますが、「ガリラヤの春」とも言えるガリラヤ宣教での最後の記事とも言えるでありましょう。
 「さて、ファリサイ派のある人が、主イエスを共に食事に招いた、そして主は食事のために横になっていた」というふうに、本日の記事は始まります。そのとき、その町に、ある女性がいて、主イエスが彼の家にいることを聞いて、やって来て、主の足もとに、迫り、涙で彼の足をぬらしはじめ、彼女の頭の髪の毛で、主の足をふいていた、そして、足に接吻した後、香油を石膏にいれたものを出してきて、主の足にぬっていたというのであります。
そのファリサイ派の人は、心の中で、「もし彼が預言者なら、この女性がだれであり、どういう人かわかるはずだ、この女性は罪深い者なのだから」と言いました。すると、主は、それを見抜いて言われます。「シモン、あなたに言いたいことがある。」彼は、「先生、どうぞ、おっしゃってください」ときっぱり言います。主は言われます。
「ある金貸しに二人の負債者がいて、一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオン、借りがあったが、返すべきものを二人とも持っていなかったので金貸しは、両方とも免除してやった。どちらが、彼をより多く愛するだろうか。」シモンは答えます。「より多くゆるされた方だと思います。」主は、言われます。「あなたは的確に答えた。」
そして、身を女性の方に翻して言うのであります。「この女性を見ないか。あなたは、家に入ったとき、足を洗う水をくれなかったが、この人は、涙で私の足をぬらしてくれた。あなたは、何も接吻の挨拶をしてくれなかったが、この人は、足に接吻してやまなかった。あなたは、私の頭にオリーブ油を与えなかったが、この女性は、足に香油をぬってやまなかった。この人の多くお罪が赦されたことは、この人が多く愛したことでわかる。」
ここは、口語訳では、「この人は多く愛したので、多くの罪が赦された」となっていました。しかし、ここでは、愛が多くの罪を覆うということではなく、多くの罪が赦されたので、彼女は多く愛したのであります。
そして、主は言われます。「あなたの罪は赦されている。」そのとき、同席していた者たちは、罪をも赦すこの人は何者かと心の中で言っていました。
主は、「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」と、この女性を送り出したのであります。私たちも、程度の差はあれ、多くの罪を赦されて、洗礼に与った者ではないでしょうか。そして、しかし、本日の主日の祈りにもありますように、この世の荒れ狂う悪の力によって翻弄され、心と思いと行いとによって、多くの罪を犯す存在ではないでしょうか。女性のエピソードが、7章から8章にかけて続いていますが、本日の罪深い女性は、私たちの生活の偽らざる現実を象徴してはいないでしょうか。
主は、罪をも赦すことのおできになる神としてお出でになられた方です。私たちは、毎週、毎週、「心と思いと行いとによって」罪を犯し続けますが、その罪を赦されて、再び新しい1週間1週間が与えられて、礼拝から、この世の生活に派遣されていきます。ルターも言いましたように、罪を犯してもそれ以上に大胆に罪を悔いあらためて、毎週の生活へと主の平安のうちに押し出されていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
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2010/06/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神の恵みの訪れ」(ルカ7:11~17)
ルカ7:11-17、2010・06・20、聖霊降臨日第4主日(典礼色―緑―)
列王記上17:17-24、ガラテヤの信徒への手紙1:11-24

ルカによる福音書7:11~17
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止った。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。





説教「神の恵みの訪れ」(ルカ7:11~17)渡辺賢次牧師

「そして、続きにおいて、成ったことには、彼はナインという町にお進みになった、そして彼の弟子たちも一緒に進んでいた、また多くの群衆も」というふうに、本日の福音の
ルカ7:11は始まっています。
 ルカ福音書は、9:51節から、主イエスがエルサレムに顔を向けて進まれるエルサレムへの旅行記として記されていますので、本日の記事、ルカ7:11-17節は、まだ「ガリラヤの春」と呼ばれる、言わば、主の宣教の順調な時期に起こった出来事であります。しかし、そうは言いましても、本日の記事の出来事は、それ自体としては、非常に厳粛な悲しい場面で始まっています。すなわち、ある未亡人の一人息子の死とその葬列との遭遇で始まっているのであります。死は、私たち人間にとって避けられない現実であります。人間は、だれしも、死と隣り合わせに生きていることを思い起こさせられます。
 私事で恐縮ですが、私も、今年の2月に、1年半ほど前に母と共に松山に移って、療養生活をしていました父親を83歳で天に送りました。
 今まで、牧師として少なからざる人々の葬儀を司式したり、また、近しい人たちの死に際し、葬儀に出席してきましたが、親との死別がこれほど大きな心の傷を残すものだとは知りませんでした。
 私は、現在55歳ですから、津田沼教会の信徒、求道者の中にありましては、いまだなお、若い方に属するでしょう。ですから、会衆の皆さんの多くの方々は、身近な肉親、親や伴侶との地上での別れを体験し、今なお、心に傷を残しておられる方が少なからずおられることでしょう。
 さて、本日のナインの町の門の近くで、一人の未亡人、やもめが、亡くなった一人息子の喪主として泣きながら、その町、その村の大勢の群衆の先頭に立って進んでいたことでしょう。その一行と、主イエスの一行が次第に接近してくるのであります。物事の成り行きを悟られた主は、彼女の上にはらわたがねじれる思いになったと、記されています。私たちの新共同訳聖書では、「彼女を見て憐れに思った」というふうな訳になっていますが、原文の意味は、もっと切実なものであり、スブラングフニゾマイという動詞で、内臓、はらわたという名詞から来ている言葉で、日本語にすれば、「断腸の思い」になられたというふうな訳がふさわしいと思います。
 私たちは、親しい肉親を失うことにおいて、心に大きな傷を負いますが、それを、本人と同じ思いにおいて、共感し同情してくださるお方は、主イエスの他にはこの地上ではだれもいないのではないでしょうか。そして、この神から遣わされた神の独り子であるお方は、この後、自ら十字架にかかって、私たち人類の罪と死を克服するために、エルサレムを目指して進まれるのであります。
 主は、その母親を見て、「もう泣くな」と言われます。そして、担架のような棺で運ばれていた、その息子の棺に手を触れられます。民数記などでは、死体に触れた人は7日間汚れると記されていますが、メシアとしてお出でになられた主イエスは、旧約聖書のそのような定めをも凌駕して、私たちの死をも治めておられる方であります。主が棺に手を触れたそのとき、葬列の一行は、ぴたりと止まります。
 そして、主は、言葉のみでこう言われるのであります。「若者よ、私はあなたに言う、起き上がりなさい」と。すると、その息子は、上半身を起き上がらせ、ものを言いだし、主は彼をその母親にお与えになったのであります。本日、第一の朗読で読まれました列王記上では、エリヤは、サレプタのやもめの息子が死んだとき、主なる神に祈り、体と体を合わせるなどのしぐさをし、息子を生き返らせ、母親に彼をお与えになったと出てくるのでありますが、主イエスは、直接に、言葉による命令だけで、若者を起き上がらせるのであります。しかし主イエスはご自身、私たちの命も死をも、治めるお方として、この地上にお出でになられたお方なのであります。
 この出来事を見たすべての者たちは、恐怖に捕えられます。そして、そのあと、神をあがめて、すなわち、神を拡大させて、言うのであります。「我々の中に、大預言者が起こされた」と。また、「神はその民を心にかけてくださった」と。この後半は、「神はその民を訪れてくださった」とも訳せるのであります。神の一方的な御慈悲、恵みによって、その民イスラエルを訪れられるという旧約聖書の時代から待たれていた出来事が成就したのであります。
 そして、彼、主イエスについてのこの言葉は、全ユダヤにおいて、またその全近隣の地方において、出て行ったと本日の出来事は終わりに記しているのであります。
 本日の記事においては、この未亡人の信仰については何も語られていません。困窮と悲しみの極みにあるこの女性を、主は御覧になって、断腸の思いを抱かれ、一人息子を死から生き返らせたのであります。
 死は恐ろしいものであります。あの世からこの世に帰って来た人は一人もいないのであります。しかし、主イエスは、不思議なことに「死人を生き返らせる」奇跡を行ったことが記されているのであります。このお方こそは、私たちの命も死も、神として、そのご支配のもとにおいておられる方であります。
 現実には、死から生き返らされたこの若者も、私たちと同じように、再び、寿命を全うして地上の生涯を終えたことでありましょう。聖書には、他にも、使徒たちが死人を生き返らせたというような奇跡の記事が残されています。
 それは、私たちの生も死をも、主イエスは、つかさどっておられることを、聖書は明言しているからであります。私たちは、かような主によってもたらされた奇跡の出来事を知らされておりながらも、日常生活においてしばしば、罪に陥り、また、死といってもいいような闇と罪に陥りやすい弱い存在であります。しかし、主は、私たちのあらゆる弱さを、ご自分は罪を犯されなかったけれども、共に担ってくださるお方であります。
 神の言葉、聖書から、ともすると離れやすい私たちでありますが、主はすべてをご存じで、私たちを憐れんでくださり、人間と同じ低さにまでおりてくださり、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順なお方でありました。私たちの生も死も一切は、主イエスが治めていてくださいます。私たちの側の功績や人格や行いのゆえに、主が私たちを訪れてくださったのではなく、ただ一方的な、神の御慈悲、ご好意、恵みによって、独り子を私たちのもとに送ってくださったのであります。私たちは残念ながら、日常生活、毎週の普段の生活の中でも、しばしば、死と闇と言ってもよい状態にまで落ちてしまう弱い存在ではありますが、主イエスは一切をご存じで、私たちを死から命へ、闇から光へと導いてくださるお方であることを信じて、絶望しないで生きていきたいものであります。アーメン。

2010/06/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神様、私をあわれんでください」(ルカ18:9~14)ジェームス・サック牧師
ルカ18:9-14、2010・06・13、聖霊降臨後第3主日礼拝(典礼色―緑―)
エフェソの信徒への手紙2:11-22

ルカによる福音書18:9~14
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」




説教「神様、私をあわれんでください」(ルカ18:9~14)ジェームス・サック牧師

祈ります。主よ、私の岩、私のあがない主よ、どうか私の口の言葉がみむねにかない、心の思いがみ前におかれますように。アーメン。

 20数年前、ある春のさわやかな朝、当時4歳になった娘のベサニーを連れて、ルター神学校を散歩しました。アーズガード・ホールと呼ばれた古いチャペルであった場所の前を通りました。壊された、ただのレンガの固まりがありました。1925年に創立された私立のブレック高校。LNSTの時、毎日の礼拝の場、特別な集会の場、バスケットボールの場所。私は特に自分のことを感傷的であると思わなかった。歩いていると感慨深く思い出に浸ってしまいました。
 「結合している時はしっかり立ち、ばらばらになると倒れる」ということわざを思い出しました。建物のことだけではなく、人間についても言える、エフェソの信徒への手紙にも書いてあります。私たち人間には、敵意や衝突、そして他人との問題がたくさんあります。人間関係の問題は憎しみや怒りから来ると思いますが、私たちの中にある不安定、自身のなさも一つの原因なのです。一つのレンガを持ってきました。今日の説教は今までで最も重いものかもしれません。これを家に持って帰って、よく見ると大変おもしろいことに気が付きました。
 もちろん、これも他のと同様、同じような形、同じような色をしていますが、それぞれ、別々に違う印が付いています。それぞれレンガは完全ではないことを示す傷があります。
 私はひび割れしていないものが欲しかったのですが、このようにこれも傷だらけです。この私のレンガさえもこのようにひびが入っているほど傷だらけです。
 人間はこのレンガのようです。私は人々が欠点や不完全さを持っていますが隠そうとする様子を思います。
 けれども悪い癖や不十分さや誤りを簡単になくすことが出来ません。私たちが完全さを目指す時、たいてい骨折り損のくたびれもうけです。
 茶わんを買うとき、出来るだけ、完全なものを買いたいでしょう。傷があれば、少しがっかりなさると思いますし、買わないかもしれません。
 でも、萩では焼き物を竈に火を入れる前にわざとそれぞれの作品の下に傷を入れるそうです。この傷のおかげで、他の不完全な部分は目立たなくなります。それぞれの作品が大切なのです。それはアーズガード・ホールのレンガについても言えることです。
 建物を建てる時、ひとつひとつのレンガの大切さを考え始めました。我々人間でもそんなものではないかと思います。神様が私たちの足りない部分と過ちと間違いと不完全さと罪をゆるして下さいました。神様の目には私たち一人一人極めて貴重な存在なのです。
 ヨハネによる福音書の15章16節にもこうあります。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それはあなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためである。」
 レンガ職人である特定のスペースを埋めるためにそれぞれのレンガを選ぶように、神様は我々を神の国を作るために選んで下さったのです。私たちはそれぞれ特別で取り替えられないのです。不完全ではあっても神様は一人一人を特別な者として造られたのです。
 カウンセラーとして、私は2つのことを考えています。一つは、共同社会における個人の位置について考えて来ました。日本では個人より集団が強調されています。アメリカでは集団よりも個人が強調されています。この関係は「又は」ということではなく、「且つ」の問題です。
 もうひとつは、カウンセリングのセッションで出会う多くの人に見られます。それは人が人生の中に扱う恥の大きさです。彼らは自分が不完全であったり、受け入れられなかったり、失敗することを恐れています。
 私がカウンセリングする人々にはよく自己評価をしてもらいます。ここで、恥、傷について三つの例をご紹介したいのです。
 まず、大変簡潔な言い方。「私は鏡を見ても何も見えません。」誰であるか全く知らないと言うのです。小さい頃虐待されながら育ち、痛々しい数々の経験のせいでいつも脅えているのです。応えることの出来ない期待に応えようとすることに疲れてしまいました。彼は自分の信念に恥じないように生きようとする一方、他人の自分に対する期待にも恥じないように努力してきたのです。本人が到底到達出来ない完璧さを要求することです。大変空しかったと言っています。このようにつらい恥について語ってくれました。傷だらけです。
 もう一つの例は怒りの中に自己防衛や恥が見られます。誰かが怒っている時、私たちはその人に近づかないようにします。それ以上に恥を感じることはないということがわかっています。子供が良い例です。27人の子「パムちゃん大嫌い」。怒り、敵意、そして分裂が見られます。その奥には痛みや傷付いた感情が潜んでいるのです。拒絶された気持ち、パムちゃんは私と遊んでくれないから、とても悲しいという意味にもとれます。このような例の中にはしばしば痛みや拒絶、そして自暴自棄、また、傷が分かる。
 自己評価と恥の最後の例は、私の個人的なものです。私は高校一年生の時、157㎝で50キロ、バスケットボールで二つのチームに別れ、二人のキャップテンが選ばれますが、私はいつも最後まで指名されませんでした。自己評価にはマイナスの原因となりました。
各々の場合における傷を見ることができます、しかし、人々はそれらを見せたくありません。
 普通、誰かがどうして何かをしたり、言ったりするか動機や理由がわかる時、私たちは大切なことを知ります。一番批判的で、一番文句を言う、最も付き合いづらい人が一番気配りや愛を必要としているのです。自身がないのです。
 私は殴ってやりたかったり、反撃の言葉を投げ付けてやりたい気分になることもありました。きっと、彼らはずっとそういう反応を受けて来ているのでしょう。もっと優しく愛のある接し方が必要なのです。
 私はカウンセリングの中で、人間であるということは恐らくこの世で一番大変なことであろうということを発見しました。他人に接するのは易しいことではありません。人間関係は難しいものです。
 自分と違う人と接する時は、苦労します。肌の色が違う人々はしばしばあやしい者かのように見下げられてしまいます。
 男性と女性についても同様です。各国間の文化の相違、私たちの家族の中でさえ兄弟同志、病気の人や障害のある人さえも何か別のもののように見られています。
 他人と共に生きるということは一つのレンガを別のレンガの上に置くようなものです。二つのレンガが一緒に擦り合わされると摩擦が生まれます。
 私たちが誰かに直接、接する時、問題や苦労が生じます。けれども神様は私たちに新しい人との接し方を示して下さっています。それは主イエス・キリストを通してです。
 エフェソの信徒への手紙2章14節「キリストは私たちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を取り除く。」
 ボンヘッファーは、第二次世界大戦中にヒットラーに殺されました。彼は「私たちは自分のために人を愛するものではない、その人のために愛するのでもない。私たちはキリストのために人を愛する。」
 ボンヘッファーの言葉をそのまま引用しますと人間の愛は自分のために他人に向けられるが、霊的な愛はキリストのためである。
 ボンヘッファーは愛は直接人に到達するわけではないと言います。それはキリストを通して達成されるセメント(モルタル)のようです。キリストは私たちのためのセメントです。
 キリストの死そして復活によって私たちは神様に受け入れられる者となりました。自分自身を受容する時、他人の良い所を見つけられる。
 今朝私は声を大にして伝えたいと思います。皆さんは神様に受け入れられているのです。あなたのひび、欠点や汚点、過ち、そして罪さえも、神様はキリストを信じる者皆を純粋で義なる者としてくださったのです。今朝の聖書の個所の少し前に目をやると、エフェソ2章8節から9節にこういう言葉があります。「あなたがたの救われたのは実に恵みにより信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものではなく神の賜物である。決して行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためである。」
 自分の手で得ることは出来ないのです。私たちは正しいことを言ったり、したりすることで神様の賜物を得ることは出来ないのです。神からの賜物なのです。
 私たちはお互いに平和のうちに暮らすために、神様の民として呼び集められたのです。私たちは神様の家族であることがわかります。使徒たちや預言者たちによって造られた基盤があってイエス・キリストという大黒柱のある家です。イエス・キリストによって私たちは互いに和解し近くにある者に平和をのべ伝えるために呼び集められたのです。
 私たちは赦しをお願いする必要があるかもしれません。いえ、必要があります。でも、私たちは神様の姿に似せて造られたのです。神様にとって掛け替えのない者なのです。
 主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも主にあって共に建てられて霊なる神の住まいとなるのである。

祈りましょう。天の神様、私たちや今日の日のためにお祈りします。あなたが私たちをあなたのお姿に造り、私たちのことをいつも愛して下さっていることを感謝します。あなたのひとり子を私たちのために地球に送って下さいましたことを感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
2010/06/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「み言葉を行う人に」(ルカ6:37~49)
ルカ6:37-49、2010・06・06、聖霊降臨日第2主日(典礼色―緑―聖餐式)
エレミヤ書7:1-7、コリントの信徒への手紙一15:12-20

ルカによる福音書6:37~49
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は心からあふれ出ることを語るのである。」

 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているか示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」





「み言葉を行う人に」(ルカ6が:37~49)

 本日から、ルカによる福音書に戻って、主のみ言葉とみ業についての学びが始まります。そして、用いられますこの時期の典礼色は、緑であります。これは、ノアの洪水のときに、それが、引いたとき、鳩がくちばしで持ち帰ったオリーブの木の葉のように、神の希望を表します。
さて、本日の福音の記事は、平地での説教と呼ばれるものの最後の部分であります。少し長い個所となっていますが、6:37から、38までと、6:39から49に分けることができます。
 まず、「人を裁くな」という主のみ言葉から始まっています。「人を有罪と宣告するな、そうすれば、あなたがたも、有罪とされることはないであろう、赦しなさい、そうすれば、赦されるであろう」と主は言われています。人を裁き、有罪と宣告することができるのは、神しかおられないというのであります。私たちは、裁き合わないということは、実際生活においては、困難なことでありますが、主なる神、父なる神のみが最後にそれをなさると、主イエスは言われるのであります。
 そして6:39からは、「イエスは、別に譬えを話された」と続きます。「盲人が盲人の手引をできるだろうか、二人とも穴に落ち込むのではないか」と言われるのであります。これは、当時のファリサイ派どもを暗示する言葉であります。
 そして、「あなたの兄弟の目に子粒があるとき、あなたの目に梁があるのに、どうして、それを取りださせてくれと言えるだろうか」と言われます。他人の欠点は目につきやすく、私たちは自分の側により大きな欠けがあるのに、それを棚にあげてどうして、兄弟の非を論じるのかというのであります。
また、「腐った木からよい実はもたらされず、よい木から悪い実がもたらされることもない」と主は言われます。「いばらから、いちじくはならず、野ばらからぶどうを人々は摘み取ることもない。心の豊かさから、人の口は語るのである。善い人は、よい心の倉からよい言葉をはき、悪い人は悪い心から、悪を語る」と言われるのです。
 私たちは、よき木であるキリストにつながらねばなりません。当時のファリサイ派のような人たちを師としては、穴に落ち込むばかりです。そして、主は言われます。「弟子は師にまさらず、しかし、訓練すれば、師のようになれる。それで、十分である」と言われるのです。私たちは、多くの欠点に満ちた者でありますが、主イエスにつながり、訓練をしていき、生活を改革することによって、ぼちぼちながら、主に似た者にされていくのであります。そして主は、「私のところにやって来て、主よ、主よと言いながらどうして、私の言葉を行わないのか」と言われます。そして、主に来て、聞いて、その言葉を行う者を、岩の上に基礎を置いて家を建てた人に譬えます。
洪水が起こり、川が押し寄せても、倒れなかった、岩の上に基礎を置いていたからである。 逆に、主の言葉を聞いても行わない者は、土の上に基礎も置かずに家を建てた愚かな人に譬えられると言われるのです。「川が押し寄せてくると、その家は大きく崩壊した、岩を基礎としていなかったからである」と言われます。
私たちは、やがて、神のもとに召されるとき、主のみ言葉を聞いて、従順に聞き従い、み言葉を行う者となっていったかいなかが問われるのであります。アーメン。







2010/06/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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