津田沼教会 牧師のメッセージ
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「父、み子、み霊の神」(ヨハネ16:12~15)
ヨハネ16:12-15、イザヤ書6:1-8、ローマの信徒への手紙8:1-13、2010・05・30
三位一体主日(典礼色―白―)

ヨハネによる福音書16:12~15
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」




説教「父、み子、み霊の神」(ヨハネ16:12~15)

 本日は、三位一体主日という特別な主日であります。私たちは、このところ、主の昇天主日、そして、聖霊降臨祭という特別な主日を祝ってきました。私たちが信じているのは、三位一体の神であり、私たちの礼拝は、父と子と聖霊のみ名によって始まり、父と子と聖霊のみ名によって、1週間への生活へと送り出されて行くものであります。
本日の与えられている福音は、ヨハネ福音書16:12-15であります。先週のペンテコステに与えられていた福音は、ヨハネ16:4bから11節でありました。先日の福音の終りの部分は、聖霊、パラクレートスが、この世界を罪について、義について、裁きについて明るみに出すというものでありました。
それに対して、本日の個所は、真理のみ霊、聖霊が、私たちの内側に対して、共同体、教会の一人一人のメンバーに対してどのような働きをするかというものであります。主は、この告別説教の部分において、あなたがたにまだ、語るべきことが多くあるが、あなたがたはそれに、今は耐えることができないと言われます。そして、彼、パラクレートス、弁護者、真理のみ霊がやって来るとき、あなたがたをすべての真理において導くであろうと言われます。
それは、なぜかというと、聖霊は、自分から語るのではなく、彼は聞くであろうことを語るであろう、そして起こること、来たるべきことをあなたがたに告げるであろうからだと言われます。そして、彼、弁護者は、私に栄光を帰するであろう、なぜならば、私から、彼は受け取り、そして、あなたがたに伝える・告げるであろうからである、と言われ、父が持っているすべてのものは、私のものであり、それゆえに私は言ったのである、すなわち、この私から彼は受け取り、そして彼はあなたがたに告げるであろうと、と言われます。
 本日の真理のみ霊にして、弁護者なる聖霊は、私たち、共同体、教会の一人一人に対して働く聖霊の働きを明らかにしているのであります。私たち一人一人に、聖霊が、すべての真理において、導いてくださるのであります。
父なる神は、創造主であり、み子なるキリストは、罪の贖い主であり、み霊は、私たち、教会の枝である一人一人を、日常生活の経験の中で、主イエスの言葉の意味を明らかにしていくのであります。
聖霊は、主イエスに栄光を帰する方であります。自分から語るのではなく、主イエスから聞いた通りに、私たちに告げるのであります。主イエスが語られ、教えられた言葉の真意を明らかにし、真理のみ霊は、私たちを、偽りのない、すべての真理の中へと導く方であります。父とみ子とみ霊の神が、私たちの信じる唯一の神であります。そして今もなお、ニケア信条にありますように、父とみ子から出て、聖霊が私たちのもとへと与えられているのであります。
私たちは、聖書を読みますが、主の言葉の真意を教え、私たちを偽りのない真実へと教え導かれる方が聖霊であります。十字架、復活、昇天、聖霊の降臨、そして、その神の三位一体であることを、私たちは、真理の霊によって、告げられ、来週から再び、緑の色であらわされる聖霊降臨後の主日が始まり、主イエスの言葉となされたみ業がルカ福音書に戻って、与えられていくのであり、その意味を明らかにしてくれるのも聖霊の働きであります。
私たちは迷いやすく、間違いやすい存在でありますが、真理のみ霊、まことの知恵の働きによって、偽りの道から、守られ、歩むべき道を告げられ、教えられていきたいと思います。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれされてくださるように。
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2010/05/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「安かれ」(使徒言行録2:1~21)
ヨハネ16:4b-11、創世記11:1-9、使徒言行録2:1-21、2010・05・23
聖霊降臨祭(典礼色―赤―)

使徒言行録2:1~21
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉で話されるのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。
 終りの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
 血と火と立ちこめる煙が、それだ。
 主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、
 月は血のように赤くなる。
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」




説教「安かれ」(使徒言行録2:1~21)

今日は、聖霊降臨祭の日であります。主イエスは、ルカ福音書によれば、ご復活の後、弟子たちにエルサレムにとどまるようにお命じになり、また、使徒言行録によれば、復活の後、40日間、弟子たちと共に過ごされた後、天に上げられました。そして、弟子たちには、上からの聖霊を受けた後、地の果てまでも、救いの福音を宣べ伝えるように、言い残されていたのであります。
そして、本日は聖霊降臨の出来事の記事、使徒言行録2:1-21が与えられているのであります。五旬祭の日が来た時と、新共同訳ではなっていますが、これは、ペンテコステ、すなわち50日目が完全に満たされたときと、原文ではなっています。
主の復活の日、今年は4月4日でしたが、その日から、50日目である本日、約束されていた聖霊の降臨という出来事が起こるのであります。そのとき、一同は一緒にいたが、突然、天から風のような音が家を満たした。そして、赤い炎のような舌が一同の一人一人の上にとどまり、彼らは、聖霊に満たされて、違った言語で、預言を語り始めた、すなわち神の啓示を宣言しはじめていたというのであります。
彼らはというのは、12使徒であったのか、大きな家で祈っていた120人であったのかのかは定かではありません。文脈上は、12使徒と取れますが、近隣の世界中の国々からやって来て、エルサレムで在住していたユダヤ人たちやユダヤ教への改宗者たちが、その音に驚いて、駆けつけて来て、自国の言語で弟子たちが語っているのを聞くというのですから、120人の弟子たちとも考えられます。
彼らは、自国の言語で、すなわち自分たちの生まれ故郷の言葉で、あるいは、舌で、弟子たちが神の大いなるみ業を語っているのを、聞いてあっけに取られてしまうのであります。それは、東から北、南から西へと、そして、地の果てとも考えられていたローマ人たちや、ユダヤ人たちや、敬虔な、ユダヤ教への改宗者たちでありました。
この多言奇跡といいましょうか、エルサレムに今では在住していた彼らが、自分たちの国の言葉で、あの田舎者のガリラヤ人の、主イエスの弟子たちが神のみ業を預言しているのに出くわすのであります。
彼らの多くは、感嘆の叫び声をあげて「これはいったいどういうことだ」と言っていましたが、別の者たちは嘲って、「彼らは甘い新しいぶどう酒に満たされているのだ」と語る者たちもいました。
で、ペトロは、11人と共に立ちあがり、声を張り上げるのであります。「私の言う言葉、出来事に耳を傾けてほしい。今は朝の9時だから、彼らは酔っ払っているのではない。これは、預言者ヨエルを通して、言われていた事柄である。神は言われる。終わりの日々に、私の霊から、私は注ぐ、あなた方の息子や娘に、また、あなた方の若者や老人に、すると彼らは預言し、幻を見、夢を見るであろう。また、あなた方の僕たちやしもめたちにも、私の霊から注ぐ。すると、彼らも預言する、神の啓示を宣言するであろう。主の輝かしい日の来る前に、天に不思議なしるし、地にも不思議なしるしが現れる。太陽は闇となり、月は血と変わり、地上では、火と血と煙の蒸気が起こる。しかし、主の名を叫び求める者は皆、救われるであろう、とヨエルは言っている」と、あのペトロが、立ち上がって大胆に、主イエスの証人に変えられているのであります。終わりの日は、恐るべき日と、ヨエルではなっているのですが、ルカは、終りの日の輝かしい日にと解釈しているのであります。
このあと、ペトロも、使徒たちと共に、その頭として、世界宣教へと遣わされていきますが、たびたび失敗もしないわけではありませんでした。しかし、本日の降り注がれた聖霊が、自分たちの上に、炎の舌のようにとどまって以来、弟子たちは皆、主の復活の証人として、自分の力ではなく、神に信頼することによって、根本的に新しい人に造り変えられていったのであります。
本日の第一の朗読では、人が神のようになろうとして、バベルの塔を築きはじめ、神によって、中止させられ、互いに分からない言語で語る者とされ、人の心と心が通じ合わなくなったとされていますが、教会が誕生することにより、世界中の人々が、一つとなることができるようにされていくのであります。確かにいつの時代でも一方では、「彼らは新しい酒に満たされているのだ」と、弟子たちを嘲る者たちもいますが、私たちは、この日以来、新しい人として、悔い改め、すべての人に、主の復活、死と罪からの自由を宣べ伝える証人に召されているのであります。
ヨエルが預言した終りの時とは、同時に教会の誕生した時でもあります。そして、私たちは、その教会の一員として呼び集められたものであります。主によって与えられる平安に与りながら、復活の主の証人としての新たな歩みを、今年もこの日から再び進めてまいりましょう。アーメン。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2010/05/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「祝福された世界」(ルカ24:44~53)内海望牧師
ルカ24:44-53、2010・05・16、昇天主日(典礼色―白―)
使徒言行録1:1-11、エフェソの信徒への手紙

ルカによる福音書24:44~53
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父から約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



 説教「祝福された世界」(ルカ24:44~53)内海望牧師
 今日は主の昇天主日です。復活されたイエスさまが40日の間弟子たちの前に現れ、40日目に天に昇られたという伝承に基づいた祝日です。13日、先週の木曜日が4月4日のイースターから40日目に当たるわけで、その日が「昇天日」です。罪と死に勝利されたイエスさまを喜ぶ鐘の音が、街中に響き渡り、人々は嬉々として教会に集う大きなお祭りです。
 ところで、毎年、この昇天主日の聖書を読むたびに、私たちの心は暖かくされます。ルカ24章50、51節をご覧ください。イエスさまは、「手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と書かれています。イエスさまの祝福が、弟子たちの上に、更に村全体に、国全体に、そしてやがては地球全体を包んで行く様子がよく分かります。この世界は、イエスさまの祝福の下にある、なんと素晴らしいことでしょうか。
 実は、聖書にはもう一箇所祝福について書かれているところがあります。それは、創世記2章3節です。神さまは天地創造の業を完成され、世界を見渡し、すべてが「極めて良かった」とされ、「祝福し、聖別された」と書かれてあります。聖書の2ページです。しかし、その後、1500ページにわたって、この祝福された世界が神さまに叛き、神さまを苦しめ、痛みを与える罪の世界になってしまった事実が書かれているのです。そして、今日の聖書に至って、復活のイエスさまの祝福が与えられているのです。従ってこの「第二の祝福」は「第二の創造」「世界の復活の日」と呼んでもよいでしょう。
 「あらゆる国の人に」、また「地の果てに至るまで」という言葉があります。イエスさまの祝福は、世界の一部、信仰者のみ、善人のみでなく、全世界を覆うのです。
 現在の式文は、祝福は、「あなた方と共に」となっています。「私たちと共に」とは言いません。イエスさまの祝福は、単にここに集まっている私たちに限らず、すべての人々に向けられているのです。そこには何の差別もありません。すべての人々を包むのです。
 しかし、なぜイエスさまは野放図と言ってもよいような、無制限な祝福を、この世界に与えて下さったのでしょうか。私たちの目には、この世界はこの祝福に値しないように見えます。そうです。確かに、この世界は罪の世界なのです。弟子たちも、そのように思い、イエスさまを理解出来ませんでした。だからこそ、彼らの心の目が開かれる必要があったのです。
 イエスさまによって、弟子たちの「心の目が開かれたとき」何が見えたでしょうか。それは、イエスさまだからこそ、この祝福を与えることが出来たのだという事実ではないでしょうか。イエスさまの十字架の苦しみと死によって、この世界は罪赦され、イエスさまの復活と共に、再び祝福された世界となったのです。47節で、イエスさまは、弟子たちに「エルサレムから始めて」と命じられています。イエスさまは息を引き取られる前、「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈って下さったのです。その祈りが聞き入れられたのです。ですから、罪と死に勝利された復活のイエスさまが、今、この世界に罪の赦しと祝福を与えて下さったのです。
 弟子たちは、このキリストの証人とされたのです。このイエスさまの祝福はこの世界における罪と死に対する勝利の宣言、罪の赦しの宣言なのです。ですから、エルサレムから新しい祝福は始められるべきであったのです。
 従って、この祝福は決していい加減な野放図なものではありません。神さまのひとり子の苦難と死という何ものにも代えることのできない高価な恵みによって与えられた赦しなのです。ひとり子の十字架上での苦しみと死という代価を払って与えられた祝福なのです。私たちの罪を赦すためにイエスさまが死んで下さったのです。それほど、私たちの罪は重いのです。このことをしっかりと心に留めたいと思います。
 しかし、それでも確かに新しい時が始まったのです。老預言者シメオンは幼子イエスさまに出会ったとき「ヌンク・ディミティス」を声高らかに歌いました。「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです」と。待望の時が終わって、完成の時が始まったのです。
 その完成の時の始まりこそ、「教会の時の始まり」なのです。イエスさまは、このイエスさまの十字架の苦しみと死によって贖われた罪の赦しを地の果てまでも、すべての人々に告げなさいと弟子たちに命じられます(使徒言行録1:8)。この復活のイエスさまの命令に従って歩み出したのが教会なのです。この教会の働きは、「イエスさまの活動の第二期」なのです。
 ところが、イエスさまは弟子たちに「教会を造りなさい」とはおっしゃっていません。「待っていなさい」あるいは「とどまっていなさい」とおっしゃっているのです。弟子たちは、教会設立のための仕事は何もしませんでした。イエスさまの言葉を守ってひたすら祈っていたのです。
 ある意味では当然の態度です。私たちは、12弟子を始め、弟子たちがどんな人物か知っています。いつもイエスさまと弟子たちの間には大きなずれがありました。イエスさまは弟子たちの無理解に天を仰がれたこともしばしばでした。彼らは、私たちと同じような貧相な信仰しか持ち合わせていませんでした。祈りの言葉も満足に言えないほどでした。人々に語るにはあまりにもみすぼらしい貧しい言葉しか知りませんでした。意志が弱く、殉教どころか、すぐにイエスさまを裏切るような卑怯な罪人の群れでした。どうして、イエスさまは、このような弟子たちに完成の時をお任せになったのでしょうか。とても、彼らはそのような任務に耐えることはできません。
 イエスさまは、弟子たちの罪、弱さ、頼りなさをよくご存じでした。イエスさまは手放しでお任せになったのではありません。「父が約束されたもの」、それは神さまの力です。聖霊です。「君たちの才能、努力、信仰、意志に頼ってはいけない、神さまの力が与えられるから、その力に頼って生きて行きなさい。その時、人知をはるかに超える働きが生まれる。その時まで待っていなさい」とおっしゃっているのです。これは、言葉を換えて言えば、弟子たちに対する罪の赦しの宣言であり、死すべき身体からの復活です。
 ここにルターの祈りがあります。「私はあなたのみもとに行くことは出来ない。それゆえにわが神よ、あなたが立って私のところに来て下さい。私をあなたのもとに連れて行って下さい。」ルターは罪人である自分をいつも自覚していたのです。あるいは使徒パウロはこう言っています。「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれる値打ちのないものです」(コリント一15:9)。「私は罪人の中で最たる者です」(テモテ一1:15)。パウロもルターも自分たちの信仰、雄弁などには決して頼らなかったのです。パウロは最初の宣教旅行から帰って来たとき、報告会の席上で「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の道を開いてくださったことを報告した」(使徒言行録14章27節)と報告しています。神さまがなさったことであり、パウロの業ではなかったと言うのです。
 私たちは、ここでパウロやルターの謙そんを学ぶべきでしょうか。そうではありません。自分を見るならば、私たちも、あの弟子たちや、パウロ、ルターと同じように、「罪人の頭であるこの私なんか」とため息をつきたくなります。しかし、確かにイエスさまはこの私たちを、津田沼教会をイエスさまの愛を宣べ伝える証人として用いようとしてくださっているのです。ここに今日、聞くべき福音があります。主が共にいて私を用いてくださることを信じるとき、力が与えられるのです。罪の赦しの祝福は、まず罪人の群れである弟子たちから始まったのです!そして今私たちにまで及んでいるのです。このことを感謝しましょう。そして、聖霊の力を待ち望みつつ、主に用いられる光栄を喜びつつ、罪の赦しの証人として、主に祝福された世界に生きる喜びを、思いと言葉と、行いによって人々に伝えようではありませんか。

2010/05/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私が与える平安」(ヨハネ14:23~29)
ヨハネ14:23-29、2010・05・09、復活後第5主日(典礼色―白―)
使徒言行録14:8-18、ヨハネの黙示録21:22-27

ヨハネによる福音書14:23~29
 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。



説教「私が与える平安」(ヨハネ14:23~29)
 
私たちは、復活節を祝ってきましたが、本日は復活後第5主日であり、来週は、昇天主日、そして再来週は、聖霊降臨祭(ペンテコステ)となります。特に復活後の主日としては、本日が最後になります。先週に引き続いて、復活後第5主日に与えられている福音も、ヨハネ福音書14:23-29であり、主イエスが、十字架の死に向かう前に、弟子たちに語った告別説教、告別講話と言われる部分の1節であります。
イスカリオテでない方のユダが、「先生、私たちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、何故ですか」と質問したのに対して、それに答える形で語られた言葉が、本日の福音の記事であります。
イエスはそれに答えさせられて言われます。「だれかが、私を愛するならば、その人は私の言葉を守るであろう。そして、私の父も、彼を愛するであろう」と言われ、そして、「彼に向かって私たちはやって来るであろう、そして、私たちは彼の所に滞在するであろう」と言われるのであります。「私を愛さない者は、私の言葉どもも守らないのである。そして、あなたがたが、聞いている言葉は、私のものではなく、私を遣わした父のものである。これらのことどもを、あなたがたのところにとどまっている時に、私はあなたがたに語った」と言われます。
本日の祈りにも、「すべての良きものの源である神さま。あなたの聖なる息吹を与えて、正しいことを考え、それを実行できるように導いてください」とあります。私たちは、主イエスのみ言葉を聞いて、何が正しいかを知ることができ、聖なる息吹によって、それを実行し、守ることができるようになるのであります。それが、聖霊の一つの働きであります。
で、しかし、弁護者、パラクレートス、助け主、仲介者、とりなし手、あるいは、カウンセラーとも訳せる聖霊が、「それは、父が私の名において送るであろう方だが、その方があなたがたに対してすべてのことを教えられ、あなたがたに私が語ったすべてのことどもを思い起こさせるであろう」と言われます。聖霊は、ニケア信条にもありますように父と子から、送られるものであります。聖霊は、主イエスの語った言葉を、後に私たちがそのすべてのことどもを分かるようにしてくださる方であります。
また、私たちが、主日に教会に集い、み言葉を聞くのも、聖霊が、真実の霊、パラクレートスが、導いて下さっているのであります。
そして、主は言われます。「平和を私はあなたがたに残す、私の平和、平安をあなたがたに与える」と言われるのであります。主は、この遺言ともいえる講話において、私たちに平安を残していくと言われるのであります。このあと、主はユダに裏切られ、十字架の死に追いやられ、弟子たちは、主イエスを奪われて、平安どころではない混乱と絶望の中に追いやられるのでありますが、主はこの世が与えるような平安ではなくて、困窮のどん底に追いやられるのですが、主は、その後に、聖霊の働きを通して「私の平安」をあなたがたに残すと言われるのであります。この世は、いかなる権力も、知恵もそのような平和を与えることが出来ません。当時の、力による「ローマの平和」も、主イエスの与える平和を与えることはできないのであります。
主は、遺言のように、この言葉を残し、「心を揺り動かされるな、臆病な心にさせられるな」と勧められます。私たちが、毎週主の日に集まるのは、この世が与えることのできないキリストの平和に与るためであります。1週間、1週間を振り返りましても、私たちには戦いがあり、試練があります。
しかし、主の十字架と復活、そして、主が父の所に出発し、また、私たちのもとに帰還する、そして、父も、主イエスを愛する者のところに来て、神とみ子なるイエスは、私たちの内に内住すると言われるのであります。「私があなたがたといるときに、あなたがたに言った言葉をあなたがたは聞いた。すなわち、私は出発しまた、あなたがたのところにやって来る。もしあなたが、私を愛してきたのなら、私が父に向かって出発することを喜んだはずである。なぜなら、父は私よりも偉大な方であるからだ」と、主は謙遜し、父に屈従して言われます。そして、「今、その事が起こる前に、私はあなたがたに対して言った、それは、それが起こったときにあなたがたが信じるためである」と。
私たちがの益となるために、主イエスは、私たちのもとから出発し、また、戻って来られるのであります。主イエスが、十字架の上に上げられ、また、天の父のもとに出発なさることは、私たちの救いのためになくてはならない神のご計画であり、ご意志であったのであります。復活節のこの時期を喜びながら、感謝してこの1週間も過ごしていきたいと思います。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。



2010/05/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスの栄光と出発」(ヨハネ13:31~35)
ヨハネ13:31-35、2010・05・02、復活後第4主日(典礼色―白―)
使徒言行録13:44-52、ヨハネの黙示録21:1-5

ヨハネによる福音書13:31~35
 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」



説教「主イエスの栄光と出発」(ヨハネ13:31~35)
復活後第4主日を迎えました。本日は、告別説教と言われる部分の最初の記事が与えられています。ヨハネ福音書の13章31節から、35節までの短い部分であります。「彼が出て行くと、主イエスはお語りになる」と本日の記事は始まっています。彼とは、イスカリオテのユダのことであります。主イエスが弟子たちの足を洗うという出来事の後のことであります。
主は言われました。「今や、人の子は栄光を受けた、そして、御神も彼において、すなわち、人の子において、栄光をお受けになった。もし、神が彼において栄光を受けたのなら、御神も彼に対して、すなわち人の子に対して、御自分において、栄光を与えるであろう、そしてすぐにも、彼に対して栄光を与えるであろう」とまず、言われるのであります。ユダに裏切られ、敵対者たちの手に渡され、十字架につけられて死ぬことを、主イエスは、栄光を受けること、また、それは、父なる神が栄光を受けることでもあると断言なさるのであります。
普通に考えれば、死に渡されることは、むしろ敗北であり、すべての望みの終りでありましょう。しかし、主は、十字架に上げられることを、栄光を受けることだと言われ、また、御神も、それによって、栄光を受けることであり、それによって、父なる神と子なるイエスは、お互いに栄光を与えることになるというのであります。
主は、自分の死のあとに残される弟子たちに、約束、あるいは遺言とも言うべき言葉を与えられるのであります。
「小さい子たちよ、なおほんの少し、私はあなたがたと共にいる。そして、ユダヤ人たちに言っていた通り、あなたがたにも言っておく。私が出て行く、出発していくところに、あなたがたはやって来ることができないと、今は語っておく」と。
主の出て行く所、出発していく所に、弟子たちは今は行くことができないのであります。主は、十字架の死から復活し、父のもとに出発していくのであります。
しかし、ここで、主は新しい掟、古くて新しい教え、勧告を与えると言われます。それはすなわち、「あなたがたが、お互いに愛することであり、ちょうど、私があなたがたを愛したように、あなたがたもお互いに愛することである」と言われるのであります。主イエスは、本日のみ言葉の前で、弟子たちの足を洗っておられます。それが、かつてなかった新しい掟であります。旧約のレビ記には、「あなたは、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とあります。しかし、ここでは主は、「私があなたがたを愛したように、お互いに愛し合いなさい」と新しい掟を与えられるのであります。聖霊降臨後に生まれる教会、すなわち新しい共同体のメンバーが迫害の中にあっても、お互いに愛するということであります。
弱点や欠点をもっている私たちが、主イエスが愛して下さったように、愛し合うのであります。そして主はさらに言われます。「このことにおいて、すべての人たちは、あなたがたが私の弟子であることを認識するであろう、もし愛をあなたがたがお互いにおいて持っているならば」と。
それから、およそ2000年たった私たちの教会においても、私たちが、主イエスに倣って、足を洗い合い、お互いにおいて愛をもっているなら、私たちの身内も、あるいは、私たちの信仰に反対する人たちでも、皆が、主イエスの弟子たちであることを、認めざるを得ないであろう、そして、教会は広がっていくであろうと主は、約束なさるのであります。
私たちは、主イエスのごとく、完全な者ではなく、なかなか、相手を心から尊敬し合えず、妬んだり、かろんじたりする弱い存在であります。しかし、主が父のもとに向かって出発し、また、み子と御父が、相互において栄光を与える、十字架の出来事と復活を通して、何よりもお互いに愛し合う関係になることを、主は命じられており、かつてなかった新しい掟として、御自分が身をもって示された相互愛の教えを与えられているのであります。
主の復活において与えられるこの喜びを、私たちは守るべき新しい掟として受け入れ、赦しあい、助けあって生きていきましょう。

私たちの内に働くみ力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


2010/05/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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