津田沼教会 牧師のメッセージ
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「死から命へ」(ヨハネ10:22~30)
ヨハネ10:22-30、2010・04・25、復活後第3主日(典礼色―白―)
使徒言行録13:26-39、ヨハネの黙示録7:9-17

ヨハネによる福音書10:22~30
 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」


説教「死から命へ」(ヨハネ10:22~30)

本日の主日の祈りに、「あなたは、暗闇を歩む者を、真理の光で照らして、正しい道へ導かれます。教会の交わりに召されたすべての者に、信仰に反することは固く拒み、信仰が求めることを行う勇気と力を与えてください」とありました。信仰に反することは、死であり闇であり、信仰が求めることは命であり、光への道でありましょう。
私たちは、本日の復活後第3主日から、復活後第5主日まで、三回にわたって、ヨハネ福音書から、福音が与えられています。
本日の記事は、ヨハネ10:22-30であります。ここの記事が、復活節になぜふさわしいのか、なぜ、選ばれているのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 今日の記事はこう始まっています。「その時、エルサレムにおいて神殿再奉献祭が起こった、それは、冬であった」、と。イスラエルの国では、先の雨と後の雨と、二度の雨季があります。悪い天候の時期であります。それは、主イエスのやがて来る受難と十字架の死を暗示するものであったでありましょう。
神殿再奉献祭とは、紀元前175年ころ、ユダ・マカバイがエルサレム神殿を奪回して、偶像崇拝に染まっていた神殿を清め、それを記念するために守られるようになった、12月中旬頃から始まる祭りでありました。
 ヨハネ福音書の本日の記事の前後は、秋の仮庵祭(スコトの祭り)と、春の過越しの祭りの出来事となっており、その間の出来事として、本日の記事が書かれているのであります。
 「主イエスは、神殿の境内において、ソロモンの柱廊、屋根つきのポーチコを歩き回っておられた」とあります。すると、ユダヤ人たちが、すなわち、ユダヤ人の指導者たちが、やって来て彼を取り囲んで、質問していたのであります。「いつまであなたは、私たちの魂を宙ぶらりんにしておくのか、あなたが、メシアなら、腹蔵なく、明確に言いなさい」と。
 主は、お答えになります。「私は、言った、そして、あなたがたは信じ委ねない。私の羊ではないからである。羊は、私の声を聞き分ける。私も彼らを認識する。そして、彼らは、私に従って来る」と。
私たちは、主イエスの声を聞き分ける、主イエスの羊として、召された者であります。信仰に反することを固く拒み、信仰に適った道を歩む者とされているのであります。私たちは、死から命へ、闇から光のうちを歩む者に、主イエスの十字架の死と復活を通して、導きいれられている者であります。
 しかし、この記事を書いた福音書記者の時代にも、紀元後100年ころのことであったでしょうか、ユダヤ教の指導者たちは、主イエスをメシアだとは理解することができなかったのであります。
 現代の多くの指導者たちも、主イエスこそ、メシアであり、神の子であることを認めないのであります。
 主は、「私の父の名において私がしている業どもが、私について証言している」と言われ、また、「私は私の羊ども、彼らに永遠の命を与える、そして、彼らは永遠に滅びず、だれも、私の手から彼らを引き離し、ひったくることはないであろう」と言われました。
 そして、「私の父、彼が私に与えて下さったものは、すべてのものどもよりも、大きい、そして、だれも、御父の手から、それらを引き離し、ひったくることはできない」とおっしゃるのであります。「私の御父は、それらを私に与えて下さった方ですべての者たちよりも偉大である」との異読、写本もありますが、新共同訳聖書にのっとって、私の父がそれらを与えて下さった、それらは、すべてのものよりも大きいと読み取っても、間違いではないでありましょう。
 主イエスは、「私の父が私に与えて下さったものは、すべてのことどもよりも、偉大であり、だれも御父の手から引き離すことはできない」と言われ、そして、最後に、「私と父は一つである」と言われるのであります。
 私たちは、父なる神が派遣して下さった主イエスの十字架の死と復活を通して、永遠の命を与えられているのであります。
 そして、死から命へ、罪の闇から、生命の光へと教会の交わりに召しいれられた一人一人であります。
 人間にとって、死は大きな打撃であり、すべての希望をうちひしぐ存在であります。しかし、主イエスは、良き羊飼いとして、御自分の命を羊たちのために、差し出されたのであります。私たちは、主のみ声を聞き分け、偽りの道を固く拒んで、主イエスにどこまでも、従って行く羊の群れとして、先に導きいれられた者であります。
 ユダヤ人たちは、主イエスが、自分を神と同等としたと非難して、石で打ち殺そうとしました。私たちは、主イエスと父なる神が一つであることを知らされている者であります。
 国民の99パーセントが、ノンクリスチャンである現代の日本において、主イエスの声を聞き分け、歩んで行くことは、非常な忍耐と努力を必要とします。
 しかし、主は、私の父が与えてくれたものは、すべてのものよりも大きく、父の手からそれを、だれも引き離すことはできないと約束してくださっています。
 復活節は、私たちが、死から命へと、新しく移された喜びの時であります。この父が与えて下さった喜びから、だれも、また、死を含めて何ものも、私たちを引き離すものはないと、主は受難の前に、宣言しておられたのであります。
 自分の無力と弱さに、しばしば、絶望する者でありますが、主が良き羊飼いとして、私たちを導いてくださり、その死を通して、私たちを不信仰から、信仰の道へと招き入れてくださった。それが、復活の出来事の意味であります。私たちは今もなお、聖書を通して語る主イエスのみ声に聞き従い、聞き分けて、主に従った羊たちの群れ、教会の交わりに与っていきましょう。
 天の父なる神さま。
私たちは、今、復活の主を喜び祝っています。私たちの罪、とがをみ子の十字架の死によってあなたは、取り除いてくださいました。そして、あなたは、罪に悩み、しばしば、行き詰まる私たちを、すべてにまさって大きく、尊いものだと励ましてくださいます。
どうか、私たちが、強められて、この檻、この教会の他にもいる羊たちを、一人でも多く、呼び集める働きへと召してください。そして、いつも、羊飼いなる主イエスのみ声を聞き分けることができますように、導いて下さい。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
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2010/04/25(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「破れた弟子たちの真ん中に」(ルカ24:36~43)
ルカ24:36-43、2010・04・18、復活後第2主日(典礼色―白―)
使徒言行録9:1-20、ヨハネの黙示録5:11-14

ルカによる福音書24:36~43
 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。


説教「破れた弟子たちの真ん中に」(ルカ24:36~43) 
 
先週の福音ルカ24:13-35は、どちらかと言えば、精神的な意味での復活の主イエスの出現でありました。エマオ途上での主イエスの同行、そして、エマオの家での食事の時の所作を通して、それが復活の主であることが、二人の弟子に分かり、二人は即刻、エルサレムの弟子たちのもとに、引き返し、すると、エルサレムにいた弟子たちも、シモンに主が現れたといい、そしてエマオから戻った二人も主の復活を説明していたのであります。  
今日の部分は、それに続く部分であります。それらのことを彼らがしゃべっているとき、主が彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」とお語りになるのであります。
彼らは、三日前の主の十字架刑の死において、絶望に捕らわれていたでありましょう。彼らの望みは、無残にも、消えうせ、彼らは、破れた人生に立たされていたでありましょう。主を裏切ったという思い、そして、自分たちも死の危険におびえ、希望をどこにも見いだせないでいたでありましょう。
しかし、その彼らの真中に、主は現れ、立たれて、「あなたがたに平和が」と言われるのであります。この平和は、「エイレネ」とギリシャ語で言われますが、ヘブライ語では「シャローム」と言います。しかしこれは、ここでは単なる挨拶にとどまらず、健全な健やかな状態にあなたがたがあるように、との主の慰めと励ましの言葉であります。
私たちも、しばしば、復活された、勝利者、主イエスを忘れて、日常生活の中で、闇と死にまみれた破れた自分を見出すのであります。しかし、そのような中にこそ、復活の主は、今日も我々に現れてくださる、そして、共に苦しみを担い、一緒に生きてくださるのであります。主は、弟子たちが、おびえ、霊だと恐れる者になっているときに、「私である、霊には肉も骨もないが、私にはあなたがたが見ているように、それがある」と示されるのであります。にもかかわらず、弟子たちは、霊を見ていると思っていたのであります。
今日の記事では、弟子たちの語る言葉は、何一つでてきません。一方的に、主がお語りになるのであります。主は、「私に触ってみなさい、そして、私の十字架にかかった手と足を御覧なさい」と言われるのであります。「まさしく、私である」と、両手、両足をお見せになるのであります。けれども、弟子たちは信じることができず、疑いのなかにとどまっているのであります。「なぜ、あなたがたは、揺さぶられているのか、何のゆえにあなたがたの心に、疑いどもが、上って来るのか」と問われます。最初に述べましたように、先週のエマオ物語においては、むしろ、精神的な主の復活に強調点がおかれていましたが、本日の復活の主は、身体的な特徴を示しています。復活は、霊的なものではなく、私たちの地上の体ではありませんが、身体をもって肉体をもって、弟子たちに現れるのであります。そして、「私の両手と両足を見なさい」と言って、主は指し示すのであります。
彼らは、なお、喜びから信じられないで、不思議がっていると、主は、「何か食べる物をあなたがたは持っているか」とお問いになります。彼らが食事の残りものであったであろう魚の焼いたのの一部を渡します。すると、主は受け取って、彼らの前でそれをむしゃむしゃとお食べになったのであります。
主は、破れ切った弟子たちの真ん中にその体をもって現れてくださいました。私たちも、疑い深く、信じにくい弱い者でありますが、主は、今も聖書を通して、破れ切った私たちの日常生活の真ん中に共に立って下さいます。自分の欠点や弱さに耐えがたくなりがちですが、復活の主が今もそんな私たちと共にいてくださることを、信じて、もう一度、本日から、新しい生き方を始めようではありませんか。アーメン。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。


2010/04/18(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「エマオ物語」(ルカ24:13~35)
ルカ24:13-35、2010・04・11、復活後第1主日(典礼色―白―)
使徒言行録5:12-32、ヨハネの黙示録

ルカによる福音書24:13~35
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたというのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」、そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。



説教「エマオ物語」(ルカ24:13~35)
 
本日から、復活後の主日が始まり、主が復活後40日間、弟子たちに現れたと使徒言行録で記されているように、復活祭から40日間ほど、復活節が続きます。そして、昇天主日となり、その次の週が聖霊降臨祭、ペンテコステとなります。
復活後の、そして特に聖霊降臨後の弟子たちの生き変わったような目覚ましい活動を示すためでしょうか、これからの復活節は昇天主日まで、旧約聖書ではなくて使徒言行録が、第一の朗読として、与えられています。
さて、本日、復活後第1主日に与えられている福音は、ルカ24:13-35であります。本日の説教題を「エマオ物語」と付けておきました。み言葉の歌、ガリラヤの風かおる丘ででも、歌われている美しい伝説的な記事であります。ルカの手による編集があることは確かでありましょう。
しかし、それによって、本日の出来事の歴史性がうすいということではないでありましょう。ルカ福音書では、エルサレムにおいて、また、エマオへの途上とエマオにおいて、主はご復活の姿を現わします。他の福音書では、ガリラヤで姿を現す記事もでてきます。 
ルカ福音書では、エルサレムの神殿で福音書が始まっており、また、エルサレム神殿で弟子たちが神をほめたたえるという記事で福音書が終わっています。
復活の主は、一定の場所にとどめられて、姿を現すのではなく、また、使徒言行録によれば、40日間弟子たちに現れます。共通していることは、弟子たちは、復活の主にであっても、最初は、分からず、信じれず、疑ったということであります。主の復活という出来事は、弟子たちにとっても容易に信じることはできなかった出来事なのであります。
本日の記事は、4つの部分に、分けて考えることができます。24:13-24と24:25-27と24:28-32と24:33-35に分けられます。
最初の記事は、エマオ途上での主イエスの出現であります。「そして、見よ、二人の人が、会話をやりとりしながら、議論をしながら、エマオというエルサレムから60スタディオン離れた村に向かっていた」と始まります。すると、見知らぬ人が後ろから追い付いて来て、彼らに加わり、一緒に進み始めます。それは、復活した主イエスでしたが、彼らの眼からは遮られていて彼らには主であることが分かりませんでした。
そして、「あなたたちがやり取りしている話は何のことですか」とその人は尋ねます。暗い顔になって、彼らは立ち止り、クレオパという一人の弟子が語ります。「あなただけが、エルサレムに滞在していて、ここ数日に起こったことを知らなかったのですか」と言い、その人が「何のことどもですか」、と言われると、「ナザレのイエスのことです、彼は、神とすべての民との前で言葉にも行いにも力ある預言者の人となりました。彼こそ、イスラエルを贖ってくださる方と期待していましたのに、祭司長たちと民の議員たちは、彼に死の判決をもたらし、十字架にかけて殺してしまったのです。それから、もう三日になりますが、ある仲間の婦人たちが、墓へ朝早く行くと、天使たちの幻を見て、あの方は生き返ったと言ったというのです。弟子たちのある者たちも墓へと行って見ましたが、彼女たちの言うとおりに見出して帰って来たのです」と言うのです。
主イエスの弟子たちは、当時のメシア像であったイエスがローマ帝国の圧政から解放してくれる政治的なメシアになることを期待していて、主が全人類の罪を贖うメシアとなることをまだ、理解できないでいたのです。
第2の部分は、主イエスの応答です。「ああ、愚かな者たちよ。心の鈍い者たちよ、メシアは苦しみを受け、彼の栄光に入ることに決まっていたではないか」と、言われ、モーセから始めて、預言者たちの語ったことを、聖書、旧約聖書を解釈して教えておられたのであります。
 第3は、エマオでの出来事であります。エマオが近づいても、なお先にこうとする主イエスを二人は、強いてとどめようとします。「もう夕方になるし、だいぶ日も傾きました、私たちのうちにとどまりください」と懇願すると、主は、とどまるために、中へ入られます。そして、食卓の席に着くと、神をほめたたえ、パンを取り、感謝してこれを裂き、二人に渡されます。その時、彼らは、主だと分かったのです。それで、その時に、彼らは立ち上がり、エルサレムへ引き返したのであります。
 そして、第4は、エルサレムに帰ってみると、11人と他の弟子たちも集められていて、彼らは主がシモンに現れたと言っていました。それで、彼ら二人も、彼らに彼の道においてのことどもや、パンを裂いてくださったときに、彼が彼らに認識されたことを説明していたとあり、この記事は次週のこのすぐあとの部分に続くのであります。他の弟子たちは、これによっても、まだ信じることができないのであります。
 私たちも、主の復活が信じられない不思議なことに思われます。しかし、主は、福音書を中心として何度も復活の姿を現わし、私たちが、主の復活の喜びにおいて、すべての言葉と行いにおいて復活の力をのべつたえる者となるように今も招いて下さっているのであります。

人知では到底はかりしることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたを守るように。アーメン。


2010/04/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「墓へ走るペトロ」(ヨハネ20:1~18)
ヨハネ20:1-18、2010・04・04、復活祭(典礼色―白―聖餐式)
出エジプト記15:1-11、コリントの信徒への手紙一15:21-28

ヨハネ20:1~18
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこにおかれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。



説教「墓へ急ぐペトロ」(ヨハネ20:1~18)
 皆さん、復活祭、イースター、おめでとうございます。本日の主日の祈りにも「御独り子イエスによって、死を征服し、永遠の生命の門を開かれた全能の神さま。」と祈られていました。私たちにとって、死は避けることのできない、すべての人に与えられている定めであります。しかも、聖書は、罪の結果が死であるとも教えています。しかし、その死を征服し、破られたのが、全能の神であり、旧約聖書もそのことを預言していると私たちは教えられています。
さて、本日与えられています福音は、ヨハネ福音書20:1-18であります。これは、20:1-10と20:11-18とに分けられます。前半では、マグダラのアリアが、朝早く、まだ闇の蔽ううちに、彼女は墓へとやって来ます。ところが、墓の入り口をふさいでいた大きな石は取りのけられていたのであります。
彼女は、大急ぎで、駆けて、シモン・ペトロともう一人の、主イエスが愛された弟子の所に行って、言います。「彼らが主の体、遺体を運んで行ってしまいました。彼らが彼をどこに置いたのか、私たちは知りません」と。それで、ペトロは、出ていき、墓に向かって走りました。もう一人の弟子も、一緒に走り、彼の方が先になり、墓につきます。そして、墓の中をのぞきますと、主の遺体を巻いていた亜麻布が置いてあるのを見出します。しかし、彼は中へは入りませんでした。
すると、続いて、ペトロも追い付いて墓へとやって来ました。ペトロは、主の受難のとき、「主を知らない」と三度も否定しましたが、墓までどのような気持ちで走り、やって来ていたのでしょうか。ペトロは、着くと、墓の中に入ります。
そして、体を包んでいた亜麻布と、また、離れた所に、ナプキンのような顔おおいが、たたんで置いてあるのを見ます。もう一人の弟子も続いて墓の中へやって来て、「見て、信じた」とあります。そして、彼らは、聖書が、彼は起き上がる、復活することになると約束していたことを理解しないでいたのであると記者は記しています。そして、彼らは、彼らのところに向かって帰っていったのであります。
そして、後半の20:11-18の部分となります。マグダラのマリアは、ペトロたちを追って、墓まで来ていたのでしょう。彼女は、遺体が見つからないので泣いていました。そして、墓の中をのぞくと、主イエスの遺体のあった頭のほうと足のほうに、天使が二人座っているのを見出すのであります。
彼らは訊きます。「どうして、泣いているのか」と。マリアは、「だれかが彼をもって行った。そしてどこに、彼らが持って行ったのか、私は知りません」、と言います。そして、その時ぐるっと、後の方を向きなおすと、主イエスが立っているのを見ますが、それが主だとは分かりませんでした。主は、言われます。「なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか。」
マリアは、彼が園丁だと思って言います。「もしあなたが、彼を運んだのなら、言ってください。私が引き取りますから」と。すると、主は、「マリアムよ」、と呼びかけます。マリアは、「ラブーニ」、すなわち私の先生とヘブライ語で答えました。
すると、主は言われます。「私に触れてはならない。私はまだ、父のもとにのぼっていないのだから」と。そして、言われます。「私の兄弟たちのところへ行って言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父であり、私の神であり、あなたがたの神に向かって私はのぼる』と。」
マリアは、ペトロたちのところに行って言います。「私は主を見ました」と。そして、あれらのことを、彼は彼女に語ったと告げたのであります。主イエスは、父のもとから下って来られ、死んで復活させられ、また、父のもとに上昇していかれることになっていたのであります。私たちは、受難週の間に、主の受難を思い起こし、洗足礼拝や受苦日の礼拝を、少人数でもちましたが、本日、主は、本日の福音を通して、自分の兄弟たち、弟子たちに、復活の出現を知らせました。私たちは、今も、この復活された主によって、聖霊の息吹を与えられ、すべての行いと思いをもって、新しい人間にされているのであります。
死の悲しみは、主イエスの復活によって、打ち破られているのであります。本日の福音の記事を通して、新しくされ、私たちは、ここから、新たに、再び、日常の生活に戻って行きましょう。アーメン。
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2010/04/04(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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