津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神の訪れの時」(ルカ19:28~48)
ルカ19:28-40、2009・11・29、待降節第一主日(典礼色―紫―)
エレミヤ書33:14-16、テサロニケの信徒への手紙二3:6-13

ルカによる福音書19:28~40
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。
 天には平和、
 いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。」



説教「神の訪れの時」(ルカ19:28~48)

本日から、受難週に入ります。一年の教会暦の始まりのとき、アドベント第1主日にここの個所が読まれました。それは、再臨の主としての主イエスのエルサレム入城でありました。本日は、これから間もなく十字架につく受難の主として、この個所が選ばれているのであります。
そして、教会暦の昨年11月末から始まりました新年度は、ルカによる福音書が主たる福音書として与えられています。そして、この一年の教会暦の初めに、与えられていました福音は、エルサレム入城と言われる部分でありました。ルカ19:28-40が与えられていました。毎年教会暦の始めに、共観福音書と呼ばれますマタイ、マルコ、そして、ルカの福音書の中から、この出来事が読まれます。ヨハネによる福音書にも、それにあたる記事があります。非常に大切な出来事として、4つの福音書に記されており、アドベントの第1主日と、本日、復活祭前の枝の主日、受難週の初めの主日にもここが、再び読まれるのであります。ただし、少し長くなってルカ19:28-48が与えられています。ルーテル教会では、ことのほか、このエルサレム入城と呼ばれている出来事が、大切にされ、一年に二度も読まれるのであります。
本日の主日の祈りでは、「あなたはみ子イエス・キリストを世に送り、十字架の死に渡されました。み子と共に、私たちがその従順と復活の勝利に与る喜びを与えてください」と祈りました。一人の人が死ぬということは大変なことであります。ましてや、主イエスは、神の独り子でありながら、私たちの罪のために、十字架の死につけられるのであります。私たちは肉親を失ったとき、大きな打撃を受け、悲しみに染まりますが、しかし、「私の罪のために、死んで下さった」と言えるのは、主イエスのみであります。
ルカ福音書は、他の福音書、特に、マタイ、マルコと比較してみますと、微妙に、付加、あるいは省略されています。本日のルカ19:28-48について、内容をご一緒にしばらく考えてみましょう。
そして、これらのことを言われた後に、彼は、先頭に立って、エルサレムへと上りながら、進んでおられたと、本日の記事は始まっています。本日の記事の直前には、主はムナの譬えで話されたのであります。彼が王として帰って来ることを欲しなかった国民が、主イエスが王として来られるのを拒んだエルサレムの指導者たちを表しているのであります。
この譬え話をなさったあと、本日の個所へと続き、主は、エルサレムへと上られ、先頭に立って進んで行かれるのであります。この「進む」という言葉は、死に向かって進むという意味も含んでいる「ポーレウオー」という単語であります。
そして、起こったことには、主は、ベトファゲへと、そして、ベタニアへと、オリーブの園と呼ばれる山に向かって、近づいたとき、こうお語りになりながら、弟子のうちの二人を遣わしたのであります。「向こうの村へ出て行きなさい。そうすると、まだだれも乗ったことのない子ろばがつながれているのを、あなたがたは見出すであろう。それを解いて、連れて来なさい。もし誰かがあなたがたに尋ねたとする。すなわち、『何であなたがたは、解くのか』と。そのときには、あなたがたはこのように言いなさい。『彼の主が、必要を持っている』と。」
そして、彼らが出ていくと、ちょうど彼が彼らに言われた通りに彼らは見出した。彼らがその子ろばを解いていると、その主人たちが、「何であなたがたはほどくのか」と彼らに向かって言います。彼らは言います。「彼の主が必要を持っているのです」と。そして彼らは、それを引いて、イエスに向かって連れてきます。そして、彼らの上着をその上に広げ、彼らはかのイエスをおのせしたのです。彼が進んで行かれるとき、人々はその道に彼らの服を敷いたのであります。そして、既に彼が、オリーブ山の下り坂に向かって、近づいたとき、大勢の弟子たちはこぞって、喜びながら、彼らが見た彼の力ある業・奇跡のことで大声で、神をほめたたえ始めたのであります。彼らはこう語りました。「来られている方は祝福されますように、主の名における王は。天には平和が、また、栄光がいと高き所にあるように」と。主イエスがクリスマスに、ルカ2章でお生まれになったときは、「地には平和が、いと高きところでは栄光が」と天使たちは歌いましたが、ここでは、「天において平和」がと弟子たちは語るのであります。主はこの世界へと、エルサレムへと拒まれる王として入城なさるのであります。そして、天に帰られるのであります。群衆の中から、ファリサイ派の者たちが、彼に向って言います。「先生、あなたの弟子たちを咎めてください」と。すると、主は言われました。「この者たちが黙れば、石どもが叫び出すであろう」と。主イエスがエルサレムに入城するということは、神の栄光を表す出来事であり、被造物の石も応答するのであります。
そして、主は、エルサレムが見えてくると、泣きながら、言われるのであります。お前が神の良き訪れの時を知っていたならなあ、しかし、今はお前においては、お前の目からは、平和のことは隠されている。そして、主は、エルサレムの崩壊を預言した後、エルサレムへと入り、宮清めをなさり、商人達を神殿の境内から追い払われるのであります。そして、祭司長たち、律法学者たち、民の長たちは、主イエスを何とか殺そうと狙いますが、果たせませんでした。民衆が彼に耳を傾けるのにしがみついていたからだと本日の記事は終わっています。主は栄光の王として軍馬に乗って、お出でになられたのではなく、エルサレムの指導者たちによって、拒まれる王として、お出でになられたのであります。しかし、以前には、主イエスのメシアとしての本質は、隠され、明らかにされることを禁じられていましたが、ここでは、主は、人間どもによって、拒まれる王として、今や御自身を明らかにされているのであります。
 本日から始まります受難週は、「神の良き訪れの時」であります。
私たちは、主の十字架への道行の40日間、あるいは46日間を歩んでいますが、その間にも、誘惑に負けたり、心と思いと行いとによって、主なる神のみ前に罪を犯さざるを得ない、自己中心の弱い存在であることを改めて思い知らされながら、歩んで来ました。そして、今日から、エルサレムでの主イエスの受難の死と、その三日後のご復活を迎えようとしています。
死は、私たちにとって恐ろしいものですが、主イエスが、私たちのために死に、しかも、十字架の死におつきになって下さいます。それは、一見悲しい出来事ですが、私たち人間にとっては、「神の良き訪れ」の時であります。来週の復活祭には、洗礼をうける方も、転入をなさる方もいます。この1週間、主イエスを仰ぎながら、主の受難にを心留めて、歩んでいきましょう。
父なる神さま。
2月17日の灰の水曜日からの四旬節も終わりに近づこうとしています。その間にも、もろもろの罪を犯さざるを得なかった私たちですが、その私たちのために、主がおいでになられました。そして、わたしどものために、十字架の死においてみ子の命をたまわりますことを、心から感謝します。どうか、喜びをもって、来週の復活祭を祝うことができる
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2010/03/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「復活を待ち望みつつ」(フィリピ3:5~11)内海望牧師
ルカ20:9-19、2010・03・21、四旬節第5主日(典礼色―紫―)
イザヤ書43:16-28、フィリピの信徒への手紙3:5-11

フィリピの信徒への手紙3:5~11
 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。


説教「復活を待ち望みつつ」(フィリピ3:5~11)内海望牧師

 今日は、第二の日課である「フィリピの信徒への手紙」を通して、み言葉を聞きたいと思います。牢獄に繋がれているパウロは、愛するフィリピの教会の状態に心を痛めております。それは、律法主義の侵入です。律法は、神さまが与えて下さったものですから大切なものです。しかし、律法主義者とは、「自分は律法を守っているから、守らない人より神さまに近い」と自分を誇る人々のことを言います。神さまの恵みに頼らないで、自分の業に頼って天国に行こうとしているのです。
 割礼問題から発して、そのような律法主義者がフィリピの教会を荒らしているのです。牢獄にあって、このことを聞いたパウロは何とかフィリピの教会を立ち直らせようとして、この手紙を書いたのです。
 パウロは、ここで、イエス・キリストに出会う前の自分の生き方を語り始めます。律法主義的な見方からすれば、その時のパウロの生き方は紛れもなく「非の打ちどころのない優等生」でした。家柄も、教養も、行動力も抜群でした。
 パウロは、自分の人生を人並みすぐれたものにしようと努力してきました。神さまと、人々の間では尊敬すべき価値のある人生を送ろうとして来たのです。律法の点ではファリサイ派の一員と自覚し、熱心に努力しました。正しいことをしていると信じ、律法の義で他者を裁き、自分の生き方に誇りを持って生きていたのです。その熱意が、パウロを教会の迫害者としたのです。その熱心さは、「パウロは、その弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで(脅迫、殺害の息をはずませながら)、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸教会あての手紙を求めた」(使徒言行録9章)と描写されているほどです。「彼は、真理のためには狂暴になり得るほどに真剣な人間であった」と評されるほどでした。
 先週のたとえに出てきた放蕩三昧に生きることよりも、「自分は正しく生きている」と思い込んで生きることのほうが恐ろしい生き方かもしれません。いつの間にか、自分が神さまのようになって他者を裁くものとなっているのです。しかも、自分は立派に生きていると信じているのです。パウロは、この迫害を含め、自分の行いの一つ一つが神さまの帳簿にはプラスとして記入されるべきものと考えていました。ルターが「もし修道士のうち誰か自分の義によって天国に達しえるとすれば、それは私であった」と述べていることを思い出させるような生き方でした。
 ところが、キリストに出会った今、パウロは「これらを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」と語っています。
 この文章を、パウロは「しかし」という言葉で始めています。この「しかし」は非常に重要です。この「しかし」は、恐るべき断絶を示しているのです。これは決して「それにまさって」とか「なおその上に」とかいう比較を表わす「しかし」ではありません。パウロの人生の一切をひっくり返すような全く新しい出来事が起こったことを示すものです。大文字で書かれるべき「しかし」です。
 「損失」という言葉に注意して下さい。これはゼロではなく、マイナスという意味です。キリストに出会って、過去の生き方を御破算にして、心機一転、新しくゼロから出発しましたと言うのではありません。パウロは、過去の自分の誇りとして来た生き方、神さまの帳簿にプラスとして記入されていたすべての業がマイナスであることに気づかされたのです。それらを、今や「塵あくた」と見なしていると言っています。この「塵あくた」という言葉は文字通り「見るのも、触れるのもいやだ」という嫌悪の情を示す言葉です。ゼロではないのです。出来れば消してしまいたいという気持が表れている言葉です。
 どうして、このような変革がもたらされたのでしょうか。それは、キリストの恵みに出会ったからです。「私は、あなたのために死に渡され、私の十字架の血と、復活の力の中に、あなたが御父の子として生き、呼吸する場を創った」とイエス・キリストが語りかけて下さった時、彼は奈落の底に落ちて行く思いがしました。思い上がり、神さまを無視し、人を傷つけて来た私、決して赦されない罪人である私のために祈り、御自分の命さえ与えて下さったイエス・キリストの恵みに満ちた呼びかけを聞いたとき、パウロは自分を支えていたとすべての業が崩れて行くのを感じました。
 信仰深い生き方を装いながら、実は神さま抜きで、自分の正しさ、立派さを誇ってきた自分の姿が明らかになったのです。神さまの恵みに頼らず、ただ自分の正しさにのみ頼り、人々を傷つけていた自分の姿が目の前に現れてきたのです。
 ところが、パウロは、ただそのように醜く、罪深い自分に絶望していただけではありませんでした。7節の「しかし」は、決して律法主義者であり、罪人であるパウロを叩き潰す「しかし」ではありませんでした。そのような罪人パウロの上に惜しみなく恵みを注いでくださるイエスさまの恵みの光であったのです。
 ですから、パウロは、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに」と語っているのです。この文章には暗い影は一切感じられません。ただ、キリストの恵みによって生かされている喜びがあるのみです。パウロは奈落の底に落ちて行ったとき、その自分を奈落の底で支えて下さっている主イエスに出会ったのです。
 私たちは誰でも、パウロと同じように、出来れば消してしまいたい過去を持っています。もう一度、まっさらな人生を生きて行きたいと願うことがしばしばあります。「あんなことをしなければよかった」「あんなことを言わなければよかった」と悔恨の情にとらわれます。新しく生きること、復活の人生への願いは私たち共通のものです。しかし、過去は決して消し去る消し去ることはできません。
 しかし(あの大文字!)私たちは、その私たちの苦しみのどん底に、イエスさまの恵みがあることを信じるのです。消し去ることのできない罪の中にある時も、私を支え、私のために十字架に命を捨てて下さったイエスさまの恵みを信じましょう。間もなく、イースター、復活祭です。パウロと共に、死んで蘇る喜び、復活の喜びを共に分かち合いたちと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたの心と思いとを守るように。
2010/03/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「我に返る」(ルカ15:11~32)
ルカ15:11-32、、2010・03・14、四旬節第4主日(典礼色―紫―)
イザヤ書12:1-6、コリントの信徒への手紙一5:1-8

ルカによる福音書15:11~32
 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」


説教「我に返る」(ルカ15:11~32)

本日は四旬節第4主日を迎え、主のご復活を祝う4月4日まで、本日を含めてあと3回の主日を残すばかりとなりました。そして、本日与えられている福音の個所、ルカ15:11-32は、まことに、この悔い改めの時、四旬節にふさわしい福音であります。
この譬えは、皆さんもう、耳にたこができる位、聞かされた物語でありましょう。ルカ15章は、罪人や遊女たちとも食事を共にし、親しく交わる主イエスに対して、ファリサイ派の者どもが、なぜそうするのかと、不平を洩らしたのに対して語られた物語であります。 
ルカ福音書15章で、主が三番目になさった譬えであります。
主は言われました。ある人が二人の息子を持っていた、と主は語り始めます。そのうちの年下の方が、その父に向って、願うのであります。私に、与えられるべき財産を分与してください、と。当時の律法では、遺産を兄が三分の二、弟が三分の一与えられたようであります。しかも、まだ、父の生前のことであるいますから、9分の2位であったのかもしれません。父は、若い方の息子の言い分に従って、分与してくれました。弟は、多くの日のたたぬうちに、それらを金に換えて、遠い地方へ旅に出たのであります。
そして、身持ち悪く生活しその財産を無駄使いしてしまいます。で、悪いことには悪いことが重なるもので、生活にも事欠き始めた時に、強力な飢饉がその地方に沿って成ったのであります。この弟は、その地方の市民の一人のところへ雇ってもらいに行くと、その人は彼を豚の世話をさせるために村落へと送ったのであります。豚は、いのしし同様に、ユダヤ人たちにとっては、ひづめが分かれていない不浄な動物であり、豚の世話をするということは、ユダヤ人にとって最低の生活に陥ったことを意味します。
彼は、豚の食べるいなごまめでも、食べて腹を満たすことを願っていましたが、誰も与えてはくれませんでした。その時、この弟は、父の家のパンに豊かに与っている雇い人たちのことを想起しました。そして、我に返って、すなわち自分へとやって来て、正気になって、断言するのであります。私は立って、父のもとに行こう、そして、こう言おう。お父さん、私は天へと、また、あなたの前で罪を犯しました。もはや、あなたの息子には値しません。私を雇い人の一人のようにしてください、と。
そして、すぐに立ち上がって、父の家に向かって進んで行きました。ところが、まだ、大分離れた所にいたのに、彼の父親は、彼を見つけ、駆け寄って、彼の首に向かって倒れ伏し、彼に接吻したのであります。弟は、言います。お父さん、私は、天へと、また、あなたの前で罪を犯しました。すると、父は奴隷たちに言うのです。急いで、一番いい上着を持って来て着せなさい、そして、彼の手に指輪を、また、足には、サンダルを与えなさい、そして、肥えた子牛を連れて来て、屠りなさい。祝って楽しもう。この息子は、死んでいて生き返った、滅びていて、見出された、と言って祝宴が始まったのであります。
で、兄の方は、野にいてやって来て、音楽と踊りが聞こえてきたので、しもべを呼び出して、いったい何事かと質問していたのであります。弟さんが無事に帰って来たので、祝宴を催しているのですと、言うと、怒って家に入ろうとはしませんでした。で、父は出て来て、彼をなだめていたのですが、兄は許せません。私は、こんなに長い年、あなたの命令に従い、守らなかったことは一つもありません。で、あなたのあの息子がやって来ると、子牛を屠られる。
一方、私には、友達と楽しむために、子山羊の一匹も与えませんでした、と。父は言います。私のものは皆あなたのものだ。あなたは、常に私と一緒にいる。で、あなたの弟は、死んでいたのに、生き返り、滅んでいたのに、見出されたのだ。祝宴をして楽しむのは当然ではないかと。
 今は、かつての主イエスの時代のファリサイ派は存在しないかもしれません。しかし、自分は罪を犯していないし、律法をすべて守っていると考えて、罪の赦しと憐れみを与える父なる神に、立ち帰る必要を、考えない人々が大勢います。しかし本当は、すべての人その必要性を持っているのではないでしょうか。
 私が受けた洗礼も、この弟のようなものでした。しかし、神は、主イエスを通して、あらゆる罪を赦してくださいます。そして、私たちが、心から罪を悔い改めて生きるとき、本日の主日の祈りにありましたように、清さと力を与えてくださいます。
この父によって、復権された弟は、私たちすべてのクリスチャンを表しているのではないでしょうか。残された四旬節の時を、私たちは日々悔い改めながら歩んで行きましょう。
                                  アーメン。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。



2010/03/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主に立ち帰り、実を結ぶ」(ルカ13:1~9)
ルカ13:1-9、2010・03・07、四旬節第3主日(典礼色―紫―聖餐式)
出エジプト記3:1-15、コリントの信徒への手紙一10:1-13

ルカによる福音書13:1~9
 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくがあなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」




説教「主に立ち帰り、実を結ぶ」(ルカ13:1~9)
本日は、四旬節第3主日であります。そして、四旬節に大変ふさわしい悔い改め、主への立ち帰りの必要があることを勧める出来事と、主の語られた譬えが、本日の福音として、与えられています。ルカでは、9:51以降、主イエスの一行は、エルサレムに向かって、十字架に向かって進んで行く旅の途上の出来事として、構成されています。
けれども、おそらく、本日の出来事と譬えは、エルサレムからまだまだ遠い位置において、起こった出来事のようであります。ひょとしたら、まだ、ガリラヤの領域内での、また、そのシナゴーグで教えられていた時に、起こった出来事であったかもしれません。しかし、ルカは本日の出来事を旅の途上においています。
そして、時を見分けることの大切さを説き、裁判官の裁きの厳しさを、説いた後に、今日の記事は始まるのであります。その時に、ある人たちがやって来て、エルサレムの神殿で、いけにえをささげていたガリラヤ人たちが、ポンティオ・ピラトによって、虐殺され、ピラトは、その者たちの血といけにえの血を混ぜたというのであります。ガリラヤ人たちは、ローマ帝国に反対する暴動をしばしば起こしていたと言われます。この事件は、人為的な禍でありました。主は、その者たちが、他のガリラヤ人よりも罪深かったから、そのような目にあったとあなたがたは考えるのか。いいや、私は言っておくが、あなたがたも皆、悔い改めなければ、同じように滅びるであろうと警告されるのであります。
 そして、続けて言われます。最近、エルサレムのシロアムの水道、池に面して建っていた塔が倒れて、その下敷きになって死んだ18人は、他のエルサレムの住民よりも、罪深かったからだと思うのか。いいや、私は言っておくが、あなたがたも、悔い改めなければ、皆、同じように滅びるであろうと警告なさるのであります。これは、自然的な災害によって命を落とした者たちであります。
主イエスは、その人たちにより深い罪があって、虐殺や、倒壊による死に至ったとは言われません。私たち皆が、悔い改めの日々を、すなわち主に立ち帰り、実を結ぶ日々を送らなければ、罪であり、そして罪の結果が死であり、滅びであると教えられるのであります。
しかし、本日の記事の重点は、後半の主イエスのなさった譬えにあります。ある人がぶどう園を持っていて、いちじくの木をそこに植えました。ユダヤでは、当時、そのようなことがよくあったと言われます。その主人は、三年間毎年、いちじくの実がなっているかどうか、探しに来ましたが、見つけたためしがありませんでした。
そこで、園丁に、私は、毎年いちじくの実がなっているか、見に来たが、何もなっていない。どうして、その地を無駄にしておくのか、切り倒せと言うのであります。それに対して、園丁は、ご主人様、もう一年待って下さい。私は、周りを掘り、肥やしをやってみます。それで来年、実をつければ結構です。それでもだめなら、あなたが切り倒すでしょうと、語るのであります。
悔い改めて、実を結ぶように、園丁である主イエスが、ご自身の十字架の死によって、とりなして下さっています。ぶどう園や、ぶどうの木、いちじくの木は、イスラエルをしばしば指すものでした。今日の譬えを聞いていたイスラエルの人たちは、この譬えを聞いて、自分たちが神とみ子によって忍耐づよく、実を結ぶことを待ち望まれていることを知ったでしょう。私たちは、神の忍耐に応えて、実を結ぶものとなりたいものです。
                                 アーメン。
2010/03/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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