津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私に何をしてほしいのか」(ルカ18:31~43)
ルカ18:31-43、2010・02・28、四旬節第2主日(典礼色―紫―)
エレミヤ書26:7-19、フィリピの信徒への手紙3:17-4:1

ルカによる福音書18:31~43
 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止って、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようみなり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。


説教「私に何をしてほしいのか」(ルカ18:31~43)
 
私たちは、四旬節の第2主日を迎えました。そして、本日は、み言葉の歌として、「このまま」という303番の教会讃美歌を歌いました。「このまま、われを愛し召したもう。罪と汚れかこむとも、深き悩みおそうとも、主のもとにむかえたもう、このまま」と1節では歌ったのであります。これは、まことにルーテル教会らしい讃美歌であります。
 さて、四旬節の46日間、私たちは、罪を懺悔し、悔い改める期間を過ごしています。この厳粛な季節においても、私たちは、ともすると、罪に陥り、本日の主日の祈りにありましたように「あなたの道を離れて迷う者」であります。しかし、「今いちど、み言葉の真理を与えて、信仰を強くしてください」と祈らざるを得ない弱い者であります。
 そして、しかし、日曜日には、福音書の言葉が、この季節にも与えられて慰められ、強められるのであります。
 四旬節2回目の主日、本日与えられています福音は、ルカ18:31-43であります。主の3回目の受難予告であります。見よ、私たちは、エルサレムへと上って行く。そして、人の子、すなわち、主イエスご自身について、預言者たちによって、書かれていることは、すべて実現することになっていると、主は12弟子たちに語り始めるのであります。
 彼は、異邦人の手に渡され、侮辱され、つばきをはきかけられ、鞭打たれ、彼らは、彼、すなわち人の子を殺すであろう。そして、三日目に復活するであろう、と弟子たちに語られるのであります。彼らは、主の言葉が、何を意味しているのか、分からなかった。それらの言葉は、彼らには隠されていて、理解できないでいたというのであります。
 キリスト教は、啓示の宗教であると言われます。私たちのこの世の常識や、人間の理性からは、到底理解できるものではありません。私たちが洗礼に至るまでには、何と多くの人々の支えが必要であったことでしょうか。牧師、宣教師さんたちを始め、信仰の友、先輩を通して、少しずつ洗礼にまで歩んで行ったというのが、私たちの多くの信者の信仰の過程、段階であったのではないでしょうか。
 先日も、関東在住の高校の同窓生が20名ほど集まりましたが、私が牧師になっていることに対して、どういうわけで、牧師になったのかと、30.年以上もたって再会したある同級生であった男子は尋ねてきました。概して、牧師になったと言うと、好意的な反応が多いのですが、ある人たちは、不思議に思い、怪訝な顔をして尋ねてきたりします。しかし、いろいろなつらい体験や求める所があって、牧師になり、あるいは皆さんもクリスチャンになった、あるいは、求道者の方はそれに導かれつつあるのでないでしょうか。
 本日の弟子たちは、イエスの言葉を理解できないでいた、彼らからは、主の受難予告の言葉は、彼らから隠されていたのであります。主イエスの十字架の死と復活の後にようやく彼らは、主の生前の言葉を理解できたのであります。
 しかし、今も私たちは、預言者たちが記した旧約聖書の中に、主イエスの苦しまれるメシアとしての記事を明確にはなかなか捉えることができないでいます。旧約聖書の中に、既に苦しむ救い主としてのメシアが預言されていることを、上からの啓示に頼りながら、理解するように、目が開かれなければなりません。
 さて、後段は、エリコに近づいたときに、ある盲人、これは、バルテマイでありますが、彼は道端に座って、物乞いをしていたのであります。
 群衆が通りを通って行くのを知ったこの盲人は、いったい何が起こっているのかと聞き、ナザレのイエスだと知らされると、大声で叫びます。
 ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さいと。人々が止めようとすると、ますます激しく、ダビデの子よ、憐れんで下さいと叫ぶのです。
 ついに、主イエスは、立ち止まり、その盲人を連れて来るように命じます。そして、主は、聞くのです。「私に何をしてほしいのか」と。
 盲人は、「主よ、また私が見えるようになることです」と答えます。主が、「見えるようになれ」と、言うと、たちまち、見えるようになって、彼に従います。主は「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と答えられます。
 主イエスは、私があなたを救ったとは言われず、「あなたの信仰があなたを救った」といわれるのです。何と謙虚な主のお言葉でしょう。
 盲人は、主イエスの後につき従って、もはや、道端ではなくて、主イエスの行かれる本道をまっすぐに従って行きます。これを見た民衆は、こぞって神をほめたたえたと、本日の記事は終わっています。
 本日の記事のすぐ前には、富める青年議員が永遠の命、神の国を求めながらも、自分の命、自分の生活を捨てきることができずに悲しみながら、立ち去った記事が出ています。
 私たちは、盲人と、富める議員とどちらの道を選ぶのでしょうか。この主の十字架への道行きをおぼえる日々に、主が「あなたは、私が何をするであろうことを望んでいるのか」と私たち一人一人に呼びかけておられます。
 私たちも、神のみ心に適った道を選ぶことを、願う者であります。絶えず、旧約聖書と、新約聖書の中に、主イエスご自身を、更に、主イエスのみ言葉を見出して、日々、立ち直されていく者とされたいと思います。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように。アーメン。


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2010/02/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1~13)
ルカ4:1-13、2010・02・21、四旬節第1主日(典礼色―紫―)
申命記26:5-11、ローマの信徒への手紙10:8b-13

ルカによる福音書4:1~13
 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
  ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、。
 あなたをしっかり守らせる。』
 また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。



説教「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1~13)
 
本日は、四旬節第1主日であります。私たちは、毎年、四旬節の第1主日に、主イエスの受けた40日間の荒れ野の誘惑の出来事を、3つの共観福音書の記事を通して学ぶのであります。そして、灰の水曜日、今年は先週の水曜日、2月17日でありましたが、その日から、日曜日をのぞく40日間を四旬節として守るのであります。
さて、40という数は、苦しみ、苦難を示すものであります。40年間の出エジプトをしたイスラエルの民の荒れ野の放浪、40日、40夜、雨が降り続いたノアの時の洪水などが、思い起こされます。
  本日、与えられましたルカ4:1-13について、思い起こしてみましょう。主は、聖霊に満たされて、ヨルダンから、お帰りになります。それは、主が洗礼を受けた時に、聖霊がくだって、天から、「あなたは、神の子、私の心に適う者」という声が成ったという出来事のあとのことであります。
 そして主は、霊によって荒れ野において、導かれておられました。そして、悪魔、ディアボロスという言葉が用いられていますが、サタン、神に敵対する者、嘲笑し、中傷する者という意味でありますが、その悪魔によって、40日間誘惑をお受けになっていたのであります。
 そして、それらの日々のあと、彼は空腹になられました。すると、悪魔はイエスに向かって言います。「あなたが神の子なら、この石にパンになるように言いなさい。」主イエスは、答えて言われます。「こう書かれている、『人はパンのみによっては生きないであろう』と。」これは、申命記の中に出て来る言葉であります。そして、主イエスは、あらゆる悪魔の誘惑の言葉に対して、3つが典型的に出てきますが、いずれも、申命記の言葉によって、それを退けているのであります。主イエスは、これらの時期、申命記について、読み返し、黙想しておられたからかもしれません。
 次に、悪魔は、瞬時にして、彼を連れ出し、世界のすべての王国を見せて言います。「すべての権威とそれらの栄光は、私に任されていて、私が望む者に、私は与えることができる。それゆえ、私の前に、あなたがひれ伏すならば、すべては、あなたのものになろう。」
 主イエスは、言われます。「こう書かれている、『主なるあなたの神にあなたはひれ伏し、礼拝する、仕えるであろう』」と。主イエスは、この世を支配するメシアではなく、十字架の苦しみと贖いによって、救いをもたらすメシアとしてお出でになられました。
 この宣教の始めに、準備として、この悪魔の誘惑をお受けになり、洗礼でお受けになった聖霊の力を、主は、発揮して、この世の君である悪魔、サタンの試みを打ち破ることができました。
 そして、悪魔は、今度は、エルサレムへと彼を連れて行き、神殿の頂の方へと彼を立たせて、言います。「あなたが、神の子なら、ここから下へ自分自身を投じなさい。なぜなら、『彼がその天使たちに守るように命じて、あなたを彼らの手の上にもちあげるであろう』とあり、また、『あなたが、あなたの足を石に打ちつけることがないように』と書かれている」と悪魔も、詩編の言葉を、引用して挑発します。
 主イエスは、「こう言われている。『あなたは、あなたの神を試してはならない』」と申命記の言葉を引用して悪魔の誘惑を退けます。
 そして、悪魔はあらゆる誘惑を終えた後、その時、カイロス、適切な機会、シーズンが来るまで、彼から離れ去ったのであります。
 主イエスは、私たちが経験するあらゆる誘惑を、罪に陥ることはなかったが、お受けになり、宣教の始めに、それを打ち破り、時が来るまで、悪魔は、離れ去ったのであります。その宣教の最初と最後に、悪魔は激しく主イエスを誘惑しました。しかし、主は、十字架と苦しみを通してのメシアであることを守り、神の意志に従順に従い続けられたのであります。そして、悪魔に打ち勝つ道は、既に、旧約聖書に記されていることを、本日の出来事を通して、示されているのであります。
 主は、申命記のみ言葉によって、悪魔の誘惑を打ち破られました。この体験を弟子たちは、主イエスご自身から、知らされたことでしょう。
 今から、私たちは、主イエスの十字架に至る苦難のメシアの道を、四旬節の間、思い起こしながら、歩みたいと思います。主が私たちに先立って、あらゆる誘惑を打ち破ってくださいました。私たちは、しばしば、倒れますが、主イエスによって再び立ち上がることができます。
 主イエスと共に、悪魔の誘惑に打ち勝っていく、四旬節の期間を、共々に過ごしていきましょう。
父なる神さま、み子によってあらゆる罪と誘惑から、み言葉に信頼して、守られつつ歩ませてください。アーメン。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。


2010/02/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストに聞け」(ルカ9:28~36)
ルカ9:28-36、2010・02・14、変容主日(典礼色―白―)
申命記34:1-12、コリントの信徒への手紙二4:1-6

ルカによる福音書9:28~36
 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。


説教「キリストに聞け」(ルカ9:28~36)

本日は変容主日を迎えました。顕現節の最終主日でもありますが、私たちは、毎年、受難節に入る前の日曜日を変容主日として守るのであります。主の変貌の山がどこの山であったかは、明らかにされていませんが、ペトロが「あなたは、神からのメシアです」と信仰を告白してのち、主が受難予告をして、ルカによれば、「成ったことには、それらの言葉ののち、およそ、8日ほどして、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、祈るために山に登られた」のであります。ルカのイエスは、大事な節目、節目のときに、祈ることをよくなさいます。
私どもも、普段、なかなか、祈りの時を持てず、特に忙しいときには、祈りを忘れて、生活しがちでありますが、むしろそのような時にこそ、主イエスがなさったように、落ち着いて祈りの時を確保したいものであります。
さて、主イエスが祈りをなさっている間に、成ったことには、彼の顔の外観が別のものになり、衣も光り輝いていたのであります。そして、ペトロたちは、夜の出来事であったのか、眠気でまぶたが重くなっていたのですが、こらえて見ていると、見よ、二人の人が、彼と話し合っていた、それは、モーセとエリヤでありました。どうして、そのように、ペトロたちが判別できたのかは分かりません。そして、彼らは、彼の最期のこと、すなわち、彼の天への出路、エクソドス=出エジプトのことを論じ合っていたのであります。
ルカによる福音書は、エルサレムの神殿でのザカリアに天使が現れることから、始まり、最後は、弟子たちがエルサレムの神殿の境内で神をほめたたえていたという記事で終っています。そして、ルカ福音書は、本日の記事のあと、間もなく9:51節から、エルサレムに主が顔を向けて歩んで行く旅の途上での出来事、なさった奇跡や教えの記事となっており、ある日本語のルカ福音書の解説書では、ルカ福音書は、「旅空を歩むイエス」と副題がつけられているのであります。
主イエスが、モーセとエリヤと話していたのは、先ほども言いましたように主イエスの「最期」のことでありまして、もとの原文では、出エジプトを意味する「エクソドス」となっています。そして、彼のエクソドスとは、私たちの罪からの出エジプト、罪からの出路であって、3人は、神のご計画に従っての、主イエスの受難、十字架の死、そして、埋葬をへて、ご復活と昇天が定められていたことなのであります。モーセは、エジプトからの脱出を成功させましたが、主イエスは、新しいモーセであり、神に選ばれた民イスラエルに変わる新しい、教会の民を地上にもたらすのであります。
やがて、モーセとエリヤが、離れていこうとしたとき、ペトロは、イエスに向かって言います。「私たちが、ここにいることは、すばらしいことです、私たちは仮小屋を造りましょう、あなたがたのために、3つ」と言います。彼は、何を言っているのか分からなかったのであるとあります。
それらのことを、彼が語っている間に、彼らを雲が覆った、そして、雲の中に彼らが入って行くので、彼らは恐れたとあります。
すると、天から声が起こった。それは、こういうものであった。すなわち、「これは、私の子、選ばれた者、彼に聞け」との声がなったのであります。主イエスが洗礼を受けた時には「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と主イエスが聞いたのでありますが、今回は、「これは私の子、選ばれた者、これに聞け」という弟子たちにも聞こえる声でありました。
わたしたちは、キリストの言葉に聞き従わねばなりません。他にどんなに魅力的な教えや、人物がでましょうとも、聖書に記されているキリストに聞くことが必要なのであります。なぜならば、主イエスの言葉には、決して間違いがないからであります。そして、主イエスは、王なる神が生んだ独り子なる神の子であり、同時に苦しみ、十字架におつきになって、私たちの罪をあがなう「選ばれたしもべ」であるからであります。
彼ら、3人の弟子たちは、沈黙を守り、それらの日々、何も、誰にも知らせなかったと、本日の出来事は終わっています。
この日の主の変容と、モーセ、エリヤが主と相談し合ったことは、主イエスの十字架の死と復活、昇天ののちに、初めて、弟子たちには意味、その重大さが理解できたのであります。
この日の主イエス・キリストの出来事は、天からの啓示の出来事でありました。キリスト教は、啓示の宗教であります。超越的な出来事がしばしば記されています。私たちのこの世界での経験を越えた、理性や常識では決して起こりえないことであります。
私たちは、主の変容を通して、主が、このあと、エルサレムに向かい、神の予定された計画、すなわち主の苦しみ、受難、十字架と埋葬、三日後の復活、そして、昇天によって、救いの計画が実現することを知らされているのであります。
毎日の生活の中で私たちが出会う一人一人に、主イエスがすべての人のためにおいでになられたことを、希望をもって知らせていく者とされたいと思います。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2010/02/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「垣根を取り払う」(ルカ6:27~36)内海望牧師
ルカ6:27-36、2010・02・07、顕現節第6主日(典礼色―緑―聖餐式)
創世記45:3-15、コリントの信徒への手紙一14:12-20

ルカによる福音書6:27~36
 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者にはもう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」



説教「垣根を取り払う」(ルカによる福音書6:27~36)内海望牧師

「敵を愛しなさい」という言葉が繰り返されています。また「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を求める者には下着をも拒んではならない。」という言葉が続きます。このあまりにも有名な言葉はしばしば誤解されます。キリスト者の言うのは、殴られても抵抗せず、ただじっと我慢し、嵐の過ぎ去るのを待つ、弱々しい卑屈な人間なのかと揶揄されることもしばしばです。正義のために戦うこともしないのかというように非難されたこともありました。
 しかし、「もう一方の頬を向けなさい」という言葉は決して消極的な軟弱な生き方ではありません。そこには、むしろ積極的な意味が込められています。殴られながらも、一歩踏み出して「この人は何を求めているのだろうか」ということを考えなさい、という意味です。ここには、あの黄金律と呼ばれる31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という命令が含まれているのです。殴られっぱなしで我慢するのではなく、その人にとって何が最も必要であるかを考えるのが「もう一方の頬も向けなさい」という言葉の意味なのです。軟弱どころか、最高の勇気を必要とする行き方です。
 ところで、イエスさまは更にたたみかけるように、「自分を愛する人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」と問いかけられるのです。
 実は、この箇所で、私たちは「愛することとは何か?」と、イエスさまから問いかけられているのです。考えてみると、私たちの愛には垣根があります。私たちは、愛する人を選んでいるのです。イエスさまがおっしゃるように、私たちは、私たちに好意を持ってくれる人を選んでいるのです。イエスさまがおっしゃるように、私たちは、私たちに好意を持ってくれる人、私たちに好い行いをしてくれる人を愛し、私たちに悪意を持っている人は愛さないのです。これが垣根です。相手によって、愛が生まれたり、失われたりするのです。これでは、「人を愛する」と言いながら、実は自分のために人を利用する、利己主義に他ならないのです。だからこそ、イエスさまも厳しく「罪人でも同じことをしているのだ」とおっしゃるのです。このみ言葉は、私たちの心に突き刺さります。しかし、私たちは自己中心的な愛という垣根をどうしても乗り越えることが出来ないのです。

 ここで、日課の初めに帰って「私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく」という冒頭の1節に目を向けたいと思います。この個所は、「今、耳を澄まして聴いているあなたがたに」と訳した方がよいと思います。ただ漫然とイエスさまのお話を聞いていると言うのでなく、「耳を澄まして」聴いているあなたがたに話すという内容が原文の意味です。そのように真剣にイエスさまの話に耳を傾けている人々がいるのです。
 「耳を澄ます」という表現は素晴らしいと思います。私たちの耳には絶えず騒音が聞こえてきます。外側からの騒音もあります。しかし、心の内側にも騒音はあるのです。こちらの方が厄介です。外側からの騒音は耳をふさぐことによって聞こえなくなりますが、いくら静かに自分の心を整えようと思っても、内側の騒音は消えません。自己愛にまつわる騒音です。
 「人にどう思われているか」に始まり、恨みつらみ、憎しみ、嫉妬、人を疑う心等々さまざまな思いでいっぱいです。「耳を澄ます」という言葉は、このような自分の思いでいっぱいです。「沈黙とは口を開かないということではなく、聴くことだ」と言った人がいますが、確かにそうでしょう。
 今日の日課は、私たちが何度も目にした箇所です。しかし、「敵を愛しなさい」とか「もう一方の頬も向けなさい」というあまりにも難題が並べられているので、私たちは今イエスさまの前にいる群衆と違って、この個所を脇に置いてしまってはいないでしょうか。しかし、もう一度、心を開き、今初めてイエスさまのみ言葉に耳を傾けている群衆と同じように、耳を澄まして、耳を傾けてみ言葉を聴きましょう。必ず福音が聞かれるはずです。
 すると、二つのことが聴き取れるでしょう。
 第一に、イエスさまが「罪人でも同じことをしているのだ」とおっしゃった時、それはまさに他の人ではなく、私たち自身を指していることに気づかされます。私たちは、イエスさまのみ言葉に聴きながら「愛に生きる」と言いながら、自分の利益を得るために、自分を守るためにどれだけ多くの人々を傷つけて来ただろうかという痛みが心に起こってきます。
 私たちは自分の本当の姿、罪人としての醜い私の姿を自分の力で見出すことはできません。自分で自分をだまし、巧妙に罪を隠してしまい現実の姿に気づかずにすますことも出来るからです。それほど、私たちの心は病んでいるのです。しかし、今、イエスさまの前で耳を澄ませてイエスさまの言葉を聴くとき、自分のことしか考えていない自分の姿を見、
 そこで、二番目の声です。しかし、これこそ決定的なみ言葉です。
 そのように暗い思いに落ち込んでいる私たちに対して、34節以下の言葉が輝かしい光として耳に飛び込んで来るのです。すなわち「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものになりなさい」というみ言葉です。
 神さまは、私たちの心を究める方です。私たちの思いと、言葉と、行いの一点一角も見逃さない方です。しかし、神さまは、私たちの罪の数々を私たちの前に積み上げ、到底乗り越えられないような罪の山を築き、私たちを弾劾されるような小さな方ではありません。私たちが、どんなに恩知らずな罪人であっても、神さまと私たちの間を遮る垣根を乗り越え、私たちを愛し、私たちの罪を贖うために御ひとり子まで与えてくださった方なのです。怒りの屋ではなく、赦しと救いの光が輝き出たのです。「あなたは、われらの不義を御前に置き、われらの隠れた罪をみ顔の光の中に置かれました」と詩編も歌っています(ルター訳90編8節)。
 パウロは次のように言っています。「実に、主イエス・キリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んで下さった。・・・私たちがまだ弱かったとき、キリスト・イエスが私たちのために死んで下さったことにより、神は、私たちに対する愛を示されました。」(ローマ5:6以下)
 「敵を愛しなさい」とおっしゃっているのがイエスさまであることに注目して下さい。このイエスさまが、「罪人=敵である私のために、私に代わって」十字架への道を歩んでくださったのです。イエスさまこそ「敵を愛しぬいた方」なのです。このイエスさまの十字架に示される神さまの愛は、私たちの周りに、私たちが張り巡らしていた自己愛という垣根を取り去り、私たちを解放する力があるのです。十字架上で取りなしの祈りをなさったイエスさまは、敵である私のために祈り、命を与えてくださった方なのです。この方が、「さあ、共に歩もう」と呼びかけてくださっているのです。当てにしてくださっているのです。どうして立ち上がらないでおられましょうか。
 罪人であり、恩知らずである私たちのために死んで下さったイエスさまの愛に感謝しましょう。その時、私たちの心は利己主義から自由になるのです。この自由な喜びの中に生きるとき、私たちは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉が、私たちを萎縮する言葉ではなく勇気を与える光となるのです。
2010/02/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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