津田沼教会 牧師のメッセージ
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「真の弟子であるために」(ルカ6:17~26)
ルカ6:17-26、2010・01・31、顕現節第5主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書17:5-8、コリントの信徒への手紙一12:27-13:13

ルカによる福音書6:17~26
 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また、病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたはふこうである。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」




説教「真の弟子であるために」(ルカ6:17~26)
 本日の与えられています福音は、ルカ6:17-26であります。これは、前段の6:17-19と後段の6:20-26に分けることができます。前段では、主は、山に上り、徹夜で祈られた後、12使徒を選ばれた後に続く個所であり、彼らと共に山をくだられた後、水平な場所に立たれたのであります。
そこは、より多くの人々が集まることのできる場所でありました。12使徒のほかに、彼の弟子たちの多くの群衆と、おびただしい大勢の民衆が、全ユダヤから、エルサレムから、また、シドンとティロスの海岸から、来ており、彼らは、彼に聞きに、そして、多くの病気を癒されるために、来ていたのであります。そして、汚れた霊から悩まされていた悩まされていた者たちは、治癒されていたのであります。そして、すべての群衆は彼に触れようとしていました。なぜならば、彼から力が出ており、そしてすべての者たちを癒していたからであります。
しかし、大事なことは、主イエスに癒されるために、人々はやって来ていたのみならず、彼に聞くために彼らはやって来ていたという点であります。神は、本日の祈りにありましたように、「命の言葉であるみ子によって、私たちの目と耳を開いてくださる」のであります。主イエスの語られるみ言葉によってこそ、私たちは、真に癒されるということができましょう。
そして、主は、その眼を彼の弟子たちへともたげて、語っておられたのであります。それは、こういう言葉でありました。
「祝福されているのは、貧しい者だよ、なぜなら、あなたがたのものなのが、神の国であるからである。祝福されているのは、今飢えている者たちだよ、あなたがたは満腹にされるであろうから。祝福されているのは、今泣いている者たちだよ、あなたがたは笑うことになろうから。祝福されているのは、人間どもがあなたがたを憎むとき、そして、人の子の故に、彼らがあなたがたを追い出し、軽蔑し、あなたがたの名を悪いものとしてみくびるときのあなた方だよ。その日には喜び踊れ、なぜなら、見よ、天においてあなたがたの報いは大きいからである。なぜならば、彼らの先祖たちも、同じことを預言者たちに対してしてきたからである。しかし、あなたがたに災いあれ、富んでいる者たちよ、なぜなら、あなたがたは慰めを受けてしまっているから。あなたがたに、災いあれ、今満腹している者たちよ、なぜなら、あなたがたは飢えるようになるからだ。あなたがたに、災いあれ、今笑っている者たちよ、なぜなら、あなたがたは、悲しみ泣くようになるから。災いなるかな、あなたがたに、すべての人がよく言うときには。なぜならば、同じことを、偽預言者地に対して、彼らの先祖たちもしてきたからである」、と言われたのであります。
私たちは、たとえば、障害の病や困窮におかれて、小さくされるときに、神は祝福して助けて下さるのであります。富んでいること、お金それ自体が、悪いというのではありません。それによって、貧しいラザロを顧みず、自分の欲望に従って生活した金持ちのようになってしまうことが、真の弟子であることから離れてしまうことになるのであります。 
聖書は、私たちがいのちの言葉であるみ子イエスによって、生きるように、招いています。私たちは、そのみ子のみ言葉に従って歩むか否かによって、真の弟子であるかどうかが決まるのであります。私たちは本日の主日の祈りにありましたように、「聖書の宣べ伝えていることを、喜んで信じ、行うことができるように」主のみ言葉に従って行きたいと思います。アーメン。
人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2010/01/31(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「人間をとる漁師に」(ルカ5:1~11)
ルカ5:1-11、2010・01・24、顕現節第4主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書1:9-12、コリントの信徒への手紙一12:12-26

ルカによる福音書5:1~11
 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの1そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終ったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。



説教「人間をとる漁師に」(ルカ5:1~11)
顕現節第4主日を迎えました。本日与えられています福音は、ルカ5:1-11であります。主の顕現、神が、主イエス・キリストを通してその働きを現される出来事が本日の記事に記されています。
主は、ゲネサレトの湖に沿って立っておられ、群衆が押し迫り、神の言葉を聞こうとするという出来事が起こりました。主は、湖に沿って二そうの舟が置かれているのを目にしました。漁師たちは舟からおりて、網を洗っていました。まだ、朝のことであったでしょうか。主は、その舟の一艘に乗り込まれ、それは、シモンの持ち舟でありましたが、彼に少し漕ぎ出すように頼まれました。そして、主は、舟の中でお座りになって民衆に教えておられました。
話すことを終えられると、シモンに、深みに漕ぎ出すように言われ、そして網をおろして、漁をするように、言われたのであります。シモンは、「先生、一晩中骨を折って働きましたが1匹もとれませんでした。けれども、あなたのお言葉・出来事ですので、網をおろしてみましょう」、と答えます。
そして、網を彼らがおろすと、夥しい魚を取り囲んで、網は破れそうになります。彼らは、もう一そうの舟の仲間に、合図をして、やって来て彼らを助けるように、願います。彼らはやって来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになりました。 
その時、シモン・ペトロが、「主よ、私から離れて下さい、私は罪深い人間ですから」と、主イエスの膝元にひれ伏したのであります。大きな恐れと驚きに、彼もいっしょにいた人たちも捕えられたからであり、ヤコブもヨハネも同様であったと記されています。
主は、シモンに、「恐れることはない。今から後、あなたは、人間をすなどることになろう」と約束なさいました。罪深い人間が、奇跡をなさる主イエスとの出会いを通して、人間を危険から、命へと救助する人間をとる漁師に変えられるのであります。彼らは、舟どもを、陸に引き揚げた後、すべてを捨てて、彼に従ったのであります。
マルコやマタイでは、主が呼びかけられると、すぐに従ったペトロたちが描かれています。しかし、ルカでは、主イエスと少しずつ触れ合って、かたちの上では段々に、親しくなっていたことが、すぐ前に、シモンのしゅうとめを主が癒される出来事などを通して窺えます。
しかし、本日の日中の魚の大量捕獲の奇跡を通して、シモン・ペトロは根底から主イエスの宣教を担う者へと、主によって招かれ、約束されて、変えられていったのであります。
私たちは、シモンのように、主の劇的な奇跡の働きによって、弟子とされたわけではないでしょう。けれども、私たちも、この記事を通して、人間を真に生きるようにすなどる「人間をとる漁師」へと召されている一人一人であります。主は、私たちの罪深さを追求されるお方ではなく、恵みによって私たちを赦し、それどころか、御自分と共に神の国に人々を招き入れる弟子へと、そして、主イエスに従って行く者へと、私たちを用いられ、それを喜ばれるお方であります。
この記事は、ヨハネ福音書の復活の主とのペトロたちの再会の記事21:1-14とよく似ていますが、復活後の出来事をここに遡らせて記したのではなくそこでは、ペトロに、復活の主は、私の羊を飼いなさいと命じておられますがここでは人々を死や危険から、命へと救助しみ国へと招き入れる者となると約束されているのであります。私たちもペトロに続き、主イエスに従って、人々をすなどる者へと召されていることを喜びたいと思います。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのできるお方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
2010/01/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の恵みの年」(ルカ4:16~32)内海望牧師
ルカ4:16-32、2010・01・17、顕現節第3主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書1:4-8、コリントの信徒への手紙一12:1-11

ルカによる福音書4:16~32
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が立っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。



 説教「主の恵みの年」(ルカ4:16~32)内海望牧師
 私たちは、アドベントから(つまり、教会暦の初めから)イースター(主の復活日)まで、聖書を通してイエスさまの生涯を辿っています。
 イエスさまが、この世にお生まれになるためには、様々な困難がありました。ヨセフの悩み、マリアの不安、泊まる場所もなく、飼い葉桶での誕生、ヘロデの迫害、エジプトへの逃亡など数多くの痛み苦しみがありました。さまざまな妨げがあったにもかかわらず、それでも、救い主イエスさまは、確かにこの世界に来られたのです。イエスさまは成長し、ヨハネの許で洗礼をお受けになられたのです。
 私たちは、イエスさまの洗礼によって、イエスさまがこの世に来られた意味をはっきりと知らされたのです。ヨハネの洗礼は、悔い改めの洗礼でした。ところが、ヨハネの説教によって心痛み、赦しを求めて集まって来た群衆の中にイエスさまもおられたのです。罪を犯されなかったイエスさまが「悔い改めの洗礼」を求める列に並ばれたのです。私たちは、この出来事をどのように考えたらよいでしょうか。
 極めて印象深いルオーのキリスト像があります。ルオーは知人の紹介でたびたび裁判所に通い、裁判の場にいる人間の姿を描きました。その中に、画面正面の被告席にイエスさまが他の被告と共に座っている絵があります。裁く側でなく裁かれる罪人の間にキリストがおられるのです。それまで、このようなキリスト像は見たことがありませんでした。初めてこの絵を見た時の衝撃は忘れることが出来ません。この絵を描くとき、ルオーは、現行犯として捕われ、まさに石を投げられて殺されそうになっている女性の側におられたイエスさまの姿を心に描いていたと思います。私は、この絵を洗礼を受けるイエスさまの姿と重ね合わせて見ました。悔い改めの洗礼を受けにヨハネの前に並んでいる人々と共にいるイエスさまの姿も同じです。イエスさまは「裁く側」でなく、「裁かれる罪人の側」におられたのです。
 更に、もっと驚くべき出来事があります。イエスさまが十字架につけられた時、左右に犯罪人が十字架につけられていたと聖書は記します。マルコ福音書は、この場面を《こうして「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。》と描いています(これはイザヤ53:12からの引用。イエスさまの預言と言われる苦難の僕の姿です。そのほかルカ22:37)。イエスさまは、洗礼の時と同じように、その生涯の初めから終わりまで罪人と共に歩み続けて下さったのです。それだけでなく、イエスさまは「父よ、彼らをお赦し下さい。」というあらゆる祈りの中で最も心打たれる、あの限界の無い、すべての人の赦しを願う執り成しの祈りをしてくださったのです。この祈りがあるから私たちも生きることが出来るのです。
 クリスマスの光は、イエスさまがこの世に来られたということは、このような出来事であったのです。クリスマスと十字架は決してかけ離れたものではありません。クリスマスの光の中に、私たちは十字架のイエスさまの姿を見るのです。
 このイエスさまの来臨と共に「恵みの年」が始まったのです。
 そのイエスさまが、人々の前で公に説教をなさったのが今日の日課に記されているのです。
 公生涯の第一歩を踏み出されたのです。
 ここで、イエスさまは、会堂で聖書を開き、イザヤの預言(61章)の言葉を朗読されました。その上で、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した。」と宣言されました。19節の言葉は「主が恵みをお与えになった年」と訳せる言葉です。神さまが、この世界を救うために「独り子をお与えになった」という恵みです。神さまの恵みの全体が、イエスさまご自身を通して、いま、ここに到達したことを宣言されたのです。私たちは、この宣言に呼応して生きる群れなのです。
 しかし、人々の反応は鈍いものでした。イエスさまのみ言葉に権威があったことは認めながらも、イエスさまに信頼することが出来なかったのです。反対に、イエスさまを追い出してしまったのです。
 彼らの反応には理解できる部分もあります。何故なら、目に見える現実は、イエスさまが来られても、今までと同じに思われます。依然として、悔い改めない人々がおり、貧しい人々は苦しい生活を余儀なくされているし、不当に捕らわれている人は数多くいます。また身体的、精神的に障害を負っている人もいるのです。加えて自然災害、ハイチの人々のことを思い浮かべます。何とか一人でも多くの人が生きてほしいと祈ります。
 イエスさまも、この現実に心を痛められました。ラザロの死に涙を流される方でした。すべての町や村を巡って、福音を伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された方でした。
 しかし、それでも、そのような目に見える現実にもかかわらず、確かに形勢は逆転したのです。サッカーの試合などを見ていると、ある時点で流れが変わるということがあります。勝敗はまだ決していませんが、あの時点から勝利への流れに変わったと思われる決定的な瞬間があるのです。
 同じように、イエスさまの来臨と共に、世界の流れは変わったのです。イエスさまはこうおっしゃいました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」と。見える現実にもかかわらず、「それでも、イエスさまの恵みは生きて働く」のです。
 クリスマスを信じるということは、まさに、この世界の逆転を信じることなのです。
 しかも、イエスさまはこの世界のどん底に生きる人々と共に、また洗礼を受ける人々の列に加わって、罪人のひとりとして数えられながら、罪人と共に歩んで下さる方なのです。望みを失っている人々に望みを与えて下さる方なのです。初代のキリスト教徒が、イエスさまの誕生の時を紀元0年とし、前後に数を加えて行くという暦を作った気持がよく分かります。イエスさまは、いま「時の中心」に立って「恵みの時が実現した」と宣言されているのです。神さまの時間の流れは、私たちを破滅に導く流れでなく、勝利へ向かっての時となったのです。
 私たちは、この恵みの年を信じて生きる者の群れです。従って、それは決して希望を失わない群れと言ってよいでしょう。喜びに満ちた群れと言ってもよいでしょう。
 そして、私たちは、この恵みを伝えるという光栄ある責任をイエスさまから与えられた群れなのです。「恵みを伝える」ということはどういうことでしょうか。皆が牧師になるということではありません。今日の第二の日課であるコリント一12章は、神さまは私たちを様々な形で召して下さるということが書かれている箇所です。霊の賜物は、実に多種多様であるとパウロは言うのです。ルター的な表現をするならば、「乳しぼり、皿洗い」でも修道士と同じような働きなのです。神さまの恵みに感謝しながら、職場(乳しぼり?)で、また日常生活(皿洗い)で、目の前の仕事を投げやりにではなく、心をこめた働きとする時、それは同じ職場の人々に、また近隣の人々に、そして家族に恵みの喜びを与える生き方となるのです。
 ですから、私たちは、今日の第一の日課のエレミヤのように、「私は若いので(あるいは、年をとっているので)、あなたの命令を行うことは出来ません」と断ってはいけないし、また断る必要もありません。
 何故なら、イエスさまが、罪人である私たちと共に歩んで下さるからです。このことを信じ、喜びと希望をもって日々の生活を歩む時、私たちは、主の恵みの年を告げる麗しい足として用いられるのです。この光栄ある責任に感謝し、この一年を「主が恵みをお与えになる年」として生きていきたいと思います。アーメン。
2010/01/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私のあとに来る方」(ルカ3:15~22)
ルカ3:15-22、2010・01・10、主の洗礼日(典礼色―白―)
イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

ルカによる福音書3:15~22
 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。




説教「私のあとから来る方」(ルカ3:15~22)
 
説教題を「私のあとから来る方」とつけておきましたが、よく読んでみますと、ルカは、「私のあとから来る方」はとは、ヨハネに言わせていません。「私よりもより強い方がお出でになる」と、ここでは、ヨハネは、語っているのであります。
 本日は、主の洗礼日の礼拝であります。この日の福音個所、今年の教会歴ではルカ3:15-22が、聖書日課の出発点にされているということをカトリックの神父さんの聖所日課の説教で読みました。本日の出来事は、洗礼者ヨハネの働きの頂点を示すと共に、ヨハネは、過ぎ去り、主イエスの受けられた洗礼によって、新しい歴史、時代が幕開けするのであります。
 本日の個所に従って、しばらく、ご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の個所は、3つの部分に分けることができます。まず、3:15-17であります。それは、「私、ヨハネよりより強い方の到来」と言えましょう。続いて、3:18-20であります。それは、ヨハネの収監という出来事であります。そして、最後は、3:21-22であり、主イエスの洗礼の出来事であります。
 まず、本日の個所は、こう始まります。民衆が待ち望んでいたとき、そして、彼らの心の中で、すべての者たちが、ヨハネがメシアではないかとあれこれ考えていたときに、すべての者たちに、ヨハネはこう語りつつ、答えるのであります。一方で、私は水で洗礼を授けている。他方、私よりより強い方がお出でになっており、私は、彼のサンダルのひもを解く値打もない。彼はあなたがたに聖霊と火で洗礼を授けるであろう。彼は、彼の手に手に箕、ショベルのようなものであったでしょうか、それを持って、脱穀場、あるいは、脱穀したものを清め、穀物は彼の倉へと集め、もみ殻は、消えない火で、燃やすであろうと。この方メシアは、終りの日に、救いと共に、裁きをなさる方でもあるということでしょうか。
 さて、第二の個所では、彼は、他の多くの励ましをなし、民衆に福音を宣べ伝えていたとあります。で、領主ヘロデは、彼の兄弟の妻のヘロディアのことについて、また、ヘロデがなした悪事のすべてのことで、彼によって非難されたので、すべてのことの上にこのことをも加え、すなわち、ヨハネを獄に閉じ込めたのであります。
 洗礼者ヨハネと、主イエスの活躍した時代は、実際には、重なり合っていたのでありますが、ルカは、ヨハネが、水で授ける洗礼によって、その働きのピークに達し、主イエスに洗礼を授けることによって、ヨハネは退場し、主イエスの時代の始まりへと、編集しなおしているのであります。
 そして、第三の部分では、ヨハネが洗礼を授けているのですが、もはや、ヨハネがという名前は出てこないのであります。
 すなわち、こうなっています。で、成ったことには、すべての民衆が洗礼を受けたのち、そして、イエスが洗礼をお受けになったのち、そして、祈っておられると、天が開かれたというのであります。旧約の時代の後、久しく、預言者も現れず、啓示も示されなかったのちに、ついに、主イエスの洗礼において、天が開かれ、神の御旨が示されるのであります。
 そして、さらに、成ったことには、聖霊が鳩のような肉体をもった形でもって、彼に向ってくだるのであります。そして、天から声が成るのであります。どうして、聖霊が鳩のような形なのであったのでしょうか。鳩は、イスラエルをあらわしているのでしょうか。それとも、天地創造の時に、水面をうごめいていたのは、鳩のような霊であったからなのでしょうか。天から霊がくだるということは、旧約聖書では、いろいろな個所で預言されています。
それが、主イエスの洗礼の時に、成就したのであります。そして、天から声が起こることが、成ったのであります。「あなたは、私の愛する息子、あなたにおいて、私は喜んでいる、喜んだ」という天から成った声でもって、本日の記事は終わっているのであります。
 私はあなた、しもべにおいて喜んでいる、そして、霊が天からしもべのうえにくだるという預言は、本日の第一の朗読でありましたイザヤ書42:1にでてきます。
 「見よ、わたしのしもべ、わたしが支える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」この預言が、主イエスの洗礼において実現するのであります。主は、愛する独り子であり、父なる神と独特の関係をもったメシアであります。
 私たちは、このみ子の洗礼に、ペンテコステの聖霊と火の降臨の出来事を通して、与る者とされたのであります。
 私たちが、洗礼に与ったのは、本日のみ子の受けた洗礼に、聖霊と火を通して与ったのであります。
 私たちは、今日から新しく一年を、各自の洗礼をおぼえながら、主イエスも受けられた洗礼を思い起こしつつ、聖霊によって新しく作りかえられ、新しい生涯を歩み出したいものであります。アーメン。
 
人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。






2010/01/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ベツレヘムの星」(マタイ2:1~12)
マタイ2:1-12、2010・01・03、顕現主日(典礼色―白―聖餐式)
イザヤ60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12

マタイによる福音書2:1~12
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現われた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



説教「ベツレヘムの星」(マタイ2:1~12)

本日は顕現主日であります。私たちのルーテル教会では、元旦の直後の最初の日曜日が主の顕現、ローマ・カトリック教会の言い方では、「主の公現」の主日として、昔から本日の記事、マタイ2:1-12が与えられています。私たちは、毎年毎年、1年の最初の主日に、本日の福音を聴くことを続けているのであります。
ところで、ルカによる福音書2:1-20では、み子、主イエスの誕生が、最初に、羊飼いの野で野宿をしていた、多分、さげすまれていたであろう羊飼いたちに知らされ、彼らが最初に、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったばかりの主イエスを訪問するのですが、マタイでは、まず、異邦人たちに、ユダヤ人の王としてお生まれになったみ子の誕生の知らせが、主の星、やがてベツレヘムまで導くことになる星が現れることによって、知らされるのであります。
 キリスト教が、パウロなどによって、最初に伝えられていったヨーロッパの教会につながって行った彼ら、異邦人たちは、この記事を、大きな喜びをもて、繰り返し読み、礼拝において「主の公現」として祝ってきたのであります。本日の記事を、もう一度ご一緒に思い起こしてみましょう。
 主イエスは、ヘロデ大王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そのときに、見よ、東方から、マギたち、占星術の学者たちが、エルサレムに到着して、言うのであります。ユダヤ人たちの王として、お生まれになった方はどこにおられますか、と。
 それを、耳にして、ヘロデ大王は、うろたえたのであり、全エルサレムも同様であったと記されています。真の王であるメシアの誕生に、彼らは不安になるばかりでありました。それで、王は、民の祭司長たちと、律法学者たちを呼び集め、聖書では、メシアはどこに生まれることになっているのかと、彼らからしきりに知ろうとしていました。彼らは、言います。それは、ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう記しています。ユダの地、ベツレヘムよ、なんじは、ユダの指導者たちのうちで、ごく小さい者ではない。お前の中から、イスラエルを牧する者が起こされると。
ベツレヘムは、ダビデの出身の村であり、その末から、イスラエルを牧する者が出て来るとミカ書と歴代誌の預言の言葉を結び合わせたものであります。
 さて、それから、ヘロデは、学者たちをひそかに呼んで、その方の星が、いつ現れたのかを詳しく、確かめ、ベツレヘムへと送り出して言うのであります。もしその子が見つかったらすぐに知らせてくれ、そうすれば、私もその子を拝みに行くから、と。
 学者たちは、それを、聞きながら、出て行きます。最初のエルサレムに来たに尋ねて語って以降、学者たちの言葉は何も記されていません。それが、かえって、この物語を、印象的にさせているのであります。
 彼らが出て行くと、見よ、エルサレムでは見えなくなっていた彼の星、主の星が、彼らを導いて、ベツレヘムのその子のいる場所の真上まで来て、止まったのであります。
彼らは、それを見て、甚だしく大きな喜びを喜んだと、原文では書かれています。異邦人の彼らが、マタイ福音書では、最初にメシアを見出したからであります。
そして、その家の中に入ると、幼子とその母マリアが共にいるのを見出します。ヨセフもいたでしょうが、中心人物は、その子とその母であります。
彼らは、跪いて、その子を拝み、宝箱から贈り物をささげます。黄金、乳香、没薬であります。これらは、アラビアや古代中東で産する最も高貴な贈り物でありました。
のちになると、教会教父たちと、ルターは、黄金は、主イエスが王であることを、乳香は、神であることを、没薬は、彼の受難と埋葬を表していると考えました。
このマギたちは、後代になると、王たちであったと考えられるようになりますが、しかし、彼らは、真の王であるメシアの前にひれ伏し贈り物をささげて、服従と忠誠を示したのであります。そして、彼らは、夢でヘロデのもとに戻らないようにとお告げを受けて、別の道を通って、彼らの国へと去って行ったのであります。
み子がまことの王であり、神であり、受難と埋葬が示されている世界の主であることを
彼らは知って、全く新しい、別の生き方を知らされて、その道を歩むようにされて彼らは帰って行ったのであります。私たちも、本日のマギたちと同じように、本日の記事を受けとめ、古い自分をぬぐいさり、主イエスに従う新しい一年を過ごしていきたいと思います。

 私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように。アーメン。





2010/01/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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