津田沼教会 牧師のメッセージ
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「多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせたりするお方」(ルカ2:25~40)
ルカ2:25-40、2009・12・27、降誕後主日(典礼色―白―)
エレミヤ書31:10-14、ヘブライ人への手紙2:10-18

ルカによる福音書2:25~40
 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」
 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。





説教「多くの人を倒れさせ、また、立ち上がらせるお方」(ルカ2:25~40)

 本日は降誕後主日であります。主イエスの馬小屋での降誕後、清めの期間である6週間くらいを過ぎて、両親は、幼子イエスを連れて、エルサレム神殿に主にささげるために、詣でるのであります。両親は、律法を守る敬虔なユダヤ人でありました。
そのとき、見よ、シメオンという人がいて、正しく、信心深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。そして、主メシアを見ないうちは、死を見ないとの啓示を聖霊によって受けていました。そして、神殿の境内に入って来て、ちょうど奉献に両親が連れて来ていた幼子イエスに出会うのであります。
シメオンは、神をほめたたえていうのです。ご主人さま、あなたはあなたのしもべを、今、お言葉に従って安らかに去らせてくださいます。なぜなら、私の両目は、あなたの救いを見たからです。これは、すべての民のために、あなたがお備えになられたもの、異邦人の啓示への光、あなたの民、イスラエルの栄光です。
これは、私たち、ルーテル教会で毎週、式文において唱えられるヌンク・ディミティスのことばでもあります。シメオンは、おそらく、老人であったでしょう。主の救いを見たからには、あなたは、ご主人さま、私を、解き放なって下さいますと宣言するのです。もう、死んでもよいとシメオンは、幼子を抱いて、告白するのであります。それを見て、両親は、ただただ驚くばかりでありました。
シメオンは、母マリアに、この子は、イスラエルの多くの者を倒れさせ、また、起き上がらせるべく、横たわっている。あなたの心も剣が刺し通すでしょうと預言します。主イエスは、主イエスに出会うすべての人を、倒れさせるか、起き上がらせるかのいずれかであります。主イエスを救い主として、受け入れるか、拒むかであって、中立はないのであります。私たちは、このシメオンの預言が真実であることを、経験から知らされています。 
私たちは、主イエスが、その人にとって躓きの石にならないように、招き、主イエスこそ救い主であることを、伝えねばならないのであります。牧師に限らず、信徒は皆、主イエスを周囲の人々に知らせる務めを与えられています。
さて、また、一人の女預言者、アシェル属のファヌエルの娘、アンナという人がいて、7年間夫と暮らし、そのあとやめめとなり、84歳にも、なって、日夜神殿で礼拝し、断食と祈りをしていたが、その人も、その時にそばにやって来て、神に感謝し、その子のことについてエルサレムの贖い、救いを待ち望むすべての人に語っていたという出来事が起こります。
二人の敬虔な、おそらくシメオンも老人であったでありましょう、信心深い男女のユダヤ人に出会ったのであります。
老人は、経験が豊かであり、信心深い二人の男女の老人によって、幼子イエスが、人々、人間たちを倒れさせるか、立ち上がらせるかにするメシアとして、お生まれになったことを、告白し、人々に語り告げたのであります。
私たちは、この預言に従って、出会う人々に、主イエスを紹介する特権と任務を与えられているのであります。このクリスマス、新年に向かって新しい一年が始まろうとしています。私たちは、気落ちしないで、すべての人々の救いのために神が人の形で生まれさせたみ子イエスについて、新しい年こそ、初心に帰って、宣べ伝えていきたいものであります。祈ります。
主なる神よ、クリスマスの礼拝やお祝いを感謝します。み子の誕生を出来得る限り宣べ伝える知恵と勇気とを私たちにお与えください。

私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。





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2009/12/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「マリアのエリサベト訪問」(ルカ1:39~45)
ルカ1:39-45、2009・12・20、待降節第4主日(典礼色―紫―)
ミカ書5:1-4a、ヘブライ人への手紙10:5-10

ルカによる福音書1:39~45
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」



説教「マリアのエリサベト訪問」(ルカ1:39-45)

本日の福音の記事、ルカ1:39-45は、短いですが、非常な喜びと祝福に満ちた記事であります。先週は、マリアが聖霊による受胎告知を天使ガブリエルから、受けた記事が与えられていました。
本日の記事は、それに続くものであります。それらの日々において、マリアは、急いで、ユダの山里の町へと進んで行ったのであります。ガリラヤのナザレから、100数十キロ離れたユダの丘陵地帯へと、3、4日の旅をしたことでしょう。天使が、あなたの親類のエリサベトも不妊の女と言われていたのにもうその胎児は6か月であると知らせていました。
天使の黙示的な命令とも言える促しに、従順に従って、マリアは、ユダの山里の町へと進んで行ったのであります。主イエスが、やがて、ベツレヘムで生まれるように、マリアとヨセフは、この山里の町、エルサレム近郊の町に住んだことがあったのかもしれません。  
そして、マリアは、ザカリアの家に入り、挨拶をします。これは、単なる儀式的な挨拶ではなく、神の祝福を伝える挨拶であります。すると、エリサベトのおなかの胎児が、喜びにあふれて跳ねたのであります。
医師であったとも伝えられるルカならではの記事であります。医学的にも、母親の感情が、胎児に影響すると言われていますが、しかし、ここでの胎児の喜びは、もっと奇跡的なものであります。救い主であるみ子イエスをみごもったマリアの訪問を、洗礼者ヨハネとなる、半年ばかり早く胎児となったエリサベトのおなかにいる赤ちゃんが喜びはねて、迎えるのであります。
その昔、リベカが、双子の赤ちゃんをみごもって、先に出て来た兄エサウのほうが、弟のヤコブに仕えることになった出来事を思い起こす人もいるでしょう。半年ほど先に生まれる洗礼者ヨハネが、自分は衰え、あの方、主イエスは栄えねばならないと後に言うことになるのであります。
さて、エリサベトは大きな叫び声をあげて言います。女たちの中であなたはだれよりも祝福された方です。そして、あなたの胎の実、お子さまも、祝福されています。そして、見よ、なぜならば、あなたの挨拶の声が私の両耳において成ったとき、私の胎の胎児は、喜びにおいてはねました。私の主のそのお母さまが、私の所に向かってやって来るとは一体どこから成ったのでしょう、どういうわけでしょうと、年老いたエリサベトの方が、うら若い娘であったマリアを、謙虚に、自分の主、メシアの母の訪問として歓迎し、喜び迎えるのであります。そして、主から、彼女に語られた言葉どもは、約束が成就するであろうと信じた方は幸いであると、マリアの信仰をほめたたえるのであります。そこで、本日の福音は終わるのでありますが、このあと、マリアは、高らかに、マリアの賛歌、マグニフィカートを歌うのであります。
年老いたエリサベトが洗礼者ヨハネをみごもり、また、ヨセフの婚約者であったマリアが、聖霊によってみごもる奇跡の出来事によって、メシアがこの世界に誕生することになります。私たちは、この奇跡の出来事を信じ、自らの罪を告白し、主が私たちの罪を取り除いて、永遠の喜びに仕えさせてくださることを、主イエスに心から感謝する者であります。クリスマスの祝いが今、世界中でにぎやかに持たれようとしていますが、私たちの罪を取り除くために、おとめマリアを通して、この世界にお生まれになるお方を、もう一度、心を新たにして迎え入れたいものであります。祈ります。

天の父なる神さま。あなたは、独り子、メシアであり、主であるイエスを、私たちのもとに、超越的な手段で遣わしてくださいました。マリアの信仰と、エリサベトの謙虚なあなたへの従順を、私たちも受け継ぐことができますように。私たちは罪にまみれて生活しておりますが、み子の誕生と、そして十字架の死によって、私たちの罪を赦し、罪から救いだしてください。平凡な、日常茶飯事の中で、家族や知人、隣人に感謝することを覚えさせてください。そして、み子によって祝福されていることを思い起こさせてください。
あなたのみ子のご降誕を祝うにあたって、その心備えをし、また、今年も新たなクリスマスを迎えさせてください。この時も悲しみのうちにある人、悩み苦しんでいる人たちと共にいて、慰め、励ましてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。



2009/12/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天使のお告げ」(ルカ1:26~38)
ルカ1:26-38、2009・12・13、待降節第3主日(典礼色―紫―)
サムエル記下7:8-16、ローマの信徒への手紙16:25-27

ルカによる福音書1:26~38
 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。



説教「天使のお告げ」(ルカ1:26~38)

待降節も後半に入り、本日はその第3主日となり、来週はいよいよ待降節第4主日となり、クリスマス主日を兼ねて、クリスマスを祝うことになります。本日は、天使ガブリエルのお告げが、ガリラヤの町ナザレに住んでいたマリアのもとに届けられ、そして、次週は、ユダの山里に、マリアが、親戚のエリサベトを訪ねるという本日に続く個所が読まれます。
 主の再臨が、第2のアドベントであるのに対して、本日は、今から2000年以上も前の、主イエスが、マリアの胎に宿ることになるいきさつが、記されています。
 その内容について、ご一緒に、しばらく、思い起こしてみましょう。ザカリアの妻エリサベトに、のちに洗礼者になるヨハネがその胎に宿って6か月目のことでありました。
 天使ガブリエルが、ガリラヤのナザレという町に住んでいたマリアのもとにやってくるのであります。そして、彼女は、ヨセフという人のいいなずけ、婚約者でありました。
 天使は、おめでとう、あるいは、喜びなさい、恵まれた人よ、あるいは、神のご好意が与えられた人よ、主があなたと共におられますと挨拶するのであります。
 マリアはこの言葉に、困惑し、この挨拶は、いったい何なのだろうとあれこれ考えていたのであります。
 すると、天使は、恐れるな、マリア、あなたは、神からの恵み、ご好意を見出したのであると言い、さらに、続けます。そして、見よ、胎においてあなたは身ごもるだろう、そして息子を産むだろう、そして彼の名をイエスとなずけるであろう、というのであります。イエスとは、その当時のユダヤの国においてはよくある名前でありましたが、主は救いとか、主は救い主という意味の名前であります。
そして、天使は続けるのであります。すなわち、その者は、偉大になるであろう、そしていと高き者の息子と呼ばれるであろう。そして彼に、主なる神はその父ダビデの王座を与えられるであろうというのです。ダビデの末から大いなる王が起こるとの本日の第一の朗読、サムエル記下7章の預言が実現するというのであります。
 そして、ヤコブの家に向かって永遠に彼は統べ治めるであろうと告げます。そして彼の王国の終わりはないであろう、永続するというのです。
 マリアは、天使に向かって言います。どうしてそのことがあることになりましょうか。私は男の人を知りませんのに、と答えます。マリアは、婚約はしていましたが、まだ結婚してはおらず、床入りはしていなかったのであります。すると、天使は、答えて言います。聖霊があなたに向かってやって来るであろう、そしていと高き方の力が、あなたを包むだろう。それゆえ、また、生まれる子は、神の息子、聖なる方と呼ばれようと。さらに続けます。
 そしてみよ、あなたの身内、親戚のエリサベトは、老年にもかかわらず、息子を身ごもっている、不妊の女の人と呼ばれていたのにもう6か月の胎児を宿している、と言い、なぜならば、神からのすべての言葉は不可能なことはないであろうからというのであります。
 ついに、マリアは言います。見よ、私は主のしもめです。あなたのその言葉に従ってわれになれかしと言ったのでありました。そして、天使は彼女から離れて行ったのであります。「あなたのお言葉通りになりますように」とマリアは、天使に答えたのであります。神さまからの一方的な恵み、ご好意によって、マリアは、主の母となるのであります。
 神からのすべての言葉・出来事には、不可能なことはないであろうと、天使ガブリエルは語って去ったのであります。
 今日の主日の祈りには、私たちの心の闇をみ光で照らしてくださいとありました。待降節を待ち望む中にありましても、私たちは、言葉と行いと思いによって、日ごとに、罪を犯さざるを得ない弱さを覚えます。しかし、神に心を寄せる者に神は耳を傾けて下さるとも、本日の主日の祈りにはありました。神には不可能なことはないのであります。そこに希望を見出していきたいものであります。
 私たちは、次の主日、本日に続くマリアのエリサベト訪問の記事を読みます。私たちの理性では信じられない出来事が、クリスマスの出来事であります。神にして人であるみ子イエスが地上に、2000年も前に、神のご意志によって、マリアの胎に宿るのであります。
 私たちは、再び、この主イエスが、終りの日に再臨することも知らされています。
しかし、第一のアドベント、主の来臨は、本日の出来事を通して実現していくのであります。神からのすべての言葉・事柄には、不可能なことはないであろうとの天使の言葉を思い起こしながら、私たちの罪のために、地上にお出でになられ、私たちと同じ体をもって人となられた、真の神を心からお迎えする、慎ましいひと時をこの時期送っていきたいものであります。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
 

2009/12/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の道を整える」(ルカ3:1~6)内海望牧師
ルカ3:1-6、2009・12・06、待降節第2主日(典礼色―紫―聖餐式あり)
マラキ書3:1-3、フィリピの信徒への手紙1:3-11

ルカによる福音書3:1~6
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。
 谷はすべて埋められ、
 山と丘はみな低くされる。
 曲がった道はまっすぐに、
 でこぼこの道は平らになり、
 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」


説教「主の道を整える」(ルカ3:1~6)内海望牧師

 先週から教会の暦は新しい年に入りました。アドベント、主イエスがこの地に来られるのを待ち望む季節です。ところが、教会の典礼色は主イエス・キリストの受難を覚えるレント(四旬節=受難節)の時と同じ紫です。紫色は、王の尊厳を示すと共に、悔い改めも表しています。また津田沼教会では、式文もハレルヤ唱に代えて「詠唱」が用いられています。ここには教会が歴史を通して考えて来た深いアドベントの意味があります。
アドベントは、イエスさまをお迎えする心備えをする時です。イエスさまは世界の王、支配者としてエルサレムに入城されました。この方は、裁き主でもあるのです。
ところで、年中行事としてではなく、今ここに主なるイエスさまが来られると知った時、私たちの心はかなり動揺するのではないでしょうか。例えば、今日の第一の日課であるマラキ書を開いてください。そこには次のように書かれています。「だが、彼の来る日に誰が身を支え得るか。彼の現われる時、誰が耐え得るか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ」と主を迎える者の緊迫した心の状態を描いています。彼は私たちを裁く火だと言うのです。しかも、その日は、現在のアドベントのようにカレンダーで知らされた時でなく、「突如として来る」というのです。あるいは、アモス書5章を開くと、「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって光ではない。」「暗闇であって、輝きではない」と書かれています。つまり、神さまを迎える日は暗闇であると語るのです。私達を火で精錬する恐ろしい方の到来だと言うのです。
今日の福音書の日課を先まで読むと、ヨハネも「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」と厳しく、神さまの前に立つことの恐ろしさを伝えています。
旧約聖書には「神さまを見た者は死ぬ」という言葉さえあります。旧約聖書の神さまと、新約聖書の神さまとは同じ神さまです。決して別な神さまがいらっしゃる訳ではありません。神さまはその主権を人間の上に振るわれるのです。ごまかしはききません。私たちは、どこかでこの聖書の言葉を薄めて自分にとって都合のよい神さまに仕立てあげようとすることがないでしょうか。「聖なる主を迎える」ということは、私たち罪人にとって恐ろしい、震えあがらせるような時だと、聖書の人々は証言しているのです。
ところで、ルーテル教会は、他の教会に比べて罪意識において最も深い教会と言われています。それは、ルターが、預言者マラキやアモス、また、ヨハネのように「神さまの前に立つ」ことの意味を、その生涯を通して私たちに伝えたことに大きく影響されているからだと思います。
ルターにとって「神さまの前に立つ」ということは、神さまから打ちのめされるということを意味しました。私たちは「罪」という言葉を道徳的に考えようとします。たとえば、「人の悪口を言った」とか、「隣人にねたみや憎しみを持った」あるいは「愛が足りなかった」など数え上げればきりがないほど罪を思い出します。
そして、「もっと信仰を強くしてクリスチャンとして頑張らなければ」と焦り気味に生きていることが多いのではないでしょうか。何か心がちくちくと痛むような経験をしているのではないでしょうか。ルターも修道院生活の初めの時はそうでした。しかし、焦れば焦るほど、ルターは、自分が、神さまも隣人も心から愛することの出来ない自分本位な人間であることに気づかされるだけでした。自分が絶対なのです。そして、ついに「あれこれの道徳的な罪の問題でなく、全く罪人である自分」ということに気づかされたのです。
パウロも「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と嘆き、更には「わたしの五体の中にもう一つの法則があって、わたしを罪の法則のとりこにしているのが分かります」と断じ、「わたしは何と惨めな人間でしょうか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と祈り叫んでいます。マラキやホセアと同様、パウロも神さまの前に震えおののくしかなかったのです。このような経験をルターは預言者たちから、ことにもパウロから学んだのです。
パウロにとっても、ルターにとっても「罪」とは、自分の道徳的な欠陥、あるいは性格的欠点とか、行いの足りなさではなかったのです。道徳的な意味で罪を考えるなら、それは必ず律法主義に陥ります。つまり、他人の罪を数え上げ、非難し、自分を高みに置くという暗い喜びに生きる者となるのです。しかし、ルターは罪人である自分の発見をしたのです。
ルターは完全に打ちのめされました。そこには何の言い訳も出来ず、倒れ伏している罪人がいるだけです。
罪人である自分を発見したとき、ルターは神さまの前に立つ人間となったのです。この時、彼の罪意識は道徳的な基準を越えて信仰的な次元に深まっていったのです。「罪を犯して悩む私」でなく、「罪人である私の発見」こそ、ルターが聖書から、特にパウロの言葉から聴き取った事実であったのです。
「山上の説教」という有名な個所がマタイ福音書にあります。ルカにもマルコにも断片が出てきます。道徳的に読めば、まことに厳しい内容です。たとえば、「右の眼が罪を犯すなら、えぐり出せ。両目があって地獄に行くよりは、一つ目でも神の国に入る方がよい」という言葉があります。これは、文字通りの意味であると思います。たとえではありません。この言葉を聞いた当時の人々も文字通りに読んだと信じます。だから、大部分の人はイエスさまの許から去って行ったのです。彼らは、聖書の言葉を薄めるということはしませんでした。だからこそ、立ち去る者であったのです。すべての道徳的な努力は消え去ったのです。
しかし、パウロは、そして、ルターもイエスさまの言葉から立ち去ろうとはしませんでした。反対に、まっすぐにみ言葉にぶつかり、打ち倒されてしまったのです。その意味で、彼らは神さまの前で誠実であったのです。まさに、「打ち砕かれ、悔いる心」そのものであったのです。このような意味で、罪意識の深さこそがルーテル教会なのです。決して道徳的、あるいは律法主義的な意味で罪を問題にしているわけではありません。ここのところをしっかりと踏まえなければなりません。
「その時」とルターは口を開き始めます。「人間のすべての業が消え失せ、せんかた尽きた時、救いが来た」と。何故、イエスさまが来られたのか、何故十字架に死なれたのかが見えて来たのです。それは、罪人を救うためであったのです。イエスさまは罪のとりことなり、死すべき罪人となった私を救うために、この世に来て下さったことを知ったのです。イエスさまは、決して罪人の敵ではありません。「打ち砕かれ、悔いる心」に復活のいのちを注いで下さる方です。私たちは、ここで何故アドベントに紫色が選ばれたかという理由が分かります。「打ち砕かれた心、悔い改めのしるし」が紫なのです。
しかし、今や私たちには、このキリストの十字架の愛による赦しの愛が、生ける泉として注がれているのです。もはや、主が来られる時は「暗闇の時」でなく「希望の時」、「待ち望む時」となるのです。
今日の第二の日課であるフィリピ1:6を読んでみましょう。実は、その日は神さまの愛のご計画が完成する日だとパウロは言うのです。何故なら、イエスさまの十字架上で息を引き取られる時の最後の言葉は、「成し遂げられた」というものであったとヨハネ福音書は伝えてくれます。だからこそ、私たちはクリスマスを破滅の時としてでなく、救いの完成の始まりの時として待ち望むことが出来るのです。
このイエス・キリストの福音に出会って以来、パウロもルターも自分の努力に頼らず、ひたすらにイエスさまの十字架の愛のみに頼って生きる人間となったのです。「悔い改め」とは「方向転換」という意味です。彼らは、自分の点数に目を注いで生きる生き方から、ただひたすら、イエス・キリストの十字架の愛のみに頼って生きる人間になったのです。イエスさまの赦しの愛に生きる者となったのです。その時から、主を待ち望むことが喜びであり、真の希望となったのです。私たちも自我に死に、キリストと共に生きる者として、復活の喜びに与りたいと思います。
それにしても、私たちはヨハネの「声」が聞き分けられるでしょうか。私たちは多くの雑音に囲まれて生きています。この世の神々が私たちの前に眩しい光を携えて迫って来ます。そのような中でしっかりと耳を澄まし、キリストの声を聞き取り、神さまの前に方向転換した者として、イエスさまを迎える準備をすることこそ、道を整えることではないでしょうか。クリスマスへの道を希望のうちに歩みましょう。アーメン。
2009/12/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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