津田沼教会 牧師のメッセージ
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「すべての人のディアコノス(奉仕者)に」(マルコ9:30~37)
マルコ9:30-37、2009・09・27、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書11:18-20、ヤコブの手紙4:1-10

マルコによる福音書9:30~37
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」





説教「すべての人へのディアコノス(奉仕者)に」(マルコ9:30~37)

本日の福音は、マルコ9:30-37であります。先週の福音、マルコ8:27-38が、第1の受難予告を含んでいたのに対して、本日の福音は、第2の受難予告を含んでいます。先週の記事であったフィリポ・カイザリアでのペトロの信仰告白と受難予告の後、主イエスは、主の変貌の山に登り、そこから、下って、汚れた霊につかれた子を癒すという奇跡をなさいました。
本日の記事は、そしてそこから、出て、彼らは、かのガリラヤを通って行きつつあったと始まります。で、イエスは、誰かがそれを知ることを欲しないでおられた、なぜならば彼は教えておられ、彼らにこう語っておられたからであるとあります。すなわち、人の子は、人間どもの手に渡される、そして彼らは彼を殺すだろう、そして、殺された後、三日目に、彼は起き上がるであろう、と言われ、二度目の死と復活の予告をなさっておられます。
神によって、人の子は、人間どもの手に渡されることになっていることを、再度予告していますが、三つの予告のうちでは、これがむしろ、オリジナルではないかとも言われます。主は、12弟子たちに、そのことを教えるために、ガリラヤを進んで行かれるとき、誰かに知られることを望まれなかったのであります。
ところが、弟子たちは、その言葉が分からないでいた、そして、彼に質問することを恐れていたというのであります。
マルコの描く弟子像がここに示されています。すなわち、弟子の無理解というテーマであります。そして、そのことが、後段のエピソードによって、さらに、浮き彫りにされるのであります。すなわち、彼らはカファルナウムにやって来ます。
主イエスはある家に入り、彼らに質問なさいます。ペトロの家であったかもしれません。道において、あなた方は何を論じ合っていたのかと。彼らは黙っていたとあります。なぜならば、彼らは誰が一番大きいか、偉大かと論じ合っていたからであります。主イエスがエルサレムでの死に向かって進んで行くと教えておられたときに、彼らは、何のことか分からず、それどころか、だれが、一番偉いかという野心的なことについて論じあっていたのであります。
主イエスは、座られて、12人を呼び寄せてお語りになるとあります。だれでも、一番であることを欲する者は、最後の者にならねばならない、なるであろう。
そして、すべての者への奉仕者、すなわちディアコノスにならねばならないと言われるのであります。ディアコニア、奉仕し仕えるという言葉はここから来ているのであります。私たちは、すべての人に仕える者になることができるでしょうか。主イエスは、仕えられるためではなく、仕えるために、そして、すべての人の身代金として命をお与えになるために、お出でになられた方であります。
本日の主日の祈りにありましたように、主は、父なる神のみ心に、最後まで従順でありました。私たちは、仕える喜びを知らされていますが、すべての人に仕えるということは、ほとんど不可能に近いことであります。しかし、主イエスのお言葉を聞き続け、1年深まるごとに、さらに10年たち、20年たって、長い信仰生活を送る内にようやく主イエスの言葉は、理解していけるものではないでしょうか。
この連休中、神学校100年記念の時期でもありましたが、皆さん、どのような体験をなさったでしょう。私も、アメリカからの宣教師夫人が来られたので、母教会の当時の青年会の者たち、5、6名がある喫茶店でその夫人を囲んで落ち合いました。そして、青年時代から、始めは、宣教師や牧師方との出会いを通して、主イエスのお言葉が、十分には分からなかったのを、少しずつ、分かるようにされたことを、想起させられ、今つながっている教会や状況はそれぞれ違っても、同じ主イエスへの信仰を守ることが出来ている幸いを共々に感謝したことでした。
 さて、主は、さらに、ある子供を受け取り、真ん中に立たせてから、抱きよせて言われるのであります。私の名のために、このような子の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのであり、私を受け入れる者は、私をではなく、私を遣わした方を受け入れるのであると。子供は、一人では生きていくことはできない存在ですが、親に、そして、神に全信頼をおいて生きている存在であります。主はそのような子供を祝福なさり、そのような者を受け入れる者は、私を遣わした父を受け入れる者であるとエルサレムに向かう途上で、死に向かって進みながらも、子供を抱いて祝福なさる心の柔らかさを持っておられるのであります。私たちも主にならい、どこまでも、神のご意志への従順さと謙虚さをもって、み後に従っていきたいものであります。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2009/09/27(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「真の命を得るために」(マルコ8:27~38)
マルコ8:27-38、2009・09・20、聖霊降臨後第16主日(典礼色―緑―)
イザヤ書50:4-11、ヤコブの手紙2:1-18

マルコによる福音書8:27~38
 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』という人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



説教「真の命を得るために」(マルコ8:27~38)

私たちは、先週までいろいろな方面に出かけられ、異邦人の女の願いを聞き入れてかなえてやったり、おそらく、これも異邦人であったとも考えられる男の人の耳と口を自由にしたりする奇跡をなさる主イエスのみ業を読み進んで来ました。
本日は、マルコによる福音書8:27-38が与えられています。本日の福音の部分から、主は十字架への道を歩み始める、いわば、分水嶺とも言えるのが個所であります。主イエスの一行は、本日の記事では、フィリポ・カイザリアの村々へとやって来ます。パンの神、豊穣の神が盛んに信じられていた異教の地方であります。ここで、主は、弟子たちに、「人々は、私を何者と言っているか」と主イエスの方から先に、質問なさるのであります。当時は、ラビに対して、その弟子たちの方から質問するのが普通でありましたが、ここで、主は自ら、弟子たちに質問なさるのであります。彼らは、「洗礼者ヨハネだ、彼が生き返ったのだとも、エリヤだとも、また預言者たちの一人だという者もいます」と答えます。
それに対して、主は、「では、あなた方は私をだれだというのか」とこの異教の地で重ねて尋ねられるのであります。ペトロが、「あなたは、メシアです」と答えます。当時の人々はメシア、キリストが来られるのを期待していたのであります。しかし、それは、政治的に自分たちをローマの圧政から解放してくれるダビデ王的なメシアのことを、ペトロも考えていたでありましょう。それに対しては何もお答えにならずに、ただだれにも彼のことを話してはならないと口止めされるのみでありました。
それから、主は教え始めるのであります。「人の子は、律法学者たちや祭司長たち、長老たちによって、無価値と宣言され、拒まれることになっている。また、彼らは彼を殺すことになっている。そして彼は殺された後、三日後に、起き上がることになっている」と。すると、ペトロが道のわきに連れて行き、主をいさめます。すると、主は、「サタン、私の後ろに引き下がれ」とペトロを叱り、「あなたは、神のことを思わず、人のことを考えている」と言われるのであります。そして、弟子たちと群衆を呼び寄せて言われるのであります。「だれでも、私の後に従って来たい者は、自分を否定し、あるいは、自己放棄をして、自分の十字架を担って、私について来るように」と言われ、「なぜなら、自分の命を救おうと欲する者は、それを失い、私のために、そして、福音のために、自分の命を失う者はそれを救うであろう」と言われるのであります。自分の命、魂を、自分の欲望や熱情のために用いようとする者はそれを失い、主イエスのために、また、福音のために失う者、すなわち、神のご意志に従って、苦難を負い、従順に生きる人は、彼の命を救うであろうと約束なさっているのであります。そして、「全世界を得ても、自分の命を失っては何の益になろう。自分の命と引き換えに何を人は与えるであろうか」と言われます。
そして、「この姦淫と罪の世代において、私と私の言葉を恥じる者は、人の子も父の栄光において、天使たちと来る時に、その者を恥じるであろう」と言われているのであります。
私たちは、主イエスと出会った初めから、主イエスが、十字架につく苦しむメシアであり、私たち弟子たちも同じ十字架を背負って歩まねばならないことを理解していたわけではありません。しかし、徐々に、多くの信仰の先輩や牧師、宣教師たちなどに導かれながら、真実のメシア、キリストのあり方を理解して来ることができたのであります。
そして、今度は私たちが、周りの人々に主イエスの十字架の死と復活の意味を宣べ伝え、主日の祈りにありましたように、終りの日に、救いの民へと共どもに、招き入れられたいと願うものであります。

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。











2009/09/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「エファッタ!(開かれよ)」(マルコ7:31~37)
マルコ7:31-37、2009・09・13、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)
イザヤ書35:4-10、ヤコブの手紙1:19-27

マルコによる福音書7:31~37
 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべてすばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」




説教「エッファタ!(開かれよ)」マルコ7:31~37

先週は、ティロスの辺りで、家に隠れておられた主イエスのもとに、ギリシャ人の女の人が、悪霊に取り付かれていた幼い娘のために、主イエスが来ているとのうわさを耳にして、やって来て食い下がり、主の足元にひれ伏し、子犬も子供たちの食卓から落ちるパン屑は食べるのですと主イエスに服従し、従順に忍耐したとき、「その言葉のゆえに」、感嘆し主がその女の願いをかなえた出来事でした。
 本日はそれに続く記事であり、出来事であります。その旅程は信じられないほどの遠回りをしており、あるいは、マルコは、パレスチナの辺りの地理がほとんど分かっていなかったのかもしれません。というのは、主は、ティルスからシドンを横切り、たぶん、海岸線を30キロほども、北上し、それから、大きく回って、デカポリスの真ん中を上がって、ガリラヤの海へとやって来たと記されているからであります。いろいろな説や解釈がなされてきましたが、どれが正しいかということは確定できないようであります。
とにかく、異邦人の多く住むガリラヤ湖の東側を進んで、さらにはデカポリスの真ん中を上がって、ガリラヤ湖にやって来たと記されているのであります。その旅行があったとすれば、それは、主イエスが御自分の使命を確認するための旅行であったでありましょう。
 さて、ガリラヤ湖へとやって来られた主のもとに、人々が、今度は耳が聞こえず、舌が回らない一人の男を連れて来て、彼に手を置いてやってほしいと願うのであります。
 主は、彼の両耳に指を差し入れ、また、つばきをし、それを、その男の舌につけ、ふれるのであります。そして、天を仰ぎ、祈りつつ、溜息を深くついて「エファタ」、すなわち、開かれよと言われたのであります。するとただちに、彼の耳は開かれ、また、舌の縛り、おそらく悪霊に縛られていた舌が解かれ、明瞭にしゃべりはじめたというのであります。
 そして、人々は、測りを超えて、この上もなく、驚いていた。そして、こう言っていたというのであります。「見事に、この方はすべてのことをなさった。耳の聞こえない者たちを聞こえるようになさり、また、口が利けなかった者たちをしゃべれるようになさるのだ」と人々は語っていたのであります。
 主は、人々の中から、この人を連れ出して、二人だけのところで、治療なさり、人々には、このことを誰にも言ってはならないと命じたのでありますが、そう命じれば命じるほど、人々はなおいっそう告げ広めていたと記されています。奇跡のことを口外してはならないと主はここでも言われています。それは、なぜでしょうか。
 主は確かに奇跡をおこなう人でありましたが、これみよがしに奇跡をなさったのではありません。主のお出でになられた本当の目的、使命は、彼が私たちの罪のために、十字架にかかることであったからであります。主は、おそらくここでも、異邦人たちの多い中で、この奇跡をなさったことでありましょう。ティロスでも同じでありました。
そこでのギリシャ人の女の人も、本日のはっきりとしゃべれるようになり、耳で聞くことができるようになった男の人も、その後、主イエスを信じ、あるいは、そして、主に従ったとは書かれていません。主の憐れみ、慈しみは、たとえ、主を救い主と信じない者たちに対しても惜しみなく注がれるのであります。
 そして、本日の奇跡の出来事は、本日の第一朗読のイザヤ書35章に記されていた預言が、主イエスのご到来において、実現していることを示すものであります。耳の聞こえなかった者が、聞こえる者とされ、口が利けなかった者が、しゃべれるようになる。砂漠の地に水がわき、すべての人が主なる神に栄光を帰するようになるとの預言が、主イエスの現在において成就されているのであります。
 先週のギリシャ人の母も、本日の耳が聞こえず、舌が回らなかった男も、私たち主を救い主と信じる者、私たち自身をも表現していると考えてもよいでありましょう。私たちのみ言葉に対する鈍い心と聞く力を、主が慈しみによって、切り開いて下さるのであります。
 主は、深いため息を持って、私たちの罪を嘆かれ、うめきをもって、天の父に祈られ、今も「エッファタ」、「お前は開かれよ」といって悪霊の縛りから解放してくださっているのであります。私たちは、聖書、み言葉に信頼し、主イエスの広く、深い慈しみに、身をゆだね、今週も共どもに新しい1週間を切り開いていきたいものであります。
祈ります。
 天の父なる神さま。過ぎました1週間、怠りや、数々の失敗や、愚かさにもかかわらず、本日、主の日を迎えることができました幸いを感謝いたします。どうか、み子、主のみ言葉の真意を悟ることが出来るように、私たちの鈍い心や耳を打ち開いてください。そして、日々、はっきりとあなたを口でほめたたえ、賛美する者とならせてください。新聞やテレビ、ラジオなどを、み言葉に照らして、読み、あるいは、見聞きする者とならせてください。あなたの慈しみはすべての人に注がれています。そして、主イエスの十字架はすべての人の救いのためであることを悟らせ、それを周囲の人々に伝える器とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。

私たちの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。

2009/09/13(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「恵みのつくえに集いて」(マルコ7:24~30)
マルコ7:24-30、2009・09・06、聖霊降臨後第14主日(典礼色―緑―聖餐式あり)
イザヤ書35:1-3、ヤコブの手紙1:2-18

マルコによる福音書7:24~30
 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。


説教「恵みのつくえに集いて」(マルコ7:24~30)

 いよいよ、9月に入りました。私たちが、今年の教会暦を3年サイクルのB年として、親しんで来ましたマルコ福音書も、既に本日で聖霊降臨後第14主日となり、もう後半に入っています。今日は、幸いにも、このあと、聖餐式が待っています。それにふさわしい福音の個所、マルコ7:24-30が与えられているのは、神さまの導きであるかのようにすら思います。マタイ15章にも、本日の出来事の並行個所がありますが、本日は、マルコの記事に沿って、その出来事をもう一度思い起こしてみましょう。
主は、そこから立ち上がり、ティロスへとやって来られるのであります。弟子たちもついて来たでしょうが、マルコは、主イエスのみについて記しています。ゲネサレトの地を去って、先週の福音の個所で、ユダヤ人や弟子たちと律法について議論したり、説明したあとに、主は、国境の地へ、さらには、フェニキアのティロスにまで、おいでになり、家に入り、誰にも知られたくないと願っておられましたが、主イエスの評判は異国の地にまで伝わっており、隠れ通していることが出来ないのであります。
そして、ある女の人、お母さんが、うわさを聞きつけてやって来て、主の足元にひれ伏し、悪霊に取り付かれた小さい娘から、悪霊を追い出してくれるように、主に嘆願するのであります。
それに対して、主は、まず、子供たちに十分食べさせねばならない。子供たちのパンを取って、子犬に投げてやるのはよろしくないと答えられるのであります。この言葉は、普段の主イエスの様子とはずいぶん違っており、今までも聖書の学者たちを困惑させてきたものであります。
ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との分け隔てがあって、マルコ福音記者が、主イエスの言葉としてここに編集した言葉なのかもしれません。しかし、この厳しい主イエスの答えに対して、このシリア・フェニキアのギリシャ人女性、あるいは、単なる異邦人であった女性は、答えるのであります。「主よ、先生さま、そして、小犬たちは、机の下で、子供たちから落ちるパン屑を食べるのです」と。
犬という言い方は、ユダヤ人たちが異邦人たちを軽蔑して使う言葉で、外をうろつく野良犬を指しています。しかし、主はここで、家の小犬たちと呼んで、厳しさを和らげられておられます。
すると主は、この異邦人女性を大いに喜ばれ、その言葉のゆえに、出て行きなさい。あなたの娘から、悪霊はもう出てしまったと言われます。そして、母親が家へと帰ってみると少女はベッドに向かって横たわっており、悪霊は既に出てしまっていたのであります。
先週の個所は、この部分の前の記事7:1~15でした。律法から解放された福音の時代が主イエスの到来と共に始まり、ユダヤ人も異邦人たちも、律法の垣根が越えられ、新しい主イエスによってもたらされた救いの時代が既にここに成就しているのであります。
私たち日本人もかつてのユダヤ人たちから見れば、異邦人であります。そして、この本日の女性は、そのような私たちをも表しています。また、私たちは、自分の功績や立派な行いによって、主イエスの体とパンである聖餐に与るのではありません。本日の女性と同じように、主のお言葉を信じ、忍耐強く待って神の贈り物として与えられた、主イエスの体と血、すなわち、パンとぶどう酒に与ることが出来るのであります。そして、旧約も預言していたように、すべての国民が、国籍や皮膚の色にもよらずに、この約束されていた恵みに与り、「恵みのつくえに集う」ことが実現しているのであります。この喜びを、本日は聖餐式に共に与りながら、家庭に帰り、社会に戻り、共に生活し、また、出会いますすべての肉親や友人や行きかう人に伝えてまいりましょう。
祈ります。
 父なる神よ。この1週間を守られましたことを感謝します。これから、秋の伝道の時期を迎えます。どうか、一人でも多くの人が、福音を知り、神から一方的に与えられた主イエスによる救いを告げ広め、また、証ししていくことができますように。キリストによって祈ります。
 
私たちのうちに働く御力によって、私たちが求めたり、、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


2009/09/06(日) 10:30:02| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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