津田沼教会 牧師のメッセージ
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「神の命令か、人の伝統か」(マルコ7:1~15)
マルコ7:1-15、2009・08・30、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)
申命記4:1-8、エフェソの信徒への手紙6:10-20

マルコ7:1~15
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
 その心はわたしから遠く離れている。
 人間の戒めを教えとしておしえ、
 むなしくわたしをあがめている。』
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」


説教「神の命令か、人の伝統か」(マルコ7:1~15)
 
本日は、聖霊降臨後第13主日を迎えました。私たちは、この時期、マルコによる福音書を通して、主のお言葉となさったみ業について、福音の記事を与えられています。
 本日は、エルサレムから、何人かの律法学者とファリサイ派の者たちが、やって来て、主イエスに質問する論争物語の出来事であります。
 あなたの弟子たちは、どうして、食事の前に、手を洗わないのですかと主イエスに言うのであります。彼らは、市場から戻って来た時にも、異邦人との接触を通じて、身を汚したとも考えられるので、身をきよめることをしていました。その他にも、鉢や、寝台や、杯などを、水で清めたりする多くの祭儀的な習わしに従っていたのであります。
 主イエスは、答えられます。あなた方は、見事に、預言者イザヤが言っている通りの生き方をしている。すなわち、唇では私をあがめているが、空しく私を敬っているにすぎないと預言したとおりである。それどころか、あなた方は、父と母を敬えとあり、父母をののしる者は死刑に処すべきであるとあるのに、父母に向かってある人が、あなたにささげるべきものは、コルバン、すなわち、神への捧げものですといえば、父母に責任を負わなくてよいなどと言っていると答えられ、群衆を招いて、彼らに言われるのであります。
 すなわち、人の中から、汚れたものは出て来る。内側から清めなければ、人間は清くなることが出来ないと言われるのであります。
 私たちは、昔の人の言い伝え、すなわち、人間が作り出した伝統だけでは、真にきよめられることはできないのであります。神の命令、主イエスのお言葉によらねば、私たちは真に清められることはないのであります。
 本日の第一の朗読の申命記も、神の戒めを守るときに、私たちは真の命を見出すと言われています。
 私たちは、日常生活、社会生活の中で、多くのことに、心を煩わせていますが、神のみ言葉によってしか、欠く事の出来ないものを選び取ることはできないのであります。
 内側から清められ、その上で、昔の人の言い伝え、あるいは、伝統を吟味していくことが大切であります。世の中に、すばらしい知恵や、人類の英知と言われるべきものは、多くありますが、聖書の言葉、教えによって、生き方を選び取らなければ、本日のエルサレムから来た律法学者たちのように、形骸化し、内容のないものに陥ることがしばしばであります。
 私たちの内側から、清められる、そのようなものとして、主イエスの言葉があり、旧約聖書の教えもあるのであります。
 私は、先週、宣教ビジョンセンターで特に日本文学者の記念館を訪ねる研修旅行に、総勢7名の牧師で行って来ました。その中で、花巻の宮沢賢治記念館を観て来ました。あの有名な「雨にも負けず、風にも負けず・・・」の詩のモデルは、無教会派のキリスト者、斎藤惣次郎という人であることも初めてしりました。宮沢賢治は浄土真宗の家に生まれましたが、法華経を読み、感動し、日蓮宗を信じたのであります。彼は、その熱心な信徒として、両親を改宗させたり、知人、友人に日蓮宗を広めるために健闘したのでした。
 私たちは、神とみ子イエスに招かれて、この小さな教会の群れの一員とされているものです。エルサレムから来た律法学者やファリサイ派のように、神の命令を空しくすることなく、また、昔の人の言い伝え、伝統によって、がんじがらめにされるのではなく、主イエスの教えによって自由に、大胆に生き、この救いを人々に告げ広める群れとされていきたいものであります。アーメン。




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2009/08/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「湖上を歩まれる主イエス」(マルコ6:45~52)
マルコ6:45-52、2009・08・23、聖霊降臨後第12主日(典礼色―緑―)
ゼファニア書3:18-20、エフェソの信徒への手紙4:1-16

マルコ6:45~52
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。



説教「湖上を歩まれる主イエス」(マルコ6:45~52)
 
聖霊降臨後第12主日の福音は、先週のマルコ6:30-44に続くマルコ6:45-52であります。5つのパンと2匹の魚を裂いて、5000人もの群衆を満腹にすることができた。それに続いての記事であります。
 主は、ベッサイダに向かって、向こう岸へと、弟子たちを強いて乗船させ、先に行かせたのであります。そして、群衆と別れを告げ、ご自身は山へと、あるいは、丘とい言った方がいいかもしれませんが、そこへ祈るために一人、出て行かれたのであります。
 そして、夕方になったとき、舟は海の、すなわち、ガリラヤ湖の真ん中にあり、地の上には主イエスお一人がおられたのであります。
 そして、彼らが、進むにおいて、無理をしている、すなわち、漕ぎあぐねているのを、御覧になったとき、主は、明け方ごろ、夜の見張りの第4時ころ、つまり午前3時ころに、海の上を歩きまわって、彼らの方へと行かれ、そして、彼らのそばを通り過ぎようとなさっておられたのであります。
 ご自分が、海、すなわち、死をも支配する神であることを示されようとしていたのか。あるいは、むしろ、弟子たちのご自分に対する信仰を試そうとしておられたのかも知れません。
 弟子たちは、主を見て、幽霊だ、幻影だと考えて、思わず叫び声をあげたのであります。
 先だって、福音の個所として出て来た、舟の中で、嵐にあっても眠っておられたときとは違って、彼らは、自分たちの死の恐怖に直面していたわけではありません。
 しかし、主イエスは、すぐに語りかけ始められ、「勇気を持て、私である。私はありてある者である。恐れるな」と言われ、舟に上がられると、風はやんだのでありました。
 弟子たちは、自分たちの心の中でこの上なく、ひどく、驚き、肝をつぶしていたと書かれているのであります。そして、それは、彼らの心が愚鈍になっていて、パンの奇跡を理解できないでいたからであるというのです。
 私たちは、本日の、逆風に漕ぎあぐねている小舟の中に置かれているのと同じ小さな教会の群れであります。しかし、どんなに順調でない時にも、主のお言葉と共にある、主と共にある存在なのであります。
 確かに、私たちはしばしば、み言葉から離れ、罪に陥らざるを得ない弱い存在であります。けれども、主イエスのお言葉と共にあるとき、どんな試練、逆風にも耐えることが出来る存在なのであります。
 先週、ディアコニア・キャンプに障がい者の3人の兄弟姉妹を含めて、総勢13人で行ってまいりました。4泊5日のかなりハードなキャンプでありました。さすがに、戻ってから疲れが出て、体調がここのところ、あまりよくありませんでした。
 しかし、本日のこの個所を与えられ、真の癒しを主のお言葉と、主が共におられることを通して与えられています。
 牧師は、毎週のように説教をしなければなりません。それは、大変なことですけれども、毎週のように、こうして、礼拝に兄弟姉妹と連なることが許されています。それを通して大きな慰めと力を与えられ、回復することができるのであります。
 さて、この福音書を読んでいたマルコの教会の人々にとって、その存在は、本日の小さな舟の中で漕ぎあぐねている弟子たちと同じようなものであったでしょう。
 しかし、主が共にいて下さり、この記事を読むたびに、彼らは真の安らぎを与えられ、主イエスこそ真の救い主であることを告げ広める特権と責任を喜んで引き受けることが出来たでありましょう。
 主イエスこそ、私たちに真に欠乏しているものを与えて下さる方なのであります。それを、2000年たった今も、主は聖餐を通して、また、み言葉を通して与え続けておられるのであります。
 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方を、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2009/08/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の業にいそしむために」(マルコ6:30~44)原拓也牧師
マルコ6:30-44、2009・08・16、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)
エレミヤ書23:1-6、エフェソの信徒への手紙2:11-22

マルコ6:30~44
 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるように、お命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。



説教「主の業にいそしむために」(マルコ6:30~44)原拓也牧師

 この箇所は「五千人の給食」「五千人のパン」「五つのパンと二匹の魚」などと言われてよく知られている箇所であるとともに、主がなさった数々の力あるみ業の中で、唯一、四福音書全てに記録されている出来事でもある。(マタイ14:13~21、ルカ9:10~17、ヨハネ6:1~14)。
 このことは、この出来事が弟子たちの印象に深く残っただけではなく、彼らにとって極めて大事な経験であったことを示している。(ちなみに「四千人のパン」として知られている出来事は、マタイとマルコのみ。)
 日課の「五千人のパンの奇跡」自体については幾度となく聞かれていることと思うので、今日は日課の前半の部分(主に30~34節)に焦点を置いて主からの教えを聞いてみたいと考えている。説教題の「主のみ業にいそしむために」もそのような視点から設定しています。

6:31b:「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」。イエスさまご自身が「人の子は枕する所もない」と言われたように、主のご生涯は非常に多忙であった。当然、弟子たちも毎日慌ただしく過ごしていたことでしょう。
 そのような中でもこの時は特に忙しい時期だったようです。(時期的には前後していると思われるが、直前の記述だけを取り上げてみても。)

共観福音書:湖の上での嵐(嵐を治められたイエス)。12年間の病の婦人の癒し。ヤイロの娘のよみがえり。悪霊に取り付かれていた男の癒し。ナザレでの人々の不信と排斥。洗礼者ヨハネの殉教。
ヨハネ福音書:シカルでのサマリアの女との出会い。役人の息子の癒し。ベトサダの池でのユダヤ人たちからの迫害と殺意。
 など、精神的にも肉体的にも疲れるようなことが多く記されている。

6:31節a~32節:「さあ、・・人里離れた所へ行ってしばらく休むがよい・・。そこで、一同は舟に乗って・・・行った。」
 ここにはそのような状態の中での、イエスさまの弟子たちへの配慮が見られる。

6:33節:「ところが、多くの人々は・・そこへ一斉に駆けつけ、先に着いた。」
 このときの状況をもう少し考えてみましょう。
1、 一同はどこからどこへ行ったのでしょうか。
ヨハネ福音書は「ガリラヤ湖・・の向こう岸」
ルカ福音書は「ベトサイダという町」と記している。
 このとき、イエスさまはガリラヤ湖の北西岸カペナウムにおられたと考えられますから、そこから北東岸のベトサイダ近郊へ行かれたのでしょう。
2、 時間はどれくらいかかったのでしょうか。
 この両岸の間は直線距離で4~5キロメートル、岸辺を歩くと8~10キロメートルあると考えられます。しかも途中でヨルダン川を渡らねばなりません。「男が五千人」女・子供も入れると数千人の人が「駆けつけて(も)、・・・先に着く」ためには、相当の時間がかかったと考えられます。・・・1~2時間?もっとかかったでしょうか。
3、 この間、イエスさまと弟子たちは、(舟の上で)何をしておられたのでしょうか。ある註解者は「嵐にでも遭ったのだろう」と言いますが、私は「しばらく休むがよい」とのイエスさまのみ言葉との関連で、この時間に弟子たちは「(ゆっくり)主の教えを聞き、食事をし、休息を取った」と考えます。
そのために、イエスさまは意図的に舟をゆっくり進められた、とも言えるでしょう。

 このようにして、イエスさまは弟子たちを(次の働きのために)整えてくださった、と考えることが出来るのですが、このイエスさまは今の時代の私たちに向かっても、「しばらく休むがよい」とおっしゃるのではないでしょうか。
 「群衆を・・深く憐れ」まれた(6:34節)イエスさまは、同じ眼差しをもって私たちを見ていて下さる方であります。それ故、私たちは「憐れみを受け、恵みに与って、時宜に適った助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づ」くことができる(ヘブライ4:16)のです。

 この舟の中での憩いの時は、今日の私たちにとっては「礼拝」のときとして見ることが出来ます。
 「聖餐を含む礼拝の場」、そこは、イエスさまが「しばらく休むがよい」とおっしゃて日頃の生活に疲れている私たちを招いてくださり、“身をかがめて私どもの足を洗い、また、ご自身の身体と血とを与えて私どもを養い、強めてくださる所”です。
 湖の上で弟子たちが主とともに過ごした時間は決して長いものではなかったでしょう、しかし、弟子たちの次の働きを考えるとき、それは実に貴重で豊かな時間でありました。
 私たちが持つ「礼拝の時間」も決して長いものではありません。
 たとえば、一週間に一回の礼拝を90分としても、112時間分の1にすぎません。日毎の家庭礼拝を、20分としても、70日分の1に過ぎません。
 しかし、この時間は、クリスチャンが主に仕えて生きていくためには、欠かす事の出来ない大切な時間なのだ、ということを覚えておきたいのです。

 ただ、この日毎の、週毎の礼拝には危険も付きまとっています。
<ブラジルでの経験>
 現地の人が「カトリック(信者)は嘘つきだ、と言っている」ということを聞かされました。そこで「どういう意味ですか」と尋ねて話をお聞きしたのですが、そこで聞かされたことは、「礼拝(ミサ)」が空洞化してしまっているということでした。
 しかし、私たちが守る礼拝はそのようなものではない筈です。私たちの礼拝は、一人一人があるがままの姿で主の前に出て、赦しと慰めを受け、み恵みの中で養われ、強められて、もう一度人々の中に遣わされていく、そういう場所であります。

 主はこうして整えられた弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃいますが、この「あなたがた」という言葉は、敢えて言えば「あなたがたが(それを)しなければ誰がそのことをするのか」というほどの強い意味を持った言葉です。
 パウロは“私たちの日々の生活、その全てが礼拝である”と言います(ローマ12:1)。
 ルターはそのような生き方について「私はキリストが自らを私に与え給うたように、私を言わばキリストとして隣人に与える。そして、この生において私が隣人に対して必要であり、利益となり、救いとなると考えること以外の何事も為さないであろう」(キリスト者の自由)と言っています。

 私たちは日毎の「礼拝」、週毎の「礼拝」を大切に守り、ここで整えられて「主の業にいそしむ」者でありたいと願います。アーメン。
2009/08/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「素手で感じる力」(マルコ6:6b~13)立野泰博牧師
マルコ6:6b-13、2009・08・09、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)
アモス書7:10-15、エフェソの信徒への手紙1:3-14

マルコ6:6b~13
 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。



説教「素手で感じる力」(マルコ6:6b~13)立野泰博牧師

 どこのトイレも奇麗になりました。高速道路のトイレなどは特に目立って奇麗です。花が飾ってあったりして気持がいいものです。いつもトイレを清潔に保つことで交通事故を少なくしているのでしょう。
 トイレの話でもう一つ、あるデパートのトイレを利用していましたら、清掃のおばさんが入ってこられ、せっせと清掃を始められました。用をたしながらなにげなく見ていますと、その方は素手なのです。ゴム手袋もせずにただ黙々と清掃しておられました。その後ろ姿がとても印象的で、母を思い出しました。
 その方に「おばさんは素手ですね」と聞きましたら、「いつも奇麗に保っていれば平気よ」と言われ、「素手の方が細かい汚れが分かりますから」と言われました。
 私たちは神さまから素手のままで保たれています。神さまによって保たれている自分にはなかなか気づかないものです。どこかで誰かが保っていてくれるのです。イエスさまは、神さまの前で私たち一人一人のために祈っておられます。これこそが、私たちが保たれているということです。

 聖書をみてみましょう。弟子たちの派遣の箇所です。イエスさまは弟子たちを派遣するにあたり、「何ももっていくな」と言われています。素手で行きなさいと言われているのです。必要最小限、ここでは「つえ」「履物」「下着一枚」と言われています。このような物だけで宣教ができるのでしょうか。少なくともお金くらいはと思ってしまいます。
 この福音書に書かれてある、イエスさまのみ言葉は大変厳しいものです。厳しい条件をつけておられると言ってもよいでしょう。何ももっていくなということは、突き詰めれば「命がけ」ということです。宣教とは命をかけた活動であり「使命」であるといわれるのです。もっといえば「あなたは命がけの覚悟があるか」と問われているみたいです。使命を果たすにはそれくらいの覚悟でのぞみなさいと。そのような厳しいみ言葉です。
 しかし、どうしてそこまでの厳しさを求められるのでしょうか。これは弟子たちに「裸になること」「素手になること」を命じられたのではないでしょうか。福音の宣教に向かうときは、あなたが持っている物を捨てなさいということです。勿体ぶった重々しさや、飾り立ての装飾、いらない謙遜、人間の中にある様々な考えや思想などすべて捨てなさいということです。ひたすらイエスさまのみ言葉に立ちつくすのです。イエスさまとともに生きる真剣さと信仰のみでよろしい。その信仰の真剣さのみでよろしい。その信仰の真剣さのみが、人の心を打つことになるのです。
 「何ももっていくな」とのみ言葉をもう一度考えてみます。何度もみ言葉を読み確かめてみますと、あることに気がつきました。それはイエスさまが「何ももっていくな」と言われるときは、「あなたたちに必要なものはすべて備わっている」ということです。弟子たちが裸になって、素手になっても持ってるものがある。それはイエスさまを持っている。何もなくてもイエスさまが弟子たちの中に生きておられる。福音がそこにあるのです。自分が必要とするすべての物をすてたとしても、弟子の中にいきる信仰は残っているのです。
 イエスさまはきっとそれを教えるために「何ももっていくな」と言われるのです。道具や考え、思想やお金でなく、福音のみ言葉が私たちのうちに生きているならば、それですべてのものは備えられているのです。素手のなかに永遠の命をもっているのです。

 2年前にドイツ旅行をしました。3泊4日の旅で、アッという間に帰ってきました。しかし、こんなに恵みに溢れた旅も久しぶりでした。
 いつも思うのですが、海外旅行(出張)を計画するときは楽しくて仕方ありません。場所を調べ、航空券を予約し、準備を始める。その時は「るんるん」気分です。しかし、日にちが迫ってくると、だんだん面倒だなと思えてきます。3日前位になると「行きたくない」などと、思い出すのです。多分、普段の仕事がたまっているせいかもしれません。前日になっても「ああ~明日いかねばならないのか」とため息すらでてきます。こんなことを繰り返している自分が可笑しくもあります。
 ところが、離陸した瞬間にすべてのことから解放された喜びを感じます。不思議なことですが、全身が軽くなるのです。たぶんこの一瞬のために自分は旅行するのかもしれないと思うのです。日常の流れの中で、まったく違う日常の中に自分を置くことは、まったく別の自分を発見することができます。
 今回は「牧師」であることの発見をしてきました。はるか遠くのドイツまできて、ハノファーから車で約4時間、オランダとの国境に近い北ドイツの海辺の街までやってきて「一体自分は何をしているんだろう」と真剣に思いました。なぜ自分はここにいるのだろうと 
考えました。しかし、一人の子どもの洗礼式が私に「牧師」であることの喜びを与えてくれたのです。神さまによって遣わされている実感。選ばれてここに立っている自分は、牧師として召されていることの体感。言葉では表現できない召命を再びいただきました。
 何ももたない自分の、イエスさまをもっている宣教者の力を感じることができました。

 何も持っていない弟子たち。確かに見えるものは何も持っていない弟子たちでした。しかし、イエスさまに派遣されるにあたり、神さまの言葉と力を与えられています。弟子たちはみ言葉の力を持っています。だとすると何ももっていないように思えても、すべてを持っているのです。これが素手の力です。素手であることの原点です。
 私たちもまた、宣教に出ていくときに不安がたくさんあります。あれがない、これがないと不満も持っています。こんな私では・・・と弱気も持っています。しかし、それ以上にイエスさまを持っていることを知らなければなりません。イエスさまがあなたを宣教の道具として用いたいと派遣されるのです。神さまがその時に共におられると言われるのです。多くの人の前に立つとき、私だけがそこにいるのではありません。イエスさまも共にそこに立ち続けておられるのです。そこで出会う人々に祝福を与えることができる幸いを持っています。
 私たちは宣教にでかけるときに恐れも持っていかなくていいのです。







マルコ6:6b-13、2009・08・09、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)
アモス書7:10-15、エフェソの信徒への手紙1:3-14

マルコ6:6b~13
 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。



説教「素手で感じる力」(マルコ6:6b~13)立野泰博牧師

 どこのトイレも奇麗になりました。高速道路のトイレなどは特に目立って奇麗です。花が飾ってあったりして気持がいいものです。いつもトイレを清潔に保つことで交通事故を少なくしているのでしょう。
 トイレの話でもう一つ、あるデパートのトイレを利用していましたら、清掃のおばさんが入ってこられ、せっせと清掃を始められました。用をたしながらなにげなく見ていますと、その方は素手なのです。ゴム手袋もせずにただ黙々と清掃しておられました。その後ろ姿がとても印象的で、母を思い出しました。
 その方に「おばさんは素手ですね」と聞きましたら、「いつも奇麗に保っていれば平気よ」と言われ、「素手の方が細かい汚れが分かりますから」と言われました。
 私たちは神さまから素手のままで保たれています。神さまによって保たれている自分にはなかなか気づかないものです。どこかで誰かが保っていてくれるのです。イエスさまは、神さまの前で私たち一人一人のために祈っておられます。これこそが、私たちが保たれているということです。

 聖書をみてみましょう。弟子たちの派遣の箇所です。イエスさまは弟子たちを派遣するにあたり、「何ももっていくな」と言われています。素手で行きなさいと言われているのです。必要最小限、ここでは「つえ」「履物」「下着一枚」と言われています。このような物だけで宣教ができるのでしょうか。少なくともお金くらいはと思ってしまいます。
 この福音書に書かれてある、イエスさまのみ言葉は大変厳しいものです。厳しい条件をつけておられると言ってもよいでしょう。何ももっていくなということは、突き詰めれば「命がけ」ということです。宣教とは命をかけた活動であり「使命」であるといわれるのです。もっといえば「あなたは命がけの覚悟があるか」と問われているみたいです。使命を果たすにはそれくらいの覚悟でのぞみなさいと。そのような厳しいみ言葉です。
 しかし、どうしてそこまでの厳しさを求められるのでしょうか。これは弟子たちに「裸になること」「素手になること」を命じられたのではないでしょうか。福音の宣教に向かうときは、あなたが持っている物を捨てなさいということです。勿体ぶった重々しさや、飾り立ての装飾、いらない謙遜、人間の中にある様々な考えや思想などすべて捨てなさいということです。ひたすらイエスさまのみ言葉に立ちつくすのです。イエスさまとともに生きる真剣さと信仰のみでよろしい。その信仰の真剣さのみでよろしい。その信仰の真剣さのみが、人の心を打つことになるのです。
 「何ももっていくな」とのみ言葉をもう一度考えてみます。何度もみ言葉を読み確かめてみますと、あることに気がつきました。それはイエスさまが「何ももっていくな」と言われるときは、「あなたたちに必要なものはすべて備わっている」ということです。弟子たちが裸になって、素手になっても持ってるものがある。それはイエスさまを持っている。何もなくてもイエスさまが弟子たちの中に生きておられる。福音がそこにあるのです。自分が必要とするすべての物をすてたとしても、弟子の中にいきる信仰は残っているのです。
 イエスさまはきっとそれを教えるために「何ももっていくな」と言われるのです。道具や考え、思想やお金でなく、福音のみ言葉が私たちのうちに生きているならば、それですべてのものは備えられているのです。素手のなかに永遠の命をもっているのです。

 2年前にドイツ旅行をしました。3泊4日の旅で、アッという間に帰ってきました。しかし、こんなに恵みに溢れた旅も久しぶりでした。
 いつも思うのですが、海外旅行(出張)を計画するときは楽しくて仕方ありません。場所を調べ、航空券を予約し、準備を始める。その時は「るんるん」気分です。しかし、日にちが迫ってくると、だんだん面倒だなと思えてきます。3日前位になると「行きたくない」などと、思い出すのです。多分、普段の仕事がたまっているせいかもしれません。前日になっても「ああ~明日いかねばならないのか」とため息すらでてきます。こんなことを繰り返している自分が可笑しくもあります。
 ところが、離陸した瞬間にすべてのことから解放された喜びを感じます。不思議なことですが、全身が軽くなるのです。たぶんこの一瞬のために自分は旅行するのかもしれないと思うのです。日常の流れの中で、まったく違う日常の中に自分を置くことは、まったく別の自分を発見することができます。
 今回は「牧師」であることの発見をしてきました。はるか遠くのドイツまできて、ハノファーから車で約4時間、オランダとの国境に近い北ドイツの海辺の街までやってきて「一体自分は何をしているんだろう」と真剣に思いました。なぜ自分はここにいるのだろうと 
考えました。しかし、一人の子どもの洗礼式が私に「牧師」であることの喜びを与えてくれたのです。神さまによって遣わされている実感。選ばれてここに立っている自分は、牧師として召されていることの体感。言葉では表現できない召命を再びいただきました。
 何ももたない自分の、イエスさまをもっている宣教者の力を感じることができました。

 何も持っていない弟子たち。確かに見えるものは何も持っていない弟子たちでした。しかし、イエスさまに派遣されるにあたり、神さまの言葉と力を与えられています。弟子たちはみ言葉の力を持っています。だとすると何ももっていないように思えても、すべてを持っているのです。これが素手の力です。素手であることの原点です。
 私たちもまた、宣教に出ていくときに不安がたくさんあります。あれがない、これがないと不満も持っています。こんな私では・・・と弱気も持っています。しかし、それ以上にイエスさまを持っていることを知らなければなりません。イエスさまがあなたを宣教の道具として用いたいと派遣されるのです。神さまがその時に共におられると言われるのです。多くの人の前に立つとき、私だけがそこにいるのではありません。イエスさまも共にそこに立ち続けておられるのです。そこで出会う人々に祝福を与えることができる幸いを持っています。
 私たちは宣教にでかけるときに恐れも持っていかなくていいのです。

























2009/08/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「平和を創り出す」(ヨハネ15:9~12)内海望牧師
ヨハネ15:9-12、2009・08・02、平和の主日(典礼色―赤―)
ミカ書4:1-5、エフェソの信徒への手紙2:13-18

ヨハネによる福音書15:9~12
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」



説教「平和を創り出す」(ヨハネ15:9~12)内海望牧師

 今日は「平和の主日」として礼拝を守っています。これは日本福音ルーテル教会が設定した特別な主日で、8月6日、9日と広島、長崎に原子爆弾が投下された時期に最も近い日曜日に設定されています。今でも、被爆者の方々、また家族の方々の痛み苦しみは深く、聞いたり、読んだりするたびに心が痛みます。原爆のみならず、東京大空襲(ベタニヤホームでも多くの人が亡くなりました。)、沖縄戦、そして世界中の人々が戦争の痛手に苦しみました。また今も苦しんでいます。沖縄での戦いでは中学生、女学生までもが戦闘員として招集され、多くの人々が亡くなりました。
 太平洋戦争での犠牲者は今日310万人と言われています。ついこの前までは300万人と言われていたのです。どんどん数が増えて行きます。正確な数字は分からないのです。映画監督の新藤さんは、「その上、その家族の一人一人に悲しみを与えたのだ」と語っています。私たちが平和を求めて祈るということは大切なことです。また祈り続けることが大切です。
 今日与えられた聖書の個所を通して、平和主日に、私たちは何を祈るかということを改めて考えてみましょう。
 初めに、福音書の日課を読んでみましょう。この個所はイエスさまが十字架につかれる直前に弟子たちに与えられた訣別の説教の一節です。それは、イエスさまが弟子たちの足を洗い、最後の晩餐を終え、イエスさまを裏切ったユダは夜の闇に消えて行った時のことです。
13章にしるされています。
 そのような切迫した時に、イエスさまは新しい掟を弟子たちにお与えになるのです。それは「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」というものでした。イエスさまがお与えになった唯一の掟です。この掟が今日の日課である15章でも繰り返し命じられています。イエスさまの置かれている状況を考えないで、この言葉だけを取り出すならばまことに美しい言葉です。多くの人々が座右の銘にしています。
この掟に対する批判もあります。それは、ここでは仲間同士の愛が語られているだけではないか、もっと広い人類愛が語られるべきではないかという批判です。しかし、そのような批判をする前に、イエスさまの置かれている現実に目を向けなければならないでしょう。実は、イエスさまは最も深い悲しみと、苦しみの中にあったのです。自分に最も近い所にいた12弟子の一人が自分を裏切り、夜の闇の中へ去って行きました。あるいは、12弟子がお互いに誰が一番偉いかと言い争っていました(ルカ22章24節以下)。裏切り、妬み、そねみ、権力闘争が渦巻いていたのです。
 十字架を前にした切迫したこの時にも、イエスさまの周囲は「平和を乱す騒ぎ」でいっぱいだったのです。イエスさまの苦悩、悲しみはいかばかりであったでしょう。このような弟子たちに対して、イエスさまが「互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのは至極当然なことです。
 12弟子が特別に弱い人間であったということではありません。これは、12弟子だけの問題ではなく、罪人である「人間の問題」なのです。つまり、私たち一人一人の問題なのです。戦争や殺戮、憎しみを生み出したのは他でもない私たち人間なのです。ユダヤ人の強制収容所から奇跡的な生還をなしたヴィーゼルの書いた書物の中に(アニ・マアミン)、「どうしてホロコーストのような痛みをこの世界に許されるのですか」という必死に神さまに問いただす人間に対して、神さまが「お前は、いったい私の被造物に何をしたのだ」と問い返される場面があるそうです。神さまの悲しみに満ちた怒りの声が聞こえてくるような場面です。
 観念的な「人類愛」なら誰でも持つことが出来ます。しかし、真に平和が必要なのは、今ここに生きている生身の人間である私たちなのです。私たちは隣人に苦しみを与え、与えられて生きている罪人なのです。
 このように考えると、私たちは、神さまに「平和を与えて下さい」などと祈る資格はありません。私たちも12弟子となんら変わることがありません。むしろ、平和を願うなら、私たちは神さまの怒りと悲しみとを感じるべきなのです。今イエスさまを苦しめているユダ、ペトロなど12弟子の間にほかならぬ私たち自身の姿を見るのではないでしょうか。私たちは、平和を祈るどころか「平和を乱す者」なのです。
 このように平和が失われた弟子たちの間にあって、イエスさまは「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのです。「他でもない君たちこそ互いに愛し合うべきなのだ」と抽象的な人生訓としてではなく、生身の人生の現実の中でおっしゃっているのです。ここに目を向けるべきです。
 さて、ここで、今日の第二の日課であるエフェソ2章を開いてみましょう。この手紙は、パウロ自身が書いたものでなく、パウロに近い人物が書いたものだと言われています。それはともかく、エフェソ教会は異邦人教会でした。つまり、当時神さまから最も遠いとユダヤ人から言われていた異邦人とユダヤ人が共に礼拝を守っていた群れです。このことの意味は深いのです。私たちは「異なった文化」「異なった人種」「自分にとって都合が悪い人」と共に生きることが難しいことを知っています。「共に生きる」という美しい言葉が声高に語られますが、実際の生活ではそううまくいきません。私たちは違った人種、嫌いな人は避けたいのです。離れたいのです。実際問題としては、残念ですが、共に生きることは絶望的に難しいのです。
 しかし、確かに今、エフェソの教会の人々は「ユダヤ人と異邦人と共に礼拝を守っている」のです。驚くべき事実です。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。その原因を、この手紙の著者は、「キリストによって、そのようになった」と語るのです。そこで、イエスさまが、「私があなた方を愛したように」とおっしゃった福音書の意味がはっきりしてきます。
 エフェソ書は、「キリストは私たちの平和である」「キリストは、その十字架の死を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」と語ります。
 エフェソ教会に属する人々も、私たちと同じような人間でした。自己主張のみ、隣人と、まして異邦人とは決して共に生きて行けない人々でした。しかし、今は「敵意を滅ぼされました」と語るのです。努力してそうなったのではありません。「神さまの怒りと失望の下にある私たちを神さまと和解させるために、キリストは十字架に死んで下さった」という出来事によって、今まで敵意という壁で分け隔てられていたユダヤ人と異邦人が一つの群れに生きることが出来るようになったという喜びを語っているのです。
 18節「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つに結ばれて、御父に近づくことが出来るのです」だから「あなたがたはもはや外国人でもなく、寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」と語ることが出来るのです。これが教会です。「聖なる神の家族」!なのです。このような交わりは、人間の力で作り上げることは出来ません。十字架につけられたままのイエス・キリスト、このキリストの愛が迫って来るとき、古い私は死に、新しい私が生まれるのです。
 福音書の「わたしがあなた方を愛したように」というみ言葉の意味は、私のためにイエスさまが十字架に命を捨てられたということであったのです。このイエスさまの十字架の死という事実を目の当たりにした時、弟子たちは新しい人に造りあげられたのです。「平和を乱す者」から「平和を創り出す者」へと変えられたのです。その後も残りの弟子たちは間違いを数多く犯しました。しかし、確かに新しい生き方を身につけたのです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、パウロ、そして私たちに至るまで、すべてキリストの十字架によって新しく造られた者なのです。
 ここで唐突ですが、いわゆる「善いサマリア人のたとえ」を考えてみましょう。
「善いサマリア人のたとえ」の解釈はさまざまあります。しかし、その中で最も心惹かれるのはルターの解釈です。ルターは「善いサマリア人はキリストだ」と言うのです。私たちは、罪人であり、平和を乱す者であり、神さまから最も遠い所に生きている罪人であるとしか言えません。「お前が私の被造物にしたことを考えろ!」と神さまから叱責を受けても顔を上げることは出来ません。「平和の祈り」など捧げる資格はありません。あの追剥にあった旅人と同じく半死半生のぼろぼろの人間です。しかし、それでも何とかまっすぐに歩みたいという願望を心の奥底に持っています。
 そのようなイエスさまから最もかけ離れた所に生きる私たちの所に駆けより、寄り添って下さるのがイエスさまなのだとルターは語るのです。私を助けてくれるなど決して考えられないような神さまのひとり子が、私たちを救うために命をも差し出して下さるのです。パウロは、このようなイエス・キリストの姿を「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」(コリント二5:14.口語訳)と語っています。キリストの愛の迫力が、パウロを、エフェソの教会の人々を変えたのです。
 私たちの許に駆けよって下さる十字架のイエスさま、善いサマリア人であるイエスさまの愛を感じ取ることによって、私たちもまた、駆け寄る者、寄り添う者、つまり「平和を創り出す者」に変えられていくのです。人の苦しみに気づく愛の想像力が増し加えられます。その時こそ、私たちが心から平和の祈りを祈ることが出来るのです。「み国を来たらせたまえ。御心がこの地にも行われますように」と心から祈ることが出来るように変えられていくのです。イエスさまは「平和を創り出す者は幸いである」(口語訳)とおっしゃいました。イエスさまが作って下さった教会という群れに生きるさいわいを思います。そしてこのさいわいが、この地に広がって行くことを希望として喜ぶことが出来ます。イエスさまの愛の迫力に押しだされて、決して諦めずに平和を求めて生きて行きましょう。

2009/08/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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