津田沼教会 牧師のメッセージ
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「ただ主に、よりすがって」(マルコ5:21~43)
マルコ5:21-43、2009・07・26、聖霊降臨後第8主日(典礼色―緑―)
哀歌3:22-33、コリントの信徒への手紙二8:1-15

マルコ5:21~43
 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ・クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。



説教「ただ、主によりすがって」(マルコ5:21~43)

先週は、風も湖も従わせる主イエスの自然に対する奇跡の記事でありました。本日は、それに対して、人間の病気を治癒し、また、死からも人間を回復するという主イエスがなさった奇跡の出来事が、マルコ5:21-43の記事を通して与えられています。本日の記事をもう一度思い起こしてみましょう。
主は、再び弟子たちと向こう岸、ここではおそらく、カファルナウムかティベリアスのようなガリラヤ湖の西側に戻って来られたのであります。そして、大勢の群衆が彼に向かって集まったのであります。主イエスは、湖のほとりにおられました。本日の出来事は、「ガリラヤの春」として最も主イエスが華々しい奇跡を行われる記事といえる出来事でありましょう。
さて、そこに会堂長の一人、ヤイロという名の人がやって来て主に懇願し、主の足元にひれ伏すのであります。会堂長でありますから、人々の信望もあつく、高貴な人であったでありましょう。ヤイロと言う名は、輝かすとか啓示するというような意味であったかもしれません。しかし、そんな彼が主イエスの足もとにやって来てひれ伏すのであります。 
私たちの毎週の礼拝も、主のみ前にひれ伏すことであると言えましょう。そして、彼は、主に嘆願して言うのであります。私の小さい娘が危篤の床にあります。私の家にやって来て私の娘に両手を置いてやってください。そうすれば、娘は救われ、生きるでしょう、と。
主は、何の言葉も発されていませんが、ヤイロと共にヤイロの家に向かいます。弟子たちも、群衆もついてきていました。
ところが、そこに、12年間も血の流出に苦しんだ女の人がいました。彼女は、主イエスのことを聞きつけてやって来ます。彼女は、多くの医者たちによって苦しめられ、全財産を費やしましたが、効果はなく、それどころか、悪化するばかりでした。彼女は、主の衣服にさわれば、癒されると信じて、群衆にまじり、後ろから、主の服に触れたのです。するとすぐに、血の源がかわき、癒されたことを感じました。
主は、自分の中から力が出て行ったことを知られ、「私の服に触ったのはだれか」と群衆を見回しておられた。弟子たちは、群衆がこんなに押し付けているのに、だれが触ったかと言われるのですかといさめました。
その女の人は、震えおののき、主にすべての真実を告げます。すると、主は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。平和の中へと出て行きなさい。もう病気にかからないで、元気で暮らしなさい」とその女の人に励ましの言葉を投げかけられたのです。
そして、まだ、主が話している時に、会堂長の家の者たちが来て、お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わす必要はないでしょうと語りました。主はそれを耳にして、「恐れるな、ただ信じなさい」と励まし、彼と、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、ヤイロの家に着きました。そこで、彼は動揺と泣く者たちと、大いに嘆き叫んでいる者たちを見ます。そして、主は言われます。「なぜ、動揺し、泣いているのか。その子は死んだのではない、眠っているのである」と。彼らはあざ笑いましたが、主は彼らを追い払い、その子の両親と自分の供の者たちだけを連れて、その子の部屋に入りました。そして、その子の手を取って、「タリタ、クム」と言われました。すると、その子は起き上がり、周りを歩き回っていました。
彼らは大いに驚き、我を忘れるほどでした。主はこのことを誰にも知られないようにしなさいと命じられました。そして、食べ物を与えるように命じたというのであります。私たちも、人生の長い間には、病気をし、また、年を取って行くにつれて、持病が出てきて衰えを感じます。そしてやがては、寿命が来て、そして、最後は誰も死を避けることはできないのであります。
しかし、主は私たちのうめき、苦しみを、十分にご存じであり、それ以上に、私たちが罪の縄目から解かれることを求めておられます。私たちは毎日、平凡な日常生活の中でも、倦怠や、言葉と行いと思いによる罪を犯して生きています。主は、そこから、ただ主にすがって歩み、罪から解かれた生活をするように招いておられます。癒された女の人のように、また、ヤイロのように、私たちは、日々をただ主に信頼して、主のみ前にひれ伏す生活を日々、与えられたいものであります。アーメン。
 
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。





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2009/07/26(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「風も湖も従わせるお方」(マルコ4:35~41)
マルコ4:35-41、2009・07・19、聖霊降臨後第7主日(典礼色―緑―)
ヨブ記38:1-11、コリントの信徒への手紙二7:1-16

マルコによる福音書4:35~41
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。



説教「風も湖も従わせるお方」(マルコ4:35~41)

 先週は、種を蒔く人とその麦の収穫、また、からし種の木の譬えと神の国について、湖のほとりで教えられる主イエスの記事、すなわち本日の個所のすぐ前が、与えられた福音でありました。本日の福音は、それに続くもので、奇跡物語であります。奇跡物語は、私たちが主を信じるための奇跡物語であります。
この緑の色で表される時期、主イエスの語られた教え、み言葉となさったみ業を学ぶのですが、本日の個所は、なされたみ業と言えましょう。
 その日、夕方になったので、主イエスは、舟に乗ったまま、弟子たちに「向こう岸に行こう」と率先して導かれます。主は、湖の東側へも、神の国を宣べ伝える宣教地を求められたのでありましょうか。しかし、より大事なことは、常に主イエスが率先して、弟子たちをお導きになられるということであります。
 ところが、思いがけないことには、風のハリケーン、スコールが成るのであります。波どもが、激しく舟にうちつけ、その結果、舟が水浸しになったのであります。一方、主イエスは、船尾、舟の後の方で何かを枕にして眠っておられたというのであります。ヨナが主なる神の宣教命令から、逃げて、船蔵でぐっすり眠っていたが、海は大荒れになったという旧約のヨナ書の記事が思い出されます。
 弟子たちは、そんな呑気な主を見て、憤りを爆発させるかのように、主イエスを起こして言うのであります。「先生、私たちが滅びようとしているのに、あなたには、何でもないことなのですか。」
マルコの描く弟子たちは、生前のイエスを全く理解せず、悟るのに鈍い弟子たちであります。マタイ福音書の弟子たちは、主の教えをよく理解する弟子たちでありますが、マルコ福音書の弟子たちは、それが、最も古い福音書であったためか、主イエスを生前正しく理解できなかったことを正直に伝えています。そして、ここでも、主を叱責するかのように、眠りから起こすのであります。主は、眠りから目覚め、海に告げ、波に命じるのであります。「静まれ、黙れ」と。すると、風はやみ、湖上には大きな静けさがあった、とマルコは記しています。
 そして、主は言われるのであります。「なぜ、あなた方は臆病な者たちであるのか。まだ、あなた方は信仰を持っていないのか」と。
 弟子たちは、恐れを大いに恐れさせられたとあり、互いにこう言っていたというのであります。「いったい、この方はだれなのか、風も海も彼に従うとは」と。
 本日の個所では、主イエスは、創造主なる神の配慮に、全幅の信頼を置いていたということが、一つには強調されていると言えるでしょう。しかし、また、風や海や大水は、混沌、混乱や悪霊の支配する領域や試練、厄介事などを表しているものとも言えましょう。しかし、主イエスは、それらをも従わせ、支配下に置くことがおできになる方なのであります。
 私たちの過ぎた1週間をそれぞれ思い起こしてみましょう。本当に危機的な状況がそれぞれにあったのではないでしょうか。そして、我々は、本日の記事の弟子たちのように、おびえ、主にどうしてあなたは、私たちを救ってくれないのですかと不平を言うような場面もあったのではないでしょうか。
さて、2000年前以上に、現代の世界は危機的であり、病んでいます。しかし、主は、「あなた方はなぜ、臆病な者たちであるのか。まだ、信仰を持っていないのか」と問いかけられます。弟子たちは、本日の出来事において大いに恐れたとありますが、私たちは、神的なもの、創造主なる神、また、そこから遣わされた主イエスに対して、畏怖の念をしっかり持つ必要があるのではないでしょうか。
 私たち、津田沼教会の小さな群れも、このときの弟子たちと同様に、主が舵取りをなさり、船長である小舟に乗り合わせている群れであります。私たちは、み言葉から、そして、主のみ業から、離れないで、忘れないで、信仰と宣教の航海をしていく必要があります。そのためには、礼拝を大切にすることであり、また、家庭でも可能なら家庭礼拝を守ることが大切であります。
 わが家では、夕食前になるべく、家庭礼拝を、小教理問答書の夕べの祈りに合わせて、十戒、使徒信条、主の祈りを唱え、祈り、さんびかを短く歌い、聖書日課を2種類読んで、短くそれぞれ祈ることにしています。皆様も、できるかぎり、毎日工夫をしてみ言葉に触れ、主イエスがあらゆる窮状からこの津田沼教会という小舟に同乗している一人一人を守って下さることを確かめることが有益かと思います。一言祈ります。
 天の父なる神さま。
 この1週間のお守りを感謝します。あなたは、私たちが耐えられないような試練には遭わせず、必ず逃れの道をも用意してくださることを確信いたします。試練の中にある人や、重い病に苦しんでおられる方も少なくありません。どうか、主イエスが、私たちと共にいて、風や海の荒れ狂う中から救いだしてください。この感謝と願いを、キリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。





2009/07/19(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「行き渡る神のご支配」(マルコ4:26~34)
マルコ4:26-34、2009・07・12、聖霊降臨後第6主日(典礼色―緑―)
エゼキエル書17:22-24、コリントの信徒への手紙二6:1-18

マルコによる福音書4:26~34
 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。


説教「行き渡る神のご支配」(マルコ4:26~34)
 
私たちは、まだ梅雨の明けないむせ暑い一日を本日迎えています。さて、この7月の時期に、私たちはマルコ福音書から毎週福音の個所を与えられ、緑の教会暦の色で表されます季節を歩んでいます。この時期、病気や老いの苦しみを味わっている方も多いのではないでしょうか。み言葉によって励まされ、慰められながら、神の希望を表す緑の時期を、1週1週、神によって守られながら歩んでいきたいものであります。
本日の記事は、「そして彼は語っておられた」と始まります。神の国は、このようである、すなわち、人が地の上に種を蒔き、彼が夜昼、眠ったり、起き上がったりしているうちに、種は、芽を出し、茎をはえださせるが、それがどうしてなのかは知らない。ひとりでに地は実をもたらすのであり、穂が現れ、次に穂の中に豊かな実、麦の実が現れる。そして、実が実ると彼はただちに鎌を入れる、なぜなら、収穫の時が来たからである、と最初のたとえを語られたのであります。
神の国は、歴史とともに成長し発展して、我々が努力して到来するものではなく、ひとりでに予期しないときに、急に切迫して訪れるのであります。主イエスがみ言葉、よき知らせ、福音の種をまいて、神のご支配は行き渡ることになるのであります。私たちの努力や情熱が神の国をもたらすのではなく、神ご自身が、主イエス・キリストを通して、そのご支配をもたらされるのであります。私たちは、自分の努力が足りないといって自分を責める必要があるのではなく、神のご支配に、私たちの身を合わせることが必要なのであります。
 さらに、主は、神の国を何に、どのような譬えにおいて置こうかと言われて語られるのであります。それは、からし種にたとえられると言われます。それは地の上に蒔かれるとき、地の上のすべての種よりも小さいが、蒔かれると、上に伸び、すべての野菜の中で最も大きくなり、大きな枝もたらし、その陰に空の鳥が住みつくようになる。そう二つ目のたとえで言われています。からし種の木は、2メートル半ほどにも、パレスチナでは成長します。このたとえは、主イエスが蒔かれるみ言葉を指しています。そして、主は、別の個所では、私たちにからし種ほどの信仰があれば、木に向かって海に入れと言えばその通りになろうと約束されています。そのように、パレスチナでは最も小さい種として、からし種が小さなものの表現として用いられていたのであります。しかし、それは大きくなると、天の鳥どもがその陰に宿るほどになると言われ、異邦人たちも、主イエスのみ言葉によって養われ、そこに憩うようになると言われているのであります。全世界に、キリストの蒔かれた種が、すなわちみ言葉が、広がることを暗示しているのであります。
本日の記事は、新共同訳では、3つに区切られ、分かりやすくなっています。3つ目の締めくくりの記事においては、主イエスは、群衆たちの聞くことが出来るのに応じて、以上のような多くの譬えで群衆にみ言葉、神の福音を語っておられたと記されているのであります。そして、主イエスは譬えなしでは群衆に語られないでおられたが、自分の弟子たちにはひそかにすべてのことを説明されていたとあります。神の国、神のご支配は、譬えにおいてしか、表されないものであります。主イエスは神の国の譬えにおいて、み言葉の種を蒔いてくださいました。
私たちは、み言葉から離れるとき、この世で他の誰よりもみじめな者でありますが、聖霊の助けによって、悔い改め、み言葉に従って行くことが出来るのであります。主イエスと共に、神の国、神のご支配は既に2000年前に始まっており、私たちは聖霊の導きによって、神の国、神のご支配のうちに、歩むことが許されているのであります。決して絶望しないで、み言葉に信頼しながら、歩む1週間へと押し出されていきましょう。

わたしたちの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。



2009/07/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスのご到来に対する民の盲目性」(マルコ3:20~30)
マルコ3:20-30、2009・07・05、聖霊降臨後第5主日(典礼色―緑―)
創世記3:8-15、コリントの信徒への手紙二5:11-15

 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。



説教「主イエスのご到来に対する民の盲目性」(マルコ3:20~30)

本日の福音、マルコ3:20-30は、初期の6つほどの一連の論争物語の最後の論争であります。この記事にも、共観福音書には、並行記事がありますが、福音書としては一番早く書かれたマルコ福音書が、一番生き生きとした文章、記事になっています。今ほどお読みしましたマルコの記事をもう一度思い起こしてみましょう。先週の個所に続き、山に上り12使徒を選んだ後に、主イエスは、家にやって来られるのであります。
それは、カファルナウムにあったペトロの家であったかもしれません。すると、その噂を聞きつけたのか、大勢の群衆が一緒にやって来て、彼らはパンを食べる、食事をする暇もなかったのであります。ところが、そこに、まず、彼の身内の者、あるいは、友人たちが、彼を捕らえに出て来るのであります。彼らは、彼は正気を失っていると語っていたのであります。しかし、その身内の者たちが来たという出来事はここでぷっつりと切れて、3:31以下まで出てこないのであります。これは、マルコ福音記者がよく用いるサンドイッチ方式とでも言うべき文章構成なのであります。
そして、3:22から27まで、ベルゼブル論争とでも言うべき出来事が起こるのであります。遠くエルサレムから、多分、最高法院に代表されるユダヤ教の指導者たちが、律法学者たちを送ってきたものと考えられます。主イエスの名声は、さらに遠く遠く異邦人の地にまで及んでいたのであります。律法学者たちは言います。彼は、ベルゼブルに取りつかれている、ベルゼブルを持っているのだと。そして、悪霊どもの長において、悪霊どもを追い払っているのであると、中傷したのであります。
それに対して、主イエスは、本日のお言葉を、譬えにおいて、語られたのであります。どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。国が分裂していたら、その国は立ち行かないし、家が分裂していたら、その家も立ち行かない。
そして、さらに言われます。強い人のいる家には、まず、その強い人を縛ってからでないと、その家財道具を略奪することはできないと。これは、何をたとえているのかよく分かりません。あるいはこれは、主イエスが強い人、すなわち、サタンを、あるいは、ベルゼブルという超自然的な、あるいは超人間的な、しかし、神ではない存在を捕らえてまず縛りあげ、そして家財道具、すなわちサタンのその奴隷になっていた者たちをそれから、取り返していると、暗示的に答えたのでありましょう。
そして、はっきり言っておくがと続けられます。それは「まことに、私はあなた方に語る」という文章であり、主イエスの口を通してしか、福音書では出てこない主イエスの厳粛な言い方であります。はっきり言っておくが、人間どもの子らが、犯すどんな罪どもも、また彼らが口にするどんな冒涜的な言葉も、赦される。
しかし、聖なる霊、聖霊を冒涜する罪は永遠に赦されないだろう、と言われたのであります。主イエスは、洗礼をお受けになったとき、これは、私の子、と父なる神が語られ、聖霊がその身の上に降られたのであります。主イエスに冒涜の言葉をかけるならば、それは聖霊を冒涜することになるのであります。なぜなら、律法学者たちは、主イエスは、汚れた霊、不純な霊を持っていると言っていたからであります。
彼らは、主イエスが、自分たちの所にお出でになった神の子であり、聖霊を与えられて、癒しのわざや、お言葉を語っておられることに気付きませんでした。私たちはどうでしょうか。主イエスをどういうお方として受け入れているのでしょうか。
マルチン・ルターは、私たち人間は、馬車のようなものであり、御者の導くままに私たちは運ばれて行くというようなたとえを用いました。御者がキリストならば、安全でしょう。しかし、御者がサタンなら、サタンの欲するところに運ばれ、破滅してしまうのであります。主イエスがガリラヤで宣教を始めたとき、律法学者や、エルサレムの宗教的指導者たちは、自分たちの民の所にお出でになられた主イエスを理解し、正しく見ることができず、その盲目性のうちに、主イエスの命をねらう者となってしまいました。しかし、私たちは、主イエスが、私たちの罪を赦し、新しく愛に生きる道を与えて下さったことを信じています。私たちは、日々、繰り返しみ言葉と共に、また、主イエスがなさった癒しやその他の奇跡を信仰の目で信じつつ、たとえ時には倒れ伏すような時があっても、再び起き出し、やり直し、歩むことが出来るのであります。祈りましょう。
 天の父なる神さま。
私たちは、非常に弱く、また、あなたから、離れやすい羊の群れであります。しかし、あなたは、み子を送られ、サタンに捕らわれていた私たちを、救いだし、み言葉と、み業によって、サタンから解き放たれた存在とされています。どうか、日々の生活や、仕事や、あるいは、家事を通して、あなたの栄光を表すことが出来るように、これからも、困難や誘惑の中にあっても、守り導いてください。キリストによって祈ります。

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
2009/07/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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