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津田沼教会 牧師のメッセージ
「信仰は進行形」(マタイ5:43~48)河田優牧師
マタイ5:43-48、2009・06・17、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―)、
神学校を覚えての特別礼拝
フィリピの信徒への手紙3:12~16
 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。


マタイによる福音書5:43~48
 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」



説教「信仰は進行形」(マタイ5:43~48)河田優牧師
 ルーテル学院大学と日本ルーテル神学校の河田です。牧師になって15年、広島の呉教会、さらに、山口・島根では、徳山教会に住みながら、最終的には5教会・1集会所の主管牧師として過ごし、3年前に神学校に帰って来ました。今は、神学校と大学のチャップレンとして、学生たちと過ごしています。

 実は、津田沼教会は、神学生時代の初めての実習教会です。地域に根付く開拓伝道を希望しました。当時の津田沼は、松原先生のもと、競馬場のある中山から、津田沼に移転してきたばかりでした。新しい会堂も建築される前のものでした。その中で、どのように、地域に根付くのかを一から始めていたように思います。夏の暑い盛りに、松原先生を筆頭に、助っ人に連れて来た学生たちと一緒に、教会のペンキ塗りをしたことを今でも覚えています。そして今、この地にしっかり根付く津田沼教会の姿を嬉しく思います。私にとって、放蕩息子で帰るのに遅くなりました。10数年ぶりに、この場に立たされていることは喜びです。

 さて、「完全な者となりなさい!」。このように言われた時には、皆さん、どのような思いを持つでしょうか。何を感じるでしょうか。私などはすごいプレッシャーを感じます。また、それが、イエスさまからの言葉です。マタイ5:48節、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 今日は、このちょっと、「無理、無理」と思われるような事柄から、み言葉に気いていきましょう。その「無理、無理」というのは、今日の個所の始めにも表されます。「敵をも愛しなさい。」これまた、無理難題な話から、今日、イエスさまは教えておられるのです。

 ある本に、渡辺和子さんの文章が紹介されていました。渡辺和子さんは、ノートルダム清心学園の理事長であり、幼い時に起こった二・二六事件において、当時の教育総監であった父親の死を間近で見た経験をお持ちです。この渡辺和子さんが、この「昭和維新」を掲げ、二・二六事件を起こした若手将校たちの遺族が開く法要に出かけた時の気持ちが描かれています。目の前、一メートルのところで、父親が殺されました。言うならば、その憎き仇のもとへと招かれ、出かけて行ったのです。
 
 「殺した側の遺族と、殺された側の遺族が一堂に会して、わだかまりがないはずがない。正直言って、私の心の中には、キリスト教的な『敵を赦す』という殊勝な心がけよりも、父が生きていたら出席を望むのではないだろうかという思いの方が強かった。」
 18歳で、洗礼を受けてから、長い間、教壇から学生たちの心に語りかけ、その信仰を証しし続けてきた渡辺和子さん。また、36歳の若さでノートルダム清心女子大学の学長に就任してからも、信仰者としてつつましく生活を続けられ、沢山の本を執筆する中で、キリストの福音を証しし続けてきた渡辺和子さん、私たちはその渡辺和子さんをよく知っているのです。

 でも、そのような模範となる信仰者の歩みを続けてきた渡辺和子さんであったにしても、自分の父を殺した人たちの遺族の前では、「わだかまりがないわけではない」、「敵を赦すなどという殊勝な思いではなかった」と心が大きく動揺しているのです。
 いかがでしょうか。「敵を赦し、敵を愛しなさい。」そのようなことが、私たちに行えるのでしょうか。渡辺和子さんの信仰がたりないのでしょうか。そんなことはないのです。私たちは誰しも、心の奥底から、「敵を赦します。愛します」なんてことは言えないのです。

 もし、そのようになさる方がおられるとしたら、だれでしょう。それは、今日の福音書に明らかにされているように、神さまご自身でしかありえません。
 マタイ5:45節、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださるからである。」
 神さまは、「こいつは善人である。また、こいつは悪人である」などと区別をされていないのです。
 そのことは、パウロの言葉では、次のようにも紹介されています。
ローマの信徒への手紙5章8-10節
 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

 ここにあるように神さまは、ご自分の敵であるはずの私たちを、愛する御子イエス・キリストの十字架の死によって、赦されたのです。これは、敵を愛するということを超えて、神さまの前で敵であるはずの私たちでさえも、決して敵とはされずに、すべての者を救いに招かれようとされる神さまの姿です。
 そして、イエスさまは言われるのです。
「あなたがたの父の神が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
父なる神さまがそうなさったように、あなた方もそうしなさい。神さまが赦したから、赦しなさい。神さまが、敵を愛したから、愛しなさい。神さまが、完全だから、あなた方も完全になりなさい。

 完全という言葉から連想するのは、一点の曇りもない様子です。もし、イエスさまが望まれるキリスト者が、そのような完全な者であることを望まれるのならば、私たちはとてもそのように、生きていけるはずはありません。
 何故ならば、私たちは、自分のことをよく知っているからです。それは、弱さや汚れを沢山持っていて、どちらかと言うと、そのようなものを人には見せないように、一生懸命に生きているからです。
 敵を愛せよと言われても、自分の周りの人たちを、愛することだって、あるいは、この自分自身を愛することだって、本当に愛しているのかな、というような感じです。

 クリスチャンの皆さん、どうでしょうか。あなたは、素晴らしいね。さすが、クリスチャンよね、と言われることがあるかもしれない。でも、自分を知っている限り、決してそうではありません。弱さと汚れに気づいているのです。「完全な者になりなさい」なんて、とんでもありません。

 まだ、洗礼をお受けになってない方もおられますか。まだ、洗礼をお受けになってない方から見れば、このようなイエスさまの教えからすると、クリスチャンになるってことは、真っ白く清らかになるようなパーフェクトな存在になることであり、とてもじゃないが、私はクリスチャンにはなれない、と思われるかもしれない。キリスト教や聖書の教えに興味はあるが、不完全な自分にはやはり無理だと感じるかもしれません。
 完全な者とは、神さまのみを表すものであるのに、何故、イエスさまは弱くて、罪の多い私たちにまでそのようなことをお命じになられるのでしょうか。最初からそんなの無理ですよ、という話になってしまうのです。

 そこで、この完全という言葉をもう少し詳しくみていきたいと思います。ここで言う「完全」という言葉は、ギリシャ語の「テレイオス」という言葉から、できており、その「テレイオス」の本来の意味は、「目的、目標」なのです。私たちが想像する完全無欠のパーフェクトとは、少しニュアンスが違ってきます。

 たとえば、私たちは、ここでパウロの書簡、フィリピ3章12節以降を思い起こします。それは、今日の礼拝でも読んでいただいた個所です。次のようにありました。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたと思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 パウロは既に完全な者になっているとは言っていません。あのパウロさえ、そうなんです。でも、そこでパウロはだからもう駄目だ、と諦めているわけではありません。そうではなく、私たちは完全ではないけれど、既にキリストに捕らわれているんだ。だから、私たちは、前のものに全身を向けて、ひたすら走るんだというのです。

 パウロの言葉から見ていく時に、「完全な者になる」とは、目的を持って走り続けることであり、目標とされるゴールを切るまで挫けそうでも、なんでも、その一歩一歩を全うすることであることが分かります。
 その意味では、以前用いていた口語訳聖書がそうであったように、「完全」というより、「全き」という意味で、この言葉を捕らえて良いかもしれません。前は「まったき者になりなさい」とありました。完全なる信仰者はいないが、主なるキリストに支えられながら、目標を目指して、与えられたこの信仰の歩みを全うすることはできるのです。

 私の好きな説教に、小田垣正也さんの「イエスは主なり」という説教があります。この方は牧師ではありません。国立音楽大学の教授をされていた方ですが、ユーモアたっぷりに、主イエスへの信仰についてお話しされています。

 ある時、小田垣さんは、平林寺という臨済宗のお寺に出かけます。臨済宗とは禅宗の一派ですから、豪華な仏像が置いてあるわけではありません。その代りに、小田垣さんは一つの立て札を見つけました。
 そこには、「猿も木から落ちる。落ちたら、また、登る」と書いてあります。この立て札を見て、小田垣さんは次のようなお話をされる。

 「猿というのは、木に登るのが商売です。これは、他人に真似のできない猿ならではのことです。だから、猿が木から落ちるということは、猿にはあるまじきことになります。
 ところが、この猿も時として木から落ちるのです。もし、この時に、木から落ちた猿が、落ちたことにばかり捕らわれ、失望から抜け出せないでいると、もう木に登ることをやめてしまうかもしれません。あるいは、勇気を出して再び木に登り始めたにしても、この失望にいつまでも捕らわれていると、今度は木から落ちることばかり恐れて、木の上でも決して心休まることはないでしょう。
 しかし、そのようなことにはお構いなく、猿は落ちでもまた登るのです。それが、猿が猿である所以です。」
 
なるほど、ユニークな気付きが与えられます。そして、小田垣さんは話します。また
 「たとえ、落ちてもまた登れば良い。そのようにあきらめずに、そして恐れずに、何度も木に登るという行為こそ、私たちの信仰の姿ではないでしょうか。」

 猿が何度も木に登るように、クリスチャンも決して不完全な自分に諦めてしまってはなりません。信仰とは、完結をしてしまうのではなく、何度失敗しても、常に前にもう一歩と進み続けるものです。信仰者は信仰者であるが故に、また一歩一歩を踏み出すのです。説教題は、おやじギャグ的ですが、「信仰は常に進行形」なのです。

 むしろ、完全な者でない自分、敵を愛することのできない自分、忍耐強く祈り続けるにはあまりにも弱い信仰しか持ち得ない自分を、先に主イエス・キリストは捕らえてくださいます。そして、私たちが務めることは、主に捕らえられていることを信じ、与えられた信仰者として一歩一歩足を前に進めていくだけです。諦めずに、全うするのです。

 始めに紹介した渡辺和子さんの文章には、まだ続きがあります。
 自分の父を殺した遺族たちとの出会いに、心の動揺を隠すことはできず、敵を愛するという殊勝な気持ちではなかったと語る渡辺和子さんですが、法要が進む中で、次のように気持ちの変化を語っているのです。

 「お線香を供え、手を合わせ、言葉もなく振り返ると、そこに、高橋、安田両少尉のご令弟お二人が深々と頭を下げ、涙を流していてくださった。この時である。初めてその日、思い切ってお参りして良かったと思ったのは。辛い思いを抱いて50年生きてきたのは、私だけではなかった。むしろ、反乱軍という汚名を受けた身内を持つご遺族こそ、もっと辛い思いをなさったに違いない。」

悲しい出来事を背負いながら、それでもなお、クリスチャンとして50年間の道のりを一生懸命生きてきた。仇とされる遺族との再会では、相変わらず赦すことのできない自分ではあったが、この50年の歩みというものを自分だけの歩みではなく、その敵とされる青年将校のご遺族たちとの歩みに重ね合わせた時に、確かに渡辺和子さんの心に変化が起こったのです。

誰であれ、人は不完全な信仰しか持ち得ないものです。しかし、目標を目指して歩み続けることが、信仰し続けるということであるならば、私たちもその歩みを終りの時まで全うしたいと思うのです。完全ではない私たちも、与えられた信仰者としての道を最後まで全うすることはできるのです。主の恵みのうちに。
ここまで歩んできました。また、今日のこの場から新しい一歩を踏み出していきましょう。アーメン。

 
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2009/06/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)