津田沼教会 牧師のメッセージ
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「魂を救い、病気を癒す方」(マルコ3:1~12)
マルコ3:1-12、2009・06・28、聖霊降臨後第4主日(典礼色―緑―)
イザヤ書58:11-14、コリントの信徒への手紙二5:1-10

マルコによる福音書3:1~12
 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 イエスは弟子たちと共に湖の方へと立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。




説教「魂を救い、病気をいやされるお方」(マタイ3:1~12)
 
本日のマルコによる福音は、3章の1節から12節までです。三位一体主日などが終り、再び、マルコ福音書に従って、主イエスの語られたお言葉と、そのなされたみ業について、学んでいく時に入りました。神の希望を表す緑の色の、聖霊降臨後の主日がこれから、教会暦の後半、続きます。
 本日の福音の個所は、前半が、主イエスが会堂でなさった手のなえた人の癒しと主イエスの語られたお言葉、また、後半は、ガリラヤの海辺での宣教の成功の記事というふうに見ることができます。
 今日の説教題を「魂を救い、病気を癒されるお方」というふうに、付けておきましたが、主イエスがお出でになられたのは、何よりも私たちの魂、命を救うためであり、また、汚れた霊どもが働いていると考えられた、私たちの体の病気を癒すためであります。ただ、単に体の病が、また、心の病がなおるということそのものに、絶対的な価値があるわけではありません。なぜならば、私たちは、やがては、皆老いを迎え、介護をしてもらう体へと弱って行くからであります。そのようにして、やがては、皆、寿命が来て、天に召されるときが来るのであります。そして、また、私たちは生きている以上、罪にまみれており、今日の第2の朗読でありましたように、地上で生活していたときの行いに従って、主、神のみ前に裁かれるときがくるのであります。
 しかし、主イエスは、私たちの肉の体がやがて朽ちても、み国で永遠の命を、私たちに与えて下さるために、2000年前に地上にお出でになられたのであります。医療が現代いかに発達しましても、私たちの罪を癒すことのできるお方は、このお方、主イエスの他にはいらっしゃらないのであります。本日の第1の朗読、イザヤ書も、私たちが、根本から癒され、喜ぶ者となる時が来ると預言していますが、まさに、その預言が、主イエス・キリストにおいて実現しているのであります。
 さて、本日の主イエスは、再び、安息日に、会堂にお入りになります。ところが、そこに、片手の萎えた人がいた。人々は、主イエスが、安息日にこの人を癒されるかどうか、凝視していました。そして主は、言われます。安息日に悪を行うのと、善を行うのとどちらが適法であるか、魂を救うことと、滅ぼすことと、どちらが認められるのかと、言われ、悲しまれながら、人々を怒りをもって見廻して、その男の人に「真ん中に立ちあがりなさい」と言われ、「その手を差し出しなさい」と言われます。そして、彼が動かなくなっているその片方の手を差し出すと、その時、その手は回復されたのであります。
別の書物には、この人は以前、石工であって、主イエスにもとのように働けるように願ったとの伝説があります。安息日に労働することは、律法によって禁じられていましたが、主は安息日の主でもあります。牛や羊でさえ、井戸に落ちた時には、救いだす労働は認められていたのであります。ましてや、この男の人が、生計の手段をも奪われていたのであってみれば、片手を癒すのは、主イエスにとっては、たとえ安息日であってもご意志に適った、ふさわしいことなのであります。
しかし、6つ続く論争物語の5番目の本日の個所では、ファリサイ派の人たちは出て行って、ヘロデ党の者たちと結託して、このガリラヤ宣教の始めのときから、主イエスの命を滅ぼす策略を与えつつあったというのであります。
 さて、それで主イエスは、弟子たちと共に、ガリラヤの海辺へと引き下がられたのであります。海辺では、主イエスの宣教は、成功し、ガリラヤだけではなく、ユダヤ、イドマヤ、エルサレム、ヨルダン川の向こう側から、また、異邦人の地、チュルスやシドン辺りからも、著しく大勢が彼のもとへと、彼のしておられることを、聞いて押し寄せて来たのであります。
海辺での宣教は成功し、会堂ではファリサイ派のかたくなな心の狭さによって、そこでの宣教は概して失敗に終わるのであります。
 主は、小舟を常に用意しておくように弟子たちに頼み、群衆に押しつぶされないようにせざるをえないほどでした。それは、体の病気の者たち、大勢を癒しておられ、異郷の地からも、病気の体をもった人々が彼に触れようと押し寄せていたのであります。病気の原因をなすと考えられた汚れた霊たちも、主を見ると、大声を出して「あなたこそ、神の子です」と叫んでいました。しかし、主は、自分が何者であるかを告げ広めないように、厳しく霊どもに禁じていたのであります。軽々しく主を神の子ですと霊どもが叫ぶのを禁じられるのであります。私たちが、主を神の子として理解できるようになるには、長い時間や苦しみの体験などをへて、ようやく、受け入れることができるものなのであります。
 私たちは、一生の間には、大変な病気にかかることもあります。そして、だれもが老いていきますと、持病がで、やがては、病院や施設、あるいは、家庭で死を迎えるのでありますが、主によって、地上のすみかを離れても、朽ちることのない命を、与えられるのであります。
 私たちは、医療での癒し、治療も必要であり、助けになりましょう。しかし主イエスのお言葉によって、真に癒され、魂を救われることができます。私たちは、真に健全な体と魂を、主イエスを通して、また、聖書を通して与えられているのであります。それこそが、賛美歌でも歌いました、天の力に癒しえぬ悲しみは、地にはなしと歌うことが出来るのであります。そのことを感謝しながら、1週間への生活へと再び送りだされていきましょう。
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
 
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2009/06/28(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「恵みとしての律法」(マルコ2:23~28)内海望牧師
マルコ2:23-28、2009・06・21、聖霊降臨後第3主日(典礼色―緑―)
サムエル記上6:1-6、コリントの信徒への手紙二4:7-18

マルコによる福音書2:23~28
 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」




説教「恵みとしての律法」(マルコ2:23~28)内海望牧師

 イエスさまとファリサイ派の人々との律法をめぐる論争場面の一つです。ここでイエスさまは「律法に記されている安息日規定は人のために定められた」とおっしゃっています。その通りなのです。安息日はすべての労働から解放されて安息するために設けられた律法です。この日は、奴隷も休むことが出来る解放の規定なのです。
 また、律法は貧しい人が麦の穂を摘むことも許しています。その個所を読んでみましょう。申命記23章25、26節です(317ページ)。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまで食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」と書かれています。この個所は、弱者に対する保護規定と呼ばれていますが、行き届いた規定です。何よりもほっとする明るさがあります。
 このように、律法は本来人間を助けるために与えられた神さまからの賜物なのです。階段の手すりのようなものであると定義した人がいます。手すりを必要としない人には何の妨げにもなりませんが、必要とする人には階段から転落するのを防ぐ無くてはならぬものなのだというのです。良いたとえです。律法は、私たち人間が、人生を正しい方向に向かって歩むために与えられたガードレールあるいは案内板、転落予防の手すりのようなものです。決して人間を束縛したり、苦しめたりするようなものではありません。
 しかし、問題は私たちが律法を必要としているかどうかにあります。手すりがあるから、転ばないからよかったと思っている人には、手すりは安心感を与えます。しかし、手すりなど必要ないと思っているとき、私たちは真っ逆さまに転落してしまうこともあるのです。ここが大切な所です。人間は罪人です。律法という賜物を無視して、自分の力だけで生きていこうとするとき、必ず間違った方向へと歩んでしまうのです。
 人間にとって律法はどうしても必要なものであり、神さまが与えて下さった恵みです。
 ところが、ファリサイ派の人たち、あるいは律法主義者たちはこれを利用して自分を高め、守っていない人を見下げる生き方です。
 このように律法がゆがめられて用いられるには理由があります。一つには罪を複数形でとらえることにあります。イエスさまの時代は、律法が制定されて500年くらいは過ぎているので、「この場合、この条文は現代ではどう考えたらよいだろうか」という問いが人々の心に起こって来ました。そのような時、律法の意味を解釈する人が必要になって来ました。そこで律法学者という仕事が生まれて来たのです。彼らは、煩雑な(レビ記!)律法の条文を引用しながら律法の意味を解釈して人々に伝えました。例えば、「安息日には何歩以上歩いてはならない」とか「このようなことをすれば労働になるから、してはいけない」とか細かい解釈を下すのです。
 今日の日課のファリサイ派の人々がまさにそうです。彼らも保護規定は知っていましたから、弟子たちが麦の穂を摘むことには文句は言いませんでした。しかし、「安息日を守らないで働いた」という点でイエスさまを攻撃するのです。「あれを破った。これを破った」と罪を数え上げて人々を非難し、支配するのです。短い個所ですが、今日のイエスさまとファリサイ派の人々との会話は陰険です。
 このような時、罪は「量」で考えられるようになります。罪が複数形で数えられるようになるのです。「罪がより多い人、良い少ない人」と分けられるようになるのです。そこで競争が始まるのです。罪がより少ないと考えている人は、より多いとみられる人を攻撃し、蹴落とします。そして自分を高めるのです。「信仰的まじめさの競争」になって行くのです。他人との比較と競争が起こります。これでは心は休まることがありません。いつもおどおどと人の目を気にして生きるのです。
 更に、このような考え方は自分の行いによって神さまの愛を買い取ろうとする行為義認主義にもつながって行くのです。
 このようにして、神さまが人間のために与えて下さった恵みの賜物としての律法が、神さまの御心から遠く離れ、人間世界を混乱させ、人々を苦しめるものとなってしまったのです。このように恵みの賜物をゆがめてしまった原因は人間にあります。それはエゴイズム、自分絶対主義です。罪が量で測られ、「より多い、より少ない」が競争になれば必ず自分を神としようとする罪が頭をもたげて来るのです。パウロが言うように「律法の義を求める心が罪を生む」のです。「自分を絶対正しいとする」「自分を神のように考える」ことこそアダム以来の原罪です。
 恐ろしいことに、このような心は私たちすべての心にひそんでいるのです。私たちも簡単に律法主義者になってしまいます。正義を振りかざして他者を攻撃する姿は醜く、恐ろしい自分の姿に慄然とします。このように律法を利用するとき、神さまはまことに厄介な存在になってしまうのです。
 しかし、振り返って考えると、私たちもファリサイ派の人と同じになっている時があります。私たちもいつの間にか「信仰的まじめさの競争」に加わっているのです。悪魔は巧妙に私たちの心を罪のとりこにしてしまうのです。私たちも正義を振りかざして他者を攻撃することがしばしばです。もちろん、口に出して言うようなことはしませんが心の中にそのような思いがあることは事実です。
 それでは、どうしたら、私たちはこの暗い律法主義の世界から抜け出すことが出来るでしょうか。
 そのためには、もう一度目を上げて素直に神さまの前に立つこと以外にはありません。どんな罪人であっても神さまは愛して下さる方です。この愛を信じて素直に、あれこれと言い訳をしたりしないで罪人として立つのです。言い訳と言いました。それは、自分も少しは善い行いをしたとか、自分にも少しは信仰的な所があるというような量的行為を主張することです。
 律法は手すりのようなものだと申し上げました。そして、私たちの心には罪が巣くっています。隙あれば、私たちの心を呑みこもうとしているのです。私たちの心はねじれてしまっているのです。それは心のあり方の問題であって、犯した罪の数を競うというような問題ではありません。
 「私はあれこれの罪を犯したから罪人になった」のではなく、まさに「罪人だから罪を犯す」のです。神さまの前に立つとき、私たちは罪人である私に気づかされるのです。量の問題ではありません。「私は罪人」としか言えない自分の姿に気づかされるのです。しかし、まさにその時「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)というイエスさまのみ言葉に逃げ込むことが出来るのです。そして100%の赦しと、新しい命とを与えられるのです。
 もはや「罪を犯さないように」とびくびくして生きるのではなく、罪人を赦し、その十字架の血によって罪を贖って下さった赦しの愛のうちに喜んで生きる道が備えられるのです。このようにしてパウロが言うように、律法は私たちをキリストへと導く養育係の役目を担ってくれるのです。(ガラテヤ2章24節)。
 そして、私たちを自分の業によって生きるのではなく、ただキリストの贖いの御業により頼んで生きる者へと変えられて行くのです。私たちは神さまの愛の作品であるとエフェソ書には記されています。そうです、私たちは土の器、罪の器ですが、イエスさまがこの私たちの器に溢れるばかりの恵みを注いで下さるのです。
 神さまは、人間から何かを受ける必要はありません。私たちの善い行いを求めてはいらっしゃいません。神さまは、たとえ人間が恩知らずであっても、ただ与えることしかなさいません。このことを信じて生きる時、妬み、争い、信仰的まじめさを競うあの暗い争いは消え去ります。そこには恵みを受け取る喜びしかありません。そのような交わりに生きる群れが教会なのです。なんと素晴らしいことでしょうか。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
2009/06/21(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「信仰は進行形」(マタイ5:43~48)河田優牧師
マタイ5:43-48、2009・06・17、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―)、
神学校を覚えての特別礼拝
フィリピの信徒への手紙3:12~16
 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。


マタイによる福音書5:43~48
 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」



説教「信仰は進行形」(マタイ5:43~48)河田優牧師
 ルーテル学院大学と日本ルーテル神学校の河田です。牧師になって15年、広島の呉教会、さらに、山口・島根では、徳山教会に住みながら、最終的には5教会・1集会所の主管牧師として過ごし、3年前に神学校に帰って来ました。今は、神学校と大学のチャップレンとして、学生たちと過ごしています。

 実は、津田沼教会は、神学生時代の初めての実習教会です。地域に根付く開拓伝道を希望しました。当時の津田沼は、松原先生のもと、競馬場のある中山から、津田沼に移転してきたばかりでした。新しい会堂も建築される前のものでした。その中で、どのように、地域に根付くのかを一から始めていたように思います。夏の暑い盛りに、松原先生を筆頭に、助っ人に連れて来た学生たちと一緒に、教会のペンキ塗りをしたことを今でも覚えています。そして今、この地にしっかり根付く津田沼教会の姿を嬉しく思います。私にとって、放蕩息子で帰るのに遅くなりました。10数年ぶりに、この場に立たされていることは喜びです。

 さて、「完全な者となりなさい!」。このように言われた時には、皆さん、どのような思いを持つでしょうか。何を感じるでしょうか。私などはすごいプレッシャーを感じます。また、それが、イエスさまからの言葉です。マタイ5:48節、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 今日は、このちょっと、「無理、無理」と思われるような事柄から、み言葉に気いていきましょう。その「無理、無理」というのは、今日の個所の始めにも表されます。「敵をも愛しなさい。」これまた、無理難題な話から、今日、イエスさまは教えておられるのです。

 ある本に、渡辺和子さんの文章が紹介されていました。渡辺和子さんは、ノートルダム清心学園の理事長であり、幼い時に起こった二・二六事件において、当時の教育総監であった父親の死を間近で見た経験をお持ちです。この渡辺和子さんが、この「昭和維新」を掲げ、二・二六事件を起こした若手将校たちの遺族が開く法要に出かけた時の気持ちが描かれています。目の前、一メートルのところで、父親が殺されました。言うならば、その憎き仇のもとへと招かれ、出かけて行ったのです。
 
 「殺した側の遺族と、殺された側の遺族が一堂に会して、わだかまりがないはずがない。正直言って、私の心の中には、キリスト教的な『敵を赦す』という殊勝な心がけよりも、父が生きていたら出席を望むのではないだろうかという思いの方が強かった。」
 18歳で、洗礼を受けてから、長い間、教壇から学生たちの心に語りかけ、その信仰を証しし続けてきた渡辺和子さん。また、36歳の若さでノートルダム清心女子大学の学長に就任してからも、信仰者としてつつましく生活を続けられ、沢山の本を執筆する中で、キリストの福音を証しし続けてきた渡辺和子さん、私たちはその渡辺和子さんをよく知っているのです。

 でも、そのような模範となる信仰者の歩みを続けてきた渡辺和子さんであったにしても、自分の父を殺した人たちの遺族の前では、「わだかまりがないわけではない」、「敵を赦すなどという殊勝な思いではなかった」と心が大きく動揺しているのです。
 いかがでしょうか。「敵を赦し、敵を愛しなさい。」そのようなことが、私たちに行えるのでしょうか。渡辺和子さんの信仰がたりないのでしょうか。そんなことはないのです。私たちは誰しも、心の奥底から、「敵を赦します。愛します」なんてことは言えないのです。

 もし、そのようになさる方がおられるとしたら、だれでしょう。それは、今日の福音書に明らかにされているように、神さまご自身でしかありえません。
 マタイ5:45節、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださるからである。」
 神さまは、「こいつは善人である。また、こいつは悪人である」などと区別をされていないのです。
 そのことは、パウロの言葉では、次のようにも紹介されています。
ローマの信徒への手紙5章8-10節
 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

 ここにあるように神さまは、ご自分の敵であるはずの私たちを、愛する御子イエス・キリストの十字架の死によって、赦されたのです。これは、敵を愛するということを超えて、神さまの前で敵であるはずの私たちでさえも、決して敵とはされずに、すべての者を救いに招かれようとされる神さまの姿です。
 そして、イエスさまは言われるのです。
「あなたがたの父の神が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
父なる神さまがそうなさったように、あなた方もそうしなさい。神さまが赦したから、赦しなさい。神さまが、敵を愛したから、愛しなさい。神さまが、完全だから、あなた方も完全になりなさい。

 完全という言葉から連想するのは、一点の曇りもない様子です。もし、イエスさまが望まれるキリスト者が、そのような完全な者であることを望まれるのならば、私たちはとてもそのように、生きていけるはずはありません。
 何故ならば、私たちは、自分のことをよく知っているからです。それは、弱さや汚れを沢山持っていて、どちらかと言うと、そのようなものを人には見せないように、一生懸命に生きているからです。
 敵を愛せよと言われても、自分の周りの人たちを、愛することだって、あるいは、この自分自身を愛することだって、本当に愛しているのかな、というような感じです。

 クリスチャンの皆さん、どうでしょうか。あなたは、素晴らしいね。さすが、クリスチャンよね、と言われることがあるかもしれない。でも、自分を知っている限り、決してそうではありません。弱さと汚れに気づいているのです。「完全な者になりなさい」なんて、とんでもありません。

 まだ、洗礼をお受けになってない方もおられますか。まだ、洗礼をお受けになってない方から見れば、このようなイエスさまの教えからすると、クリスチャンになるってことは、真っ白く清らかになるようなパーフェクトな存在になることであり、とてもじゃないが、私はクリスチャンにはなれない、と思われるかもしれない。キリスト教や聖書の教えに興味はあるが、不完全な自分にはやはり無理だと感じるかもしれません。
 完全な者とは、神さまのみを表すものであるのに、何故、イエスさまは弱くて、罪の多い私たちにまでそのようなことをお命じになられるのでしょうか。最初からそんなの無理ですよ、という話になってしまうのです。

 そこで、この完全という言葉をもう少し詳しくみていきたいと思います。ここで言う「完全」という言葉は、ギリシャ語の「テレイオス」という言葉から、できており、その「テレイオス」の本来の意味は、「目的、目標」なのです。私たちが想像する完全無欠のパーフェクトとは、少しニュアンスが違ってきます。

 たとえば、私たちは、ここでパウロの書簡、フィリピ3章12節以降を思い起こします。それは、今日の礼拝でも読んでいただいた個所です。次のようにありました。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者になっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたと思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 パウロは既に完全な者になっているとは言っていません。あのパウロさえ、そうなんです。でも、そこでパウロはだからもう駄目だ、と諦めているわけではありません。そうではなく、私たちは完全ではないけれど、既にキリストに捕らわれているんだ。だから、私たちは、前のものに全身を向けて、ひたすら走るんだというのです。

 パウロの言葉から見ていく時に、「完全な者になる」とは、目的を持って走り続けることであり、目標とされるゴールを切るまで挫けそうでも、なんでも、その一歩一歩を全うすることであることが分かります。
 その意味では、以前用いていた口語訳聖書がそうであったように、「完全」というより、「全き」という意味で、この言葉を捕らえて良いかもしれません。前は「まったき者になりなさい」とありました。完全なる信仰者はいないが、主なるキリストに支えられながら、目標を目指して、与えられたこの信仰の歩みを全うすることはできるのです。

 私の好きな説教に、小田垣正也さんの「イエスは主なり」という説教があります。この方は牧師ではありません。国立音楽大学の教授をされていた方ですが、ユーモアたっぷりに、主イエスへの信仰についてお話しされています。

 ある時、小田垣さんは、平林寺という臨済宗のお寺に出かけます。臨済宗とは禅宗の一派ですから、豪華な仏像が置いてあるわけではありません。その代りに、小田垣さんは一つの立て札を見つけました。
 そこには、「猿も木から落ちる。落ちたら、また、登る」と書いてあります。この立て札を見て、小田垣さんは次のようなお話をされる。

 「猿というのは、木に登るのが商売です。これは、他人に真似のできない猿ならではのことです。だから、猿が木から落ちるということは、猿にはあるまじきことになります。
 ところが、この猿も時として木から落ちるのです。もし、この時に、木から落ちた猿が、落ちたことにばかり捕らわれ、失望から抜け出せないでいると、もう木に登ることをやめてしまうかもしれません。あるいは、勇気を出して再び木に登り始めたにしても、この失望にいつまでも捕らわれていると、今度は木から落ちることばかり恐れて、木の上でも決して心休まることはないでしょう。
 しかし、そのようなことにはお構いなく、猿は落ちでもまた登るのです。それが、猿が猿である所以です。」
 
なるほど、ユニークな気付きが与えられます。そして、小田垣さんは話します。また
 「たとえ、落ちてもまた登れば良い。そのようにあきらめずに、そして恐れずに、何度も木に登るという行為こそ、私たちの信仰の姿ではないでしょうか。」

 猿が何度も木に登るように、クリスチャンも決して不完全な自分に諦めてしまってはなりません。信仰とは、完結をしてしまうのではなく、何度失敗しても、常に前にもう一歩と進み続けるものです。信仰者は信仰者であるが故に、また一歩一歩を踏み出すのです。説教題は、おやじギャグ的ですが、「信仰は常に進行形」なのです。

 むしろ、完全な者でない自分、敵を愛することのできない自分、忍耐強く祈り続けるにはあまりにも弱い信仰しか持ち得ない自分を、先に主イエス・キリストは捕らえてくださいます。そして、私たちが務めることは、主に捕らえられていることを信じ、与えられた信仰者として一歩一歩足を前に進めていくだけです。諦めずに、全うするのです。

 始めに紹介した渡辺和子さんの文章には、まだ続きがあります。
 自分の父を殺した遺族たちとの出会いに、心の動揺を隠すことはできず、敵を愛するという殊勝な気持ちではなかったと語る渡辺和子さんですが、法要が進む中で、次のように気持ちの変化を語っているのです。

 「お線香を供え、手を合わせ、言葉もなく振り返ると、そこに、高橋、安田両少尉のご令弟お二人が深々と頭を下げ、涙を流していてくださった。この時である。初めてその日、思い切ってお参りして良かったと思ったのは。辛い思いを抱いて50年生きてきたのは、私だけではなかった。むしろ、反乱軍という汚名を受けた身内を持つご遺族こそ、もっと辛い思いをなさったに違いない。」

悲しい出来事を背負いながら、それでもなお、クリスチャンとして50年間の道のりを一生懸命生きてきた。仇とされる遺族との再会では、相変わらず赦すことのできない自分ではあったが、この50年の歩みというものを自分だけの歩みではなく、その敵とされる青年将校のご遺族たちとの歩みに重ね合わせた時に、確かに渡辺和子さんの心に変化が起こったのです。

誰であれ、人は不完全な信仰しか持ち得ないものです。しかし、目標を目指して歩み続けることが、信仰し続けるということであるならば、私たちもその歩みを終りの時まで全うしたいと思うのです。完全ではない私たちも、与えられた信仰者としての道を最後まで全うすることはできるのです。主の恵みのうちに。
ここまで歩んできました。また、今日のこの場から新しい一歩を踏み出していきましょう。アーメン。

 
2009/06/14(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「三つにましてひとりの神」(ヨハネ3:1~12)
ヨハネ3:1-12、2009・06・07、三位一体主日(典礼色―白―聖餐式あり)
イザヤ書6:1-8、ローマの信徒への手紙8:14-17

ヨハネによる福音書3:1~12
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」


説教「三つにましてひとりの神」(ヨハネ3:1~12)
 最初に、まず祈ります。
父なる神さま。この1週間のお守りと導きを感謝します。しかし、何と無為と怠り、無気力のうちに歩んだ1週間であったことでしょう。そして、何と、言葉と思いと行いによって、多くの罪を犯し続けた1週間であったことでしょう。あなたは、すべてをご存知です。危険な、危機のときがありました。なすべきことを先延ばしして、週末を迎え、今に至っていることを、告白します。すべての人に、神さま、あなたは、平等な時間を与えてくださっています。飲食したり、新聞を読んだり、テレビを見たり、色々な時間を日々、私たちは過ごしますが、それぞれの人が、あなたから使命を受けて、なすべき仕事や家事や家庭生活また、社会生活を送るように時間を託されています。
どうか、本日をまことの悔い改めの始めの日として、み霊によって新しい生活へと、み言葉によって送り出してください。主キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
 
さて、皆さん、本日は、三位一体主日であります。私たちは、受難節を過ごし、主の十字架の死の記念の後、復活祭を祝い、それから、主と共なる40日を過ごして、主のご昇天を祝い、そして先週は、主の約束されていた聖霊降臨の出来事を、思い起こし、そして、本日、三位一体主日を守っています。これらの教会暦の流れは、自然の順序に従い、当然のようにも思われます。
この日は、私たちがどのような神を信じているかを、改めて問い直す大切な日曜日です。さて、大学時代から使っている岩波書店の古くなった広辞苑を開いて、「三位一体」とは、どう出ているか調べてみました。それには、まず、一つ目として、「キリスト教で、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現われた子なる神と信仰経験に顕示された聖霊なる神とが、唯一なる神の三つの位格(ペルソナ)として現われるとする説で、この三つに上下の差別はない」、とありました。
二つ目には、「三つの要素が互いに結びついていて、本質においては一つであること、三者が協力して一体となること」、という説明が出ていました。なんだか、分かったようで分かりにくい教理であり、用語であります。
かつて、私が司法試験の勉強をしていた頃、その仲間たちは、司法試験の勉強になくてはならない三位一体として、条文、判例、そして、基本書とよく言っていました。また、ある説明では、水は通常、液体だが、沸騰すると蒸気・気体となり、氷点下では、氷、固体になるのと同様で本質は同じであると、三位一体の神の説明として言われるのをどこかで聞いた覚えがあります。
  いずれにしても、キリスト教の神は、三位一体の神であり、私たちの毎週の礼拝は、「父と子と聖霊のみ名によって」と始まり、最後も、「父と子と聖霊のみ名によって」と終えているのであります。
 前置きが長くなりましたが、本日の福音の個所、ヨハネ福音書3:1~12をしばらくご一緒に考えてみたいと思います。この部分が、三位一体主日の本日になぜ選ばれているのでしょうか。これも、聞いたことに過ぎないのですが、マルチン・ルターも、ここがなぜ、この日の日課として与えられているのか、よく分からなかったとのことでした。しかし、本日の日課は、イザヤ書も、ローマの信徒への手紙も、ヨハネ福音書も、共通していることは、霊について語っていると思われることです。そして、本日の主日の祈りも「み霊によってすべては新しくされます」とあります。
本日の福音をもう一度思い起こしてみましょう。ニコデモという人がいて、ユダヤ人の議員であって、彼はある夜、主イエスのもとに、訪ねて来て言います。ラビ、神が共にいてくださるのでなければ、あなたがしているようなしるしどもは、だれもできません、と。すると、主イエスは、よくよくあなたに語るが、人はだれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない、と言われます。「新しく」というのは、「上から」すなわち、天から、神からとも訳せますし、「再び」、「もう一度」とも訳せる言葉です。それに対して、ニコデモは答えます。年をとった者がどうして、新しく生まれさせられることが出来ましょうか、と。
その当時ですから、年取った者とは、60歳くらいから80歳位の者であり、ニコデモもそうだったのかもしれません。ニコデモは、もう一度、母の胎の中へと入って、生まれさせられることなどできましょうか、と問うのです。主は、あなたは、イスラエルの教師でありながら、それらのことどもを理解しないのか。風、あるいは霊とも訳せるのですが、それは、欲するところに吹き、彼の声を、あるいはそれの音を聞くが、それがどこから、来てどこへ行くのか、だれもしらない。霊もそうである。肉から生まれたものは、肉であり、霊から生まれたものは霊であると言われ、前後しますが、よくよく、あなたに語っておく、だれでも、水と霊によって生まれさせられなければ、神の国に入ることはできないと、主は言われます。
水と霊によって生まれさせられるとは、父と子と聖霊のみ名による私たちの受けた、あるいは、受ける洗礼のことではないでしょうか。主は、ニコデモに向かって、よくよくあなたに言っておくが、私たちは知っていることをしゃべっているし、私たちは見たことを証しているのにあなた方は私たちのその証し、すなわち、イエスに関する超人間的な証しをあなた方は受け入れない。私が地上のことをしゃべっても、あなた方は理解しないのなら、私が、天的なことども、すなわち、神に属する存在や事柄を語ったとしても、どうしてあなた方は信じるであろうか、とニコデモに迫っています。
私たちの洗礼は、生涯に一度限りのものですが、私たちは、主イエスご自身も受けた洗礼によって、罪に死に、埋葬されて、新たに神に向かって生きる者とされているのであります。私たちは、このときのニコデモ、あるいは、ニコデモたちと違って、水と霊によって、新たに生まれさせられて、永遠の命に与るものとされているのであります。
罪とは、人間的な、あるいは神的な、義からのあらゆる乖離を言います。私たちは、その罪に、キリストの十字架とともに、死んで、新しく生きるものとされているのであります。この三位一体主日に、私たちの受けた、あるいは求道者にとっては、これから受けるであろう洗礼を思い起こし、主イエスによって与えられた新しい命を、み霊を受けながら、生涯を通して歩みたいものであります。
私たちは、主イエスの十字架と復活によって、既に義人とされており、かつ、同時に、罪人でもあることを、洗礼を絶えず想起することによって、日々、確認し、十戒のよき行いに励む者とされていきましょう。祈ります。

 私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。 
2009/06/07(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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